忍城(おしじょう)

忍城の基本情報

通称・別名

忍の浮き城、亀城

所在地

埼玉県行田市本丸17-23

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

層塔型御三階櫓[3重/1701年築/破却(廃城)]、層塔型御三階櫓[3重3階/1988年再/RC造外観復興]

築城主

成田氏

築城年

延徳2年(1490)

主な改修者

主な城主

成田氏、松平氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、土塁、横堀(水堀)、移築門

指定文化財

県旧跡(忍城跡)

再建造物

櫓、模擬門、石碑、説明板

周辺の城

皿尾城(埼玉県行田市)[1.2km]
石田堤(埼玉県鴻巣市)[4.1km]
成田氏館(埼玉県熊谷市)[4.5km]
中条氏館(埼玉県熊谷市)[6.5km]
箕田館(埼玉県鴻巣市)[6.7km]
赤岩城(群馬県邑楽郡)[8.0km]
比企能員館(埼玉県東松山市)[8.6km]
平山館(埼玉県熊谷市)[9.4km]
羽生城(埼玉県羽生市)[9.6km]
源経基館(埼玉県鴻巣市)[9.7km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)118 忍城

設置場所

行田市郷土博物館[地図
ぶらっと♪ぎょうだ(郷土博物館休館日のみ)[地図

忍城の解説文

忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市に存在した日本の城である。室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている。要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。

歴史・沿革
戦国時代・安土桃山時代
1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。

1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順した。1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが、持ちこたえている。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。

江戸時代
徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われ、往事の縄張りは1702年(元禄15年)頃に完成したと考えられている。

1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入った。

忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄する。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。

明治時代から昭和10年代
廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれたが、その後廃城となって城内の構造物はほとんどが撤去され、城跡は公園(成田公園、後に忍公園)として整備された。

戦後...

忍城の口コミ情報

2019年11月14日 野呂利左衛門督休三
高麗門[忍城  遺構・復元物]



忍城の城門だそうですが、どの門であったかは不明とのこと。市内の民家にあったのをここに移築しました。

2019年09月12日 野呂利左衛門督休三
帯曲輪跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
「この地より西に三百米 やや櫛型の狭き曲輪を帯曲輪といつて 忍城の北方の重要な地であった大堰より城中の沼濠に取り入れる水を両端の堰で調節すると共に 城中侵入の守りとして徳川家康賞賛の曲輪であつたという」
裏面を覗き込むときはその背後の溝に落ちないように注意。溝は帯曲輪の堀の名残です。

碑文では徳川家康が称賛したとされますが、没後86年の元禄の大改修(元禄十四=1701年)の際に築かれたと見られます。
城の守りよりも、東側の武家町(地獄橋が帯曲輪の東側の門)と西側の馬場曲輪を結ぶ役割の方が高かったと考えられています。


2019年09月12日 野呂利左衛門督休三
下忍口跡[忍城  碑・説明板]



左肩に忍城の銘とQRコードがありますが忍城史跡碑ガイドブック(初版)には収録されていません。市教育委員会が関与していないのか?(他の碑は左下に行田市教育委員会の銘あり)
飲食店の前にあり、裏面を見るには敷地に一歩、足を踏み入れなければならないので遠慮しがちになります。

「下忍口寄せ手の総大将は石田三成、先陣、二陣、三陣、四陣、後陣、併せて七千余騎が三手に別れ、怒濤の攻撃を開始した。守備の将 本庄越前の守がこれを迎え撃つ。双方渾身満力を振るって奮戦又奮戦、一時は三成もあわやと見られたが、からくも逃げのびたと伝えられる。」
この記述は成田系図の長親の記載を元にしているようです。忍城戦記では酒巻靱負が配されていたとされます(成田系図では遊軍)。

本庄越前守は児玉党の庄氏(本拠に残った庄氏の意味で鎌倉時代に本庄を名乗ったとか。宗家としての本庄氏とは別。ややこしい)の嫡流の末裔のようで、天正十年成田家分限帳では「御家門 永楽千貫文 本庄越前守長英」の記載があるそうです(天正十年は1582年。攻防戦の8年前)。

忍城の総構からすると大宮口から入った場合に最初に当たる出入り口です。城内から見ると、三重櫓や勘定所のある曲輪の南門(熊谷口。行田市郷土博物館東側の忍城通りと、水城公園北側のみずしろ通りの交差点[「勘定所跡」の南の信号機マーク]辺り)から西に二つ目の馬出的な曲輪の門です。忍城は今でこそ一面住宅地ですが、かつては沼のただ中に築かれた城です。これらの曲輪は元は沼中に浮かぶ島だったのでしょうか。


2019年09月10日 野呂利左衛門督休三
藩校 進脩館跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑

「藩校進修館は七代忠和が寛政年代に桑名に於いて開き 文政六年に忍に移封後 この地に再建され多くの人材を輩出した 芳川波山は中興の師である この地の西に東照宮があり金剛寺が別当であつた その建物が明治四年七月に荒井学校となつた」

文化七(1810)年に奥平松平家が城主をしていた桑名で創立されました(碑文ではなぜか寛政年間)。儒学の経典の一つの易経にある「君子は徳に進み業を修め時に及ばんと欲するなり」に由来するそうです。
桑名時代は儒教などのほかにも兵学や医学も教えていたそうで、真田宝物館所蔵の平面図には講堂や武芸の稽古場などの施設が記されているそうです。
忍転封後は、それに伴う財政悪化や最適な建物が無かったことから再開されるまでに13年かかりました。
再開に尽力したのが、林述斎から推挙されて松平忠堯に招かれた芳川波山でした。波山の住居は進脩館再開後は同館隣に移っています。「学制」が発布される前年の明治四(1871)年に現在の中央小学校の前身の一つとなる荒井学校になりました。

忍東照宮はここのすぐ北側に、明治四年まで別当寺の金剛寺(寺領百石)とともにありました。金剛寺は廃寺となっています。


2019年09月10日 野呂利左衛門督休三
三の丸 城代家老屋敷跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑
この場所は三の丸に付随する曲輪の西端に当たります。
三の丸には成田御門と太鼓門を結ぶ通路の西側に家老屋敷がありました。
阿部家時代までは幕閣に列なることで、江戸に詰めていることも少なからずあったことから城代が置かれ、ここがその屋敷となっていました。享保八(1723)年の阿部正喬軍役積では6名の家老は千石前後の禄高でしたが、城代の加藤三右衛門は二千石を賜っていました。
奥平松平家は幕閣に列なることがなかったため、城代は置かれませんでしたが、ここは筆頭家老の屋敷になっていました。
なお、三の丸の東側は竹藪だったそうです。碑文ではその東に人見島があったと記していますが、蔀(しとみ)島とも呼ばれたようです。

2019年09月10日 野呂利左衛門督休三
二の丸跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑
「二の丸は藩主の居宅で 十数棟からなる平屋の立派なものであつたという
明治四年八月二十四 五 六日の三日間藩士一同と別離の宴を開き 翌年には忍城の建物は何一つ残さず取り壊しを命ぜられ忍城は全く姿を消した 」

忍中学校の敷地内にあります。同校敷地は城主居館で政庁でもある二の丸御殿が置かれていました。
松平忠国は水戸徳川家より養子を迎えていましたが、安政の大獄により水戸徳川家当主で養子の実父の斉昭が隠居の上、蟄居になったことから幕府に遠慮して離縁しています。この元養子が岡山池田家の養子になったことから(池田茂政)、池田家文庫に忍城の二の丸御殿の図面(忍城内略図)が伝わることになりました。
往時を復元した模型が行田市郷土博物館にあります。

2019年09月10日 野呂利左衛門督休三
大鼓門跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑。忍城十五門の一つ。
「忍城十五門の内の 一本奥で藩主居城の二の丸の入り口にあった門で 東西に数百米めぐらされた 白壁の塀の中央に二重櫓の御門であった
この門より西 ほゞ忍中学の校地が二の丸で平屋十数棟が藩主居城として白壁の中に立ち並んでいた」

二の丸の入り口に当たる門です。
明治六年調製忍城圖では櫓門が描かれていますが、鯱がありませんでした。同図では他にも櫓門の城門がありますが、鯱がないのはこの門だけです。
太鼓門は南側を向いて建っており、その西側そばに二の丸御殿の表門がありました。

2019年09月10日 野呂利左衛門督休三
成田御門跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑。忍城十五門の一つ。
「成田氏の築城した忍城で 一番古い地図からみると この地と本丸が築城当時のものと思われる それ故に 三の丸入り口の門を成田門と名付けたものではあるまいか
しかし成田町の地名は明治に入ってからである」

忍城今昔地図では少し南側、勘定所の碑のすぐ北側に当たります。
三の丸の入り口に当たる門でした。文政年間忍城図(文政六年=1823年)や明治六年調製忍城圖や旧忍城建物入札番号記(共に明治六年=1873年)などから櫓門であることがわかります。


2019年09月09日 野呂利左衛門督休三
幕府預り米蔵 武器役所跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑。忍城今昔地図ではここは堀で、もう少し南側の位置に当たります。
幕府からの預かり米や武器を保管した蔵が複数おかれていた曲輪です。
寛政年間(1789-1801)の忍御城内外絵図では「御武器土蔵」「御用米蔵」の文字があり、文政六(1823)年の文政年間忍城図でも該当する場所に青い屋根の白壁の長蔵が描かれています。
それらによれば武器蔵は二の丸の北東側にあり、該当する建物は3棟と見られます。米蔵は二の丸の北側に2棟、戌の二重櫓があった曲輪に1棟あったようです。この武器蔵の他にも巳の二重櫓(多聞櫓そばにあった)に火薬などが保管されていたようです。
また文政年間忍城図では武器蔵の南側に茶色の屋根の白壁の長屋状の建物が3棟描かれています。
米蔵には三千石の預かり米が保管されることになっており、幕府が資金を出す代わりに藩がこの量を常に維持しなければなりませんでした。しかし享保十六(1731)年の幕府の調査ではこれに満たなかったそうです。

2019年09月09日 野呂利左衛門督休三
二重櫓跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
碑文ではこの櫓と多聞櫓、三重櫓が白壁の櫓と記されていますが、明治六年調製忍城圖では多聞櫓そばにもう一つ白壁の二重櫓が描かれています(「多聞櫓跡」参照のこと)。
この櫓跡は元禄十四(1701)年の改修許可の老中奉書の辰の櫓と見られます。このそばにあった裏手の門(文政六(1823)年の文政年間忍城図では櫓の横に「トバリ」、その後ろに「大ウラ門」が記載)を守る役割がありました。
この裏手の門の「トバリ」は皿尾口から入り、矢場口(涙橋)、荒井口(縁切橋)側のルートでは来た場合、初めて当たる狭義の忍城の城門になります。

2019年09月09日 野呂利左衛門督休三
多聞櫓跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑。忍城今昔地図ではもう少し北側の国道125号との交差点辺りになります。
長さが三十六間(約110m)ほどのL字状で6つの出入り口のある建物でした。

このそばに二重櫓がありました。建物は元禄十四(1701)年の大改修の時に建てられましたが、改修許可の老中奉書からすると櫓台はそれ以前からあったようです。また同書面か城内に辰と巳と戌の三つの櫓があることがわかりますが、そのうちの巳の櫓のようです。明治六(1873)年の忍岩槻城郭建物取調帳では火薬が中にあったことが記されており、火薬庫としても機能していたようです。

これらの建物があったところは多聞曲輪とも土蔵曲輪とも呼ばれていたようで、幕府からの預かり米を貯蔵する蔵も置かれていました。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
忍の時鐘楼跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑。行田市郷土博物館で販売されている忍城今昔地図によれば、本来の場所は少し南の中央小学校校庭の北辺に当たります。碑文には鐘楼自体よりも鐘の方が記されています。
文政六年の奥平松平家転封の際に桑名から鐘が移されています。建物がその時かそれ以前からかはよく解りませんが、明治六(1873)年の廃城の際に撤去されています。明治六年調製忍城圖では下見板張りの鐘楼が描かれており、忍城公園の鐘楼はこれを基本にしているようです。

鐘は奥平松平家が桑名時代に鋳造したものです。転封の多かった松平忠雅(初代忠明の孫。白河→山形→福山→桑名)が安住を願って造ったのが初代の鐘。それが息子の忠刻の時に火災で焼けたので改めて造ったのが二代目です。これが忍に持ち込まれます。
高さ151㎝、口径79.5㎝、重さ600㎏で8㎞四方に鳴り響いたと言います。
明治の廃城で鐘楼が撤去された後はしばらく野ざらしになり、金が入っているとの噂から一部が奪われたりもしたそうです。
進脩館小学校の校庭(今の中央小学校校庭)に新たに鐘楼が建てられてそこに納まりますが、昭和二十八(1953)年に東照宮境内に移設されています。
1992年からは次代に役目を譲って行田市郷土博物館内で展示されています。


2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
鐘楼[忍城  遺構・復元物]

1992(平成四)年に元の鐘は外され、行田市郷土博物館内で展示されています。
そばにある石柱は非常に読みにくいですが、時鐘の来歴を記しています。昭和二十七(1952)年と記されていますので、翌年に東照宮へ移設されることが決定した際に建てられ、東照宮からの移設の際にここへ移されたのでしょうか。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
勘定所跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑
碑のある場所は、忍城今昔地図では同所北側の成田門の土橋上。
藩の財務を司る役所で、年貢徴収、公共工事の賦課、家中や人足への給付などの役割に加え、江戸時代後期の奥平松平家時代には郡奉行の役目も兼ねるようになりました。
阿部家時代は当主の幕政参与のため江戸詰の家臣も多く、奥平松平家時代は阿部家と同石高なのに家臣が多い上に、転封費用や異国船警固や幕末の京都警衛といった負担で厳しい財政でした。
そのために増徴や期間限定の知行召上がたびたび行われたそうです。

廃城の前年の明治五(1872)年に忍県学校が置かれて以降は、現在の中央小学校まで何度かの入れ替りがありますが、一貫して学校が置かれています。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
沼橋御門跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑。忍城十五門の一つで升形門でした。
大手御門から城の中枢へ向かう際には必ず通る必要のあった門です。いつからあったかは解りませんが元禄二(1689)年の所々番之定には記載があるので、その頃にはあったようです。しかし、それより前を描いた「天正年間武蔵忍城之図」(天正は1573-1592)では建物が描かれていない上に、喰違虎口状の土塁になっています。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
培根堂・洋学館・国学館之跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑
忍城今昔地図では堀の中になっています。実際は、すぐそばの勘定所の敷地内にありました。

培根堂が幕末の慶応三(1867)年、洋学館と国学館はその翌年に開かれました。

藩校の修進館では若年者への教育が不十分であったため培根堂が設置されました。他の二館ではその名の通り、洋学、国学が教えられています。
培根堂の吉田庸徳は明治になって西洋流の算術書を出しています。洋学館で教えた芳川春濤は、修進館で教えた芳川波山の息子で、榎本武揚から洋学を学んでいます。国学館では北勢古志や随意稿の著者で歌人の黒澤翁麿の弟子が教えていました。


2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
三重櫓跡[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑
忍城今昔地図(行田市郷土博物館で販売)によれば実際にあった場所はここより少し西、若干高くなっている天理教武行分教会のある辺りです。碑がある場所は、御屋敷の曲輪と勘定所のある曲輪にある馬出状の部分から南にのびる通路の発端に当たります。この通路は忍沼の中を突っ切って下忍口方面に向かっていました。

廃城直前を描いた「明治六年調製 忍城圖」では土の曲輪の上に石垣を巡らした櫓台、その上に三重の層塔型の櫓が描かれています。
奥平松平家時代には書庫として使われたようで12205点の文献が納められていたとか。
碑文では元禄十三(1700)年の棟札があるように書かれていますが、その翌年からの元禄の大改修の時に建てられたものです。総工費は千八十九両一分だったとか。
なおその際の改修工事認可の老中奉書が残っているそうで、その中に記載されている辰の櫓に当たるようです。


2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
忠堯侯・忠国侯隠居所跡[忍城  碑・説明板]

奥平松平家九代の忠堯とその弟で十一代の忠国の隠居所についての碑です。碑が建っている場所は当時は水堀で(水城公園の忍沼が広がっていた)、東に50mほどのところにありました。あった曲輪は沼橋御門の曲輪ですが、門と付随する広場と隠居所のみの独立した曲輪でした。この曲輪は隠居所があったことから御屋敷とも呼ばれたとか。
この碑がある場所は御屋敷の曲輪と勘定所のある曲輪にある馬出状の部分です。

大手御門から本丸に向かうときには必ずここの前を通るので有事の際には砦的な役割を期待されていたのでしょうか。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
忠堯侯・忠国侯隠居所跡[忍城  碑・説明板]

奥平松平家は忠堯の文政六(1823)年に桑名から忍へと転封になりました。奥平松平家は元から石高に比して家臣が多かった上に、白河(福島県白河市)時代に跡目騒動で十五万石から十万石へと石高を減らされても家臣を減らしませんでした。同じ十万石でも前任の阿部家より家臣が多くなっていました。その上に、阿部家が江戸定府の家臣が大半だったのに対して、奥平松平家では国詰の家臣をそれなりに置いていたことから、転封当初は家臣の居宅が不足しており、天満で新たに武家地を広げたり、桑名時代より狭い居宅を割り当てたりしています(北勢古志や随意稿の著者で歌人の黒澤翁麿の居宅は桑名時代は百七畳でしたが、忍転封後は三十八畳に)。
また転封に伴う多額の負担から桑名時代からの藩校の修進館を再開することもままなりませんでした。

忠国の時は、異国船からの房総半島警固を命じられており、その負担に耐え兼ねて持ち場替えの願いを出しています。その成果か不明ですが嘉永六(1853)年に品川台場の警固を命ぜられています。
慶応四(1868)年一月の鳥羽・伏見の戦いの時には隠居していましたが、新政府への恭順に意見をまとめあげています。

2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
忠堯侯・忠国侯隠居所跡[忍城  碑・説明板]

先に触れたように奥平松平家は文政六年に桑名から転封になり、桑名には白河の久松松平家が、白河には忍の阿部家が入る三方領知替でした。
この領知替は久松松平家の隠居で元老中の松平定信が実入りの良い桑名への転封を望んだともされますが、房総半島警固の負担に耐えかねた久松松平家の当主の定永がより近い下総佐倉(千葉県佐倉市)への転封を望み、怒った佐倉の堀田家が房総半島の警固を引き受けた代わりに懲罰として桑名に転封になったともされます。
ちなみに久松松平家は元は桑名城主でしたが、藩政改革に端を発する御家騒動から越後高田(新潟県上越市)に、数代後に白河に移されています。久松松平家転封後の桑名には、備後福山(広島県福山市。先述の白河から山形を経て備後福山に転封になっていた)から奥平松平家が入っていました。


2019年08月25日 野呂利左衛門督休三
清善寺[忍城  寺社・史跡]



成田氏の菩提寺の龍淵寺(熊谷市。成田氏館の近く)の末寺です。今も広い境内ですが、往時はもう少し東側に広く、外側を水路が囲んでいたそうです。

寺伝では永享十二(1440)年に成田顕忠が館に開創した平田精舎が前身で、顕忠が亡くなった永正十六(1519)年に、当主の成田親泰が顯忠の法名を付けた寺としたとされます。そして天文二(1533)年に親泰の子の長泰により再興されたと言います。

成田顕忠は一説には享年九十歳だそうです(数え年だから永享二[1430]年の生まれということになる)。親泰の叔父と説明板には記されていますが、その通りとしたうえで最近有力とされる成田氏の系図の説に従うと、成田正等の子で顕泰の弟ということになります(ただし顕泰は総社長尾家の出身〔実父は忠景〕なので血は繋がっていない。ちなみに顕泰の実家の総社長尾家にも顕忠がおり、実家と養家で2人の顕忠がいるということに)。

2019年08月25日 野呂利左衛門督休三
向吹御門跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
忍城十五門の一つ。門の前にあった橋はデングリ橋とも呼ばれていました。変わった名前ですが、跳ね橋のことではないかと見られています。
門は南を向いた門で、碑の裏面側が城外になります。

上級家臣の屋敷街であった内行田(南に向吹門、東に大手門、北に北谷口門があり、西は沼橋門を通って藩主隠居所のある郭とつながっていた)と下級家臣の居宅がある天満一帯を結んでいました。
向吹、同心、江戸の各町は天満口門と向吹門の間のエリアで、往時はそれぞれ水路に囲まれていました。東側の天満口門そばが同心町で足軽などの軽輩の家臣が住んでいました。向吹門に近い北西のエリアが向吹町。その南が江戸町で、江戸詰の家臣の居宅地だったことから名付けられたとされます。

2019年08月25日 野呂利左衛門督休三
天満口御門跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
忍城十五門の一つ。
「文政六年三月 松平下総守忠堯桑名より忍に移封阿部侯より数倍の家臣を持つ下総守は急遽 居宅造成 佐間村一角のこの地に與力等の町を造り 大阪天満與力にあやかり 天満社のあるのを幸に天満と名付け こゝに天満口御門を造る」

碑文では文政六(1823)年になっていますが、元禄二(1689)年の「所々番之定」でこの門についても、警備についての定めが記されています。
また、門周囲の町も、奥平松平家より前の阿部家時代を描いたとされる「忍城内外絵図」に天満組の武家屋敷が書き込まれています。門周囲の武家町は阿部家時代からあって、奥平松平家転封の際の武家地不足で拡張されたのが正しい経緯と見られています。

2019年08月25日 鹿島半郡武将隊左兵衛督長連龍
忍城

やはり難攻不落の城は、そう簡単には攻略出来ぬ仕組みになってるのか?北陸新幹線から何度tryしても駄目です✕お隣の皿尾城は、すぐに取れたのに、、

2019年08月20日 野呂利左衛門督休三
佐間天神社[忍城  寺社・史跡]



北の大樋から導水し、地獄橋から内堀に注ぎ込まれた水は、この辺りの堰を通って、城外に流れ出していました。この重要な場所を鎮護する目的で、忍城築城時に勧請されたと言われます。
この神社の別当寺に安養院がありました。現在は廃寺で、同社境内に碑があります。この寺は城の南にある遍照院(行田忍城下七福神)の末寺でした。
佐間天神社の入り口は鳥居でなく、神門ですが、安政三(1850)年の大火の時に手前で火の手が止まったことから火防の門と呼ばれます。

2019年08月20日 野呂利左衛門督休三
忍藩家老 鳥居強右衛門居宅跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑。ここも裏面が読みにくい。

「天正三年(一五七五年)七月十六日三河長篠城救援の軍使として大任を果たし磔死した鳥居強右衛門の十二代商近は松平藩家老五百石としてここを忍の居宅とした 十三代商次が維新の官軍との交渉に家名をあげた 城西桃林寺に六基の墓石あり」

碑がある場所は北谷口門の跡です。鳥居家の居宅はこの北谷口門のすぐ南側にありました。北谷口門は廃城後に加須の総願寺に黒門として移築されています。

鳥居強右衛門家は江戸時代になる前から奥平家に仕え、長篠城攻防戦の軍使として知られる勝商の子の信商が徳川家康の養子となった奥平(松平)忠明に付けられ、奥平松平家の重臣となりました。

戊辰戦争では、忍藩は鳥羽・伏見の戦いには参加していませんが、幕府方として大坂の安治川河口の警備の任に就いています。
藩内や同藩が管理していた羽生陣屋に旧幕府歩兵隊の脱走者が一時逗留したこともあり、新政府から詰問され、兵糧三千俵と二小隊を出して恭順を示します。この時に家臣を代表して誓紙を差し出したのが十三代目の商次です。忍藩兵は主に占領地警備として福島まで転戦していますが、白河では戦闘にも参加しています。

2019年08月20日 野呂利左衛門督休三
天満稲荷神社[忍城  寺社・史跡]



元々は天満社でしたが、文政六(1823)年に奥平松平家が桑名からの転封の際に、同地から稲荷社をここへ合祀しました。
弘化三年の大火の際には、この神社の手前で火が止まったことから火伏せの神様として信仰されてもいます。

2019年08月19日 野呂利左衛門督休三
行田八幡神社[忍城  寺社・史跡]



西向きの社殿という珍しい境内配置の神社です。
江戸時代に忍城下の行田町は三度の大火に遭っており、同社の諸記録も失われています。口伝では、平安時代後期に源頼義・義家父子が奥州下向の時に勧請したとされています。その時は佐間村の田中でしたが、戦国時代の天文年中(1532-1555)に成田長泰により今の場所に遷され、総鎮守とされました。
代々の城主をはじめとする多くの信仰を集めました。その奉納物の中に市指定文化財の「神功皇后三韓征伐凱旋之図」納額があります。「松平忠国分限帳」に「御勝手御用達町年寄格」と記される原口長兵衛が奉納したものですが、作者の鈴木其一は江戸琳派の創始者の酒井抱一の弟子です。

行田忍城下七福神の大黒天です。

2019年08月19日 野呂利左衛門督休三
八軒口門跡[忍城  碑・説明板]



忍城十五門の一つ。忍城史跡碑でも屈指の読みにくさ。

「成田氏が八幡社を八軒の近くに移し新町として市日が立つようになつたのは四百五十年前である 天満が武家町として造られたのは文政六年百五十年前である 大手門に通じる重要な門として門番を常住させ出入は厳重であった」

碑では成田氏時代としていますが、江戸時代後期の「要中録」では江戸時代前期の明暦元(1655)年に「新町八間」に町場が開かれたことになっています。「要中録」は弘化四(1847)年に下町の佐野屋長左衛門が町の諸記録を編纂したものです。
また天満口の武家町も寛政年間(1789-1801)にはあったことが確認されています。
八軒口門は日光脇往還(館林道)の江戸方面からの忍への出入り口でした。

2019年08月19日 野呂利左衛門督休三
大手御門跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑

「大手門の東には南北二百米 東西五十米の升形門があり北谷口御門からこの南まで続く石垣の上の白壁の塀 大手橋を渡り此處に南面して立つ大手御門の壮観は 老中又は譜代十万石の居城にふさわしい忍城の正門であった」

忍城十五門の一つ。櫓門形式の城門で、五つ以降は往来が制限される重要な門でした。ここから本丸は西の方向ですが、直行するルートは無く、南の沼橋御門へ回らなければなりませんでした。
古くは行田口門と呼ばれていたそうです。江戸時代前期には、こちらの方面が大手口として認識されていたようで、元禄の大改修(元禄十四[1701]-十五年)より前を描いた「諸国当城之図 武州忍」では升形城門のところに大手口と記載されています。
正式に名前が大手御門とされたのは宝暦六(1756)年、阿部正允によってです。

2019年08月13日 野呂利左衛門督休三
移築武家屋敷門(伝 進脩館表門)[忍城  寺社・史跡]



元は芳川家の表門で藩校の進脩館の表門と伝えられています。戦災によって一度移築されているようで、そのために進脩館の表門かは確定できていないとのこと。
進脩館は奥平松平家が桑名時代に設立した藩校で転封後にすぐには再開できず、天保七(1836)年になってようやく再開できました。門からは解体修理の際に冠木柄から再開に先立つ天保四年の墨書銘が見つかっています。

進脩館で芳川と言うと、同館で教鞭を執った芳川波山という儒学者がいます。同館の隣に住んでいたそうなので、もしかしたらこの門の元の所有者の芳川家は、その関係者なのでしょうか。

2019年08月13日 野呂利左衛門督休三
本丸土塁[忍城  遺構・復元物]

本丸は周囲より標高が高く、古くから集落が営まれた微高地だったようです(この土塁の東側の土塁跡の下から古墳時代と平安時代の竪穴住居が見つかっている)。
江戸時代は建物が建てられなかったようで、廃城直前を描いた「明治六年調製 忍城圖」では、本丸と諏訪曲輪は杉林だった様子が描かれています。
この北側に東京電力の変電所がありますが、明治四十三(1910)年に行田電燈株式会社がここに設立された流れです。
本丸跡には変電所の北側に行田電燈株式会社跡の、駐車場の北側に本丸跡の忍城史跡碑があります。

2019年08月11日 野呂利左衛門督休三
升形城門跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑

「忍四番地一劃は忍城大手門外升形城門地内であり四―二九辺りに西向の門(虎口)四ー二二辺に南向の門があり大手橋を渡り 北の南面の大手門を入り 西に行き また四面の門があって内行田通りに出たのである 大手門の守りは固かった」

忍城十五門の一つ。四方を堀に囲まれ北側と南側に城門と土橋、西側に大手門へと繋がる木橋が架けられており、升形というよりは大手門角馬出と言った方がイメージしやすい形態です。
寛永十六(1639)年に阿部忠秋が忍城主になりますが、その直後の頃の「諸国当城之図 武州忍」には描かれており、その頃にはあったようです。江戸時代後期の文政年間忍城図だと南側の城門は平入りですが、城門入ってすぐに土塁があり、大手門の橋までに三度の方向転換を余儀なくされます。同図では北側の門は土橋を渡ってから東側にあり、横矢を仕掛けられることになります。こちら側も三度の方向転換をしなければなりません。
(蛇足ですが阿部忠秋の前の城主は松平信綱。島原の乱平定の論功で川越城主になっていますが、同城の中ノ門堀は信綱によるものと見られています。川越城の中ノ門はこの堀により四度の方向転換をしないとたどり着けません)

なお、碑があるのはこの升形城門の東側の堀の外側で、大手門の橋のあった場所のほぼ対面です。升形城門の場所は昭和四十年代まで乳牛牧場と牛乳工場があったそうで、明治時代の小説の「田舎教師」にも出てくるそうです。

2019年08月11日 野呂利左衛門督休三
高札場跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
「上町中町を行田町の中心として大整備を完成したのは阿部正允(一七四八~一八七〇)である そして こゝに他所に誇る立派な高札場を設け忍藩の全ての里程の基準とした 明治三年高札場は廃止され取り壊された」

高札場はお触れや法令を記した高札が掲げられた場所です。多くの人に知らしめるのが目的ですので往来の中心になる場所が選ばれました。ここは八軒口から城下に入って北上してきた館林道が東に折れて長野口に向かう場所でした。なお、その長野口の外にも高札場が設けられていました。
碑の説明文には阿部正允の時代に高札場が設けられたようにも読み取れますが、正允より少し前の享保年間(1716-1736)のものと見られる行田町絵図にはすでに高札場が出てきています。

蛇足ですが、この碑のそばにある武蔵野銀行行田支店の建物は昭和九(1934)年に忍貯蓄銀行として建てられた建物で、国の登録有形文化財です。

2019年08月11日 野呂利左衛門督休三
田山花袋 田舎教師ゆかりの料亭[忍城  碑・説明板]

忍城史跡碑
ここに明治時代の作家の田山花袋の小説「田舎教師」に出てくる料亭がありました。この料亭は忍城の堀に隣接していました。
今はコンビニですが、このコンビニと西隣の行田商工センターの間の道が堀でした。高札場で館林道は南に折れますが、そのまま西にも道が続いており、その道がここで堀に突き当たって南に折れ、そのまま堀沿いに升形城門の北側門に向かいました。
なお、料亭は1999(平成七)年まで営業していました。


2019年08月10日 野呂利左衛門督休三
御本陣跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑

「代々町年寄の八代樋口太郎三郎が本陣を仰せつかったのは安永四年(一七七五年)弘化三年(一八四六年)初午の大火後 立派な本陣を造ったが明治三年廃止となり そば屋松月庵となった 明治四年一月十三日出火し東隣の脇本陣と共に焼失した」

江戸時代の前半は二つの加藤家が本陣を勤めていましたが、享保年間には火災が因で辞退したそうです。その後に本陣を勤めた家は、安永四年の樋口家まで不明です。
日光脇往還の館林道は徳川家康の遺骸の日光遷座にも用いられた道で、八王子千人同心の日光参勤や、日光社参に随従する武家が往来しました。

2019年08月10日 野呂利左衛門督休三
大長寺[忍城  寺社・史跡]



元亀から天正の頃(1570-1592)、京都の知恩院の岌善が奥州に赴いた際に創建されたとされます。寛永十六(1639)年に阿部家が忍城主になると同家の菩提寺になっています。
写真の大仏は1995(平成七)年に造られたものですが二代目です。初代は享保年間に造られたと見られますが、戦争中の昭和十九(1944)年に金属供出に出されてしまいました。
阿部忠秋が寛文七(1667)年に毘沙門堂を寄進していますが、国道125号線の拡幅で取り壊され、奥日光の金精峠に移築されているそうです。毘沙門堂があったことから大長寺は行田忍城下七福神の毘沙門天に数えられています。

2019年08月10日 野呂利左衛門督休三
愛宕神社[忍城  寺社・史跡]



酉の市が催されるようになったのは明治四十(1907)年からですが、今は廃寺となっている別当寺の長徳寺とともに江戸時代には存在していました。

長徳寺は創建は不明ですが慶長年間(1596-1615)に再興されたと言います。長徳寺は檀家を持たない寺だったようですが町民の寄合の場や武術の稽古場、浄瑠璃興行の場としても用いられていたそうです。
明治の神仏分離により同二(1869)年に廃寺となりましたが、本尊などは長久寺(東行田駅そば)に遷され、建物は行田学校や登記所として利用され、同四十年に取り壊されたそうです。

2019年08月10日 野呂利左衛門督休三
長野口跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
忍城十五門の一つ。忍城下の東側の出入り口に当たります。国道125号線はまっすぐ東に栄橋を渡っていますが、元々の道である館林道は大長寺の手前で北に折れ、長野口を出て、すぐの島で東に折れて小沼橋を渡っていました。
近くに「行田町 船着き場跡」の忍城史跡碑がありますが、小沼河岸と呼ばれるこの船着き場は幕末になってから成立したものです。
栄橋の辺りから400mは館林道を軸とした幅100m強の微高地です。洪水での分断を避けるためにそうした微高地を道が通り、町場が発達しました。江戸時代後半にまとめられた「行田町中興記」「要中録」には天文十三(1544)年から六斎市が始まったと記されているそうです。
微高地を中心に、西は北谷口(鳥居強右衛門居宅跡の忍城史跡碑があるところ)、南は行田八幡神社や八軒口までが町人地でした。

2019年08月07日 野呂利左衛門督休三
鉄砲山古墳[忍城  寺社・史跡]



6世紀に造られた前方後円墳。忍藩の砲術練習場になっていたことからこの名があります。
なお全長は112mで、埼玉古墳群3位、埼玉県内で5位の前方後円墳です。

2019年08月06日 野呂利左衛門督休三
行田市郷土博物館[忍城  スタンプ]

受付で図録やグッズが販売されています。城御朱印や他でも売っていますが落ちない御守り、2019年現在品切ですがペーパークラフトなどがあります。

個人的には忍城今昔地図がオススメ。2000年の地図を背景に文政六(1823)年の文政年間忍城図が重ねられたもの。一枚50円のA4サイズはクリアファイルに入れて持ち歩けますので、今歩いてるのは堀の沼なんだどすぐわかります。ポスターサイズ版もありましたが、今は品切。代わりに文政年間忍城図が販売されています。

今は品切ですが忍城史跡碑ガイドブックもあります。内容は市内に点在する忍城史跡碑の裏面碑文(場所によっては読めない置き方している)と補足解説。こうした説明はもしかしたら碑のQRコードで見れるかも(実は閲覧したことない)。しかもA5版128ページで1000円と高めですが、先に紹介した忍城今昔絵図で碑の所在地を示したページがあるので、個人的には非常に重宝しています(ただし忍城今昔絵図の範囲外にある皿尾城跡など4件の位置関係はわかりにくい)。

2019年08月06日 野呂利左衛門督休三
行田市郷土博物館[忍城  スタンプ]

昭和六十三(1988)年に建てられました。
本体は中世の忍城、江戸期の忍城と忍藩、行田の足袋、行田の古墳(埼玉古墳群以外)が常設展示されています。
展示品には江戸時代の忍城、同二の丸御殿の復元模型や忍藩が江戸湾海防で用いた大砲、本物の時の鐘(常設展示室と特別展示室の間)、足袋作りの機械、旗指しをつけた馬の埴輪などがあります。

ここを建てる際に発掘調査が行われていますが、敷地東側の本丸と諏訪曲輪間の堀跡は四度は掘り直され、橋も架け直されていることが判明。中世の橋跡からは橋脚の足元から供えられたと見られる馬の頭骨が見つかっています。

2019年08月06日 野呂利左衛門督休三
高麗門[忍城  遺構・復元物]



写真の手前の足袋型の説明板は「陸王」ロケ地の説明板。高麗門の橋が架かる堀は本丸のではなく諏訪曲輪の東側の堀跡。
本丸の東側の堀は行田市博物館建物の東側4分の1がそうでした。

諏訪曲輪の出入りは本丸の東側のと諏訪曲輪御門だけでしたので、厳密には当時この場所に門や橋はありませんでした(本丸の東側入口が北西30mほどの場所にあった)。

2019年08月06日 野呂利左衛門督休三
諏訪曲輪土塁[忍城  遺構・復元物]



本丸の北と東を取り囲む諏訪曲輪。その曲輪の北側と西側の土塁と、堀の名残が残っています。
諏訪神社・東照宮と行田市博物館の間を走る国道125号線は諏訪曲輪と本丸の間の堀にあたる場所です。


2019年08月06日 野呂利左衛門督休三
諏訪曲輪御門跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
忍城史跡碑は背面の碑文が見にくくなる場所に置かれていることが少なくありません(そのためのQRコード?)。
で、ここのは
「本丸の北東を包む一大曲輪の北口として諏訪曲輪御門はさらに北東を囲む多聞曲輪への出入口として軍事上重要な御門であった」

忍城十五門の一つで諏訪曲輪と多聞曲輪との出入りの門でした。諏訪曲輪は諏訪神社が置かれていたことによる名称です。多聞曲輪は多聞櫓があった曲輪で、米蔵や武器役所が置かれていました。
この碑の裏側もかつては堀でした。

2019年08月05日 野呂利左衛門督休三
忍東照宮[忍城  寺社・史跡]



奥平松平家の初代忠明が大和郡山城主の時に創建し、同家の転封に伴って各地を移動しています。忠明の母の加納御前(家康長子の信康の娘。亀姫)が輿入れの時に賜った家康四十二歳の肖像を祀ります。
元は藩校の修進館のすぐ北側にありましたが、廃藩置県後の廃絶を恐れた元家臣らによって明治四(1871)年に現在地に遷されました。同三十三年からは家祖の忠明も祀られています。
社宝として信長・秀吉・家康の間を渡った甲冑、碁石頭桶側菱錣二枚胴具足が伝わっています(行田市指定文化財)。


2019年08月05日 野呂利左衛門督休三
諏訪神社[忍城  寺社・史跡]



【多度社・一目蓮社】
元は北西200mほどの場所にありました。当時は二階櫓があった曲輪です。奥平松平家が桑名からの転封の際に多度大社を勧請した神社です。
多度大社は桑名市にある、多度山が御神体の神社で、天照大神の第三子の天津彦根命が祭神です。
一目蓮社は多度大社の摂社で、祭神の天目一固命は天津彦根命の子だそうです。元々は鍛冶の神で一目蓮とは別個の神だそうです。一目蓮は片目が潰れた龍で、風など天候を司る神で、伊勢湾の安全祈願と雨乞いで信仰されていました。

2019年08月04日 野呂利左衛門督休三
諏訪神社[忍城  寺社・史跡]



【二の丸稲荷社】
かつて二の丸にあった稲荷社です。成田長泰が当時は見返曲輪と呼ばれていた二の丸に建てました。
成田長泰は上杉謙信と渡り合った当主ですが、若い頃に母子の狐を殺したことがあり、隠居後に真紅の狐に復讐されそうになったとか。しかし、武勇に優れた家来のお陰で逆に狐が取り押さえられそうになります。難を逃れた狐は番人に夢で事情を告げたとか。その番人から話を聞いた長泰は昔の行いを思い出して、社を建てたそうです。
ところで、その狐って何歳?

2019年08月04日 野呂利左衛門督休三
諏訪神社[忍城  寺社・史跡]



この諏訪神社の創建にはいくつかあります。一つは戦国時代初期の延徳二(1491)年に成田親泰が忍城を築城した際に持田諏訪神社をここに遷したとするもの。
もう一つには鎌倉時代初期に、この地を所領にした忍氏が館を築いた時に創建したとするものです(忍氏は成田氏に滅ぼされ、その直後に忍城が築城された)。
新編武蔵風土記稿では寛文十二(1672)年鎮座としていますが、忍城を大改造した阿部忠秋は諏訪神社の本殿を正保二(1645)年に改築しています。寛文十二(1672)年は、それに引き続く拝殿建立の年です。
なお、現在の社殿は昭和三十六(1961)年の建築です。

境内は木立が多く残されていますが、廃城の際には周辺の樹木も多くが切り倒されて換金されていきました。しかし、ここの杉の木から生き血のような赤い液が吹き出たことから御神木の祟りを恐れて取り止められたと言われています。



2019年08月03日 野呂利左衛門督休三
地獄橋跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
帯曲輪の東側の出入り口に当たる橋です。忍城の濠は湧水だけでなく、北側からも水を牽いていました。その水を調整していた堰の一つがこの橋の堰でした。外側を北谷沼と呼び、その水を内行田沼と呼ばれる内側の濠に流し込んでいました。
その水の流れと冬の赤城おろしが相まって水が逆巻く様が地獄のようだったとか、赤城おろしの風に人が落ちることがあったからとかで地獄橋と呼ばれたと言われています。

2019年08月03日 野呂利左衛門督休三
谷郷口門跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑
忍城十五門の一つです。南北に走る道の東側に堀が接していたので、正確にはその道の反対側にありました。(忍城史跡碑はスペースの有無により実際の場所からずれている場合があります)
北側の総構の出入口で、明け六つに開門し暮れ六つに閉門していたことから六ツ門の別称もあります。
かつては北谷口と呼ばれていたそうですが、寛政年間(1789-1801)を描いた忍城内外絵図ではここは長光寺橋御門と記され、忍城史跡碑の鳥居強右衛門居宅跡が立っている場所が北谷口門と記されています(鳥居強右衛門宅は北谷口門に接していた)。谷郷口の名称になったのは奥平家が城主になった文政六(1823)年以降と見られています。
碑では加須の総願寺(不動岡不動尊)に移築されていると記していますが、北谷口門と混同したようです。実際には須賀(現在の行田市)の青木新太郎が廃城後の競売で落札し、その後については不明です。

2019年08月02日 野呂利左衛門督休三
大樋跡[忍城  碑・説明板]



忍城史跡碑の一つです。すぐ後ろが田んぼなので碑の裏面が見にくいと思います。

碑の裏面は以下の通り。
「藤原行成を祖に持つ成田十四代親泰は忍城築城にあたり 利根 星川の水をこの大樋により調節し城の沼沢に流し 奈良春日神社を勧請し この大樋を蔽いかくす 忍城重要地であった 成田氏長 連歌の宴を春日社で催す」

親泰について14代と記していますが成田氏系図をもとに藤原基忠(行成の弟)を初代に数えていると見られます。他に藩翰譜では同じ藤原氏説でも道長(行成のいとこ。摂政で日記「御堂関白記」を残す。摂政関白を排出したり五摂家はいずれも道長の子孫)の子孫とします。また武蔵七党の横山党とする説もあります。
碑文では忍城の築城を親泰としていますが、近年ではその父の顕泰によるとするのが有力です。
碑文の最後に出てくる氏長は親泰の孫で、戦国時代最後の成田氏当主。北条氏滅亡の際に同氏の命令で小田原城籠城戦に参加(よって忍城攻防戦にはいなかった)。北条氏滅亡後、所領を没収されますが、後に下野烏山(栃木県烏山町)の大名になっています。
氏長が連歌の宴をこの近所の春日神社で行ったとありますが、連歌は南北朝・室町・戦国の頃に盛んで当時の必須教養でした。連歌といえば連歌師の宗長という人物が白河を目指す旅の時に忍にも立ち寄っており、その時の紀行文の「東路のつと」でも城の周りを沼沢が取り囲んだ様子を記しています。
忍城跡の発掘調査でも水が湧き出て大変だったそうですが、湧き水だけでなく、忍川やここ大樋を流れる水によって水城の要害と景観が作り出されていたそうです。

辛うじてですが、この辺りからも行田市立博物館の三階櫓を望むことができます。


2019年07月24日 下沼下総守雄信
三重櫓跡[忍城  碑・説明板]

忍城のシンボル、御三階櫓は元々はこの碑の辺りに建っていた。

2019年07月23日 下沼下総守雄信
水城公園[忍城  遺構・復元物]

「水城」「浮き城」の別名の通り、大小の沼や水堀に囲まれ、その沼に浮かぶように点在していた島に城郭が築かれていた事が特徴だった忍城だが、その昔の姿を偲ぶことの出来るスポットはこの写真の「しのぶ池」の辺りのみである。

2019年07月15日 下沼下総守雄信
三成本陣[忍城  寺社・史跡]

埼玉(さきたま)古墳群の古墳の一つ、丸墓山古墳に石田三成は陣を置いた。

2019年07月15日 下沼下総守雄信
高源寺[忍城  寺社・史跡]

言わずと知れた正木丹波守利英が忍城の戦いで亡くなった者の菩提を弔うために開基した寺。

2019年07月09日 野呂利左衛門督休三
桃林寺[忍城  寺社・史跡]



奥平松平家の初代の忠明が、本来初代になるべきだった兄の家治(若くして死去)の菩提寺として創建した寺です。奥平松平家の転封に伴ってこの地に遷りました。
家老の鳥居強右衛門家の墓があるそうです。鳥居強右衛門家は、長篠・設楽原合戦の時に武田勝頼に捕まりながらも城中に援軍到来を伝えて殺された鳥居強右衛門の子孫の家です。

2019年07月09日 野呂利左衛門督休三
谷郷春日神社[忍城  寺社・史跡]



成田親泰が忍の地を奪い取った時に創建されたとされています。忍城の成田氏は元々は今の熊谷市にある成田の地が発祥で、戦国時代前期に忍を奪って築城したとされていました(最新の研究では戦国時代への過渡期の文明十(1478)年に親泰の父の顕泰によってが有力)。成田氏は出自を藤原氏としており、そのことから藤原氏の氏神であった春日神社が勧請されたようです。
忍城は周囲を幾重にも水堀で囲まれていましたが、堀に水を供給する水路となる樋がこの付近にあったと言われ、それを守るために重臣の正木丹波守の屋敷がこの辺りにあったとされています。


2019年05月25日 宇奈月治部大輔
忍城



のぼうの城をリア攻めしてきました!
城跡にある行田市郷土博物館のドアを入ってすぐ右手に、続日本100名城スタンプがあります。まずは押印し、博物館入りました。入館料は大人200円。石田勢の水攻めの様子など説明を聞いて充分楽しめました。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
皿尾口跡[忍城  遺構・復元物]



忍城十五門の一つ。北西側の入り口です。堀が溝として名残をとどめています。秩父鉄道のある側が城外。城内側は広場になっていましたが、城内への入り口は広場の対角線側にありました。今もその名残で広場だった部分を横切る道路は斜めに走っています。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
涙橋跡[忍城  碑・説明板]



成田氏長が由良成繁の娘を離縁した際に、ここで振り返った由良成繁の娘は、まだ幼い甲斐姫の姿を見て涙ぐんだと言われています。碑が面している方が堀で、碑の横を通る道が江戸時代も道でした。
江戸時代後期の忍城の地図、文政年間忍城図では「ヤバ口」と記される城門がありました。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
縁切橋跡[忍城  碑・説明板]



成田氏長が由良成繁の娘を離縁する際にここにあった橋から見送ったという伝説からこの名があります。碑が面している道路が橋跡で、江戸時代も今の方向で道が走っていました。
江戸時代後期の忍城の地図、文政年間忍城図では「アライ口」と記される城門がありました。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
大宮口[忍城  遺構・復元物]



忍城十五門の一つで裏鬼門の方角にあります。手前の川が堀にあたります。大宮口のあたりの道筋は当時のがほぼ生きています。城内へは右に曲がることになりますが、すぐに堀がある構造です。


2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
大宮口御門跡[忍城  碑・説明板]



行田市教育委員会の建てた碑ですが、実際の位置と少しずれています。この碑がある大宮神社は忍城城築城の際に裏鬼門鎮護のために勧請された久伊豆神社の後身です。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
持田口跡[忍城  碑・説明板]



忍城十五門の一つ。成田記では真田父子の手勢と甲斐姫の手勢が戦ったとされる場所です。今は遺構はありませんが、堀と土塁で形作られた食い違い虎口の通路が今もからくり時計の広場の細い道として名残をとどめています。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
梅貞童子墓[忍城  寺社・史跡]



梅貞童子は、徳川家康の四男で忍城主だった松平忠吉の子(母は井伊直政の娘)。慶長三(1598)年に亡くなりました。行田市指定文化財。墓のある正覚寺は成田氏長が開基となって天正六(1578)年に創建された寺です。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
常慶院[忍城  寺社・史跡]



成田親泰の頃の開創で、親泰の姉の都留姫が開基。寺の名前の常慶院は都留姫の法名です。天正十三(1585)年に京都の仏師の七条法眼が造った木造地蔵菩薩坐像は行田市の指定有形文化財。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
久伊豆神社[忍城  寺社・史跡]



忍城築城の際に鬼門鎮護として勧請されました。近くの長久寺が別当寺でした。
この神社には勝海舟が揮毫した大幟の原本があります(行田市指定文化財)。また藤の花も見どころです。

2019年04月26日 野呂利左衛門督休三
長久寺[忍城  寺社・史跡]



成田顕泰が忍城築城の際に鬼門鎮護のために創建しました。石田三成の忍城攻めの際に焼けたと伝えられています。行田市の指定文化財になっている山門は、それからの復興の時に建てられたものと言われています。

2018年12月07日 感謝式部大輔はる ◢͟│⁴⁶
忍城

博物館が休館日の時は「ぶらっと♪ぎょうだ」に続100名城スタンプが置いてあるそうです。

さきたま古墳群に石田三成が陣を置いた丸墓山古墳が近くにあるので行ってみた方が良いかも!忍城を遠くに見られますので!

石田堤公園もあります!
その近くに行田名物ゼリーフライのお店もありました^ - ^

2018年10月13日 大納言織田晃司
忍城

行田市郷土博物館前に駐車場があります。

そんなに広くないので20〜30分で見ることができます。
御三階櫓だけでなく本丸の土塁も見のがさないように。

県名の由来のさきたま古墳群があるのも行田市です。
あわせてご覧になっては。

2018年09月03日 まー刑部卿
忍城

模擬天守のある行田市郷土博物館は館内消毒作業のため9/3〜9/7の間は臨時休館。博物館ならびに三階櫓は立入出来ないため続100名城スタンプは行田市商工センター1階にある【ぶらっと♪ぎょうだ】でスタンプ押しにきたと言えば職員の方が引き出しから出して頂けます。なお商工センターには無料駐車場があるので車でお越しの方は駐車して下さい。

2018年07月29日 藤犬伊豆守重兵衛
忍城

JR行田駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りることが出来ます。電動は500円、ママチャリとクロスバイクは無料貸し出しです。バスの本数は限られているので、体力のある方は是非。

2017年08月18日 土塁ルイ
忍城

忍城はその地形を生かし、一大貯水池を城の守りとして縄張りされました。

忍城を取り巻く堀や沼は、利根川や星川の水を北の「大樋」より引き込み、南の「沼尻の樋」で排水し水量調節を行っていました。
両所は城の生命線として、「大樋」は春日神社の森で隠され重臣正木丹波守が守護し、「沼尻の樋」は佐間天神社の森が覆い隠していました。

「大樋」を閉めれば水源が断たれ「沼尻の樋」を開ければ水は干上がる・・。三成がこの構造に気付いていれば、水を枯らす作戦の方が有効だったかもしれません。


2017年06月17日 海之守左衛門佐
忍城

向かいの諏訪神社では、
のぼうの城と入った
御朱印を記帳して頂けますよ

2017年05月26日 えっつー主水正
忍城

行田市教育委員会郷土博物館の管轄です。

2016年12月18日 きよ丸
忍城

念願の忍城をとりました!ここは、埼玉県人の憧れ。地元の鉢形城はやぶれたけど、ここは秀吉から守れたのが好きです。

2016年07月28日 まるき〜上野介
忍城

現地に忍城の城パンフが無い!

映画、のぼうの城のイメージで来たためか、立派な三階櫓があるのに違和感を覚えましたー!

現地に来て目を瞑って回りが水浸しになったのを想像してみたり、周りに土手(石田堤)を造られ包囲されていると考えると恐ろしくなりますな〜

現在の形を見ているとなかなか当時を想像できにくいですが、自分なりの想像力をいかに膨らませ、感じる事がその城の歴史の楽しみ方では無いかと実感!

ココはそういう意味で史実と物語が揃う所?

見学はそう広くないのでサクッと20分〜30分もあれば…

博物館には時間外の到着でしたが、係りの方と少しお話させて頂きました。
行田市郷土博物館にてジオラマや資料の展示がされていたり詳しい資料も販売されているようです。
無料駐車場あり、入館 大人200円


2016年07月03日 永眠武蔵守釋 葱進
忍城

忍城本丸があった辺りは現在市役所や郷土博物館が建っています。そんなこともあり、この辺りの現在の住所は「行田市本丸」となっています。
その博物館では、週末を中心に「おもてなし甲冑隊」による演舞を見ることができます(スケジュールは甲冑隊のサイトで確認を)。
博物館には忍城の模型や絵図その他歴史的資料が展示されており、三階櫓の最上階は展望室で現在の行田のまちを俯瞰できます(博物館は基本的に月曜休館)。
沼の名残と云われる水城公園は博物館から徒歩で10分ほど、時間があれば散策するのもよいでしょう。忍城からの散策路が整備されています。

駐車場は博物館隣にあるほか、週末等は市役所駐車場も観光客用に解放されるとのこと。
車以外なら、秩父鉄道行田市駅から歩く他に、JR行田駅やJR吹上駅からバスが運行されています(吹上からの博物館前バス停はズバリ「忍城」という)。

2016年05月03日 ⛫武蔵の謙
忍城

城郭基本情報では、忍城の築城時期を延徳2年(1490年)としているが、文明11年(1479年)に足利成氏が別符三河守に発給した書状(別符文書)には忍城の記述があり延徳2年の築城説は明確に否定されている。

また永享8年(1436年)の岩松持国本領所々注文では、忍城の在所である糯田郷は岩松氏領であったことが知られている。

糯田郷を成田氏が獲得したのは、寛正2年(1461年)に岩松持国が処刑された後の事と考えられている。

つまり忍城が築城されたのは寛正2年(1461年)から文明11年(1479年)の18年間の中であったと考えられている。

築城当時の関東は享徳の乱期に該当する。当時の成田氏の当主は、成田正等の父と考えられる成田下総守(法名は宗成)であろうか。


2015年08月30日 駿河守武蔵守
忍城

すぐ隣に無料駐車場が有ります。近くの十万石饅頭の本店が有るので、お土産にも困らないと思います。

2015年03月06日 片倉左衛門佐七之助
忍城

ご当地グルメ食べたい方は出来たら 月曜日が定休日の店多いので よく確認の上お訪ねください

2014年07月15日 青木右兵衛佐@真っ直熊厨
忍城

『のぼうの城』の影響で観光客が多い。忍藩が埼玉県内で有名な藩であるため、埼玉県立歴史と民俗の博物館に忍城の復元模型がある。昭和時代に忍城に関する石碑が複数造られたため、城下町に史跡を多く持つ。
忍城址内の行田市郷土博物館は、主に忍城に関する展示を行っている。図録としては『忍城址 水攻めと石田三成』があったそうだが、2014年7月15日現在はない。ただ、幕末に関しては『武門の縁』が残っている。現在、特別展として、『忍藩士の文化』が行われている。興味がある人は是非どうぞ。
忍城址前の忍東照宮は徳川宗家の徳川家達が建てた神社。御朱印帳は500円と安い(ページ数が少ないが)。

2014年05月30日 土塁ルイ
忍城

忍城は明治6年に取り壊しとなりましたが、建物として唯一残る城門(黒門)が、加須市不動ケ岡不動尊總願寺境内西側に移築されています。

2013年10月16日 片倉左衛門佐七之助
忍城

循環バスありますが、時間がちょうどよいのがなく、行田駅まで歩きました… 4㎞位

2013年08月12日 YMTKM
忍城

25台程の無料駐車場あり。敷地内にトイレもありますが、駐車場からはちょっと距離あり。
月曜休館のようです。

2013年06月05日 オーロラブレス
忍城

忍城の帰りにはB級グルメゼリーフライを外してはいけないと思います。個人的にはかねつき堂がオススメです。

2012年12月29日 三日陸奥守落人
忍城

現地には模擬天守が建つなど観光化されていますが、リアルな追想にこだわる方々は、ぜひ三成が本陣を置いた丸墓山から城を望まれることをお勧めします。
ここから三成と共に城を望んだであろう諸将は大谷吉継や長束正家、佐竹義宣、真田昌幸らですが、思えばこのメンバーって後の関ヶ原でみんな西軍についてるよな…みたいな考察も楽しかったです

ちなみに「日本最大の円墳」の丸墓山を含む「さきたま古墳群」自体も、大変見応えのある史跡&桜の名所です。


2012年10月16日 あと2城副将軍マイリバ
忍城

甲斐姫贔屓の歴士・歴女の皆さまへ
今年の2月から埼玉新聞で甲斐姫を主人公にした小説「甲斐姫翔る」を連載していました
週4回、120回予定のため恐らく既に連載終了しているでしょうが、同社には出版部門もあることから、単行本化に期待しましょう(^^;

2012年10月16日 あと2城副将軍マイリバ
忍城

埼玉のソウルスイーツ?十万石まんじゅうの「ふくさや」では10月21日まで「のぼうの城五人衆」まんじゅうを限定販売しています(^-^)/
さらに、10月19日から21日までは忍城御三階櫓(あくまで天守閣ではありませんよ)をモチーフした「浮き城サブレ『忍』」を販売します(^q^)

2012年07月27日 徳川内大臣源朝臣康武
忍城

行田市立郷土博物館(御三階櫓)は休館日多すぎーっ(*`Д´)ノ!!!いつ来ても大概休みだね(T^T)
現在、忍城やのぼう関連のグッズや土産品がたくさん出てます!(たくさん買っちゃった(^^))。
地元の映画への期待の大きさがわかる(^^)…だったら、休館日も開けろーっ(*`Д´)ノ!!!

2012年03月18日 野舘宮内少輔サラマンダー
忍城

2012年3月18日13時頃(90分)

本日は『のぼうの城イベント』があったので家族四人で行きました
無料駐車場が忍城と市役所にあります
城は復元で三層櫓(博物館)が一番目立っていましたが、とても小さくて一周20分位で回れてしまいました…
しかも肝心の甲冑体験、子供用が修理中…
イベントの鎧武者はとても迫力がありました

2011年06月15日 彩の国織部佑風香
忍城

甲斐姫伝説を最近知りました。のぼうの城も相まって行田市が元気でてきましたね。
B級グルメのフライとゼリーフライだけじゃネェ〜。
あっ!地味なさきたま古墳と古代蓮があったかぁ〜

2011年01月23日 ゆーこ
忍城

現在、各地に点在するおもてなし武将隊が、ここにも存在します。
おもてなし甲冑隊といいます。イケメンばっかなので、女性はぜひ一度見てみて。

男の人は、甲冑の出来を見てみて下さい。本格的です。

2010年11月13日 傾奇揚げ仙兵衛
忍城

忍城の本丸跡に鉄塔やトランスたぐいの物が設置されていたのはガッカリだ

2010年09月25日 古楽侍従広家
忍城

今の研究では、日本で最後の水攻めが行われた城となります。
小説等で石田三成、真田信繁、甲斐姫、大谷吉継らの登場で脚光を浴びた水攻めですが、水攻めだけを見れば関東唯一という事が一番の注目点かもしれませんね。
城下にある松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑も見て欲しいですね。

2010年09月07日 あと2城副将軍マイリバ
忍城

小説「のぼうの城」の舞台として、この1~2年で認知度急上昇の城です
かなりモギーな三階櫓よりも小説の準主役級武将・正木丹波が開山した高源寺や水攻めの陣所となった丸墓山古墳&良好に遺構が残る石田堤等を巡るのに時間をかける方がオススメです
また、行田では関東最大の田んぼアートが開催されており、今年の題材はナント忍城三階櫓&「のぼう」こと成田長親
リアルなキャッスルハンターではなくても必見ですよ(「古代蓮の里」にて10月中旬まで見頃の予想です)

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