忍の時鐘楼跡
忍の時鐘楼跡([忍城 碑・説明板])
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忍の時鐘楼跡の口コミ情報
2019年09月01日 野呂利左衛門督休三
忍城史跡碑。行田市郷土博物館で販売されている忍城今昔地図によれば、本来の場所は少し南の中央小学校校庭の北辺に当たります。碑文には鐘楼自体よりも鐘の方が記されています。
文政六年の奥平松平家転封の際に桑名から鐘が移されています。建物がその時かそれ以前からかはよく解りませんが、明治六(1873)年の廃城の際に撤去されています。明治六年調製忍城圖では下見板張りの鐘楼が描かれており、忍城公園の鐘楼はこれを基本にしているようです。
鐘は奥平松平家が桑名時代に鋳造したものです。転封の多かった松平忠雅(初代忠明の孫。白河→山形→福山→桑名)が安住を願って造ったのが初代の鐘。それが息子の忠刻の時に火災で焼けたので改めて造ったのが二代目です。これが忍に持ち込まれます。
高さ151㎝、口径79.5㎝、重さ600㎏で8㎞四方に鳴り響いたと言います。
明治の廃城で鐘楼が撤去された後はしばらく野ざらしになり、金が入っているとの噂から一部が奪われたりもしたそうです。
進脩館小学校の校庭(今の中央小学校校庭)に新たに鐘楼が建てられてそこに納まりますが、昭和二十八(1953)年に東照宮境内に移設されています。
1992年からは次代に役目を譲って行田市郷土博物館内で展示されています。