皿尾城(さらおじょう)
皿尾城の基本情報
通称・別名
- 掻上城
所在地
- 埼玉県行田市皿尾
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 成田氏?
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 成田氏?、木戸氏(上杉氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
忍城(埼玉県行田市)[1.2km]
成田氏館(埼玉県熊谷市)[3.3km]
石田堤(埼玉県鴻巣市)[5.3km]
中条氏館(埼玉県熊谷市)[5.3km]
赤岩城(群馬県邑楽郡)[7.1km]
箕田館(埼玉県鴻巣市)[7.8km]
平山館(埼玉県熊谷市)[8.5km]
比企能員館(埼玉県東松山市)[8.6km]
別府城(埼玉県熊谷市)[10.1km]
羽生城(埼玉県羽生市)[10.2km]
皿尾城の口コミ情報
2024年07月17日 マグロ常陸介祐平
須加城[皿尾城 周辺城郭]
城主の須賀(須加)氏は成田氏の重臣で、須賀泰隆は成田氏長の姉婿にあたり、石田三成らの忍城攻めでは一族として本丸に詰めています。成田家分限帳では、御家門百貫門、上杉氏の関東幕注文にも須賀氏の名は記載されています。
新編武蔵風土記稿にも、須賀氏に関しての記載は多く、永享12年(1440年)の一色伊予守による須賀土佐守の城の落城の話や、屋敷跡として「今は陸田となっている成田氏家臣須賀修理大夫居住の地で、村の名主は子孫と言われている」と書かれています。また、埼玉村の項にも須賀氏居館として「須賀修理大夫屋敷跡は、今は陸田となり字御下屋敷とよばれている」と記載されており、忍城近くにも屋敷を与えられていたことがわかります。
市の説明では天正期の築城とされていますが、永享12年の落城の他にも、天文5年(1536年)の赤井勝元による落城の記録もあり、よく分かりません。
お城の遺構については、江戸時代後期の風土記稿の段階で、陸田となっていたようですので、残っていません。今回、石碑のある長光寺を探索しましたが、お隣の小学校の方が高台にあるので、本丸はそちらかもしれません。お寺の参道脇に土盛りが見られますが遺構とは思えません。城跡に建つ長光寺は、文禄2年(1593年)の創建で、阿弥陀堂は、徳川綱吉生母の桂昌院ゆかりのものです。
2024年05月06日 JUN
皿尾城
訪ねる時は、持田駅からの徒歩がベストです
2024年03月06日 あらし肥前守
皿尾城
秩父鉄道持田駅から徒歩15分程度で登城。大雷神社裏に土塁が残っており、隣のふるさと館皿尾センターの入り口に城跡の石碑が建っています。
2023年05月28日
須加城[皿尾城 周辺城郭]
行田市立旧須賀小の西側、雑木林は石碑から6mほど高台にあり、縄張りの内だったかもしれません。
5代将軍綱吉御生母、桂昌院ゆかりの如来堂(長光寺さん境内、墓域)が隣接します。
現況では堤防のほうが高いけれど
(小学校は高台からの3階建)
利根川左岸から、須賀城跡付近を遠望してみました。
2022年12月19日 マグロ常陸介祐平
皿尾城
久伊豆神社大雷神社合殿の周辺に部分的ですが、土塁と空堀が確認出来ます。忍城攻めの城というよりは、館のような印象を受けました。余談ですが、神社には行田名物の美しい花手水を見ることができます。
2022年06月04日 菊左近衛少将
皿尾城
田んぼの中の神社。ぽつんと一軒の民家の裏になるのかな。
2020年12月04日 拓之助中務少輔
皿尾城
この城は忍城の支城よりも、上杉氏の忍城攻めのために建てた言われる陣城と言う形で城の構造も簡易な方形城館を推奨する。
その後、秀吉の関東攻めの際、石田方の陣としても使われたかもしれない。
神社うらにかすかに残る土塁と堀の名残が当時を偲ぶ。
現在は城跡には神社が立ち、周りは田畑や公園になっている。
行田市による石碑が建ててある。
2020年11月24日 まー刑部卿
蚊喰塚(かぐいづか)[皿尾城 遺構・復元物]
『昔有る罪人が全裸体にされ欅の老木に縛り付けられ蚊責めの刑を受けて命を落とした』という伝説が残っている。【行田市史(下巻)】【続・埼玉の城址30選】参照。
2020年11月24日 まー刑部卿
蚊喰塚(かぐいづか)[皿尾城 遺構・復元物]
皿尾城のある大雷神社の先に高土塁?と思われるところが見える。星宮小学校のそばにその遺構はあるが駐車スペースはないがすぐそばの産廃業社そば、信号脇に一台分のスペース有る。道路に出る時は見通しが悪いので十分注意してください。星宮小学校隣にある星宮公民館に駐車するのがよろしいかと。
蚊喰塚と呼ばれる処刑地跡です。現在は不法投棄が多く(ゴミが捨てられている)行田土木事務所敷地となっていますが説明板もないため地元の方も旧刑場跡とは知らないかと。すぐ隣に県道303号があり歩道がないので車に御注意を。
2019年07月12日 野呂利左衛門督休三
西側の土塁跡?[皿尾城 その他]
民家の敷地内の祠(屋敷神)が築山状の土盛りの上に。山崎一氏や冨田勝治氏の推測によれば、写真撮影した道が城域の西端になる。
2019年07月09日 野呂利左衛門督休三
大雷神社[皿尾城 寺社・史跡]
源頼朝に従った成田長景が、三島大社に祈願して治承寿永の乱で功名を挙げたことから、同社と同神の久伊豆大明神と雷電神を祀ったのが始まりとされます。
皿尾城の城域としてはこの南の微高地が中心部で、ここは北側の突出部とする見方もあります。
2019年07月09日 野呂利左衛門督休三
泉蔵院[皿尾城 寺社・史跡]
寺自体は江戸時代の創建なので皿尾城とは関係ありません。この寺の北側までが皿尾城の城域とする説があります。
2019年07月09日 野呂利左衛門督休三
高太寺[皿尾城 寺社・史跡]
高太寺は永禄年間(1558-1570)に龍淵寺(成田氏館近くにある成田氏の菩提寺)第九世の海岩によって創建されたと伝えられています。この辺りは皿尾城の城域ともされるので永禄十二年以降でしょうか。
室町時代につくられたと見られる木造釈迦如来坐像(市有形文化財)が伝わります。
2019年07月08日 野呂利左衛門督休三
皿尾城跡[皿尾城 碑・説明板]
永禄四(1561)年、長尾景虎は北条氏の小田原城を包囲して、鎌倉で関東管領に就任、上杉政虎として上杉氏の名跡を継ぎます。しかし、政虎が関東を離れると関東の国人は政虎から次々と離反します。忍城の成田長泰もその一人でした。
その長泰の忍城を攻める足がかりとして築かれたのが、皿尾城と言われます。皿尾城には木戸玄斎(忠朝)を城将として入れますが、玄斎は後に成田の圧力に耐えかねて降伏してしまい、激怒した輝虎(政虎より改名)は城を攻め落としたと言われます。
この話が記された北越軍記では永禄十二(1569)年のこととされます。しかし玄斎が成田に寝返ったことを示す一次史料はなく、しかも玄斎は兄が館林城主になった後、その後を受けて羽生城主となり、謙信の開城命令が出るまでこれを北条氏から守り抜いています。
また永禄十二年四月に、武田信玄に対抗するための上杉と北条の同盟(越相同盟。翌々年に破綻)が結ばれているので、平和裏に明け渡されたとする見解もあります。
2016年04月30日 合戦不参加 三加弾正尹
皿尾城
追記。
大雷神社の本堂の裏手回りにわずかですが土塁あり。
2016年04月30日 合戦不参加 三加弾正尹
皿尾城
ふるさと館皿尾センター前に石碑があります。センターの駐車場がありますが、普段はロープが張ってあり、駐車できないようです。
隣に大雷神社あり。大雷神社を目指して行けば大丈夫です。
2016年03月09日 永眠武蔵守釋 葱進
皿尾城
現地にはわずかな土塁・用水路として整備された堀跡があるくらいです。
皿尾城に関する説明板の類いはありませんが、石碑左上のQRコードを読み取ると解説を読むことができます。