別府城(べっぷじょう)
別府城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 埼玉県熊谷市東別府777他(東別府神社)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 別府氏
築城年
- 平安時代
主な改修者
- -
主な城主
- 別府氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(別府城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
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別府城の解説文
別府城の口コミ情報
2024年10月16日 マグロ常陸介祐平
西別府館[別府城 周辺城郭]
成田助高の次男の別府次郎行隆の長男太郎義行が東別府に居住し、次男次郎行助がここ西別府に居住したとされます。新編武蔵風土記稿には、陣屋跡として「村の中程にあり、別府氏の居住の地と云、今は陸田且百姓の屋敷となれり」とあり、江戸時代後期には遺構は残っていなかったようです。
近くにある安楽寺は、西別府氏の菩提寺で、行助から4代目の頼重(文和3年,1354年卒)の板碑形式の墓があります。板碑としては珍しい官途の刻まれたもので埼玉県指定の史跡となっています。
西別府氏に関しては資料が少なく、事績等よくわかっていないようです。成田分限帳にも西別府氏と思われる者は見あたりませんが、上杉氏の関東幕注文には成田下野守の親類として、別符治部少輔と中務少輔の2名が記載され、埼玉苗字辞典では中務少輔を西別府氏か?としています。
安楽寺は、藤原不比等が三尊を安置して養老年間に草創され、のちに別府行隆が六阿弥陀を追加して九品仏堂としたとされます。現在の九品仏は江戸時代のものですが立派な仏様で、ガラス越しに覗いていたところ、住職が現われ、鍵を開けて拝観させていたきました(不審者と思われたのかもしれません)。
2024年10月15日 マグロ常陸介祐平
別府城
成田助高の次男行隆が別府の地に居住し、別府氏の初代となりました。別府城は平安時代末期から天正十八年(1590年)の落城まで使用されたとされ、東西約100m、南北約90mの方形で土塁が囲み、南側は桝形状の虎口、東西に虎口があり、南側を除き堀が残っています。お城というよりは、館といった感じをうけます。現在は、別府氏の氏神とされる東別府神社が鎮座しています。
別府氏は成田氏の家臣でも500貫と蔵米侍を除くと4番目の大身で、お城の規模は手狭な感じがします。
家康が関東に入部すると、東別府氏は騎西に2万石を与えられた松平(松井)康重に仕官し、子孫は岸和田藩士として存続したようです。
2024年10月14日 マグロ常陸介祐平
香林寺(別府城)[別府城 周辺城郭]
こちらのサイトでは、東別府神社にある城址を別府城としていますが、日本城郭大系では香林寺の場所を別府城とし、東別府神社の城址は別府氏城としています。大系では東西約90mで、西側に南北14mの土塁跡と水堀の一部が存在していることしていますが、現在は遺構と思えるものは見当たりません。別府城(東別府神社)から東に200mほどの場所にあり、ここが城郭だとすると別府城(東別府神社)の一部もしくは出城だったのかもしれません。
香林寺は、新編武蔵風土記稿によると別府小太郎清重が、父の入道義重(1187年卒)の追福のために建立したとされるが、2人の名前が「盛衰記」等に見えるだけで成田家譜には載っていないため疑わしいとしています。墓域には、西別府の別府氏(別府氏は二系統に別れている)の菩提寺の安楽寺のように板碑と、義重・清重親子の供養塔があります。東別府の別府氏には小太郎を名乗る者が多く、位置的にも東別府の別府氏と密接な関係にあったものと思われます。
香林寺には別府氏の墓や板碑の他、付近ではたいへん珍しいと思われる双身体道祖神や親よりも先になくなった子供だけの独立した墓地が見られます。
2024年10月13日 マグロ常陸介祐平
奈良氏館[別府城 周辺城郭]
妙音寺が奈良氏の居館の比定地とされています。奈良氏は、成田助高の三男高長がこの地に居住して奈良三郎を名乗ります。新編武蔵風土記稿には、妙音寺は奈良三郎が出家開山して此所に住したとしていることから、居館は別にあったのかも知れません。遺構は残っておりません。
奈良氏は、早くから源氏に従ったようで、保元物語に義朝に随う者として奈良三郎が出ているようです。また、頼朝上洛には一族と思われる奈良五郎が随行しています。
戦国期の記録としては江戸時代後期に成立した成田記に、永正14年に古河公方政氏が成田氏の忍城を攻めた際、奈良の城主奈良資邦は、古河公方方に通じた為、成田親泰により滅ぼされてしまったと書かれているようです。成田記では、その後成田親泰の末子多々良丸に名跡を継がせるも、後に成田に復したとしています。但し、それ以降に成立した天正10年の成田氏の分限帳には奈良下野30貫文とあり、一族が小身で残っていた可能性があります。
また、細川京兆家の被官に奈良氏がありますが、鎌倉時代に地頭として讃岐に所領を与えられた一族でしょうか。
妙音寺には、江戸時代に建てられた奈良三郎の墓があります。山門は立派なものですが、平成になってから別のお寺から移築されたものとの事でした。
2023年04月22日 後志守あったらもんだ
別府城
城址は古い集落の村社になっているので、土塁や周囲の堀など遺構から往時をしのぶことはできる。JR籠原駅から輪行した自転車でアクセス、歩くと1時間以上かかります。
2022年08月28日 菊左近衛少将
別府城
いくつも鳥居とお宮があり、なかなかの存在感を感じましたが、池だったと思われる場所も草で埋まってしまい、石橋が残念な感じでした。
2021年12月05日 三河守ぱーる
別府城
神社の境内に駐車できます。土塁と堀がきれいに残っています。西側虎口からは入りにくそうです。中世の城館って感じがとてもしてこんな土塁の中に家を建てたい!と一緒に行った城友さんは言ってました。(笑)
こちらは東別府、近くに西別府城館跡もあります。兄弟で西東に分かれていたようです。が、西別府は石碑と祠しかありませんが…
2020年11月24日 まー刑部卿
別府城
東別府館跡という名が正式名称で数十M隣接する香林寺が別府城跡となっていると【続・埼玉の城址30選】という書物にありました。
ここは5回目の登城です。土塁や堀がよく残存しています。駐車場は境内に停められます。
拝殿横には巨大な城址石碑がありますが汚れて見えづらくなっています。確か【別府城址】と書かれていたと思います。
2020年11月24日 まー刑部卿
別府城
香林寺。お寺の中にも駐車場ありましたが外側のほうで駐車。【続・埼玉の城址30選】で知り訪れました。
2016年12月14日 永眠武蔵守釋 葱進
別府城
おおよそ100m四方に囲まれた小規模な城跡というか館跡、長らく別府氏が治めていたが北条氏滅亡を期に滅亡、別府城も廃城になったもよう。郭内には現在東別府神社が鎮座しています。
西~北~東に土塁と空堀、特に北側はかなり良好な状態で残されています。
「城跡」として県の指定を受けたのは、市内で唯一つです。
屋敷地は東西約100m、南北約90mです。堀は幅約5m、深さ約2.3mで、土塁は高さ約2mです。「館跡」として県の指定を受けた中条氏館跡と共に、中世豪族の屋敷の遺構がよく残っています。
交通
・JR籠原駅から市内循環バス「ムサシトミヨ号」10分、JA別府支店バス停下車し、徒歩10分