下田島城(しもたじまじょう)

下田島城の基本情報

通称・別名

岩松城、岩松陣屋、岩松館

所在地

群馬県太田市下田島町1245-1(太田フレックス高校内)

旧国名

上野国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

岩松氏

築城年

寛文3年(1663)

主な改修者

主な城主

岩松氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

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下田島城の口コミ情報

2025年10月30日 マグロ常陸介祐平
下田島城



交代寄合岩松氏の陣屋です。岩松氏は、足利義兼の庶長子の足利義純を祖とし、新田義兼の娘を妻とした足利氏流の一族ですが、義純が平姓畠山重忠の未亡人を娶ると、先妻新田義兼女の子供である岩松時兼らは義絶され、母方の新田一族として継続していきます。岩松経家の代には新田義貞の挙兵に参加するも、倒幕後は足利氏に従い、新田本家が没落すると岩松氏は新田一族の惣領となります。その後、礼部家と京兆家に分裂しますが、岩松家純が統一し、「新田金山城」を本拠としています。戦国期になると、下克上により横瀬(由良)氏に実権を奪われ没落しますが、豊臣秀吉の天下統一により由良氏が下総に移ると、関東に入国した徳川家康に岩松守純は謁見しています。謁見の際に家康に対して失言があり、旗本の身分ではありますが市野井村感応寺曲輪(通称、岩松陣屋)に僅か20石を与えられます。守純の孫の秀純の代になり、徳川家光の13回忌の特赦として、家綱から血統を認められ、下田島に100石を加増され、下田島に陣屋を築き、僅か120石ながら大名格の柳の間詰の交代寄合となり、大名なみに参勤交代をする旗本として幕末まで存続しています。幕末の当主俊純は新田義貞の勤王の意志を継ぎ、「新田勤王党」を結成して東山道提督岩倉具貞軍に従軍し戦功をあげています。明治5年に中大夫席に列し越後府知事に就任、姓を新田に改め、明治17年になると新田義貞の正統と認められ、男爵に叙されています。また、温純・徳純・道純・俊純の4代は「新田猫絵」の作者としても知られています。

城址は太田フレックス高校の中にあり、間近では見られないと思っていましたが、日曜日というのに校門は開いており、中からはかなり年配の女性が出てきました。催し物でもあったのかと思い尋ねてみると、「俳句の会があり、新田の御殿様のご縁でこちらを会場として使っている」との回答でした。どうやら今でも新田家(旧岩松家)のご当主は、御殿様と呼ばれているようです。勝手に見学できる感じではなさそうなので、先人様の口コミを参考に事務室で許可をもらい、お城を見ることができました。

お城(陣屋)は、元々あった城郭を再利用したとされ、東西約100m、南北約120mの土塁と空堀ガ囲む方形単郭で、南と東に虎口があり、南の虎口には蔀土居、北西角部に櫓台があったようです。今残る遺構は、北から西にかけて土塁と角部分の櫓台、西側の土塁に付属する浅くなった空堀となります。120石の旗本の陣屋としては、立派なものです。

2024年07月11日 アッサー
下田島城



太田フレックス高校の敷地内なのて、事務室で許可をもらって見学しました。土塁が残っていて、上にも上がれます。説明板がありましたが、うっすら何か書いてあるなあって程度で残念でした。

2023年06月13日 マグロ常陸介祐平
岩松館[下田島城  周辺城郭]



源義国、その子新田義重から岩松氏代々が居住したとされています。現在は江戸時代初期に移された岩松山義国院青蓮寺が建っています。裏側の薮の中に遺構が残っているようですが、突入は断念しました。Googleマップの写真投稿や城のサイトでも藪の中の遺構写真はほぼ見られない、幻の遺構です。

館の東側には源義国の墓があります(写真7枚目)。オフィシャルの墓は鑁阿寺ですが、義国はこの地で亡くなった可能性が高く本来の墓かもしれません。足利・新田氏族共通の先祖の墓にしては荒れ放題となっていました。

さらに東側には横瀬(由良)氏に新田金山城を逐われた岩松尚純の墓があります(写真3枚目)。

2023年06月11日 マグロ常陸介祐平
大館氏館[下田島城  周辺城郭]



新田義重四世の孫、家氏がこの地に住んで大館を名乗っています。遺構は残っていません。

ここ大館は江戸時代に弘前藩の 飛び地となっており、二代藩主津軽信枚の妻で石田三成の娘の大舘御前(辰姫)はこの地に居住して三代藩主信義を産んでいます。近くにある東楊寺には大舘御前の墓と弘前藩代官足立氏歴代の墓があります。そんな縁もあり太田市と弘前市は友好都市となっていて、尾島ねぷたまつりが盛大に行われています(今年は4年ぶりに開催予定、大太鼓は凄い迫力です)。

2023年06月11日 マグロ常陸介祐平
安養寺館[下田島城  周辺城郭]



国指定の史跡、新田荘遺跡の一つで、新田義貞が居住した可能性もあるようです。館跡としての遺構は残っていませんが、義貞の弟脇屋義助の供養塔婆である板碑があります。

現在館跡は、明王院安養寺となっています。義貞鎌倉攻めの際、不動堂に祀られている不動明王が山伏に化身して、新田一族に触れ回ったことから、新田触不動尊と呼ばれています。境内には珍しいピラミッド型の千体不動尊供養塔を見ることができます。

2016年02月29日 永眠武蔵守釋 葱進
下田島城

遺構が高校の敷地内にあるため、一般人は気軽に近づくことができません。
せめて正門近くに案内解説板があればいいのですが…
一応、正門から土塁を遠くに見ることはできますが、他方向からは塀や住宅があるので見ることは難しい模様。

2015年09月21日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
下田島城

リア攻めを試みたものの、完全学校敷地内で…後日学校のある日にリベンジしたいと思います(*_*)

下田島城の周辺スポット情報

 安養寺館(周辺城郭)

 大館氏館(周辺城郭)

 岩松館(周辺城郭)

 勾当内侍の墓(寺社・史跡)

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