新田荘城館(にったのしょうじょうかん)
新田荘城館の基本情報
通称・別名
- 新田荘城館[反町館・江田館]
所在地
- 群馬県太田市新田反町町896-1他(地図は反町館を示す)
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 新田義貞[反町館]、江田頼有[江田館]
築城年
- 14世紀前期[反町館]、13世紀前期[江田館]
主な改修者
- 矢内四郎左衛門[江田館]
主な城主
- 新田氏、市野井氏、大館氏[反町館]、江田氏、矢内氏[江田館]
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、虎口、横堀(空堀)、横堀(水堀)[すべて]
指定文化財
- 国史跡(新田荘遺跡)
再建造物
- 石碑[すべて]、説明板[すべて]
周辺の城
-
下田島城(群馬県太田市)[3.9km]
三ツ木城(群馬県伊勢崎市)[4.5km]
新田金山城(群馬県太田市)[6.3km]
久永氏陣屋(群馬県伊勢崎市)[6.5km]
彦部屋敷(群馬県桐生市)[8.8km]
小泉城(群馬県邑楽郡)[10.1km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[11.0km]
那波城(群馬県伊勢崎市)[11.4km]
深谷城(埼玉県深谷市)[11.4km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[12.0km]
新田荘城館の解説文
[引用元:Wikipedia「新田荘城館」の項目]
新田荘遺跡(にったのしょういせき)は、上野国新田郡(群馬県太田市)にあった荘園新田荘に関わる遺跡。荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及び、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなる[1]。『延喜式』には上野国新田駅、『和名類聚抄』では新田郡駅家郷と記されている。中世武士団新田氏一族の根源地として成立し、長楽寺文書、正木文書によって文献史料の裏付けを可能とする東国の中世荘園として稀有な例である。2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
新田荘の歴史
この後、源義国は長子・新田義重とともに上野国新田郡の開発を開始する。源義国・新田義重父子の開発過程で近隣の藤姓足利氏との間で相論が活発化していく。
- 律令制下の郡として平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)に作成された倭名抄に「新田郡」および東山道(武蔵路も含む)の駅として「新田駅」が記載される。
- 1108年(天仁元年)の浅間山天仁大噴火によって火山灰(浅間Bテフラ)が降下して北関東一帯が荒廃。
- 1142年(康治元年)- 源義国、足利荘立券。
- 1143年(康治2年)- 源義国、簗田御厨立券。
- 1150年(久安6年)- 源義国、右近衛大将大炊御門藤原実能と争い、実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙り、源義国は下野国足利の別業に隠退する。
二月騒動を契機として新田荘内に得宗領が拡大していった。
- 1155年(久寿2年)- 源義国が新田郡内の新田義重館にて死去。
- 1157年(保元2年)- 源義国・義重父子によって開発された「空閑の郷々」19郷が本家に鳥羽院御願寺の金剛心院、領家に藤原氏北家花山院流藤原忠雅に寄進され、新田荘が立券。同年、藤原忠雅により新田義重が新田荘下司職に補任される。
- 1170年(嘉応2年)- 新田荘域が新田郡全郡56郷に拡大。
- 1172年(承安2年)- 新田義重、嫡子である新田義兼へ所領を譲渡。同年、新田義重、隣接する園田御厨と紛争を起こす。
- 1193年(建久4年)- 源頼朝、新田義重館へ遊覧。
- 1215年(建保3年)- 新田尼、新田荘内3郷の地頭職に、岩松時兼、同12郷の地頭職に補任される。
- 1205年(元久2年)- 新田義兼が源実朝より村田[2]・田嶋・中今井・一井・田中[3]・堀口・多古宇・綿打・千歳・薮塚・上女塚・高嶋の12郷の地頭職に補任される。
- 1221年(承久3年)- 世良田義季が開山に栄朝を招いて世良田長楽寺を開基。
- 1226年(嘉禄2年)- 岩松時兼、岩松郷の地頭職に補任される。
- 1244年(寛元2年)- 新田政義が京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪される。新田氏惣領職[4]は没収され、世良田頼氏に与えられる。世良田氏とともに新田荘半分領家職は岩松氏が分担する。[5]
- 1246年(寛元4年)- 世良田義季、女塚郷を長楽寺に寄進。
- 1268年(文永9年)- 得川頼有、岩松経兼の嫡子・亀王丸(岩松政経)を養子とし、所領を譲渡。
- 1272年(文永9年)- 世良田頼氏が二月騒動に連座し佐渡国へ流罪となり、新田氏惣領職(世良田氏分)は新田氏本宗家(新田政氏)へ遷移する。
南北朝の動乱を経て、新田氏本宗家の滅亡後、新田氏惣領職は岩松氏[8]に、新田荘領家職を鎌倉府に与えられる。岩松氏は守護職とほぼ同様の権力[9]を新田郡に有したと考えられる。
- 1277年(建治3年)- 世良田頼氏の娘「尼浄院」、上江田郷内堂垣内在家・田を長楽寺へ寄進。
- 1291年(正応4年)- 鎌倉幕府、鳥山時成の遺領相続を妻「尼念空」に認める。
- 1318年(文保2年)- 由良景長の妻紀氏に鎌倉幕府は上野国新田荘の田地を領せしむ。新田義貞が新田氏本宗家家督相続する。新田義貞・村田頼親が所領を長楽寺へ売却。
- 1322年(元亨2年)- 岩松政経・大舘宗氏が新田荘田嶋郷の用水相論。「尼浄院」、亡父忌日料として南女塚村内在家を長楽寺へ寄進。
- 1324年(元亨4年)- 新田義貞、所領を小此木盛光妻紀氏へ売却。
- 1328年(嘉暦3年)- 世良田満義、新田荘小角田村の田地等を長楽寺へ寄進。
- 1332年(元弘3年)- 大谷道海、火災にて焼失した長楽寺を再建。
- 1333年(元弘3年)- 新田義貞が倒幕の挙兵。江田行義、所領を長楽寺へ寄進。
- 1334年(建武元年)- 妙連(土用王御前)[6]、所領を養子・岩松直国[7]へ譲渡。
- 1335年(建武2年)- 足利尊氏、東国にある新田氏一族の所領を没収。
- 1338年(暦応元年)- 足利尊氏、新田氏の旧領を長楽寺へ寄進。足利尊氏、新田荘八木沼郷等を安養寺殿(新田義貞)追善料所として長楽寺へ寄進。
- 1347年(貞和3年)- 岩松直国、新田荘由良郷地頭職に補任される。
- 1350年(観応元年)- 室町幕府、上杉憲顕に命じ、新田荘内の世良田右京亮・桃井直常らの旧領を岩松直国に与える。
- 1352年(観応3年)- 新田義興、長楽寺に兵士の乱入狼藉するを停止する。足利尊氏、長楽寺の要請により、寺領安堵の署判を与える。
- 1355年(文和4年)- 村田頼氏、下江田郷内在家・田畠を売却。
- 1364年(貞治3年)- 足利基氏、世良田義政跡の新田荘江田郷を岩松直国に与える。
- 1365年(貞治4年)- 足利義詮、岩松直国に本領安堵の御教書を与える。
- 1381年(永徳元年)- 世良田憲政、所領を長楽寺へ寄進。
- 1411年(応永18年)- 鎌倉府、岩松満国に新田荘当年年貢百貫文を沙汰させる。
この後、横瀬景繁の子・横瀬泰繁が岩松昌純を殺害する下克上を行い、由良氏(横瀬氏)は戦国大名化する。
- 1416年(応永23年)- 岩松満純が上杉禅秀の乱に加担し、以後、岩松氏は礼部家と京兆家に分裂。
- 1455年(享徳4年)- 岩松持国、足利成氏に新田荘の一元的支配権の承認を要求する。
- 1469年(文明元年)- 岩松家純(礼部家)によって岩松氏は統一される。同年、岩松家純によって新田金山城が築城される。
- 1495年(明応4年)- 被官横瀬景繁の専横により岩松尚純が隠居し、岩松昌純が擁立される。
- 1509年(永正6年)- 連歌師宗長、新田荘へ来着して岩松尚純と百韻連歌を行う。
- 1590年(天正18年)- 小田原征伐の後、徳川家康が関東入国し、太閤検地によって名実共に荘園制が崩壊する。
- 2000年(平成12年)- 新田荘遺跡が国の史跡に指定される。
荘域
- 1157年の「空閑の郷々」19郷[10]
- 1170年の荘域[11]
- 北限:勢多郡新里(桐生市/鹿田山)須永御厨との境界
- 南限:武蔵国榛沢郡横瀬(埼玉県深谷市/利根川・広瀬川の流路・小山川左岸:近世以前の利根川旧河道)
- 東限:飯塚(太田市/金山丘陵、蛇川・八瀬川の流路)薗田御厨・梁田御厨・藤姓足利荘・源姓足利荘との境界
- 西限:佐位郡木島(伊勢崎市/早川の流路)淵名荘との境界
史跡新田荘遺跡
新田氏遺構群のうち下記の11箇所が新田荘遺跡として国の史跡に指定されている。
- 円福寺境内(太田市別所町)
- 十二所神社境内(太田市別所町)
- 総持寺境内(太田市世良田町)
- 長楽寺境内(太田市世良田町)
- 東照宮境内(太田市世良田町)
- 明王院境内(太田市安養寺町)
- 生品神社境内(太田市新田市野井町)
- 反町館跡(太田市新田反町)
- 江田館跡(太田市新田上江田町)
- 重殿水源(太田市新田市野井町)
- 矢太神水源(太田市新田大根町)
参考文献
- 千々和実編『新田氏根本史料』(旧版『新田義貞公根本史料』群馬県教育会)
- 群馬県史 資料編5 中世I 古文書・古記録
- 新田町史 第4巻 特集編 新田荘と新田氏
- 峰岸純夫「新田荘」(網野善彦・石井進・稲垣泰彦・永原慶二編『講座日本荘園史5 東北・関東・東海地方の荘園』吉川弘文館 1990年5月1日 ISBN 9784642026956)
- 峰岸純夫「東国武士の基盤」(稲垣泰彦編『荘園の世界』東京大学出版会)
- 峰岸純夫「室町時代東国における領主の存在形態」(『史学』34巻4・5合併号)
- 峰岸純夫『中世の東国―地域と権力』東京大学出版会 1989年4月25日 ISBN 9784130200912
- 小山靖憲 「東国における領主制と村落―上野国新田荘を中心に」(『史潮』94号・同著『中世村落と荘園絵図 』東京大学出版会 1987年11月16日 ISBN 9784130200783 所収)
- 黒田日出男「新田荘成立期の郷と在家―『嘉応二年目録』の検討―」(体系日本史叢書 土地制度史I』月報17号 山川出版社)
- 山本隆志 ミネルヴァ日本評伝選『新田義貞』
- 田中大喜編『シリーズ・中世関東武士の研究 第3巻 上野新田氏』戎光祥出版 2011年6月 ISBN 9784864030342
- 山本隆志「新田氏成立の政治過程-源義国の政治史」(『近藤義雄卒寿記念論文集』(群馬県文化振興財団、2010年/改題所収:「北関東における武士勢力成立の政治史-新田氏成立の政治史的考察-」山本『東国における武士勢力の成立と発展』(思文閣出版、2012年) ISBN 978-4-7842-1601-7)
- 久保田順一『中世武士選書18 新田義重 北関東の治承・寿永内乱』戎光祥出版 2013年11月1日 ISBN 978-4-86403-094-6
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新田荘城館の口コミ情報
2025年07月31日 マグロ常陸介祐平
毛呂屋敷[新田荘城館 周辺城郭]
反町館とともに国指定史跡新田荘遺跡に含まれる江田館に隣接する屋敷です。江田館跡の説明板には、『本丸から北東に向かって「黒沢屋敷」、「毛呂屋敷」、「柿沼屋敷」と呼ばれる屋敷跡があり、土塁と堀の一部が残っています。』と書かれています。前回江田館を訪れた際は、スルーしてしまいましたが、今回は探索してみました。
黒沢屋敷は江田館の東に隣接しており、屋敷の土塁は、江田館の土塁としか見えないように堀の外側に1条残っています(写真1枚目,左側の土塁)。現在住まわれている方は、黒沢さんではありませんが、由良氏の家臣に見られる坂庭さんがお住いのようです。
黒沢屋敷の北東にあるのが毛呂屋敷です。現在も毛呂さんがお住いになっており、西側・北側・東側の一部に土塁を伴う空堀が残っています(写真2~6枚目)。毛呂の姓も由良氏の家臣に見られますが、お宅の方にお伺いしたところ、毛呂屋敷とは言われているが、家の歴史はよく分からないとのことでした。
毛呂屋敷の東側にあるのが柿沼屋敷です。郭内は畑となっていますが、北側には土塁と堀、南側には浅くなった堀が見られます(写真7,8枚目)。柿沼氏も由良氏の家臣に見られる名字です。
黒沢・毛呂・柿沼の3氏が、江田氏または矢内氏の家臣なのか寄子なのかは分かりませんが、平城に隣接した屋敷の遺構がよく残る例は、それほど多くないように思われます(武将名のついた曲輪とは、少々異なる)。派手さはありませんが、江田館に立ち寄られた際は、探索されてみてはいかがでしょうか。
2025年07月30日 マグロ常陸介祐平
台源氏館[新田荘城館 周辺城郭]
新田氏4代目新田政義が築いた館で、新田義貞生誕地の候補地のひとつとなっています(脇屋義助も)。政義は、京都大番役として在京中に幕府の許可を得ずに出家し、咎めを受けこの地(新田荘由良郷)に蟄居しています。その後、政氏、基氏、朝氏が居館したようです。はっきりした遺構は見られませんが、説明板によると「新田義貞卿誕生地之碑」が建つ盛り上がった部分は、昭和13年に土塁を整備したものとしています(写真1~4枚目)。
台源氏館から200m程西側には、国指定の史跡「新田荘遺跡」に含まれる円福寺と十二所神社(茶臼山古墳)があります。本堂には政義から朝氏までの4代の位牌が安置され、新田氏の墓とされる「伝新田氏累代の墓」があります(写真4~8枚目)。
また、周辺は岩松氏、横瀬(由良)氏が重要視した場所で、遺構は消滅していますが、円福寺の南東500mの地点には、戦国期の由良氏のお城である「由良城」がありました。由良氏の名字の地でもあります。このお城は、鎌倉期から南北朝期の館跡を踏襲しているという説もあるようです。
新田義貞の生誕地は台源氏館の他、反町館説、世良田新田館説、里見郷説(里見氏からの養子説)もあるようですが、Wikipediaでは台源氏館説には触れていません。
2025年07月29日 マグロ常陸介祐平
鳥山城[新田荘城館 周辺城郭]
情報量の少ないお城です。由良成繁の弟の鳥山常陸介繁雄が築城し、子の高繁の2代が居城したと思われます。鳥山の地は、里見義成の子の鳥山三郎伊賀守時成を初代として、安房や三河にも子孫は広がったようですが、お城の主は由良氏が名跡を継いだものと思われます。鳥山城からや南東約100mにある鳥山館は、里見系鳥山氏の館跡と思われます。
お城は、宅地化が進み遺構は残っていないとされています(写真1枚目)。Googleマップの「鳥山城跡」で位置登録されている場所は、「群馬県古城塁址乗った研究」を根拠としているようで、一辺50mの単郭方形の館とされているようですが、100m程北に建つ鳥山繁雄が開基した妙英寺(写真3枚目)には、本堂の東側に、高さ2mを超える土塁が存在し、虎口も確認出来ます(写真4~7枚目)。空堀が見られないので、寺院としての土塁の可能性も否定出来ませんが、位置や規模からは、鳥山城の遺構に思えなくもありません(旧来の鳥山氏の城郭の可能性もある)。
妙英寺の梵鐘(写真8枚目)は、太田市の重要文化財に指定されており、説明板(写真2枚目)では、妙英寺の開基が太田金山城主由良成繁の弟の繁雄であることや、梵鐘が太田金山城主由良国繁の家臣の天笠次郎右衛門繁房の寄進で、天笠氏は天正18年に帰農したことが書かれています。墓地には天笠氏歴代のお墓がありますが、墓誌には「鳥山氏は天正19年(1591年)氏を天笠に改む 鳥山城主鳥山丹後守高繁之後裔」と刻まれており、説明板の内容と一致していません。天笠(雨笠)氏は、天正11年の太田金山城の籠城戦で討死した者や一族と思われる堤村の天笠若狭守子孫の先祖書に由良氏に先祖代々奉公し、太田今泉と桐生久方村に32貫を拝領していたとあり、この地に帰農した天笠氏が古くからの家臣なのか、鳥山氏からの改姓なのかはっきりしません。
鳥山館は、はっきりした遺構が残るようですが、うっかり見逃してしまいました。次回は忘れずに訪問したいと思います。
2025年07月27日 マグロ常陸介祐平
田中氏館[新田荘城館 周辺城郭]
田中山長慶寺が館跡となります。長慶寺の由来の説明板には、
・千利休の千家は、もと田中姓を名乗り、新田義重の子の里見太郎義俊の五男田中五郎義清の末孫と伝えらるている。
・田中義清はこの村に居住し、長慶寺は館跡とされている。
・古くは壮厳で大きな寺であったが、新田氏滅亡後は荒廃し、宝篋印塔を残すのみとなっている。
・長慶寺の名の由来は、南朝第三代長慶天皇を新田一族が奉じて戦い、御陵塚の祭主となったことで放光寺から長慶寺に改号したと伝えられる。
・新田義兼の遺領を継いだ新田尼が、孫の岩松時兼に地頭職を譲られた際に、田中郷は除外されており、里見田中系が続いたと思われ、義清の館跡と裏付けられる。
としています。
その後、田中氏は他の新田一族とともに越後に移り、越後新田党を形成しますが、宗家の新田義貞が挙兵すると馳せ参じ、南朝側として活躍します。室町時代初期になると、越後から田中に戻り、古河公方家や由良家に仕え、子孫は高崎藩士になるものもいたようです。また、千利休の家は、利休の祖父の田中千阿弥が戦により新田から大阪に行き、足利義政の同朋衆となり、後に堺で商人になったとされるようです。
お寺の本堂裏には、土塁の痕跡が残っています。また、本堂西側には、初代田中義清の供養塔の他、長慶天皇の供養塔も存在します。国の史跡である新田荘遺跡江田館からは、わすが600m程のところに位置しています。観光案内ではあまり紹介されていないお寺(館跡)ですが、江田館を訪れた際は、立ち寄られるのがよろしいかと思います。
2025年01月10日
新田荘城館
太田駅北口からシティーライナーおおた新田線で最寄りバス停の反町薬師入口まで20分、そこから徒歩で10分程。
城館跡には反町薬師(照明寺)あり、新田氏関連の史跡の案内図もあります。城館の殆どは水堀で囲われていますが、南側に土塁があり、僅かに城館跡の痕跡があります。また、そこから北へ歩いて30分程の所に新田義貞挙兵の地・生品神社⛩️があるので、時間に余裕があったり、太平記が好きな方に是非オススメです!!😆
2024年07月18日 風雷坊安房守雨降師
江田館[新田荘城館 周辺城郭]
車は江田館跡入口の説明板前に数台駐車可能。反町館跡よりも城跡らしい痕跡が残っていて、車ですぐの場所なので是非とも合わせて訪ねてみたい城跡。
2024年07月18日 風雷坊安房守雨降師
新田荘城館
2024年7月訪問。反町館跡見学者または反町薬師(照明寺)参拝者用の広い駐車場があって、駐車には困らない。水堀、土塁、本堂左手にある社裏(北西側)に石垣跡と思われる遺構もわずかに残る。
2023年05月28日 あきくん
新田荘城館
お堀に囲まれた照明寺境内の一画に反町館跡の案内板と入口に石碑があります。
2022年09月24日 キャワ
新田荘城館
館跡は反町薬師の境内になっています。堀も残り遺構が確認できます。近くの江田館跡の方が明確に土塁が確認できます。
2022年08月20日 城社まにゃ日向守?(武蔵)
新田荘城館
お盆明けでか、堀周りの軽い散歩は涼しかった。館に堀があるとは思ってなく、とても好い。城趾らしく、何か構築物が残ってると嬉しいものだ
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
江田館[新田荘城館 周辺城郭]
新田荘遺跡として国の史跡となっています。お城は、新田義重の子の義季の4代の孫である江田行義の館とされています。戦国時代になると反町館とともに太田金山城の出城として、由良氏の家臣矢内四郎左衛門の居城となり、天正年間になると北条氏による太田金山城攻略のにより北条氏に奪われ、太田金山城攻略の拠点となっています。天正18年の小田原の役により、江田館は廃城となりますが、江田行義の子孫で、姓を守下(森下)と改め備後国(安芸国沼田荘?)で農業を営んでいた十代目の大膳が文禄年間(1593年頃)にこの地に移り住み、江戸時代になると半平が江田の姓に復して、代々名主を務めています。
反町館と違い建物がないので、写真のように保存状態のよい折れを伴う土塁や堀などの遺構が楽しめます。
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
新田荘城館
城址は反町薬師となっていますが周囲を囲む水堀や土塁がよく残っています。周辺には生品神社など太平記にまつわる史跡が数多くあるので1日では周りきれません。
2021年10月18日 国府左京大夫城介
太田市観光案内所[新田荘城館 その他]
新田荘城館周辺のレンタサイクル情報
【場所】
太田市観光案内所(東武線太田駅構内)
【貸出時間】
9:00~17:00
【時間及び料金】
無料
【種類】
シティサイクル
【Web情報】
太田市観光物産協会
【利用日】
令和3年7月17日
【アクセスできた城】
・アプリ登録
新田荘城館(反町館・江田館)、久永氏陣屋、三ツ木城
・口コミ登録
台源氏館
【参考事項】
新田金山城もアクセス可能だが、シティサイクルで登るのは無謀かと。
2021年09月03日 見城
江田館[新田荘城館 周辺城郭]
新田荘遺跡は、大間々扇状地を含む平らで開けた土地の各地に点在しています。縄張りは豊かな水源を利用して水堀で防御機能をもたせていたようです。その中の江田館は、空堀が周囲を囲んでいますが、雨の影響で水堀であったことを想起することができました。
・城郭の西側から二の郭をみた遠景
・南東の土塁から虎口と堀之内
・北東から東側の土塁の折れ。
・城郭北西から館のあった堀之内
・西側の土塁の折れ
・城郭南東から虎口の土橋、右手は館のあった堀之内と左手奥は二の郭
・城郭南虎口の土橋から南西の堀と土塁。
・土橋から南東の堀と土塁
2021年01月05日 寄合左京亮倫宗
新田荘城館
土塁と水堀が残っており、本丸跡は反町薬師尊の伽藍になってます。
2020年02月11日 大膳大夫剛太犬@歴読
新田荘城館
江田館は新田氏の家来の館跡だそうです。イメージ通りの武士の館って感じがします。保存状態もよく、新田金山城とセットで行くことをオススメします。奥の方にある石塔は「義貞様」(ぎていさま)と呼ばれ、新田義貞が祀られているそうです。
2019年09月24日 牢屋見廻り同心マダオ
生品神社 新田義貞挙兵伝説地[新田荘城館 寺社・史跡]
新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘三年(1333)五月八日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。昭和九年に建武の中興六百年を記念しつ「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成十二年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。義貞が旗挙げを行った時はわずか百五十騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
神社境内には旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿の前には義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年五月八日、氏子によって鏑矢祭が行われています。この行事は古くから神社に伝わるもので、旗挙げの時に鎌倉攻めの吉凶を占ったといわれています。平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。
(現地説明板より)
2019年04月27日 zenちゃん
トイレ[新田荘城館 トイレ]
結構、綺麗です。
2016年05月08日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
新田荘城館
生品神社は新田義貞が元弘3(1333)年5月8日に鎌倉攻めで挙兵した場所とされ、その際、鎌倉の方角に矢を放ち吉凶を占ったとの故事から、鏑矢祭は毎年この日に行われている
(産経ニュース 2015.5.9 07:06より転載)
鏑矢祭申年限定御朱印を300円でいただけた。(神社の〈申〉が朱書きになっていて、鏑矢祭と書いてある特別仕様。)
通常の御朱印は宮司さんがおられないので作り置きのものになります。
御朱印帳への直接記入を希望であれば事前連絡をオススメします。
2015年09月08日 まー刑部卿
新田荘城館
江田館は発掘調査中で周りの土塁や堀しか見ることができません。休日は発掘調査していませんから土塁に登りロープの外側から覗くといいかと。周遊コースを歩けば土塁、堀を見ることが出来ます。駐車場は空き地利用。
2015年08月15日 牢屋見廻り同心マダオ
新田荘城館
新田荘遺跡11ヶ所は以下の通り。
①円福寺…別所町387-1他
②十二所神社…別所町559他
③総持寺(新田館)…世良田町3201-4他
④長楽寺…世良田町3116-3
⑤世良田東照宮…世良田町3119-1他
⑥明王院(安養寺館)…安養寺町199-1他
⑦生品神社…新田市野井町640他
⑧反町館…新田反町町894他
⑨江田館…新田上江田町924-4他
⑩重殿水源…新田市野井町1472-1
⑪矢太神水源…新田大根町224
他にも新田氏ゆかりの史跡が数多くあります。
2015年06月20日 土塁ルイ
新田荘城館
この付近は関ヶ原後、津軽藩の飛び地であり、陣屋のあった大舘(太田市大舘町)は、三代津軽信義の生誕地です。
また東楊寺は、二代信枚室・辰姫(石田三成三女、高台院養女、信義生母)の墓所でもあります。
鎌倉幕府倒幕や徳川氏発祥の地として知られたエリアですが、石田三成と津軽家の関係がうかがい知れる場所でもあります。
2015年06月04日 永眠武蔵守釋 葱進
新田荘城館
江田館跡は反町館跡と3.4kmほど離れています。
車は数台なら駐車スペースあり。
江田館跡:太田市上江田町925