久永氏陣屋(ひさながしじんや)
久永氏陣屋の基本情報
通称・別名
- 久永屋敷
所在地
- 群馬県伊勢崎市東小保方町3296他(大東神社)
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 久永重勝
築城年
- 江戸時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 久永氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(旗本久永氏陣屋跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[5.4km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[5.9km]
三ツ木城(群馬県伊勢崎市)[6.1km]
新田荘城館(群馬県太田市)[6.5km]
那波城(群馬県伊勢崎市)[7.4km]
下田島城(群馬県太田市)[9.5km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[9.6km]
彦部屋敷(群馬県桐生市)[10.0km]
膳城(群馬県前橋市)[10.2km]
山上城(群馬県桐生市)[10.9km]
久永氏陣屋の解説文
久永氏陣屋の口コミ情報
2025年11月08日 マグロ常陸介祐平
原之城遺跡[久永氏陣屋 寺社・史跡]
6世紀前半に築かれたとされる、古墳時代の首長居館です。近年まで土塁が残っていたようですが、現在、地上の遺構は失われています。
発掘調査によると、館の大きさは最大で東西110m、南北170mで、幅の広い濠(ほり)が周囲を囲み、南側には土橋があり、土橋の脇の濠は他の部分より広く、入江状となっています。館内の北半分の区画には、内堀のような鈎形に曲がった溝が掘られ、東側には大きな建築物、西側には倉庫群と考えられている、規模の小さな掘立柱建物が建てられていました。平安時代後期や鎌倉時代に築かれた、武士の居館に通じるものがあり、興味深い造りです。
遺物も多く、祭祀用の須恵器高杯や子持ち勾玉や土師器杯、石製ミニチュア鎌など多数が出土しています。
2025年11月02日 マグロ常陸介祐平
綿打入道太郎為氏館[久永氏陣屋 周辺城郭]
新田政義の子の大舘家氏の子、綿打為氏の館です。為氏は、元弘3年(1333年)新田義貞に従い延元5年(1338年)に義貞が討死すると、北畠顕家に従い、摂津堺浦で顕家と共に討死しています。また、為氏の子の氏義と孫の氏忠も越前金ヶ崎城落城の際に、新田義顕と共に討死したとされています。
ぼたん寺として知られる大慶寺が館址となります。石碑は赤い山門脇の自販機の向かいにあります。お寺の北西部にある、ぼたん園の北側と西側に土塁の痕跡と思われる土盛りがあり、北側の通路は、堀跡のようにも感じられます。
ぼたん園の北の墓地には、綿打為氏の墓(子孫の長山氏による再建)があり、石碑には、氏義の子の氏忠は足利氏の後難を恐れ名を長山と変え、桐生の山中に身を隠して先祖の供養をし、戦国期になると新田金山城主由良氏に仕えたとしています。天正12年(1584年)に金山城が北条氏に攻められた際は、長山惣左衛門尉朝之は敵の大将中條出羽守を討ち、功名をあげたとしています。為氏のお墓の周りには、長山氏のお墓が並びます。
2024年05月06日 DAI.弾正忠
久永氏陣屋
現地は大東神社が祀られております。神社敷地周囲は城郭遺構と思われる空堀がめぐっていました。遺構敷地内は樹木が比較的多く茂っており、社森になっていました。
2023年04月03日 マグロ常陸介祐平
久永氏陣屋
3200石の旗本、久永氏の陣屋で、現在は大東神社となっています。敷地は周囲より一段高くなっていて、池(現在水はない)は拡幅された濠の痕跡とのことですが、説明がなければわかりずらい構造です。
2022年09月23日 キャワ
久永氏陣屋
一帯は水生植物が見られる公園でもあります。
2015年10月10日 永眠武蔵守釋 葱進
久永氏陣屋
陣屋当時の面影を残す池は「あずま水生植物公園」として整備されています(大東神社隣接)
見頃は菖蒲の時期のようで、この時期(10月半ば)は池に水さえありません。
車は公園駐車場利用、トイレは神社敷地内にあり。










陣屋は東西75メートル、南北120メートルで、周囲に濠を巡らし、曲輪部分は外側より2.5メートルほど高く、枡形陣屋として近世陣屋の特徴を良く残している。
明治維新で陣屋は廃され、小学校として使用されていたが、大正5年(1916)に大東神社が遷座して現在に至る。