膳城(ぜんじょう)
膳城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県前橋市粕川町膳83-2他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- 不明
築城主
- 善氏
築城年
- 15世紀中期
主な改修者
- -
主な城主
- 善氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋
指定文化財
- 県史跡(膳城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
山上城(群馬県桐生市)[0.9km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[4.5km]
高津戸城(群馬県みどり市)[5.5km]
大胡城(群馬県前橋市)[5.7km]
神梅城(群馬県桐生市)[7.6km]
久永氏陣屋(群馬県伊勢崎市)[10.2km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[11.4km]
桐生城(群馬県桐生市)[12.4km]
彦部屋敷(群馬県桐生市)[12.4km]
五覧田城(群馬県みどり市)[12.4km]
膳城の解説文
[引用元:Wikipedia「膳城」の項目]
膳城(ぜんじょう)は、群馬県前橋市粕川町膳にあった室町時代から戦国時代にかけての日本の城(平山城)。群馬県指定史跡[1]。
構造
西と南を兎川に面し、東を兎川の支流・童子川に面する棚状丘陵地に造られた紡錘形の城。東西250メートル、南北500メートルに広がる。別城一郭の構造を持つ。
歴史
三善康信の子孫という善氏(のち改称して膳氏)の居城であった。築城時期は15世紀中頃と推定。長享元年(1487年)には既に存在した。
文明12年(1480年)頃、佐野昌綱により落城するも、城主の善三河守は横瀬業繁の援助で帰城、以後由良氏(横瀬氏)の影響下に入る。
永禄5年(1562年)上杉方に降る。元亀3年(1572年)、城主の善宗次が上杉謙信の下野国小俣城攻めに参加中討死。その子・春松丸が継ぐが、反攻してきた小俣城方の北条軍により落城。春松丸は厩橋へ逃亡し膳氏は没落した。
天正2年(1574年)上杉方に占拠され、木戸忠朝が入る。天正6年(1578年)上杉謙信死去によって後北条氏に属し河田備前守が城主となる。
天正8年(1580年)、御館の乱のなかで武田勝頼は上杉景勝を支持、上杉景虎派の厩橋城を制圧しそのまま赤城山南麓の大胡城・山上城・伊勢崎城を攻略していた。攻略後、武田勝頼軍は人心安定のため平服のまま各地を視察し、膳城付近を通過した。当時膳城では酒宴が行われ喧嘩沙汰も起きており、武田軍を見た一部城兵が激高、武田軍に攻撃を仕掛けてしまった。この結果、武田勝頼軍の反撃を受けて膳城は落城、河田備前守や城代・大胡民部左衛門が討ち取られてしまった。これを「膳城素肌攻め」という。この落城後に廃城となったという。
現在、城址の大部分は住宅地。しかし、戦後に膳氏の末裔という膳桂之助が、本丸周辺を買い取り県に寄付したため、本丸・二ノ丸は1949年(昭和24年)県指定史跡に指定され、城址公園となった。また本丸北側の北郭跡には粕川歴史民俗資料館・粕川出土文化財管理センターが建つ。
参考文献
- 村田修三・服部英雄監修 『関東地方の中世城館』1 東洋書林〈都道府県別日本の中世城館調査報告書集成〉、2000年
- 『群馬県百科事典』 上毛新聞社、1979年
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膳城の口コミ情報
2024年08月28日 ひらお上野介
膳城
粕川歴史民族資料館に隣接しています。資料館は月火が休館日でした。遺構はかなりよく保存されており、廓の雰囲気が残っています。
2024年05月07日 DAI.右馬助
膳城
現在は、膳城趾公園が整備されています。園内に前橋市歴史資料館や隣に同市埋蔵文化財センターが併設されています。埋蔵文化財センターの奥に入っていったところに当時の城趾が確認できます。
空堀に土塁跡と当時の関東の城趾らしい典型的な城塞跡です。遊歩道も整備されていました。
2023年07月03日 キャワ
膳城
遺構が比較的に良く残されていました。観光地ではなくじっくり見学できます。
2023年04月21日 RED副将軍
膳城
ヤブ城が決して好きではないということで美しい空堀が残る上州の公園城を口コミ投稿
佐野、足利、上杉、武田、北条の周辺勢力との激戦で翻弄された善氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。善氏の代々の居城と考えられています。善氏は、源頼朝の重臣で十三人の合議制にも参加した三善康信の子孫とされます。1455年、享徳の乱では上杉方に付き、城主の善信濃入道は赤堀時綱と争いました。その後も善氏は佐野氏の侵攻を受け膳城は落城。武蔵国五十子へ落ち延びた後、横瀬業繁の助力を得て膳城を取り戻したとされ、由良氏に属しました。その後、善氏は上杉謙信に従属。1572年に善宗次は、足利氏一門の渋川義勝の小俣城に侵攻するも討死。逆に膳城が渋川氏によって攻められ落城しました。1574年には上杉謙信が侵攻し落城、上杉謙信の属城となりましたが、上杉謙信が没すると城主の木戸忠朝は後北条氏に従いました。1580年には武田勝頼による膳城素肌攻めで攻め落とされ、そのまま廃城となりました。膳城素肌攻めとは、武田勝頼軍は甲冑などの装備を付けず無防備な状態で攻略したことを示しています。
見所
童子川と兎川に挟まれた谷地の間の丘陵台地先端部に築かれています。粕川出土文化財管理センターが北郭で、その南が主郭となります。主郭、南に二郭、東に馬出郭が配され、この辺りの残存度は良好です。しかし、城域はかなりの広さであった様ですが宅地や耕作地となり大半が喪失しています。主郭周辺の空堀が見事で、横矢が掛かり土橋も敷設する技巧的なもの。武田氏による改修もあったとも考えられているのは納得です。
行き方は、粕川歴史民俗資料館を目標に設定。広い駐車場完備の公園城であり気軽に訪れることができます。
2023年02月12日 RED副将軍
女渕城[膳城 周辺城郭]
群馬では珍しい水濠の城郭🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。築城主も分かっていません。1561年に上杉謙信が攻略し、長尾景長の家臣である新居長重が城代となりました。その後、北条氏に属する矢場城の横瀬繁勝が女渕城を落として占拠。家臣の沼田景義が城代として入城しました。
1574年に、再び上杉謙信が攻め落として奪還しました。しかし、その後の上杉氏は関東の勢力が衰退。1576年には上杉氏から北条氏に転じた金山城主である由良国繁の属城となり、1582年ごろには完全にこの地を支配した北条氏の属城となりました。1590年に豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅びると女渕城は廃城となった様です。
見所
沼沢地を利用した水城であり、現在も水路や溜め池となり名残りはあります。
しかし、埋め立てられ堀に面した城塁はコンクリートの擁壁となり大幅に改変されています。
2022年11月05日 よあ大宰大弐
膳城
前橋市粕川歴史民俗資料館に駐車させていただき、簡単なマップをいただき、入り口を親切に教えていただきました。なかなかすごい堀と曲輪だと思います。近くの山上城跡も迫力ありました。
2022年08月03日 織田上総介晃司
膳城
膳城址公園に駐車場がありますが、そうとは知らず粕川出土文化財管理センターに車を停めました。
ひと言ことわりを言いに行ったのですが鍵がかかっている…
仕方ないのでそのまま膳城へ。
目と鼻の先に山上城があるので併せてリア攻めするのをお勧めします。
2022年04月25日 マグロ常陸介祐平
膳城
深い空堀で曲輪が仕切られ、広さはありませんが見応えのあるお城です。残念なことに展示物入れ替えの為、隣接する粕川歴史民俗資料館は休館中でした。
2022年02月22日 国府左京大夫城介
中村城[膳城 周辺城郭]
膳城の北西にある平城
【歴史】
中村城に関する史料はなく、詳細は一切不明。
伝承によると、城主は中村右馬之丞と云われている。
武田勝頼に攻め滅ぼされたとも伝わっており、天正8年(1580)9月の東上野攻めにおいて、大胡城・山上城・膳城と一緒に落城したものと思われる。
【遺構】
膳城から北西1.4kmに位置し、200m四方の方形居館だと推定されている。
遺構としては、土塁や空堀(北側及び西側途中まで)があり、北西角あたりには屏風折れが残っている。
なお、主郭部分は個人宅となっている。
【感想】
主郭は個人宅になっていますが、北側にかけて空堀は明瞭に残っていることが確認できました。堀自体は浅いため、あまり戦闘に適したものではないことから、むしろ平時の居館であったのだと推測しています。また、屏風折れもあることから、戦国時代になって築かれた若しくは改良されたものと思われます。
城主の中村氏は伝承だけの存在ですが、膳城から指呼の間にあることから、おそらく膳城の家臣の城と考えられます。また、空堀が屏風折れになっていることから、戦国時代になって築かれたものと思われます。
【アクセス】
粕川歴史民俗資料館から徒歩で15分程。
【写真】
1:説明版
2:北側の空堀
3:屏風折れしている空堀
4:西側の空堀
2021年08月22日 見城
女渕城[膳城 周辺城郭]
女淵城は、水堀に囲まれた本丸、北郭、南に二の丸、さらに南は御霊神社のある三の丸、西には本丸から水堀を橋でつなぎ西郭をもつ城郭です。
今は城址公園となっており、水堀の護岸は近代化されており、現在は釣りをする人や散歩する人で街に溶け込んでいます。
芝生広場は家族の憩いの丘になっており、周囲の水場は石畳と小川の流れを再現した品のある素敵な場所です。この広場は、往時縄張り図によれば、城郭南の大きな水池となっており、城を守る防御堤であったようです。
二の丸は、本丸を望む公園駐車場であり、女淵城の説明板が設置してあり、城郭情報が記されています。
県道前橋大間々桐生線の粕川町女淵西の信号を北に向かい、看板がすぐに見えるので、そこを右に曲がり到着します。
・城郭西から水堀の向こうの本丸
・三の丸東の桂川
・御霊神社(三の丸)
・南西の水池の堤(左手芝生広場)
・本丸 二の丸から
・北郭 西郭から水堀の向こう
・本丸 北東からみる
・水堀 二の丸から西郭方向を望む
2021年04月05日 【不楽是如何】まつ2左近衛大将
膳城
コンパクトですが、内堀、外堀などの遺構もしっかりあり、堪能できました。
2020年08月19日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
女渕城[膳城 周辺城郭]
群馬県の前橋市にある女渕城♪
上杉氏vs 北条氏の最前線となった女渕城♪城郭は現在公園になっています♪
女渕城は真田昌幸の謀略により殺害された沼田景義の居城です♪赤城山南麓に築かれていて上杉氏と北条氏の間でたびたび争奪されます♪上杉謙信が死去した後は武田氏が武田氏が滅亡すると北条氏の勢力下に入るも豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、女渕城も廃城♪
北郭、帯郭、本丸、二の丸、御霊郭、竜光寺郭と配置♪水を取込み水濠を形成します♪特に本丸周りの水濠は最大幅90mの幅広いものとなり寄せ手を警戒します♪
2020年08月17日 尾令利相模守太郎
膳城
暑ーい、真夏に行ってきました。民俗資料館の駐車場に止めて、お墓の右横から藪の中を入っていくとやっと空堀と二の丸などを発見。そのまま、進むと本丸跡の広場に出ます。道路側からなら藪にまみれなく、本丸へ辿り着けます。帰りは、新しく整備された空堀の中の遊歩道を通って、駐車場へ戻ってきました。
2018年10月18日 おり〜ぶ♪渡島守
膳城
本丸と二の丸の整備されているところ以外にも目を向けると曲輪とおぼしき畑の向こう側に土塁が残っていたり、南側の住宅地の路地を歩いて行くと二の丸の下の土塁が残っているのが確認できます。
本丸と北曲輪の間の堀は道路を挟んだ東側にも確認できます。
畑になっているところは北曲輪の延長だそうです。
本丸の南東部には比較的状態の良い空堀と土塁が残っていて目を奪われました☆
整備されているところ以外もぜひ歩いてみることをオススメします。
2016年06月04日 永眠武蔵守釋 葱進
膳城
城跡そばの粕川歴史民俗資料館(見学無料/月・火は休み)で縄張図などの資料を戴けます。
車は資料館または膳城跡公園の駐車場が利用可能、トイレも同所にあります。水道は公園及び本丸にあるものの、飲料自販機はない模様。
資料館向かいの出土文化財管理センターの敷地(自由に入れる)より階段降りると本丸の堀となり、付近から半周くらい遊歩道が整備されています。
本丸にある解説板は老朽化なのかいたずらなのかかなり傷んでいます。(解説文はボロボロだが縄張り図はほぼ無事)
遊歩道や東屋など整備された本丸に比べると、二の丸や袋曲輪はほとんど人の手が入ってないと思われるので遺構として見るなら二の丸や袋曲輪まで足をのばすのがよいでしょう。
2014年05月04日 ぎっちゃん
膳城
今年の1月に本郭の堀底道が整備され歩き易くなりました。ただ城としての景観は損なわれましたが…
2014年01月03日 中務卿一之介
膳城
上毛電鉄膳駅から徒歩10分ほどです。
途中、車の通行量が多いわりに歩道スペースが狭い道を歩きますので、気をつけてください。
空堀や土塁が非常にいい状態で残っています。整備されているようには見えないので、おそらく廃城当時の状態で今日まできているのではないでしょうか。