神梅城(かんばいじょう)
神梅城の基本情報
通称・別名
- 深沢城、阿久沢城
所在地
- 群馬県桐生市黒保根町宿廻(正円寺)
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 阿久沢氏
築城年
- 建武年間(1334〜1338)
主な改修者
- -
主な城主
- 阿久沢氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
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神梅城の口コミ情報
2025年01月15日 マグロ常陸介祐平
神梅城
神梅城で登録されていますが、現地の説明板やGoogleマップの位置登録は「深沢城」になっています。築城時期は建武年間(1334~1338年)、城主は清和源氏桃井流の阿久沢氏です。関東幕注文にも阿久沢対馬守の名が見られ上杉氏に属すも、天正2年には謙信に城を追われ、天正12年に城を奪還したようです。天正18年の小田原の役後に廃城となり、阿久沢氏は帰農したようですが、経緯は不明ですが寛永10年(1633年)に行次が御家人(御徒)となり子孫は2家に別れ、共に勘定に出世し旗本になっています。また、城址にある阿久沢氏墓地(写真2枚目)に墓のある未勘源氏で九条師輔の子孫とされる直富(牛込養善寺に葬られる)の家系も元文5年(1740年)に御徒として仕官し、後に富士見御宝蔵番頭になるなど、たくましい一族です。
お城は大変見応えのあるもので、本丸が城域の最低部にある珍しい縄張りとなっています。本丸(写真1枚目)を囲む空堀は、西側を除き3方の巾が大変広い箱堀のもので(写真4,6枚目)、東側に隣接する2郭の東側には薬研堀が見られます(写真7枚目)。城の墓地付近の北西部には深い空堀があり(写真3枚目)、正西寺の背後から東側にかけて土塁を伴う空堀が見られます(写真5,8枚目)。正西寺は土塁から一段低い位置にありますが、お寺を建立の際に削られたものでしょうか。
メジャーなお城ではありませんが、独創的な縄張りが楽しめる面白いお城です。
2021年04月04日 【不楽是如何】まつ2左近衛大将
神梅城
近くのお寺の駐車場から眺める本丸跡は、桜の花の様子も相まって、見応えありでした。色々手入れをしてるみたいですね。完成形が楽しみ。
2020年06月26日 【籠城中】下野守智ぞう
神梅城
神梅城近くの国道122号線沿いの
お食事所大釜大間々神梅店
盛りがパネエ~😁
焼き肉丼頼むと、大盛天ぷらうどんとサラダがついてきて、危うく完食出来ない所でした!
山城連続リア攻めでハラペコメグラーさん御用達です!!間違えても大盛は頼まないようにー。
チェーン店らしいので群馬県に何店舗かあるらしいです。
群馬県で腹が減ったら探して見てください
2017年09月26日 【籠城中】下野守智ぞう
神梅城
正園寺と道路を挟んだ駐車場から、上から本丸を望む事が出来ます。
穴の上から本丸を見下ろせる城も珍しい。
本丸を取り囲む堀も大きい。実は見所は本丸周辺だけでなく寺の後ろに取り巻く二重堀とかも圧巻。
本丸横の堀を歩き、崖になってる所には、向こう側に丸太とか橋をかけて行き来出来るのでは?と思われる所もあったり。
先人があまり見所がないと言われてるも、どうして、どうして、けっこう面白かったですよ
2017年07月29日
神梅城
わたらせ渓谷鉄道本宿駅から階段を上がり、左側の歩道橋を上がると、かなりショートカットできます。舗装された車道をつづら折れに登っていきますが、傾斜が急でかなりしんどい。途中、ショートカットできそうな通路がありますが、荒れ果てて草ボサボサ。冬ならいける?
ここも苦労した割に、遺構が期待したほどでなく、残念でした。
本丸がいちばん低いところにある珍しい城。
2016年04月09日 音みく勘解由長官闇サガン
神梅城
先人達の補足をしておきます。
国道122号線の信号から約1キロほど登ったところに案内板があるので右折。
そこから道なりに200メートルほど行くと右折出来るので右折。
また約200メートルほどで到着となります。
2015年01月20日 牢屋見廻り同心マダオ
神梅城
正円寺には城主阿久沢氏累代の墓があります。
康平五年、源家より安堵の地として深沢郷を与えられてより後、戦国終焉までこの地を統治した豪族阿久沢氏の墓所である。「宗無居士」とあるのが資料的にも実在の確証ができる七代能登守直崇の墓であって寛永十四年六月二十日に没している。戦国の戦塵にまみれた能登守の生涯ではあったが天正十八年北条氏滅亡とともに神梅に帰農し一介の郷土人として静かな余生を送った。累代十六基の墓碑は十六代直内で終わっている。