桐生城(きりゅうじょう)
桐生城の基本情報
通称・別名
- 柄杓山城、桧杓山城、桐生桧杓山城
所在地
- 群馬県桐生市梅田町1-1282他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 桐生国綱
築城年
- 正平5年〔南朝〕/観応元年〔北朝〕(1350)
主な改修者
- -
主な城主
- 桐生氏、横瀬氏、由良氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、馬出、堀切
指定文化財
- 市史跡(桐生桧杓山城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
高津戸城(群馬県みどり市)[6.9km]
彦部屋敷(群馬県桐生市)[8.0km]
五覧田城(群馬県みどり市)[10.2km]
神梅城(群馬県桐生市)[10.2km]
山上城(群馬県桐生市)[11.8km]
膳城(群馬県前橋市)[12.4km]
足利城(栃木県足利市)[13.0km]
蓬山城(栃木県佐野市)[13.6km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[14.1km]
新田金山城(群馬県太田市)[14.3km]
桐生城の解説文
[引用元:Wikipedia「桐生城」の項目]
柄杓山城(ひしゃくやまじょう)、または桧杓山城は、群馬県桐生市北部の梅田町にあった日本の城。桐生氏の城。桐生城ともいう。「桐生桧杓山城跡」として桐生市指定史跡。
概要
桐生市街地から北に5キロメートル、桐生川上流西岸に添った形で聳える城山頂上に築かれていた城。天然の要害を利用した典型的な山城であり、山頂の本丸から北西にかけて二の丸・三の丸を配し、その間に堀切が構築されている。本丸の南東中腹に坂中郭、二の丸北の北郭などの遺構が残っている[1][2]。麓の群馬県道・栃木県道66号桐生田沼線から山頂まで、林道と遊歩道が整備されている[3]。
歴史・沿革
柄杓山城は、観応元年(1350年)、藤原姓足利系佐野氏一族の桐生国綱によって築かれた。観応2年(1351年)には、渡良瀬川の分流が瀞堀になっていたものを改修し、渡良瀬川の水を桐生川に流す要害堀を構築する。堀の長さは約2500メートルで、現在は埋め立てられて一部がコロンバス通りとなっている[4][5]。
永享12年(1440年)の結城合戦では桐生正綱の弟正俊が出陣。享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱に際して、文正元年(1466年)に家臣の谷近綱が武州五十子に出陣したが、武運に恵まれず戦死している。戦国期は、北条氏・上杉氏らに従いつつ、新田金山城の由良氏と抗争。桐生真綱の代に後桐生氏の全盛期を迎える。
永禄3年(1560年)、桐生助綱は関東管領として北条氏を討伐に向かう長尾景虎に従う。元亀元年(1570年)助綱が死去。佐野昌綱の子桐生親綱が桐生氏の養子として後を継ぐ。このころ、渡良瀬川・桐生川の灌漑用水を巡り、桐生氏と由良氏の対立が表面化。小競り合いが繰り返されるようになる。親綱は佐野氏から随臣を重用し、桐生氏譜代の家臣たちを疎んじたため、家中の不和を生んだ。赤萩城の守将里見上総介勝広をよく思わない家臣による諫言を桐生親綱が誤解し彼を切腹させるなど、家中の乱れにより、桐生氏は弱体化した。元亀4年(1573年)3月、太田金山の由良成繁が柄杓山城を攻め、親綱は貝沢を越え佐野に逃走する。
天正2年(1574年)、由良成繁が新田金山城を子に譲り、柄杓山城に隠居。天正6年(1578年)に由良成繁が死去。これに乗じて桐生親綱が柄杓山城奪回を図るが失敗に終わる。天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により由良氏が牛久に領地代えされ、柄杓山城は廃される。
参考文献
- 『日本歴史地名大系 第10巻 群馬県の地名』 平凡社、昭和62年(1987年)
- 『ふるさと桐生のあゆみ』 桐生市教育委員会、平成10年(1998年)
- 『群馬県の歴史散歩』 群馬県高等学校教育研究会歴史部会編、山川出版社、平成17年(2005年)、平成29年(2017年)1版4刷
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桐生城の口コミ情報
2024年08月18日 マグロ常陸介祐平
物見山砦[桐生城 周辺城郭]
梅原館から南に500mに位置する砦です。
スーパーマーケットの駐車場の北側にある鳥居が、砦の入り口です(写真2枚目)。人の多い駐車場の目の前の為、躊躇しましたが、一応参道のようなので登ってみました。急坂で小石もあり滑りやすい状態ですが、二足歩行で登ることが出来ます。登り始めてスグ、左側に小さな腰郭状の削平地(写真1枚目)がありますが、遺構ではなさそうです。さらに登ると岩場(写真4枚目)があり、その先が祠のある主郭(写真7枚目)となります。さらに進むと細尾根(写真3枚目)となり、ほぼ自然地形の堀切状の場所があり、堀切の東側には竪堀が見られます(写真5,6枚目、2枚とも竪堀)。
現在は、木が生い茂り景色の良い場所ではありませんが、木がなければ桐生の町を一望できると思われます。
名称は物見山砦となっていますが、砦と言うよりは物見場所といった感じです。
2024年08月17日 マグロ常陸介祐平
丸山砦[桐生城 周辺城郭]
現在は埋め立てられてしまったようですが、桐生城の外堀の役目をしていた新川堀の西端を守る為に築かれた砦のようです。白髭神社の背後、荒戸寄居山が砦となります。白髭神社が、大系に載る新居屋敷と思われることから(写真7枚目、館の遺構はありません)、桐生氏、由良氏に仕えた新居氏(戦国期の文書が伝わっている)が守備したものと思われます。
山頂は小さな祠の建つ土壇状になっており(写真3枚目)、帯曲輪状の段々が周囲を囲んでいます。段差は1~1.5m程度で、防衛に適した感じではありません。予備知識がなければ、祠の多い植林された山という感じです。
神社の裏に整然とした古いお墓が並びますが、新居氏の墓所でしょうか(写真8枚目)。
2023年10月30日 マグロ常陸介祐平
梅原館[桐生城 周辺城郭]
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて築かれた、足利俊綱の家臣桐生六郎(前桐生氏)の館です。(推定地)桐生城が築城されると居館は麓に移り、下屋敷?となり、この地を基点に町屋造りが行なわれたと推測されています。(案内板より)
梅原薬師堂の裏側に土塁がコの字形に残っています。
2023年09月08日 RED副将軍
桐生城
桐生氏と由良氏が抗争を繰り返したその居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1350年に桐生国綱により築城。
桐生氏は、足利氏一族である佐野氏の庶流で佐野直綱が桐生に入部し桐生氏を称したのが桐生佐野氏の始まりとされます。桐生国綱は、桐生氏中興の祖と云われ佐野氏から養子に入った人物です。
その後、桐生氏は北条氏や上杉氏に従いつつ、新田金山城の由良氏と抗争を繰り返しました。
1560年、桐生助綱は関東管領として北条氏を討伐に向かう長尾景虎に帰順。しかし、桐生助綱が没すると、養子の桐生親綱が家督を継ぐも家中をまとめることができず内紛状態となり弱体化。
1572年、由良成繁の急襲により桐生城は落城。桐生親綱は佐野氏を頼り落ち延びました。
その後、由良成繁は桐生城に横瀬長繁を城代として入城させましたが、翌1573年には由良成繁は隠居し、金山城を由良国繁に譲り桐生城を居城としました。
1585年、北条氏との抗争により由良国繁は金山城を北条氏照に明け渡すと桐生城に本拠を移しました。
1587年、由良国繁は、佐竹義重に通じて北条氏直に叛旗を翻すも降伏。桐生城は破却され、由良国繁は小田原城に移されます。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において、由良国繁は小田原城に籠城させられていましたが、母の妙印尼と嫡男の由良貞繁は前田利家に従い転戦していたため、その軍功により由良国繁は常陸国牛久を与えられ罪に問われず豊臣秀吉に仕えました。
見所
標高361mの柄杓山頂部に築かれ、主郭を山頂に置き、北西に伸びた尾根に二郭、三郭を配し、二郭から北東に伸びた尾根にも郭を配してそれぞれが堀切で区切られています。
特に主郭西下に空堀が巡り、二郭と三郭は大規模な二重堀切で遮断されているのが特徴的。
主郭へはハイキングコースとして整備されてさた登城路が付いています。
2023年05月22日
桐生城
三の丸二の丸頂本丸跡まで尾根伝いはヒシャクのようなカタチ、ベンチは多くあり下草は綺麗に整備されてとても歩きやすい史跡でした。本丸下からは桐生市街が一望できました。凡例にWCあるけれど、実際は林道城山線駐車場にトイレ見かけませんでした
2022年05月01日 たろ
桐生城
日枝神社から登城、山頂に向かって急な坂になりますが、ツツジのトンネルを通って山頂に、本丸周辺は色とりどりのツツジに彩られていました。本丸からの城下の眺めも見事です。4月中下旬が見頃かと思います。
2021年11月05日 三男坊.k大学頭
桐生城
北郭の堀切
2郭と3郭の間の堀切から2郭切岸斜面を横断するといきあえます。熊が出そうで、マジ怖かったー
2021年04月08日 おかっぴき
桐生城
登城口から休まず20分前後で本丸まで行けます。曲輪、土塁、登り口に説明板があります。
2021年03月11日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
皆沢八幡宮[桐生城 寺社・史跡]
桐生にある皆沢八幡宮です(この頃は佐野庄?)。桐生氏の本家筋藤姓足利忠綱の最期の地です。
忠綱は宇治川の合戦(1180年)で平家方として大活躍、上野大介(国守?)を望むも一族庶流からクレーム⁉️以後藤姓足利氏は庶流との結束が乱れ次第に孤立してしまいます。
志田義広の乱、野木宮の合戦で敗軍となり運なく悲しい末路となります。
忠綱は西国に逃れた後、郷里に帰り足利義兼の庇護に?その後事情があり、義兼の怒りに触れここ八幡宮に逃れますが追い詰められ自害したそうです。父俊綱も頼朝に追討され、家老の桐生六郎(綱元?)に佐野庄の赤見で殺害されました。
広い境内、社殿は大分傷んでいますが、説明板の通り祭りには屋台や出店もありたいへん賑やかだったようです。建物裏のビールの看板、懐かしい昭和の薫りがします。
歴史は勝者が作り替える?しかし、忠綱はここに奉られ、慕われていました。
2021年02月09日 eiki
小俣城[桐生城 周辺城郭]
標高305メートルの城山に築かれていた城、県道218号沿いの叶花集会所に駐車場があり、そこにコース案内板があります。やや急な山道を30分程登ると到着します。山頂は大きな郭になっており、その回りは帯曲輪、腰曲輪、堀切がはっきりと確認できます。足利氏に使えた小俣氏の居城であったとのこと、城山からは桐生の町を見下ろします。
2021年02月08日 三輪左近衛少将直虎
小俣城[桐生城 周辺城郭]
小俣城は足利氏の後裔にあたる渋川氏が築いたとされています。元亀3年(1572)に上杉謙信は小俣城に襲いかかりましたが城兵たちは必死に防戦し上杉勢を撃退しています。
小俣城はゴルフ場の建設で破壊されたと思い込んでいました。本来の大手道はゴルフ場側にあったため失われていますが、城跡はまったくの無傷であることを知り訪れてみました。小俣駅で降りたときから小雨が降り始め、城山の麓に着いたときは雪になっていました。
東から直登し尾根へ取りつきますが、登り始めが難関で巨木にしがみついて山道へ入ります。山道も登り始めはほとんど道の体裁を成していないので帰り道を見失わないように振り返りながら民家の屋根を目印にしました。
尾根へ出ると城山への道標が設置されていました。小さな堀切と郭を越えると主郭が目の前に現れます。やや深い堀切を越えて主郭を囲む二の郭へ着き、主郭の壁面には巨石を用いた石積が顔を覗かせているのがわかります。こじんまりしていますが遺構はよく残り、何より冒険心を満たしてくれる山城ですね。
2018年01月01日 mas.k上野介61th
桐生城
一昨年夏に一度トライしたけど藪が酷くて登城口入って
すぐに心折れて諦めました スズメバチも飛んでたし・・・
その年の暮れに再トライしてやっと登城できました
登城口さえ見抜ければ、あとはほぼ一本道なので安心です
でも、猪が出るので登城は日中がお薦めです
2018年01月01日 おり〜ぶ♪渡島守
桐生城
ヤマト運輸桐生中央宅配便センターを右に見て50mほど先の左側に「柄杓山城跡入口」の標識があり、左折すると傾斜がきつくなり右手に墓地と白い観音様、渭雲寺を確認して道なりにしばらく行くと左側路肩に駐車場がある。
その先は工事車両以外立入禁止になっている。
車を停め、駐車場に設置してある案内板で確認しながら登山道方向へ。
林道と登山道への入口は二股に分かれているが登山道は車では進入するのを躊躇う程の大きな石が剥き出しの悪路。
正面から左の視界が開ける方向には砂利が山のように積んであり重機が置いてある。
登山道は右側、一見して分かりにくい。
徐々に細くなり人ひとり一列分の道幅。
夏場は草薮と化しそうなのでお勧めできない。
30分ほど登山道を歩くと本丸跡に辿り着く。
途中、竪堀や土塁、岩盤が剥き出しの堀切などの遺構を見る事ができる。
本丸跡南側の石垣部分は崩落を食い止めるために丸太様の土留工事がしてあるが、本来の石垣なのか、それとも再建されたものなのか興味深い。
いずれにしろ、あまり手を加えられていないので興味を掻き立てられる山城である。
2015年05月04日 まー刑部卿
桐生城
林道には車は通れなくなってます。以前は通れたようですが。その前に駐車場がありますのでそこからは歩いて上ります。
居館跡の神社の道は狭いので自分はカインズの駐車場に停めて行きました。
2015年04月25日 牢屋見廻り同心マダオ
桐生城
城下には桐生城縁の寺院があります。
西方寺には桐生氏累代墓、層塔1基・五輪塔13基があり、その内の8代義綱・11代親康・12代重綱・13代助綱の4基だけ銘文が判読出来ます。
鳳仙寺は由良成繁が自ら建立し、菩提寺とした寺で、本堂裏に由良成繁の墓があります。
渭雲寺は渡瀬繁詮(由良成繁次男)が開基した寺で由良成繁が桐生へ入部する以前は桐生氏の平時の居館があったと言われています。
また、平安期に桐生を所領していた足利俊綱の家臣、桐生六郎の居館である梅原館には土塁が残されいます。
2012年09月05日 傾奇揚げ仙兵衛
桐生城
最寄りのJR桐生駅でひもかわうどんと言うワンタンみたいなうどんが有ります。
個人的にカレーひもかわ
2011年02月15日 Mr左近衛大将ワコーレ
桐生城
上毛電鉄の後ろの車両は平日、自転車ごと乗れるんです。
とてもローカルを感じます。