高津戸城(たかつどじょう)
高津戸城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県みどり市大間々町高津戸要害1089他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 山田氏
築城年
- 承徳・康和年間(1097〜1104)
主な改修者
- -
主な城主
- 山田氏、里見氏、由良氏、阿久沢氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
山上城(群馬県桐生市)[4.9km]
膳城(群馬県前橋市)[5.5km]
神梅城(群馬県桐生市)[5.7km]
桐生城(群馬県桐生市)[6.9km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[8.3km]
五覧田城(群馬県みどり市)[9.0km]
彦部屋敷(群馬県桐生市)[9.4km]
大胡城(群馬県前橋市)[11.1km]
久永氏陣屋(群馬県伊勢崎市)[12.2km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[15.2km]
高津戸城の解説文
[引用元:Wikipedia「高津戸城」の項目]
高津戸城(たかつどじょう)は、群馬県みどり市大間々町高津戸にあった日本の城(山城)。高津戸渓谷東岸の崖上に築かれた城。本丸は要害山の山頂にあり今では本丸跡に要害神社がある。
伝承
『上野国志[1]』『関東庭軍記』によれば、堀河天皇の御代(1079年 - 1107年)山田七郎吉之によって築かれ、観応2年(1351年)山田筑後守則之の時に桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝える。しかし平安時代にこのような山城が築城されたとは考えにくい。
『関八州古戦録[2]』によると、里見義尭の叔父・里見実堯は義堯との不仲を原因として安房国を出奔し、仁田山城の里見家連を頼った。しかし弘治年間(1555年 - 1558年)に家連が上杉謙信によって滅ぼされたため、桐生直綱に仕えるようになり、赤萩の砦を任された。直綱の死後桐生重綱がその跡を継いだが、諫言を行う実堯は疎まれるようになったので、実堯は長男・平四郎実勝(随見)と次男・兵部少輔勝安を越後へ逃れさせた。果たして津布久・山越の讒言により実堯は重綱から攻められ、砦を落ち延びたものの石原石見守に強いられて自刃し、石原石見守は実堯の首を持って投降したことで生き延びた。実勝・勝安の兄弟は上杉謙信に仕えていたが、父の敵討ちを願い出、謙信は2人に銀200枚を与えて送り出した。兄弟は高津戸に要害を構え、病身の津布久ではなく石原石見守を襲うこととし、用命の宅を天正6年(1578年)5月2日の夜半に襲撃したが、石原はそれを察知して逃れていた。石原は由良国繁に里見兄弟が桐生を手に入れようと目論んでいると訴え、9月15日に450名余の軍勢で高津戸城に攻め寄せた。兄弟は奮戦したものの弟が討ち死にし、兄も城兵の助命を申し入れて切腹した。なお、『関東庭軍記』では随見の父を上総介勝広とし、武田信虎に追われて桐生氏に仕えたとし、兄弟の名も随見勝政と平四郎勝安としている。
要害山の城跡自体は史跡等の文化財未指定だが、山麓の阿弥陀堂にある里見兄弟の墓と伝えられる中世墓群は、1976年(昭和51年)5月12日にみどり市指定史跡に指定されている[3]。しかし里見兄弟の伝説はそれを裏付ける同時代史料がなく、里見兄弟の墓と伝えられる五輪塔は戦国時代よりも古い時代のもので、銘はあるものの後刻である。『大間々町誌』では以上から、何らかの歴史的事実が背景にある可能性までは否定できないものの、全体としては近世の創作としている。
構造
多数の平場から成り、堀切、竪堀、井戸などが残る。一方で明瞭な虎口は見当たらず、土塁もわずかしか見られない。
周辺
- 高津戸橋
- はねたき橋
- 大間々神明宮
- ながめ余興場
- 大間々駅
- 高津戸ダム
アクセス
- わたらせ渓谷鐵道大間々駅下車徒歩6分[4]
- 東武桐生線・上毛電鉄赤城駅下車徒歩20分
参考文献
- 【書籍】「高津戸城」
- 【書籍】「大間々町誌 」
[続きを見る]
高津戸城の口コミ情報
2024年08月27日 ひらお上野介
高津戸城
要害山展望台まで車で行けます。その後、5分ほど登ると要害神社に着きます。その場所が本丸跡らしいのですが、城跡というより砦のようです。渡瀬川の断崖の上にあり、攻め落とすのは難かしそうです。
2024年03月08日 寄合左京亮倫宗
高津戸城
この城のある要害山の山頂と思われる所に神社があります。そこが本丸だった様です。何段か削平地がありますが、そこが二の丸、三の丸などだったか、名前などは分かりませんでした。
2022年05月05日 三男坊.k大学頭
高津戸城
仁田山里見氏の居城。独立峰の頂上の本郭を中心にぐるぐる郭を連ねた山城で、どことなく皆川城に似てるね。
2021年10月25日 左馬頭河童の浮き袋
高津戸城
高津戸橋脇の要害山登山口から展望台を経て徒歩10分くらいで要害山山頂。山頂に要害神社、高津戸城址。
2021年04月29日 マークⅡ左京大夫政宗
高津戸城
渓谷の美しさを見ながら、急坂を登り10分で、展望台に到着。わたらせ渓谷鐵道の車輛が止まっている大間々駅がよく見える。そこから5分で、主郭最高点の要害神社に登城😀
2021年03月28日 マグロ常陸介祐平
高津戸城
展望台にクルマを停めて、遊歩道を約5分で要害神社に着きました。城についての案内板があります。
2018年11月19日 立崎大膳大夫公麻呂
高津戸城
現在、要害神社までの遊歩道が公園整備のため、通行止めになっていて入れません。
2017年07月29日
高津戸城
Googleマップを頼ると、ひどい目にあう。神社のある高津戸公園を目指していき、途中まできれいに舗装された遊歩道を行くも、断崖絶壁の前で、案内終了。車道を道なりに行くと、途中、ショートカットできそうな通路があったので、登ったが、結構急傾斜で、たちまち汗みどろに。
その割に、遺構ははっきりしない堀切と竪堀があるだけ。横掘のような地形も見られたけど、苦労の割りにイマイチに感じました。
2017年01月25日 ジュニア
高津戸城
近くに有る、コノドント館に高津戸城の模型があると思います。
2016年10月27日
高津戸城
ながめ公園の菊を見に行って、すぐ近くに高津戸城があることを知り、急遽登ってみました。駐車場は、ながめ公園の駐車場を利用できると思います。トイレは、駐車場と、展望台のあるところにもありました。
登るにあたって、要害山の表示はあったのですが、頂上の要害神社まで登らないと、高津戸城と書かれたものは、ありませんでした。途中、ちょっと注意しなければいけない所もありましたが、往復一時間もあれば、登ることができました。天然の要害が素晴らしかったです。
この時期、ながめ公園は菊祭りをやっているので、休日は混むと思いますが、ながめ公園から、要害山の全景をみるだけでも、見応えありました。
2016年05月01日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
高津戸城
ながめ公園・ながめ余興場から対岸の高津戸城(要害山)を眺めることができます。天然の堀である渡瀬川とのコンビネーションがステキです。
秋は紅葉狩りで大変混み合います。
2015年04月02日 牢屋見廻り同心マダオ
高津戸城
地元の方の話によると猪が出没するので、登られる方は注意が必要です。桜は見頃をむかえてます。
2015年01月20日 牢屋見廻り同心マダオ
高津戸城
高津戸城下に山田氏と里見氏の墓があります。
高津戸城は後三年の役のあと寛治2年(1088)山田七郎平吉之が築き、その後二百数十年間当地をおさめていたが、南北朝の観応2年(1351)に山田筑後守則之は桐生国綱に攻められて滅亡した。凝灰岩製の大型五輪塔及び阿弥陀堂内の阿弥陀石仏は南北朝以前の形式であるため山田氏のものである。
戦国期に仁田山里見氏を頼ってきた房総里見氏の里見上総介勝広が桐生氏によって謀殺されるやその子隋見勝政と平四郎勝安は上杉謙信の援助で天正5年(1578)5月高津戸城を再興した。翌6年9月16日金山桐生勢が高津戸城を攻め、夜は逆に里見勢が用命砦を攻めた。この合戦で平四郎勝安以下三十数名が戦死し隋見勝政は切腹した。小さい安山岩製の五輪塔が里見勢の墓である。
2013年11月25日 イダッチ内膳正ヨッチャン
高津戸城
関東の耶馬溪とも言われる名勝、高津戸峡に西と北を守られた高さ80メートルの要害山の山頂に築かれています。高津戸峡はまさに断崖で、そちら側の山肌もかなりの傾斜です。
北東と南に尾根が伸びていて、堀切で区切られた郭があります。南側の郭は駐車場になっており、二ヶ所展望台が設けられています。南端の展望台はかつての物見を復元した物のようです。駐車場からは、ハイキングルートで山頂の本郭跡の神社まで10分程度で着きます。
段々に削平された郭が連なり竪堀も良く残っていて見応えがあります。しかし、説明板は神社の所にしか見当たらず、郭などの表示板もありませんし、訪れる人も余りいないのかやや荒れていて寂しい印象でした。紅葉は素晴らしく、景色も良いところです。気軽に行ける山城としてオススメです。
ちなみに、里見伝説ですが、城の規模からして怪しいと思います。
2010年08月25日 傾奇揚げ仙兵衛
高津戸城
わたらせ渓谷鉄道大間々駅の前の道を日光方面に進むとR122に出た三差路に双葉食堂があります。定食や丼物も美味しいのですがホルモンがオススメ