大胡城(おおごじょう)

大胡城の基本情報

通称・別名

所在地

群馬県前橋市河原浜町660-1

旧国名

上野国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

大胡氏

築城年

天文年間(1532〜1555)

主な改修者

主な城主

大胡氏、益田氏(由良氏家臣)、北条高広(上杉氏家臣)、牧野氏、酒井氏

廃城年

元和2年(1616)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、土橋

指定文化財

県史跡(大胡城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

膳城(群馬県前橋市)[5.7km]
山上城(群馬県桐生市)[6.2km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[7.1km]
前橋城(群馬県前橋市)[9.4km]
石倉城(群馬県前橋市)[9.9km]
阿内城(群馬県前橋市)[10.1km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[10.4km]
高津戸城(群馬県みどり市)[11.1km]
神梅城(群馬県桐生市)[11.1km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[11.2km]

大胡城の解説文

大胡城(おおごじょう)は、群馬県前橋市河原浜町にあった中世の日本の城(平山城跡)で、大胡氏・上泉氏の居城であった。後に近世初頭に徳川氏の臣・牧野氏が入り城主になった。

天文年間(1532年 - 1555年)に築城されたとされ、元和2年(1616年)廃城となった。

概要
大胡城は大胡氏の居城であった。大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、東毛地方で勢力を扶植していた豪族であった。「吾妻鏡」の建久元年(1190年)の記事には大胡太郎の名前が見えるので、鎌倉時代の初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われる。しかしこの頃の大胡氏の居館は、現在の大胡城ではなく、城の西300mほどの所にある養林寺の辺りであったのではないかと推定されている。また、現存の城趾には近世大名牧野氏の城主時代の縄張りや構造が認められる。

歴史・沿革
古河公方・横瀬氏との戦い
南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は山上氏らと共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、やがて尊氏は勢力を回復し直義を自害に追い込んだ。

その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、享徳の乱のさなかに古河公方足利成氏は配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。また、文明元年(1469年)に川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡城主とみられる大胡修茂の名が見えている。

子孫の牛込氏の伝えによれば、天文10年(1541年)、新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となってきて、圧迫されるようになったため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。少なくとも永禄2年(1559年)以前には江戸へ出ており、既に後北条氏配下にあった(『大胡町誌』)。

越後上杉氏の越山
しかし大胡氏の一族はなお当地方に残っていた模様で、永禄年間、上杉謙信に従う者を書き連ねた「関東幕注文」には大胡氏の名前が見える。しかし大胡氏に大胡城を維持するだけの実力はなく、新田金山城主横瀬国繁方となった大胡城には、配下の益田氏(大胡氏と同じ秀郷系藤原氏と伝)が居城したという。益田氏系図略記および益田氏菩提寺の縁起(『大胡町誌』収録)によれば、益田行綱が大胡城を築城し、行茂(嘉吉元年戦死)、修茂(享徳年間に横瀬国繁に属す)と続いたが、4代目の茂政のとき大胡城が落城し新田へ移住、横瀬景繁の娘を娶り続いたとある。大胡一族の上泉氏の家伝や上泉氏子孫の上泉信綱関連の書物によれば、信綱や上泉氏一族などが城主だったともいわれる。

その後、上杉、北条の抗争の中で、大胡城も転変にさらされていく。横瀬成繁が北条方に寝返ると、上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条高広を城主として入れた。しかしこの北条高広も後には謙信を裏切ってしまう。後に越・相同盟が成立すると、北条高広は謙信に許され、厩橋城(前橋城)に復帰した。高広は前橋城を子の景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。

御館の乱と本能寺の変...

大胡城の口コミ情報

2021年09月28日 うっきー
大胡城



大胡駅から15分ほど歩くと到着。本丸跡の周囲の土塁の高さには圧倒されます。

2021年08月03日 織田上総介晃司
大胡城

トンネルをくぐり抜け二ノ丸跡が駐車場。現在残っている城跡はそんなに広くはないですが、横堀や土塁の規模は大きい。

桝形門跡も石垣を含めはっきりと確認できます。大胡城の桝形門跡は個人的に好きになりました♡

2021年06月24日 見城
大室城[大胡城  周辺城郭]



大室城は、東神沢川と西神沢川の合流地点を自然要害として築城された平城で、本丸は北寄りに造られ、その北には櫓台がありました。築城年代は明らかではありませんが、15世紀後半に勢力を増した白井城主・長尾氏の支城となりました。
・本丸北西の櫓台跡
・二の丸北東の土塁と水濠
・二の丸土塁と左上奥は本丸、右奥は櫓台跡
・二の丸北の土塁と水濠
・本丸 高台の西大室神社から南を見下ろせる立地
・二の丸南の土塁と水濠

現在は公民館となっており、散策し易く、水濠は存在感があります。

2021年06月20日 ゆっくり春夏秋冬
大室城[大胡城  周辺城郭]



大胡城から南東へ、直線距離で約3㎞くらいの位置にあります。本丸は現在、大室神社となっています⛩️北から東、南側にかけて、二の丸を囲むようにコの字形の水堀となっており、特に北側ではホタル観賞ができるという事からも、地域の方々に大切にされている様子がうかがえます。

西大室町公民館となっており車はその敷地に止められます。

2021年05月30日 見城
上泉城[大胡城  周辺城郭]



上泉城は、東西700m南北200~300mの範囲にある南に流れる桃ノ木川、東に流れる藤沢川との交差する舌状域に位置します。大胡城の支城で、大胡氏の氏族上泉氏の城です。

本丸には、郷蔵が建っており、この土蔵は、天災や飢饉に備えた穀物の備蓄倉として江戸時代に設置され、現在も改修され大事に保存されています。その本丸の南側が二の丸で上泉町の自治会館があり、駐車場がありますので、ここから古の城郭を想像しながら散策することができます。

この地は剣聖・上泉伊勢守信綱生誕した場所で、生誕500年記念に際し記念碑が建立されました。新陰流の祖、上泉伊勢守信綱像が「無形の位」という代表的な構えで手には袋竹刀を持って迎えてくれます。

三の丸は、本丸の北側にあり宅地と畑となっています。その主郭を中心に西側が一の郭、東側が二の郭。一の郭は西林寺で、剣聖上泉伊勢守の菩提寺として、顕彰碑が建立されています。二の郭は宅地化されており、東、南の川より高台になっていることが分かります。城郭には西側に出丸として櫓台があったとされ、現在は玉泉寺となっています。

この玉泉寺の高台からは、上泉城西側一帯を見渡せ、遠くは上泉伊勢守が務めた榛名山のふもと、箕輪城方面まで見通せる場所であり、往時は遠見として機能していたことが実感できます。

散策は、本丸から東へ藤沢川、桃ノ木川の遊歩道、西林寺、玉泉寺等を巡ることができます。
 
・一の郭 西林寺 上泉伊勢守顕彰碑
・本丸の上泉郷蔵(かみいずみのごうくら)
・玉泉寺 南側
・玉泉寺 仁王像
・出丸から 榛名山ふもと西の箕輪城まで遮るものがなく狼煙もみえる立地
・玉泉寺 南口
・玉泉寺 西側から全景 出丸として機能
・剣聖 新陰流上泉伊勢守信綱

各所で記念碑、顕彰碑、案内板、説明資料「剣聖の里ガイド」があり、これを参考に致しました。

2021年05月16日 見城
荻窪城[大胡城  周辺城郭]



荻窪城は、西の湿地帯の天然の堀から見て高台にあり、この堀は南北に走っています。

現在は遊歩道がある公園となっており、さらに北側は散策もできる憩いの公園です。

鶯の鳴き声や、トンボ、蝶が飛び交い、本郭を目指す間ゆっくり自然を満喫しました。

駐車場は、荻窪南公園のグランド付近に駐車して、北側から南へ向かい、いったん市道を渡り、さらに南へ歩いてゆくと左手の高台が本郭です。

木々が生い茂り日陰になっており、土塁、空堀が残っています。しばし古の情景を想像しました。

・新緑の本丸。
・荻窪南公園は、本郭の北側で散策路あり。
・西堀北側の湿地帯と木橋の小路。
・西堀から本郭に向かい這い上がると横堀。
・右手は本郭北西の高台。
・本郭 西の堀から。
・本郭から西の堀を見下ろす。

2021年04月12日 まー刑部卿
枡形門[大胡城  遺構・復元物]



枡形門に石垣があります。
除草してあればまた見映えが違うかと思います。

2021年04月12日 まー刑部卿
大胡城



トンネル前に城址碑があります。車は二の丸に駐車可ですが本丸跡にも停められました。二の丸跡の標柱脇に説明書きと共に想像図が描かれています。二の丸から本丸への土橋渡ったところに記念碑の石碑あります。

2021年02月21日 ゆっくり春夏秋冬
大胡城



大胡は寺の多い町と言われ、大胡城の周辺にも城の防衛的な役目をしていた寺があったようです。大胡神社は近戸曲輪となります。二ノ丸北西に「玉蔵院曲輪」がありますが今は、歩くとパキパキ気持ちいい音が聞ける竹林です。

2021年02月18日 真田上野介信吉【888】
嶺城(田中城)[大胡城  周辺城郭]



戦国時代、日本各地に大小、多くの城が築城されました。芳賀地区にも9か所の砦や城址があります。
嶺城は、戦国時代の丘城で田中城ともいわれます。古文書によると田中(嶺)城は永禄時代(1558~1570)中期に北條丹後守(前橋城の城代の一人)により造られ、この家臣の田中大弐が居城していたと記録されています。
城は並郭式(連郭構造の城で、本郭が中央にある)の丘城で、本丸は意外な程小さく、南北40㍍、東西70㍍にすぎないが、その北と南に連なる郭は大きく、それぞれの郭の間には堀切(空堀)があります。堀切は驚くほど複雑で大掛かりなものです。城域は東西最大200㍍で、南北の全長は500㍍あまりです。

ー説明板よりー

説明板にも記載の通り、前橋(厩橋)城の城代であった北条高広の築城から、前橋城の周辺城郭でスポットを立てることも考えましたが、大胡城の方が約2㌔程近いことから大胡城の周辺城郭としました。

ありがたいことに、地元自治会による見学者駐車場、また北第3郭と北第4郭の堀切に登城口を設けてくれています。
この登城口には散策にあたっての注意書きがありますから、一読後散策開始です。
堀切の突き当たりからは、帯郭にも見えるような幅の横堀を本丸目指して歩きます。
北第3郭→北第2郭の切岸を左手に、本丸と北第2郭の堀切堀底からは本丸への急斜面。この急斜面には手摺と階段が付けられているので楽に登り降り出来ます。
本丸南側に回り込み土塁の切れ間が虎口となります。本丸は綺麗に整備されていました。本丸南側は南第2郭と南第3郭。こちらは物凄い竹藪です。

嶺城は私有地です。地元自治会の方々のご尽力により、ありがたくも散策させて頂く、という感謝の気持ちでリア攻めしましょう。


2020年11月05日 龍馬備中守【】
荻窪城[大胡城  周辺城郭]



群馬県の前橋市にある荻窪城♪

大胡城の支城の一つとして機能しました☆
築城年は不明ながら城主は豪族である赤荻一族と伝わります☆

南北朝時代には足利尊氏の末派で赤荻主馬之介智宣・同弾正智則がここに居城していたと古文書に記されてます☆

城としては主郭、副郭、三郭、四郭と4つの郭から主要部分を形成☆主郭と副郭を同列に配置して三郭、四郭を下に配置します☆
主郭、副郭の背後には空堀を置き下の三郭へ廻し込み城を守ります☆城郭の東西は谷になってます☆

2020年11月04日 龍馬備中守【】
大胡館(養林寺館)[大胡城  周辺城郭]



群馬県の前橋市にある大胡氏館跡☆この館跡は大胡城の直ぐ近く養林寺がその場所になります♪

大胡氏は鎌倉から室町時代にかけて上野国(現・群馬県)で勢力を持った上州八家の一つとなります☆

大胡氏の始まりは大胡太郎に始まります☆
治承・寿永の乱では源氏方で参加していて『平家物語』にも源頼朝軍に集った関東各地の武将の中に大胡太郎の名が残ります☆源範頼の九州征伐に従軍する中にも大胡氏の名前があり大胡三郎実秀が記載されてます♪鎌倉幕府の下で御家人として活動しました☆

現在、館跡である養林寺の背後には空堀が一部残ります☆大胡城の後の城主の牧野氏の墓も残っています♪大胡氏の後の城主は牧野氏♪この牧野氏は徳川家康の合戦にはほぼ全て出ているんじゃ無いか☆と言う位の猛者中の猛者様です☆
争いの絶えなかった上州の地だからこその人選だったのでしょう☆

話変わり養林寺をウロウロして居たら草刈りをしているお爺ちゃんに声を掛けられました☆そのお爺ちゃんが上がって行けと養林寺の歴史のビデオを見せてくれました☆
お爺ちゃんは住職様だった訳ですが、
ビデオを見た後に住職様のカミングが☆何と思えば住職様は北条氏邦様の末裔でした☆
※養林寺をアップ許可済み♪

帰る時に頂いたパンフレット見たら苗字が北条…♪ぶったまげましたw

北条氏は秀吉による小田原征伐の跡、生き残り組は身を潜める様に仏門に入った方が多かった様です☆その名残が今を生きている☆
何だかご縁に感謝したいそんな大胡氏館でした☆
因みに…余談ですが、徳川家康の家臣である牧野氏の墓を今も守っている、北条氏の末裔☆何だか不思議☆
牧野氏が家訓としていた【常在戦場】常に心は戦場にあり♪心に響きました☆
更に牧野氏が軍旗にした【五間梯子】♪

行かれた際は是非是非住職様にお会いしてみて下さい♪凄く面白いお話が聞けます☆
出会いって素敵ですね♪
優しいお爺ちゃん♪
また遊びに行くね☆
住職様☆


2019年05月26日 牢屋見廻り同心マダオ
荻窪城[大胡城  周辺城郭]



荻窪城は大胡城の支城の一つで、築城時期は不明ですが、古文書には文和二年(1353年)に足利尊氏の末派で赤荻主馬之介智宜、同弾正智則が居城したとあります。この事から、更に古い時代に築城されていたと思われます。
遺構は比較的良好に残っており、土塁や堀が良く確認出来ます。

2019年05月19日 牢屋見廻り同心マダオ
長善寺 大胡太郎の墓[大胡城  寺社・史跡]



長善寺は大胡太郎または大胡左馬助が開基したと言われています。

墓地にある大胡太郎の墓は異型多宝塔と言われる形式で、塔身左側下部に貞和三年三月廿二日と銘文が刻まれています。これを大胡太郎の墓とすれば1347年には長善寺は創建されていたと考えられます。


2019年05月19日 牢屋見廻り同心マダオ
大胡館(養林寺館)[大胡城  周辺城郭]



大胡館は鎌倉時代、大胡太郎実秀の館と言われています。大胡城の西に位置し、平時は居館として使われていたと思われます。養林寺本堂裏に土塁と堀が残されています。

館跡に建つ養林寺は大胡太郎実秀が浄土宗の草庵を建立したのが始まりで、その後は衰退しますが、天正十八年小田原合戦後、関東に入った徳川家康の家臣、牧野康成が大胡2万石で大胡城に入り、養林寺を再興し、牧野氏の菩提寺としました。墓地には牧野氏累代の墓があり、墓地入口には徳川歴代将軍の供養塔もあります。


2019年04月24日 陸中守きこりん
近戸郭北の堀[大胡城  遺構・復元物]



大胡神社が鎮座する近戸郭の北に城域を画している堀が残っています。藪ですが素晴らしい堀なのでお見逃しなく。一部が墓地になっていて、堀底に降りていけます。

2019年04月24日 陸中守きこりん
二の丸駐車場[大胡城  駐車場]



本丸のある台地を目指して東側から住宅地の細い道を入っていくと、狭いトンネルが現れて躊躇われますが、これを潜ると広い二の丸の駐車場に到着します。そこは既に素晴らしい遺構たちの真っ只中!

2015年11月01日 牢屋見廻り同心マダオ
大胡城

大胡城周辺史跡

養林寺:堀越町1259
大胡氏の居館跡で後に牧野氏が、この地に養林寺を建立。本堂裏に堀と土塁現存。牧野氏の菩提寺であり牧野氏墓所があります。(トイレ有)

長善寺:堀越町1240
大胡太郎左馬助開基の寺。伝大胡太郎の墓がある。山号「豊国山」は豊臣秀頼公真筆書に由来。

長興寺:茂木町26-1
大胡城主牧野氏の重臣で伊勢崎藩主の稲垣氏の菩提寺。牧野氏家老山本氏や前橋藩酒井氏家老大河内氏の墓があります。

正円寺(正圓寺):堀之下町162
大胡城北門が移築されています。

西林寺:上泉町1145
剣聖上泉伊勢守墓所。

上泉城:上泉町1168-1
現上泉町自治会館。会館駐車場に上泉伊勢守銅像と顕彰碑、説明板あります。

荻窪城:荻窪町字屋敷
大胡城の支城。平城で堀が現存しています。説明板あり。

2014年01月03日 中務卿一之介
大胡城

規模の大きい空堀、土塁、土橋など多くの遺構が残っています。「現在の登城口」であるトンネルの脇に「大胡城跡」と掘られた石碑がなければ、城跡だとは気づきません。

平山城で群馬県指定の史跡なのに、案内板は一つだけ。それぞれの遺構を紹介するプレートくらい立てればいいのに、と思いました。

2013年12月10日 田部朝臣土持安房守
大胡城

現状、比較的それほど広い面積のある方ではない城にしてはしっかりといろいろ遺構が残っています。  駐車場に関しては、城の中に乗り込む事が出来、駐車場?といえない事もない 場所があるので大丈夫です。それにしても、だれが城の横っ腹にトンネルを掘ったのでしょうね?アクセスは容易になっていますが、本来の攻城ルートが惑わされてわかりづらくなっています。それだけが残念。

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