大胡城(おおごじょう)
大胡城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県前橋市河原浜町660-1
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 大胡氏
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 大胡氏、益田氏(由良氏家臣)、北条高広(上杉氏家臣)、牧野氏、酒井氏
廃城年
- 元和2年(1616)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、土橋
指定文化財
- 県史跡(大胡城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
膳城(群馬県前橋市)[5.7km]
山上城(群馬県桐生市)[6.2km]
赤堀城(群馬県伊勢崎市)[7.1km]
前橋城(群馬県前橋市)[9.4km]
石倉城(群馬県前橋市)[9.9km]
阿内城(群馬県前橋市)[10.1km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[10.4km]
高津戸城(群馬県みどり市)[11.1km]
神梅城(群馬県桐生市)[11.1km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[11.2km]
大胡城の解説文
[引用元:Wikipedia「大胡城」の項目]
大胡城(おおごじょう)は、群馬県前橋市河原浜町にあった中世の日本の城(平山城)。大胡氏・上泉氏の居城であった。後の近世初頭に徳川氏家臣・牧野氏が入り城主になった。群馬県指定史跡[1]。天文年間(1532年 - 1555年)に築城されたとされ、元和2年(1616年)廃城となった。
概要
大胡城は大胡氏の居城であった。大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、東毛地方で勢力を扶植していた豪族であった。「吾妻鏡」の建久元年(1190年)の記事には大胡太郎の名前が見えるので、鎌倉時代の初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われる。しかしこの頃の大胡氏の居館は、現在の大胡城ではなく、城の西300メートルほどの所にある養林寺の辺りであったのではないかと推定されている。また、現存の城趾には近世大名牧野氏の城主時代の縄張りや構造が認められる。
歴史・沿革
古河公方・横瀬氏との戦い
南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は山上氏らと共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、やがて尊氏は勢力を回復し直義を自害に追い込んだ。
その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、享徳の乱のさなかに古河公方足利成氏は配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。また、文明元年(1469年)に川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡城主とみられる大胡修茂の名が見えている。
子孫の牛込氏の伝えによれば、天文10年(1541年)、新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となってきて、圧迫されるようになったため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。少なくとも永禄2年(1559年)以前には江戸へ出ており、既に後北条氏配下にあった(『大胡町誌』)[2]。
越後上杉氏の越山
しかし大胡氏の一族はなお当地方に残っていた模様で、永禄年間、上杉謙信に従う者を書き連ねた「関東幕注文」には大胡氏の名前が見える。しかし大胡氏に大胡城を維持するだけの実力はなく、新田金山城主横瀬国繁方となった大胡城には、配下の益田氏(大胡氏と同じ秀郷系藤原氏と伝)が居城したという。益田氏系図略記および益田氏菩提寺の縁起(『大胡町誌』収録)によれば、益田行綱が大胡城を築城し、行茂(嘉吉元年戦死)、修茂(享徳年間に横瀬国繁に属す)と続いたが、4代目の茂政のとき大胡城が落城し新田へ移住、横瀬景繁の娘を娶り続いたとある。大胡一族の上泉氏の家伝や上泉氏子孫の上泉信綱関連の書物によれば、信綱や上泉氏一族などが城主だったともいわれる。
その後、上杉、北条の抗争の中で、大胡城も転変にさらされていく。横瀬成繁が北条方に寝返ると、上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条高広を城主として入れた。しかしこの北条高広も後には謙信を裏切ってしまう。後に越・相同盟が成立すると、北条高広は謙信に許され、厩橋城(前橋城)に復帰した。高広は前橋城を子の景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。
御館の乱と本能寺の変
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その跡目を争って長尾氏系の景勝と、北条氏政の実子で謙信の養子になっていた景虎とが抗争を繰り広げた(御館の乱)。この戦いで後北条氏と親しい高広は、景虎を支援した。しかし結果は景虎の敗北となり、厩橋城主の景広は越後で戦死、天正7年(1579年)2月、北条高広は内藤昌月らを通して武田勝頼に従属した。この時、厩橋城には北条高広、大胡城には大胡高繁が入った(大胡高繁は北条高広の親族と思われる)。
しかし、天正10年(1582年)、その武田氏も織田信長に攻められて滅亡、その後信長の家臣滝川一益が上野一国を与えられて厩橋城(前橋城)に入りこの地方を支配したが、本能寺の変で信長が殺害されると織田氏の勢力も一掃された。神流川の戦いで北条氏直に敗れ滝川一益が上野を去った後、天正11年(1583年)9月、沼田城の真田昌幸と連携し独立を保っていた北条高広の厩橋城が北条氏邦に落とされ、この地方は厩橋城に入った氏邦の支配下に置かれることとなる。
牧野氏の入城とその後
その後、関東地方で最大勢力を誇った後北条氏も天正18年(1590年)、小田原征伐で没落、大胡高繁の所領も没収され、戦後は徳川家康が関八州の支配者となった。大胡城には徳川氏家臣の牧野康成が2万石で大胡城に入城した。しかし、入城後約25年の元和2年(1616年)、牧野氏は越後長峰に5万石で転封され、大胡領は前橋城主酒井氏の管轄となり、それにより上部構造物が撤去されて大胡城は廃城となった。
第二次世界大戦中、大胡城本丸地下には防空壕が掘られ、産業機械が搬入されて実際に軍需工場として稼働していた[3]。
1967年(昭和42年)2月24日に群馬県指定史跡になった。
構造
大胡城の古絵図によると、細長い小丘陵地の南北を堀切で仕切り、土塁・枡形門を備えた本丸・二ノ丸は大胡氏時代の城郭構造であると推定される。このほかに三ノ曲輪・四ノ曲輪(以上南側)・西曲輪・玉蔵院(西側)・根小屋(東側)・越中屋敷(北側)が位置する。また城北部に近接の近戸神社(ちかとじんじゃ)があるがこれも城郭の一部とされ近戸曲輪という。
複郭構造には牧野氏が拡充した近世城郭の様相も見て取れる。現在見られる石垣構造などはこの牧野氏時代に構築されたのではないかと考えられている。
広さは南北670メートル。東西は西曲輪・根小屋の平城部を含めると最大310メートル、丘陵部のみでは180メートルほどである。
牧野氏の時代、城の大手口は四ノ曲輪の南にあった。前橋方面に開き、西側に侍屋敷が、南側(伊勢崎方面)には城下町が広がっていた。この大手口は牧野氏が定めたものであり、城下町と城を直結することが意図されていた。それ以前の後北条氏時代の大手口は根小屋にあったとみられる。
目立った水堀は無く、空堀と城の西側の小流(用水)と東側のそばを流れる荒砥川の天然の流で代用していたと考えられる。当時の荒砥川は近戸曲輪・越中屋敷の崖下すぐを流れたとされる。また西側の用水はS字に歪曲して二ノ丸と三ノ曲輪間の城中央部を横断するが、これは牧野氏時代に歪曲していなかった川筋を変え用水としたものと推定される。
最北部の近戸曲輪であるが、この近戸曲輪と越中屋敷の間は中世の堀切としては幅が広すぎるため、近戸曲輪は大胡城の出城と推定されている。また大胡氏初期では、近戸曲輪のみが大胡城だったとも考えられている(大胡町誌)。
越中屋敷は江戸期の牧野氏寄騎・真木越中守(3000石)のものであると考えられる。また北城ともいわれ、城の北限とも推定される。なお北に虎口がなかったと思われ、北からの攻撃を防御し本丸側を守る役割があったとされる。現在は大胡幼稚園が存在する。
三ノ曲輪と四ノ曲輪は捨曲輪である。かつてこの2つは一つのものであった(「大胡城考」)。牧野氏時代に東の根小屋と西に設けた侍屋敷の連絡のため堀切を設け、捨曲輪を2分したと考えられる(大胡町誌)。四ノ曲輪は南曲輪ともいう。
西曲輪は牧野氏による増築部分である。これは大手口の移動により三ノ曲輪・四ノ曲輪(旧捨曲輪)の西側に大手への通路を作ることになったため、旧捨曲輪西の用水を東遷させた。結果、三ノ曲輪と四ノ曲輪の防備が手薄となり、その対策のため西曲輪が設けられたのである。南北に細長い平城部で、西に広がる侍屋敷との連結を深め、また従来東西に狭かった城の構造的脆弱さを補う役割も持っていた。
歴代城主
- 大胡氏
- 横瀬氏(このほか前述の様に益田氏・上泉氏にも城主説がある。)
- 北条高広
- 大胡高繁
- 牧野康成
- 牧野忠成
支城
ほぼ全て消滅している。また大胡氏の居館跡とされる養林寺も砦の機能を持っていたとみられる。
- 上泉城 - 大胡城から南西にある前橋市上泉町にあり、大胡一族の上泉氏の居城。本丸跡には江戸時代の倉庫たる上泉郷倉がある。
- 横沢城 - 大胡城の西にある前橋市横沢町にあった出城跡。大半が宅地化した。
- 今城 - 大胡城の西、上毛電気鉄道江木駅東の字西今城・東今城にあったとみられるが消滅。付近を走る大胡県道と北の渋川大胡線を結ぶかたちで存在した勝山遠堀(大胡城の遠堀)を守っていたと推測される。
- 河原浜砦 - 城の東の街道沿いにあり河原氏が守ったと伝えるが、痕跡もなく消失している。
所在地
- 群馬県前橋市河原浜町660-1
アクセス
上毛電鉄 大胡駅 徒歩北へ約30分
参考文献
1.大胡町誌編纂委員会編 『大胡町誌』大胡町、1976年。 2.福島武雄 著「大胡城考」(上毛郷土史研究会誌『上毛及び上毛人』1924年刊の復刻版)。 3.田畑喜ヱ門(撰) 斎木一馬・他(校訂) 『断家譜』 続群書類従完成会、1968年、ISBN 4-7971-0266-7 C3323。
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大胡城の口コミ情報
2024年11月11日 マグロ常陸介祐平
嶺城(田中城)[大胡城 周辺城郭]
上杉氏から離反を繰り返した北条高広が永禄年間に築いたとされるお城で、家臣の田中大弐正常が居城していたとされています。正常は元々那波浪人で、高広と那波氏の関係から被官になったと思われます。
地元自治会でコースが整備され、見やすいお城となっています。コースは、3郭と4郭の堀切、西側の堀底を通り、本丸の南にある虎口から入城するかたちとなっており、本丸以外の郭には、立ち入れません。
5つの郭はそれぞれ堀切で区切られ、大変な土木量を感じます。中央にある本丸は、他の郭よりも小さめとなっているようです。
約3年半前の先人様が口コミされた駐車場は、草が生い茂り停めるのに躊躇しました。維持は大変そうです。
2024年11月10日 マグロ常陸介祐平
西荻窪城[大胡城 周辺城郭]
荻窪城から北西に約500mに位置するお城です。中央線の駅のような名称です。位置からして荻窪城に関連するお城と思われますが、資料はなさそうです。
城域と思われる屋敷の外側に土塁状の土盛りが見られますが、残土の山かも知れません。民家の屋敷林の中に遺構が残るようですが、外側からはよくわかりませんでした(写真1~6枚目)。
さらに300m程南西には、「塔の堀」という空堀状の遺構が見られますが、ソーラー発電所となり一部が残る程度となっています。元々は長さのある大規模な堀だったようですが、今残る僅かな遺構も横にはユンボが2台も置いてあり、いつ消滅してもおかしくない状況です(写真7,8枚目)。この堀は、日本城郭大系の荻窪城の項で、遠堀とされているものと思われますが、お城の規模からすると、徴用できる兵数多いとは思えず、城から離れたこの場所に規模の大きい堀を作る意味がよくわかりません。荻窪城の付属設備で、西荻窪城は要害的な感じを受けませんが、前線基地ということでしょうか。謎の構造物です。
2024年11月09日 マグロ常陸介祐平
荻窪城[大胡城 周辺城郭]
大胡城から西に約2.5km、荻窪城は大胡城の出城とされています。
説明板によると、荻窪地区に伝わる古文書には、「文和二年(1353)に足利尊氏郷の末派で赤荻主馬之介智宜 同弾正智則が居城、 之により同村の字向山に城の守本尊として大日如来を祭り城の安泰を祈った」とされるとあり、また、築城については古文書に記されている年代よりも古く、城主は赤荻一族と推定されるとしています。足利尊氏郷?の末流とは、子孫ということでしょうか。説明板の推定復元図を見ると広大な城域をもつお城だったようですが、今残るのは東西2つの曲輪となります。本丸と二の丸北側の空堀や本丸北側の土塁など、遺構はよく残っています。
3年半前に口コミされた先人様の写真を見ると、城址公園として整備されたお城だったと思われますが、現在は説明板も草に埋もれるほど荒れていました。
2024年04月12日 伊勢中納言
大胡城
群馬県の城郭を中心に車で巡って来ましたが、結構駐車場が分かりずらい城郭が多いなか比較的順調にたどり着けました。狭いガード下のトンネルをくぐると二の丸跡でそこが駐車場です。遺構は、素晴らしく特に本丸と二の丸を仕切る空堀と二の丸の枡形門跡に感動しました。
2024年04月04日 RED副将軍
大胡城
空堀、枡形門、石垣、大堀切など見所多数な大胡氏・牧野氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
天文年間(1532年〜1555年)に大胡氏により築かれたと云われます。
大胡氏は藤原秀郷の庶流で足利氏の支族とされる名族で、平安時代に淵名兼行の孫である淵名重俊が上野国勢多郡大胡郷を領し、大胡氏を称したのが始まりとされ、当初は現在の養林寺近隣に居館を構えていたと比定されています。
1541年には金山城の横瀬氏の勢力により圧迫。当主の大胡勝行は小田原の北条氏康に招かれ、大胡を捨てて江戸の牛込に移り、北条氏政・北条氏直の二代に仕えました。1555年には牛込氏に改称。
大胡城には横瀬氏家臣の益田行綱が城代として入城したともされますが諸説あります。
上杉氏と北条氏が抗争をする中で由良(横瀬)成繁が上杉謙信を裏切り北条氏に寝返ると、上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条高広を入城させます。しかし北条高広も上杉謙信から離反。後に上杉氏と北条氏の同盟が成立すると、北条高広は上杉謙信に許され、前橋城を子の北条景広に譲り、大胡城に隠居しました。
1578年に上杉謙信が急死し、御館の乱が勃発すると北条高広は上杉景虎に付くも敗北したため武田勝頼に従属。しかし1582年に武田氏が織田信長により滅亡すると滝川一益が前橋城に入城するも、間もなく本能寺の変が起こり、神流川の戦いで滝川一益を敗った北条氏邦が当地を支配しました。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に移封となると徳川家康は牧野康成を大胡城に入部させます。
1616年に牧野氏が越後国長峰に移封となると、大胡城は前橋城の酒井氏の所領となり城代が置かれましたが、1749年に酒井氏が姫路に移封となると廃城となりました。
見所
荒砥川西岸の台地上に築かれており、東側の荒砥川の他に北側と西側は荒砥川から派生した用水を天然の濠とした要害です。
南北に走る丘陵ピークの本丸を中心に二の丸を囲部的に配し、北に北城、近戸曲輪、南に三ノ曲輪、四ノ曲輪、東は荒砥川との間に根小屋、西には西曲輪が配されています。
本丸は北側から南西部にかけて土塁が巡り、西側の土塁は最大3mの高さとなる大規模なもの。
本丸と二の丸は高く鋭い切岸と空堀により隔てられており、空堀の高低差は8mにもおよびます。
二の丸の東側には石垣が伴う枡形門が残り、牧野氏時代のものと考えられています。
北城は幼稚園の敷地となっていますが、本丸との間は深い大堀切で遮断されています。
現在は県指定史跡として整備され、二の丸まで車で行くことができます。
2023年10月22日 そらみつ能登守
大胡城
整備されていて綺麗です。見晴らしも良く気持ち良いです
2023年06月29日 あきくん
大胡城
トンネル手前に石碑があります。トンネルわ抜けると二の丸があり、そこに駐車できます。
2023年06月01日 武蔵守与作兵衛
大胡城
この城ゆかりの武将に会うためリア攻めしました。入り口のトンネルを抜けると別世界で、土塁や空堀には迫力があり予想以上の満足感が得られました。
2023年04月03日 マグロ常陸介祐平
西新井城[大胡城 周辺城郭]
舌状台地に築かれた並郭式のお城で、城主は五十嵐氏です。説明板には遺構についての記載がありますが、城域は畑となっており、残る遺構は入り口になっている堀切と土塁の一部程度です。
畑で作業していた方に尋ねたところ、近年畑を広げた際に堀を埋めたとのことで、さらに昔は土塁もあったとのことでした。
2023年04月02日 マグロ常陸介祐平
大胡館(養林寺館)[大胡城 周辺城郭]
大胡氏の居館で、養林寺の本堂裏に空堀の一部がL字型に残っています。養林寺は大胡城主牧野氏の菩提寺で、藩主の墓(写真2)や徳川将軍の供養塔(写真1)があります。お寺の門には桝形の古い石垣があり風情を感じます。
大胡氏初代の大胡太郎の墓(写真7)は300m程離れた長善寺にあります。
2023年04月02日 マグロ常陸介祐平
大胡城
石垣は桝形門に見られる程度で全体的に土の作りですが、1616年の牧野氏時代の廃城だけあって近世の城郭の雰囲気です。
県の史跡としてよく整備されており、主郭を囲む土塁や虎口、土橋、空堀など大変見やすいお城です。
2022年11月05日 源木工允信繁
大胡城
城跡前にトンネルあり。ちょっと躊躇する程のトンネル。その先に開けた駐車場あります。
2022年08月13日 菊左近衛少将
大胡城
川沿いの道から、狭い道に入ると、更に狭い感じのトンネル?登り坂。車では少し行きにくい感じでした。
2022年04月24日 見城
大胡城
大胡城は、東の荒砥川から見上げると古の平山城であることが伺えます。北の大胡神社(近戸曲輪)から前橋市役所大胡市所(四の丸)に至る南北670mの台地を堀切で区画した、東の荒砥川、西の風呂川の舌状台地に築かれた城郭です。
・四方80m前後の方形である本丸の北東部。手前は東西に本丸と北城(越中屋敷)を隔てる天然の堀。
2022年03月15日 まー刑部卿
西郭跡[大胡城 その他]
西郭と三の丸の区切りが現地では分からず。
現在大胡小学校プールがあり、写真でわかるように上り勾配になっています。
2022年03月15日 まー刑部卿
南郭・三の丸堀跡[大胡城 その他]
南郭のある大胡支所とテニスコートの坂が痕跡として残っています。
2022年03月15日 まー刑部卿
秋葉台[大胡城 関連施設]
秋葉神社と地図上では掲載していますが鳥居が見当たらず拝殿もない、という神社でかつては見張台の役割をしていたようです。大胡城にまつわる説明書きは一切なし。支所側からみると周りに比べて小高いです。
2022年03月12日 まー刑部卿
近戸郭(大胡神社)[大胡城 関連施設]
近戸郭のある大胡神社に駐車場があります。車でお越しの方は停められますがそこに行くまで気をつけてお進みください。ガードレールがあるところが堀跡です。先人の言う墓地のところも堀跡とらなっていますが反対側のほうが深くて木々が無ければもっと見映えがいいように感じました。
石段の手前の何気ない石は夜泣き石だそうです。なんの説明板もありません、地中に埋められています。いろいろな縄張り図には近戸郭(大胡神社)の傍にお寺(大温寺)が書かれていたので探してみましたが現在は個人宅となっていました。
拝殿前にある大きな神木はムクロジ(無串子)で前橋市指定天然記念物だそうです。訪れた時はムクロジの実が落ちていました。
2022年03月12日 まー刑部卿
大胡館(養林寺館)[大胡城 周辺城郭]
山門にある案内表示に【養林寺館址 牧野家の墓】とありました。また山門脇にある『養林寺縁起』に史跡欄に館跡と思われる二重堀や牧野康成侯の墓等と記されていました。山門も江戸時代の桃山風様式と呼ばれる古い門でした。山門を抜けると本堂で葵御紋が見えます。本堂に近づくと左脇に人懐っこい犬が居ます。遊んでいるうちに時間が過ぎていきます。牧野家墓地は墓地の中を進んで行くとわかりやすい形で見つかります。二重堀は墓地のを抜けて右側に進んで行くと堀跡の入り口があり先人のいう住職さんもその辺りに居ます。土日に遭遇しやすいかと思われます。時間がなかったり話しかけづらい方は平日訪れるか竹林の隙間からでも見えます。駐車場とトイレがあります。
2022年03月09日 国府左京大夫城介
塔の堀[大胡城 遺構・復元物]
西荻窪城の付随する謎多き堀
【歴史】
詳細は一切不明。
西荻窪城の付随する防御施設と言われており、遠堀が訛って塔の堀になったという。
【遺構】
かつては、西荻窪城の西側の台地に、南北約1kmわたり、堀と土塁が残っていたという。
現在は約250mほどが残っているが、自分が訪れた際、北側部分は工事でかなり埋められており、近い将来消滅する可能性があるかもしれない。
【感想】
塔の堀は西荻窪城に付随する空堀ですが、その間には沢(現在はほぼ水田となっている)が存在しています。本来であれば、この沢を天然の堀に見立てるのですが、何故か台地上にわざわざ空堀を1km近く掘っています。深さ4m、幅10mほどあり、これを1km近く掘るということはかなりの労力であり、そこまでしないといけない理由があったのでしょうね。
遺構の項でも書きましたが、北側部分は大部分埋められてしまい、遺構を確認することができなくなっています。一応、Googlemapのストリートビュー(2012年7月)でも、藪で分かりにくいですが遺構を確認することはできます。
一方、南側部分は藪が完全に取り除かれており、堀の形状がはっきりとわかる状態になっています。本当に立派すぎて、なんでこんな所に堀を掘ったのだろうとつくづく感じます。
【アクセス】
上毛電鉄心臓血管センター駅から徒歩15分。
【写真】
1:堀(北側部分)
2:堀(南側部分)
3:堀(南端から北側を望む)
2022年03月09日 国府左京大夫城介
西荻窪城[大胡城 周辺城郭]
荻窪城の支城か
【歴史】
西荻窪城に関する史料はないため、詳細不明。
近くに荻窪城があることから、赤萩氏が築城した可能性はある。
【遺構】
大胡城から西に2.7km程に位置し、近年までは方形居館として、外郭の堀や土塁が残っていたらしい。しかし、現在は住宅地や畑になってしまったため、遺構はほぼ残っておらず、民家の裏庭の竹林内に土塁の痕跡があるらしい。(竹林は私有地っぽいので、未確認)
【感想】
外から竹林内を覗いたところ、土塁っぽく盛り上がった部分はあったが、本当に土塁かは不明。竹林内が、即民家の裏庭みたいになっているので、もし入るのであれば、一声かけた方がいいと思います。そこまでの価値があるかは不明ですが…
むしろ、この城の場合は付随する塔の堀(別の口コミで登録)がメインだと思います。
あくまでも、塔の堀との位置関係を把握するために訪れただけでした。
【アクセス】
上毛電鉄心臓血管センター駅から徒歩で15分。
【写真】
1:南側から西荻窪城を望む
2022年03月03日 まー刑部卿
北城(越中屋敷)跡[大胡城 その他]
北城跡は旧大胡幼稚園教室棟解体工事が3/30まで行なっています。元々立入禁止区域のため支障はありませんが。その西側に旧幼稚園の駐車場があり今のところ利用可。大型トラックが行き来すると思いますのでご注意を。
2022年03月03日 まー刑部卿
大胡城北門(裏門)【移築門】[大胡城 遺構・復元物]
《『萩の門』
当寺の山門は棟木が萩の木と考えられ、『萩の門』の名がある。
古来、上泉町以東は大胡城の所領時代が長く、また正圓寺も大胡城の鬼門に当たる応昌寺の末寺で、大胡城との関係は深い。
大胡城は廃城となった後、前橋藩のものとなり、建物は取り壊されたり移築された。
その北門(裏門)が正圓寺に移されたとされている。
この様な門の型は『薬医門』と言われ、室町時代初期の建造と推定される。平成九年に大改修を行った。》と由緒書きに記されています。
2021年11月07日 三男坊.k大学頭
大胡神社北の大堀切[大胡城 遺構・復元物]
谷(今は道路)を挟んで北側の大胡神社は外郭ダよね。きっと。神社の北側から西側にかけてに大きな堀切がある。
2021年11月07日 三男坊.k大学頭
土塁[大胡城 遺構・復元物]
水の手に降りる途中に平場の竹藪があり、その奥の川際にあります。結構保存状態が良いです。
2021年09月28日 うっきー
大胡城
大胡駅から15分ほど歩くと到着。本丸跡の周囲の土塁の高さには圧倒されます。
2021年08月03日 織田上総介晃司
大胡城
トンネルをくぐり抜け二ノ丸跡が駐車場。現在残っている城跡はそんなに広くはないですが、横堀や土塁の規模は大きい。
桝形門跡も石垣を含めはっきりと確認できます。大胡城の桝形門跡は個人的に好きになりました♡
2021年06月24日 見城
大室城[大胡城 周辺城郭]
大室城は、東神沢川と西神沢川の合流地点を自然要害として築城された平城で、本丸は北寄りに造られ、その北には櫓台がありました。築城年代は明らかではありませんが、15世紀後半に勢力を増した白井城主・長尾氏の支城となりました。
・本丸北西の櫓台跡
・二の丸北東の土塁と水濠
・二の丸土塁と左上奥は本丸、右奥は櫓台跡
・二の丸北の土塁と水濠
・本丸 高台の西大室神社から南を見下ろせる立地
・二の丸南の土塁と水濠
現在は公民館となっており、散策し易く、水濠は存在感があります。
2021年06月20日 ゆっくり春夏秋冬
大室城[大胡城 周辺城郭]
大胡城から南東へ、直線距離で約3㎞くらいの位置にあります。本丸は現在、大室神社となっています⛩️北から東、南側にかけて、二の丸を囲むようにコの字形の水堀となっており、特に北側ではホタル観賞ができるという事からも、地域の方々に大切にされている様子がうかがえます。
西大室町公民館となっており車はその敷地に止められます。
2021年05月30日 見城
上泉城[大胡城 周辺城郭]
上泉城は、東西700m南北200~300mの範囲にある南に流れる桃ノ木川、東に流れる藤沢川との交差する舌状域に位置します。大胡城の支城で、大胡氏の氏族上泉氏の城です。
本丸には、郷蔵が建っており、この土蔵は、天災や飢饉に備えた穀物の備蓄倉として江戸時代に設置され、現在も改修され大事に保存されています。その本丸の南側が二の丸で上泉町の自治会館があり、駐車場がありますので、ここから古の城郭を想像しながら散策することができます。
この地は剣聖・上泉伊勢守信綱生誕した場所で、生誕500年記念に際し記念碑が建立されました。新陰流の祖、上泉伊勢守信綱像が「無形の位」という代表的な構えで手には袋竹刀を持って迎えてくれます。
三の丸は、本丸の北側にあり宅地と畑となっています。その主郭を中心に西側が一の郭、東側が二の郭。一の郭は西林寺で、剣聖上泉伊勢守の菩提寺として、顕彰碑が建立されています。二の郭は宅地化されており、東、南の川より高台になっていることが分かります。城郭には西側に出丸として櫓台があったとされ、現在は玉泉寺となっています。
この玉泉寺の高台からは、上泉城西側一帯を見渡せ、遠くは上泉伊勢守が務めた榛名山のふもと、箕輪城方面まで見通せる場所であり、往時は遠見として機能していたことが実感できます。
散策は、本丸から東へ藤沢川、桃ノ木川の遊歩道、西林寺、玉泉寺等を巡ることができます。
・一の郭 西林寺 上泉伊勢守顕彰碑
・本丸の上泉郷蔵(かみいずみのごうくら)
・玉泉寺 南側
・玉泉寺 仁王像
・出丸から 榛名山ふもと西の箕輪城まで遮るものがなく狼煙もみえる立地
・玉泉寺 南口
・玉泉寺 西側から全景 出丸として機能
・剣聖 新陰流上泉伊勢守信綱
各所で記念碑、顕彰碑、案内板、説明資料「剣聖の里ガイド」があり、これを参考に致しました。
2021年05月16日 見城
荻窪城[大胡城 周辺城郭]
荻窪城は、西の湿地帯の天然の堀から見て高台にあり、この堀は南北に走っています。
現在は遊歩道がある公園となっており、さらに北側は散策もできる憩いの公園です。
鶯の鳴き声や、トンボ、蝶が飛び交い、本郭を目指す間ゆっくり自然を満喫しました。
駐車場は、荻窪南公園のグランド付近に駐車して、北側から南へ向かい、いったん市道を渡り、さらに南へ歩いてゆくと左手の高台が本郭です。
木々が生い茂り日陰になっており、土塁、空堀が残っています。しばし古の情景を想像しました。
・新緑の本丸。
・荻窪南公園は、本郭の北側で散策路あり。
・西堀北側の湿地帯と木橋の小路。
・西堀から本郭に向かい這い上がると横堀。
・右手は本郭北西の高台。
・本郭 西の堀から。
・本郭から西の堀を見下ろす。
2021年04月12日 まー刑部卿
枡形門[大胡城 遺構・復元物]
枡形門に石垣があります。
除草してあればまた見映えが違うかと思います。
2021年04月12日 まー刑部卿
大胡城
トンネル前に城址碑があります。車は二の丸に駐車可ですが本丸跡にも停められました。二の丸跡の標柱脇に説明書きと共に想像図が描かれています。二の丸から本丸への土橋渡ったところに記念碑の石碑あります。
2021年02月21日 ゆっくり春夏秋冬
大胡城
大胡は寺の多い町と言われ、大胡城の周辺にも城の防衛的な役目をしていた寺があったようです。大胡神社は近戸曲輪となります。二ノ丸北西に「玉蔵院曲輪」がありますが今は、歩くとパキパキ気持ちいい音が聞ける竹林です。
2021年02月18日 真田上野介信吉
嶺城(田中城)[大胡城 周辺城郭]
戦国時代、日本各地に大小、多くの城が築城されました。芳賀地区にも9か所の砦や城址があります。
嶺城は、戦国時代の丘城で田中城ともいわれます。古文書によると田中(嶺)城は永禄時代(1558~1570)中期に北條丹後守(前橋城の城代の一人)により造られ、この家臣の田中大弐が居城していたと記録されています。
城は並郭式(連郭構造の城で、本郭が中央にある)の丘城で、本丸は意外な程小さく、南北40㍍、東西70㍍にすぎないが、その北と南に連なる郭は大きく、それぞれの郭の間には堀切(空堀)があります。堀切は驚くほど複雑で大掛かりなものです。城域は東西最大200㍍で、南北の全長は500㍍あまりです。
ー説明板よりー
説明板にも記載の通り、前橋(厩橋)城の城代であった北条高広の築城から、前橋城の周辺城郭でスポットを立てることも考えましたが、大胡城の方が約2㌔程近いことから大胡城の周辺城郭としました。
ありがたいことに、地元自治会による見学者駐車場、また北第3郭と北第4郭の堀切に登城口を設けてくれています。
この登城口には散策にあたっての注意書きがありますから、一読後散策開始です。
堀切の突き当たりからは、帯郭にも見えるような幅の横堀を本丸目指して歩きます。
北第3郭→北第2郭の切岸を左手に、本丸と北第2郭の堀切堀底からは本丸への急斜面。この急斜面には手摺と階段が付けられているので楽に登り降り出来ます。
本丸南側に回り込み土塁の切れ間が虎口となります。本丸は綺麗に整備されていました。本丸南側は南第2郭と南第3郭。こちらは物凄い竹藪です。
嶺城は私有地です。地元自治会の方々のご尽力により、ありがたくも散策させて頂く、という感謝の気持ちでリア攻めしましょう。
2020年11月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
荻窪城[大胡城 周辺城郭]
群馬県の前橋市にある荻窪城♪
大胡城の支城の一つとして機能しました☆
築城年は不明ながら城主は豪族である赤荻一族と伝わります☆
南北朝時代には足利尊氏の末派で赤荻主馬之介智宣・同弾正智則がここに居城していたと古文書に記されてます☆
城としては主郭、副郭、三郭、四郭と4つの郭から主要部分を形成☆主郭と副郭を同列に配置して三郭、四郭を下に配置します☆
主郭、副郭の背後には空堀を置き下の三郭へ廻し込み城を守ります☆城郭の東西は谷になってます☆
2020年11月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大胡館(養林寺館)[大胡城 周辺城郭]
群馬県の前橋市にある大胡氏館跡☆この館跡は大胡城の直ぐ近く養林寺がその場所になります♪
大胡氏は鎌倉から室町時代にかけて上野国(現・群馬県)で勢力を持った上州八家の一つとなります☆
大胡氏の始まりは大胡太郎に始まります☆
治承・寿永の乱では源氏方で参加していて『平家物語』にも源頼朝軍に集った関東各地の武将の中に大胡太郎の名が残ります☆源範頼の九州征伐に従軍する中にも大胡氏の名前があり大胡三郎実秀が記載されてます♪鎌倉幕府の下で御家人として活動しました☆
現在、館跡である養林寺の背後には空堀が一部残ります☆大胡城の後の城主の牧野氏の墓も残っています♪大胡氏の後の城主は牧野氏♪この牧野氏は徳川家康の合戦にはほぼ全て出ているんじゃ無いか☆と言う位の猛者中の猛者様です☆
争いの絶えなかった上州の地だからこその人選だったのでしょう☆
話変わり養林寺をウロウロして居たら草刈りをしているお爺ちゃんに声を掛けられました☆そのお爺ちゃんが上がって行けと養林寺の歴史のビデオを見せてくれました☆
お爺ちゃんは住職様だった訳ですが、
ビデオを見た後に住職様のカミングが☆何と思えば住職様は北条氏邦様の末裔でした☆
※養林寺をアップ許可済み♪
帰る時に頂いたパンフレット見たら苗字が北条…♪ぶったまげましたw
北条氏は秀吉による小田原征伐の跡、生き残り組は身を潜める様に仏門に入った方が多かった様です☆その名残が今を生きている☆
何だかご縁に感謝したいそんな大胡氏館でした☆
因みに…余談ですが、徳川家康の家臣である牧野氏の墓を今も守っている、北条氏の末裔☆何だか不思議☆
牧野氏が家訓としていた【常在戦場】常に心は戦場にあり♪心に響きました☆
更に牧野氏が軍旗にした【五間梯子】♪
行かれた際は是非是非住職様にお会いしてみて下さい♪凄く面白いお話が聞けます☆
出会いって素敵ですね♪
優しいお爺ちゃん♪
また遊びに行くね☆
住職様☆
2019年05月26日 牢屋見廻り同心マダオ
荻窪城[大胡城 周辺城郭]
荻窪城は大胡城の支城の一つで、築城時期は不明ですが、古文書には文和二年(1353年)に足利尊氏の末派で赤荻主馬之介智宜、同弾正智則が居城したとあります。この事から、更に古い時代に築城されていたと思われます。
遺構は比較的良好に残っており、土塁や堀が良く確認出来ます。
2019年05月19日 牢屋見廻り同心マダオ
長善寺 大胡太郎の墓[大胡城 寺社・史跡]
長善寺は大胡太郎または大胡左馬助が開基したと言われています。
墓地にある大胡太郎の墓は異型多宝塔と言われる形式で、塔身左側下部に貞和三年三月廿二日と銘文が刻まれています。これを大胡太郎の墓とすれば1347年には長善寺は創建されていたと考えられます。
2019年05月19日 牢屋見廻り同心マダオ
大胡館(養林寺館)[大胡城 周辺城郭]
大胡館は鎌倉時代、大胡太郎実秀の館と言われています。大胡城の西に位置し、平時は居館として使われていたと思われます。養林寺本堂裏に土塁と堀が残されています。
館跡に建つ養林寺は大胡太郎実秀が浄土宗の草庵を建立したのが始まりで、その後は衰退しますが、天正十八年小田原合戦後、関東に入った徳川家康の家臣、牧野康成が大胡2万石で大胡城に入り、養林寺を再興し、牧野氏の菩提寺としました。墓地には牧野氏累代の墓があり、墓地入口には徳川歴代将軍の供養塔もあります。
2019年04月24日 日高守きこりん
近戸郭北の堀[大胡城 遺構・復元物]
大胡神社が鎮座する近戸郭の北に城域を画している堀が残っています。藪ですが素晴らしい堀なのでお見逃しなく。一部が墓地になっていて、堀底に降りていけます。
2019年04月24日 日高守きこりん
二の丸駐車場[大胡城 駐車場]
本丸のある台地を目指して東側から住宅地の細い道を入っていくと、狭いトンネルが現れて躊躇われますが、これを潜ると広い二の丸の駐車場に到着します。そこは既に素晴らしい遺構たちの真っ只中!
2015年11月01日 牢屋見廻り同心マダオ
大胡城
大胡城周辺史跡
養林寺:堀越町1259
大胡氏の居館跡で後に牧野氏が、この地に養林寺を建立。本堂裏に堀と土塁現存。牧野氏の菩提寺であり牧野氏墓所があります。(トイレ有)
長善寺:堀越町1240
大胡太郎左馬助開基の寺。伝大胡太郎の墓がある。山号「豊国山」は豊臣秀頼公真筆書に由来。
長興寺:茂木町26-1
大胡城主牧野氏の重臣で伊勢崎藩主の稲垣氏の菩提寺。牧野氏家老山本氏や前橋藩酒井氏家老大河内氏の墓があります。
正円寺(正圓寺):堀之下町162
大胡城北門が移築されています。
西林寺:上泉町1145
剣聖上泉伊勢守墓所。
上泉城:上泉町1168-1
現上泉町自治会館。会館駐車場に上泉伊勢守銅像と顕彰碑、説明板あります。
荻窪城:荻窪町字屋敷
大胡城の支城。平城で堀が現存しています。説明板あり。
2014年01月03日 中務卿一之介
大胡城
規模の大きい空堀、土塁、土橋など多くの遺構が残っています。「現在の登城口」であるトンネルの脇に「大胡城跡」と掘られた石碑がなければ、城跡だとは気づきません。
平山城で群馬県指定の史跡なのに、案内板は一つだけ。それぞれの遺構を紹介するプレートくらい立てればいいのに、と思いました。
2013年12月10日 田部朝臣土持安房守
大胡城
現状、比較的それほど広い面積のある方ではない城にしてはしっかりといろいろ遺構が残っています。 駐車場に関しては、城の中に乗り込む事が出来、駐車場?といえない事もない 場所があるので大丈夫です。それにしても、だれが城の横っ腹にトンネルを掘ったのでしょうね?アクセスは容易になっていますが、本来の攻城ルートが惑わされてわかりづらくなっています。それだけが残念。
大胡城の周辺スポット情報
近戸郭北の堀(遺構・復元物)
水の手門(遺構・復元物)
枡形門(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
大胡神社北の大堀切(遺構・復元物)
大胡城北門(裏門)【移築門】(遺構・復元物)
塔の堀(遺構・復元物)
嶺城説明板(碑・説明板)
兎替戸砦説明板(碑・説明板)
大胡館(養林寺館)(周辺城郭)
荻窪城(周辺城郭)
嶺城(田中城)(周辺城郭)
上泉城(周辺城郭)
大室城(周辺城郭)
西荻窪城(周辺城郭)
西新井城(周辺城郭)
長善寺 大胡太郎の墓(寺社・史跡)
牧野家墓地(寺社・史跡)
二の丸駐車場(駐車場)
嶺城見学者駐車場(駐車場)
近戸郭(大胡神社)(関連施設)
秋葉台(関連施設)
嶺城登城口(その他)
北城(越中屋敷)跡(その他)
南郭・三の丸堀跡(その他)
西郭跡(その他)