前橋城(まえばしじょう)

前橋城の基本情報

通称・別名

所在地

群馬県前橋市大手町1

旧国名

上野国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

型式不明[3重3階/1601年築/破却]

築城主

長野方業、松平直克

築城年

15世紀末、文久3年(1863)

主な改修者

酒井重忠

主な城主

長尾氏、上杉氏、平岩氏、酒井氏、松平氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

石垣、土塁、堀

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

石倉城(群馬県前橋市)[0.6km]
蒼海城(群馬県前橋市)[2.4km]
阿内城(群馬県前橋市)[5.7km]
島名城(群馬県高崎市)[6.6km]
剣城(群馬県渋川市)[8.3km]

前橋城の解説文

前橋城(まえばしじょう)は上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった日本の城。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。

利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城。周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。
前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。

歴史・沿革
室町時代・安土桃山時代・江戸時代前期
前橋はその旧名を厩橋といった。このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。
城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。
伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534年)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。ただしこの厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢としか判明しない。学説上で明らかなのは長野氏によって築城されたことのみである。

天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。一説には城主の長野賢忠が城を明け渡し長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移ったという。
なお石倉城を破壊した利根川はこの天文年間までに厩橋城の西へと流路を完全に移している。

永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取る。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされる。年代に諸説あるが、この時期に厩橋長野一族は上杉家の家督を継いだ景虎改め政虎に断罪され粛清された。賢忠が病気を理由に攻防戦に参陣しなかったからとも、玄忠(賢忠?)の子・彦太郎の馬が暴れたのを謀反と勘違いされたとも言われる。また上杉家の謀略だったともされる。城はその後再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられた。だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより周辺は再び北条家の勢力圏となる。

その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。

高広は謙信の死後の天正7年(1579年)勝頼率いる武田方に降伏、引き続き城代として残るも、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると織田方の滝川一益に城を引き渡す。同6月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上野国から撤退、厩橋城は後北条氏の元に入る。

天正18年(1590年)小田原の役に際して豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康が家臣平岩親吉を厩橋城に置き3万3千石を与える。慶長6年(1601年)の関ヶ原の戦いの後、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。...

前橋城の口コミ情報

野呂利駿河守休三様[2015年04月15日]
土塁の遺構は県庁周辺の本丸だけでなく、現在前橋公園の北郭のものが残っています。
堀跡はほぼありませんが、裁判所の西と南に名残が残ります。

北郭の北の空堀跡は初代群馬県令の楫取素彦(小田村伊之助。杉文の二度目の夫)らによって建てられた迎賓館の臨江閣の庭と、るなぱあく(遊園地)になっています。

県庁の南にある清光寺は楫取素彦夫妻によって創建された寺で、かつての南郭内の道路に位置します。松の巨木が本堂前と墓地にありますが、両方とも城の松と考えられています。

参議一之介様[2015年03月14日]
解説に「遺構の保存状態はよくない」とありますが、見事な高い土塁がいい状態で保存されています。
数少ない遺構のひとつである車橋門跡は、場所がわかりにくいですが、検察庁近くに古い建物の医院があり、その裏手あたりにあります。私は、土塁前に建っている縄張り図を利用した案内板のおかげで見つけられました。

県庁に併設されている昭和館で、2016年1月末まで「花燃ゆ」の特別展示を開催中です。

牢屋見廻り同心マダオ様[2015年02月20日]
前橋城(県庁)南、紅雲町にある龍海院には前橋藩主酒井氏歴代の墓があります。初代が酒井重忠で、九代酒井忠恭の時に姫路に転封になりました。
初代・重忠、二代・忠世、三代・忠行、四代・忠清、五代・忠挙、六代・忠相、七代・親愛、八代・親本、九代・忠恭、十代・忠以、十一代・忠道、十二代・忠実、十三代・忠学、十四代・忠宝、十五代・忠顕、伊勢崎藩主初代・忠寛、六代・忠良の墓があります。

牢屋見廻り同心マダオ様[2015年02月20日]
解説以外の遺構として遊園地「るなぱあく」がある場所は外堀になります。道路との段差が掘だと確認できます。
また関連文化財として
酒井重忠肖像画(源英寺)、酒井家資料129点・松平大和家記録(前橋市立図書館)、松平家奉納能装束一式・陣羽織・軍配(東照宮)、松平大和家甲冑(総合教育プラザ)、松平大和守直矩筆絹本著色菊図・松平大和守直矩書写紺紙金泥妙法蓮華経提婆達多品(考顕寺)、家老小河原左宮の甲冑附旗差物(個人蔵)、松平大和家歴代肖像画附その他10幅などがあります。ただし、非公開の物もあります。

イダッチ内膳正ヨッチャン様[2013年11月25日]
県庁から東に少し行った所に、車橋門跡の石垣が残っています、大通りから少し入った路地にあり、やや分かりにくいですが数少ない前橋城の遺構です。

尾張守ひろっちぃ様[2013年01月14日]
市役所裁判所 公園周辺がかつての前橋城の縄張り。ただ役所のため中に中に入れないところが殆ど

徳川内大臣源朝臣康武様[2010年09月24日]
本丸にある群馬県庁展望台から見下ろすと、縄張図を見るように現存土塁の屈曲がよくわかります。

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