前橋城(まえばしじょう)

前橋城の基本情報

通称・別名

所在地

群馬県前橋市大手町1

旧国名

上野国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

型式不明[3重3階/1601年築/破却]

築城主

長野方業、松平直克

築城年

15世紀末、文久3年(1863)

主な改修者

酒井重忠

主な城主

長尾氏、上杉氏、平岩氏、酒井氏、松平氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

石倉城(群馬県前橋市)[0.6km]
蒼海城(群馬県前橋市)[2.4km]
阿内城(群馬県前橋市)[5.7km]
島名城(群馬県高崎市)[6.7km]
剣城(群馬県渋川市)[8.3km]
北新波砦(群馬県高崎市)[8.6km]
高崎城(群馬県高崎市)[9.2km]
大胡城(群馬県前橋市)[9.4km]
箕輪城(群馬県高崎市)[9.9km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[10.2km]

前橋城の解説文



前橋城(まえばしじょう)は、群馬県前橋市(上野国群馬郡)にあった日本の城(平山城)。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。車橋門の跡が前橋市の史跡に指定され、酒井氏に伝わる城絵図が市指定重要文化財に指定されている。

概要 

利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城で、周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。

歴史・沿革 

室町時代・安土桃山時代

前橋はその旧名を厩橋[1]といった。このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。

伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534年)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。ただしこの厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢としか判明しない。学説上で明らかなのは長野氏によって築城されたことのみである。

貞享元年(1684年)編纂の『前橋風土記』は、厩橋城は延徳元年(1489年)に固山宗賢、長野左衛門尉により築城されたとする。固山宗賢の俗名を、長昌寺の記録では長野方業とし、橋林寺の記録では長野景信とする。『前橋風土記』はさらに2代目城主を長野道安、3代目城主を道安の子長野弾正入道道賢、4代目城主を長尾賢忠、5代目城主を永禄5年(1562年)に長尾輝虎に従い長尾賢忠を殺害した北条安芸守芳林(北条高広)とする。

確実な史料により判明するのは、大永7年(1527年)の長尾顕景より長尾為景宛書状「厩橋宮内大夫」、天文2年(1533年)の快元僧都記「長野宮内大夫」、永禄10年(1567年)の由良文書中の天文10年(1541年)「厩橋賢忠」、永禄3年(1560年)の関東幕注文における厩橋衆「長野藤九郎」「同彦七良」である。

以上の史料から『前橋市史』では、『前橋風土記』が長尾景虎が厩橋城に進出した時期の厩橋城主を長尾氏とするのは誤りとする。

天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。一説には城主の長野賢忠が城を明け渡し長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移ったという。なお、石倉城を破壊した利根川はこの天文年間までに厩橋城の西へと流路を完全に移している。

永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取り、河田長親が城代となる。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされる。年代に諸説あるが、この時期に厩橋長野一族は、上杉家の家督を継いだ景虎改め政虎に断罪され粛清された。賢忠が病気を理由に攻防戦に参陣しなかったからとも、玄忠(賢忠?)の子・彦太郎の馬が暴れたのを謀反と勘違いされた、などの伝承が伝わる。長野氏の混乱は、上杉家の謀略だったともされる[2]。城はその後、再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられた。だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより、周辺は再び北条家の勢力圏となる。

その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。高広は謙信の死後の天正7年(1579年)、御館の乱で越後の本拠地を失い、勝頼率いる武田氏に降伏した。引き続き厩橋城代として残るも、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、織田方の滝川一益が上州を支配することとなり、高広は滝川に厩橋城を引き渡した。同6月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上州から撤退した。北条高広や上杉氏らのせめぎ合いの末、上州の大半および厩橋城は後北条氏の元に入った。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康の支配するところとなり、家臣平岩親吉を厩橋城に置き、3万3千石を与えた。

江戸時代

関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)2月、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、前橋藩は外曲輪角櫓の取崩し(元禄12年(1699年))、利根川の瀬替え(元禄15年(1702年))、川普請(正徳4年(1714年))といった工事に出費を強いられた。宝永7年(1710年)には所領の分散等と並んで「川欠けにより前橋城が次第に狭くなりつつあること」を理由に元藩主酒井忠挙が老中に転封を願い出ている。

寛延元年(1748年)、被害が本丸にも及び、藩主酒井忠恭はやむなく住居を三ノ曲輪に移転させる普請を幕府に申請し、許可を得て同年12月に地鎮祭を行った。しかし酒井氏は本丸移転の工事を終えることなく前橋城を去った。同年11月に播磨国姫路藩主松平明矩が死去しその跡を幼少の松平朝矩が継いだため、幼主は要地姫路にふさわしくないという理由で翌寛延2年(1749年)正月に酒井氏と所領を入れ替える形で前橋藩15万石への転封が松平朝矩に命じられたためである。以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。前橋入封までに10度の転封を経験して借財が多かった松平氏にとって、転封早々に前橋城の本丸移転の工事を行うことは負担が大きく、結局宝暦2年(1752年)にようやく三ノ丸に御殿建替が成った。

明和4年(1767年)、移転後の御殿にも川欠の危険が及んだため、前橋藩主松平朝矩は幕府の許可を得て前橋城を放棄することとなった。移城先はそれまで秋元氏の居城であった武蔵国川越城である。前橋領は川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は明和6年(1769年)に破却された。以降前橋藩ではなく川越藩と呼ぶ。

領主が去り荒廃した前橋領において、領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、再三にわたり松平家に帰城が請願された。文化14年(1817年)に川越藩主松平斉典に前橋領民から帰城嘆願書が提出されたのに加え、天保9年(1838年)川越藩主松平斉典から前橋への帰城と2万石の加増を願う内願書が幕府に提出されているが、その時点では幕府の許可が下りず帰城は実現しなかった。一度は放棄された前橋城への帰城が取り沙汰されるようになった背景には、天保年間(1830年 - 1843年)に郡代奉行安井政章(安井与左衛門)らにより利根川が改修され、利根川の勢いが西方に反れた事で城郭崩壊の危険度が低くなったことがあった。

横浜開港後、特産の生糸の輸出により利益を得ていた生糸商人ら前橋領民から献金された7万7千両余りを再築資金として、文久3年(1863年)12月、川越藩主松平直克は幕府の許可を得て前橋城の再築を開始した。領民から献金だけでなく労働奉仕を受け前橋城は竣工、慶応3年(1867年)3月、直克が入城し前橋藩が再興した。

再築前橋城の規模は157159坪(約52万平方メートル)におよぶ広大なものだった。

近現代

前橋城再建から半年の後、大政奉還により江戸幕府は終焉、1871年(明治4年)の廃藩置県により前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれたが、他の建屋は取り壊された。第一次群馬県の成立後、1872年(明治5年)6月高崎から前橋に県庁が移転した際県庁舎として用いられ、第十七番中学校伝習所本部として一時用いられたのち、明治14年1881年(明治14年)5月第二次群馬県の県庁が前橋に移った際も県庁舎となった。1928年(昭和3年)に老朽化で取り壊されるまで、群馬県庁舎として使われた。

今日、本丸跡地には1999年(平成11年)に竣工した地上33階・地下4階の鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎、群馬県庁昭和庁舎、群馬県警察本部庁舎が置かれている。また、二の丸跡地には群馬県議会議事堂、前橋市役所、群馬会館が置かれ、三の丸跡地は前橋地方裁判所となっている。三の丸外郭の地が1905年(明治38年)に整備され、前橋公園となった。現在の城址は市街化が進み、城の面影は少ない。

2021年(令和3年)、発掘調査により大手門の石垣が発見された[3]

伝承・伝説 

「関東の華」

酒井重忠が徳川家康より前橋城を与えられた際、「関東の華を汝に与える」と諭された、と『三河物語』は伝えているという。この逸話はTV[4]、新聞[5]で取り上げられるなど、人口に膾炙している。

しかしながら、『三河物語』中に「関東の華」という語句は現れない。

家康が重忠にかけた言葉を伝えている文書は、150年余り後の『姫陽陰語』『通夜垂言録』『姫路騒動日記』『噂物語』で、前橋藩家老川合定恒が姫路転封に反対する理由として、重忠が家康にかけられた言葉を引用する場面に現れる。この中では家康は前橋城を「宜しき城」「二つと無き城」と呼び、「必々永代所替え等致さず」と続ける。これ以外の『前橋風土記』『直泰夜話』『姫陽秘鑑』といった酒井氏の歴史を伝える江戸時代の文書には、「関東の華」の語句は現れない。

確認できる「関東の華」の初出は、明治24年(1891年)の保岡申之『前橋繁昌記』であり、深町藤蔵による叙文[6]中家康の言葉として「汝ニ関東ノ華ヲ与フ」とある他、本文中にも「家康公関東の花を与ふの語あり」とある。これ以降明治26年(1893年)高橋周楨『近世上毛偉人伝』、明治43年(1910年)『前橋市案内』などに「関東の華」という言葉が見られるようになる。

お虎伝説

前橋城の西、利根川の流れが城に突き当たる地を「お虎が渕」と呼んでいた。上に挙げた城絵図では、絵図上方に「虎ヶ渕」の字が確認できる。ここは前橋城の御殿女中「お虎」が沈められたとの伝説があり、このお虎の怨念によって前橋城は欠け落ちたと言われ、群馬県庁裏にお虎を祀ったとされる「虎姫観音」が現存している。

暁風中島吉太郎『伝説の上州』中ではお虎伝説について3種が紹介されている[7]

1.お虎は稀代の美女であったので、恋慕の情を抱いた前橋城の家老がある時お虎に言い寄るが、つれなくされてしまった。かえってお虎に憎しみを抱いた家老は殿様に讒言し、怒った殿様の命令でお虎は沈められた。 2.お虎は16の時に殿様に見いだされ城に上ったのだが、そのとき思いを交わしていた男があった。祭りの日に城下町へ出る機会のあったお虎は、かつての思い人を見いだし、約束を交わし別の日に男と逢った。これが殿様の知るところとなり、殿様の怒りを買ったお虎は沈められた。 3.お虎は美しく、立居振る舞いもしとやかで殿様の寵愛を一身に集めたので、嫉妬した他の女中達は、殿様の御飯に折れた針を仕込み、お虎に罪を被せた。怒った殿様はお虎を蛇や百足を入れた瓶<a id="wiki-annotation-modal-8" class="footnote" onclick="javascript:showAnnotationModal('近藤義雄『図説・前橋の歴史』では「木箱」とする。')">[8]</a>に押し込めて生きたまま沈めさせた。

『六臣譚筆』を引用する『姫陽秘鑑』には、平岩親吉が前橋城主だった時代に、虎という女の縫った小袖に針が誤って残っていたことから親吉は激怒し、女を生きたまま蛇蜈蚣とともに桶に入れて沈めた、という3番目の伝説に関連した説話がある。

長壁姫

遺構 

開発が進み遺構の保存状態は良くないが、石垣(車橋門跡等)、土塁(群馬県庁北側、前橋公園内等)、堀の一部が良く残る。建造物としては、市内総社町に城門が移築され現存する。また、松平直方の邸宅が、市内川原町の大興寺内に移築現存する。

臨江閣、るなぱあくが位置するのは東西300メートル、幅70メートルにも及ぶ前橋城の大空堀(自然の地形で、人工の壕ではない)跡である。

また、大手町二丁目の「前橋城車橋門跡」が1964年(昭和39年)12月22日付で市の史跡に指定されている。

歴代城主 

長野氏

  • 長野賢忠:山内上杉氏家臣
越後北条氏
  • 北条高広:上杉謙信、武田信玄、北条氏康に寝返る。
  • 北条景広:高広の子、御館の乱により戦死。
滝川氏
  • 滝川一益:織田氏家臣、神流川の戦いに敗れて伊勢に帰国。
越後北条氏
  • 北条高広:城を落とされ、北条氏邦に従属。
平岩氏
  • 平岩親吉:徳川氏家臣、初代前橋藩主。
酒井氏
  • 酒井重忠:同上、前橋藩主。(以下9代続く)
越前松平氏
  • 松平朝矩:同上、前橋藩主。
  • 松平直克:政事総裁職。
  • 松平直方:前橋藩知事、前橋県知事。

参考文献 

  • 【書籍】「図説・前橋の歴史」
  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」
  • 【書籍】「前橋歴史断簡―知られざる13の謎に挑む―」
  • 【書籍】「前橋市史 第一巻」
  • 【書籍】「前橋市史 第二巻」

 外部リンク  

  • 厩橋城・前橋城(再構築前後の縄張り図)(http://takasakijou.web.fc2.com/maebasijou.html)
  • 「ぐんま一番/幕末幻影 城下見物」(https://www.youtube.com/watch?v=CsP-8byWniw)

前橋城の口コミ情報

2024年08月28日 見城
前橋城



・前橋城は、暴れ川の坂東太郎・利根川に翻弄された城郭で、現在の群馬県庁の背後まで、川岸が迫っていることがわかります。
・利根川の西対岸には、石倉城があり、現在の中央大橋でつながっています。
・その中央大橋の上から見下ろすと、幾多の暴れ川による氾濫の影響を受けた前橋城西岸河川敷は、最も川に近いところが、親水公園となっています。
・公園内は、人口の滝と幾何学的な池を配置し、そこからその東の県道を挟み、人口の滝をくぐり抜け、利根川と並行にながれる広瀬川を越えると、群馬県を形取った、前橋公園・さちの池があり憩いの場となります。
・その奥の頭上に見える断崖上は、前橋東照宮が鎮座する近世の前橋城、三の丸北の土手曲輪、柳原口内です。
・川に翻弄された歴史がある城郭周辺は、県庁、幸の池、親水公園等として整備され、歴史の散歩路となっています。

2024年06月12日 とりこ武蔵守
前橋城



現在は群馬県庁になっています 当時を忍ぶものは県庁裏側に土塁や石垣が残っているくらいです 芝生をぐんまちゃんが芝刈りパトロールしていました

2024年03月29日 小野右馬頭梵天丸
前橋城



遺構はほとんど残っていないですが、県庁の近くに巨大な土塁があり、当時の前橋城の規模を想像することができます✨

2023年09月25日 そらみつ能登守
前橋城

前橋市役所内なのでアクセスは楽ですが駐車場料金がかかります

2023年07月02日 DAI.右馬助
前橋城



今は群馬県前橋市にある県庁所在地がこの前橋城🏯建築物は明治維新後の煉瓦建て建物やそびえ立つ県庁ビルですが、その周囲はしっかりと城郭時代の土塁跡が残っております🎵

2022年11月27日 エスエム☆飛騨守スナイバー
前橋城

城跡は県警本部、県庁の敷地になっていて、県庁の一角に碑があるだけです。土塁も少しある程度です。

2022年10月30日 マグロ常陸介祐平
前橋城



群馬県庁の周りには高さのある土塁がよく残っています。近くの龍海院には前橋藩主酒井氏歴代の墓が見ることができます。また、長昌寺には最上氏の重臣本城(旧楯岡)氏の墓があります。

2022年08月12日 菊左近衛少将
前橋城

厳かな煉瓦造りの県庁舎になってました。東照宮から公園を抜けてあるきました。

2022年08月02日 水城豊前守蠣瀬
前橋城



県庁の駐車場は2時間無料でしたよ。大きな土塁が堪能出来ます。

2022年05月06日 陸奥守新九郎
前橋城



県庁まわりという前橋市の中心域となっていますが、大規模な土塁が残ります。残念ながら、戦国期の痕跡はほとんど残っていませんが、近世城郭としてはなかなか見事な残り具合です。土の城の妙を楽しめます♩

2022年03月25日 見城
八幡山砦[前橋城  寺社・史跡]



八幡山砦は、現在八幡山古墳として、綺麗な公園となり、あともう少しで桜を愛でることが出来そうです。前橋の上細井カルタにも戦国の砦と歌われております。
戦国の館の跡は八幡山

2022年03月13日 まー刑部卿
空堀跡[前橋城  遺構・復元物]



お堀跡だけあって道路との高低差が現在でも5mはある。また石が多数あるがこれは石垣の名残かどうかは確認していません。現在は前橋市民の懐かしい憩いの場、るなぱあくになっています。

2022年03月02日 まー刑部卿
前橋藩刑場跡供養塔ならびに道しるべ[前橋城  碑・説明板]



『前橋藩刑場跡供養塔は天文12(1841)年、当時の天川原村の68名の世話人により刑死者の霊を弔うため建てられました。揮毫は、現在も三河町にある養行寺の住職で当時書士として知られていた行妙です。
供養塔は、これまで道路の改修に伴って数回にわたって移動され元々は道路の北側、高架下付近にあったといわれています。
道しるべは安山岩の自然石を用いて、その正面に【南無阿弥陀仏】その右側に【寶暦五歳】(1755、左側に【亥十月吉日】とあり、その下に、【右 江戸みち 左 あ徒満道(あずまみち)】とあります。』
と説明板に書かれています。
前橋市指定重要文化財。
高架下そばに公園がありますが刑場跡を示すものは何もありません。また供養塔のある県道2号線は車の往来が多くよく渋滞しています。この道は前橋藩や沼田藩が移動する主要道だったそうです。現在、中央分離帯に松並木が植えられており当時一人刑死するごとに松の木を一本植えたということです。
駐車はパチンコ店のマルハンの広大な駐車場に停めました。

2022年02月19日 まー刑部卿
伝城内の松[前橋城  その他]



植えられている《清光寺の由来》の案内板から
『境内の二本の松(前橋市指定樹)は旧城内の松と考えられる。同じく指定樹の二本の銀杏は植樹時不明であるが、説教所開設に因んで植えられたものと思われる。』と書かれていました。

2022年01月19日 まー刑部卿
藩営前橋製糸所跡[前橋城  碑・説明板]



平成22年12月10日に建立された石碑があり除幕式には当時の市長ほか数多くの出席者が参列され約160余名の個人・団体の寄付で建立されました。
石碑横に『日本最初の器械製糸場である藩営前橋製糸所は明治三年(一八七〇)六月、前橋藩士深澤雄象・速水堅曹によって細ヶ沢町(現住吉町一丁目)にイタリア式操糸法を導入して創設された。三カ月後の同年九月、岩神村観民(現岩神町二丁目)のこの地に移転してから本格的に操業され、全国から先駆者たちがここに集い、技術を習得して各地に器械製糸所が新設された。まさに日本近代製糸業の出発点である。廃藩置県によって明治五年(一八七二)七月に県の管理に移され、その後、小野組さらに勝山宗三郎へと経営は変遷し大渡製糸所と呼ばれた。明治三十一年(一八九八)まで操業され一貫して高品質の生糸を作り続けて国内はもとより海外からも高い評価を受けた。藩営前橋製糸所開設から百四十年にあたりその歴史を刻むため有志によりここに碑を建立する。』と書かれています。

2022年01月19日 まー刑部卿
石垣(移設)[前橋城  遺構・復元物]



臨江閣本館脇にある石垣は前橋城に数少ないおそらく城門の礎石だろうと館内に居る職員の方に聞いてみたところその後、その方が文化財課の方に直接連絡を取って頂き前橋城の石垣を取り壊す際に移設した、ということが判明しました。
ただどこからの移設かは不明です。

2022年01月17日 まー刑部卿
永寿寺(えいじゅうじ)[前橋城  寺社・史跡]



松平大和守家祈祷指南処。姫路城主時に開基し転封のたびに移転。明治四年に現在地に移る。境内に駐車可。

2021年09月20日 「徳川軍」右馬頭謙信
前橋城

群馬県庁により遺構はほとんど見られません。都市開発は悲しいものですね。県庁の駐車場にある土塁は山城を除くと県内最大級。石垣はうっかり見落としそうなところにあるので看板を読むのが大事です。近くにある酒井家の菩提寺、龍海院には前橋藩主の酒井家と姫路藩の酒井家の墓があります。駐車場があるので前橋城のついでに行ってみてください。

2021年08月03日 織田上総介晃司
前橋城

平日は県庁来訪者駐車場に停める事ができます。(土日祝は駐車不可)

本丸のほとんどが群馬県庁と群馬県警本部のため遺構は少なく、本丸土塁と離れた場所に車橋門跡があるくらい(民家やビルの間にあるので探すようになります)

群馬県庁は元日開催のニューイヤー駅伝のスタート及びゴール地点となります。

2021年05月30日 夜叉姫上野介
前橋城

本年1月に本市本町一丁目の工事現場で前橋城大手門の石垣が発掘された事を記念して、6月1日より前橋市物産振興協会のオンラインショップで「前橋城大手門石垣発掘記念御城印」セット第3弾が発売されます。前橋城のほか大胡城・膳城等、さらに発掘された石垣が酒井雅楽守忠清公時代のものと推定されることから酒井重忠の武将印を含めた4枚一組のセットとなっています。

オンライン限定で300セットを販売するほか、7月25日に粕川公民館で開催される「近代城郭を探る」の会場と翌26日から前橋物産館であわせて300セットが販売されます。

なお今回もネット販売版には朱印はなく、企画展「前橋城大手門現る―発掘された前橋城―」の期間中(現在まん延防止措置中のため休止中、6月16日再開予定、9月5日まで)に粕川歴史民俗資料館に持参すると「訪城記念」の朱印を押印していただけます。

【同時販売】
石垣発掘記念に沸く前橋、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一も訪れた国指定重要文化財の臨江閣印も6月1日から前橋物産館で販売。

(1)御 城 印 前橋城大手門石垣発掘記念 特別御城印セット
御城印(前橋城大手門発掘記念、大胡城、膳城)、武将印(酒井重忠公)4枚1組
※ オンライン販売のみ戦国・三国志武将イラスト第一人者の長野剛氏が描く上杉謙信公特別印を1枚お付け致します。

(2)販売時期 オンライン販売:令和3年6月1日(火)午前9時から
店舗等での販売での販売:令和3年7月25日(日)から

(3)販 売 数 オンライン限定300セット、店舗販売限定300セット、

(4)販 売 額 オンライン販売2,000円(郵送料込み)、店舗販売1,500円

(5)販売方法 オンライン販売:前橋物産館ヴェントマエバシ オンラインショップサイトを利用

店舗等での販売:粕川公民館(7/25のみ)、前橋物産館(7/26~)

第2弾は完売
上杉謙信の武将印は、カッコいいです
詳細は、前橋市物産振興協会HPで


2021年05月05日 まー刑部卿
前橋藩主酒井雅楽頭家墓所[前橋城  寺社・史跡]



酒井氏の菩提寺の龍海院にあり山門(文政年間築)前に駐車場があります。
山門を潜り本堂(文政年間築)左脇に進み墓地の中を進むと【前橋藩主酒井氏歴代墓地(前橋市指定史跡)】入口があります。案内図を見ると前橋藩主のほか姫路藩主、伊勢崎藩主になった方々のお墓があり年代によってお墓の形が違っています。前橋藩・姫路藩十五代の藩主の方々のお墓はほぼ原状のまま(一部傾いているものもあり)入口脇に陣屋杉(枯渇し根元のみ)がありますが説明板の字が薄れてよくわかりません。また龍海院墓地には前橋市初代市長で名誉市民第一号の下村善太郎氏のお墓もあります。

2021年05月04日 まー刑部卿
旧前橋城冠木御門(移築門)[前橋城  遺構・復元物]



民家に移築されています。駐車するスペースは門の前にゼブラゾーンがあるのでそこに駐車しました。標柱もあるのでわかりやすいです。

2021年03月29日 見城
金山城[前橋城  周辺城郭]



金山城は、南東に九十九山古墳を利用した砦を構えた城郭で、その北西部に東から、本城、中城、西城と東西に連なり、西側は細ヶ沢川を利用した堀が外郭となっています。

本城は桑畑に石碑が建っており、その西側から南側にかけては低地になっています。低地はそこに旧利根川が流れていた名残りであり、城郭はそこから高台に位置していることが、現在もよく判ります。

城郭は個人様所有宅ですので、迷惑にならないよう注意をお願い致します。

2021年02月15日 上泉上野介章綱☘️
前橋城



本町一丁目の工事現場において、前橋城大手門の石垣が発見されました。切込接の美しい石垣です。確認されたのは一部ですが、前橋城絵図による位置や、発見された石垣の大きさから、これまで確認されていなかった江戸前期酒井雅楽頭時代の前橋城大手門の石垣の一部である可能性が高いと考えられます。現在わずかに面影を残す前橋城は、再築後のものであり、酒井氏在城時の姿を伝える遺跡は市指定史跡の車橋門のみで、今回の大手門の発見は貴重なものだそうです。

2021年02月15日 まー刑部卿
前橋城大手門跡[前橋城  遺構・復元物]



 前橋市役所HPより『前橋城の正面玄関として江戸時代前期に造られた「大手門」の石垣の一部が前橋市内の工事現場で見つかった。前橋城の遺構としては最大規模とみられ、これまで絵図でしか分からなかった石垣の状態や門の正確な位置の把握につながるという。江戸末期の1867年に再築される以前の遺構は珍しい。市教委によると、見つかったのは前橋藩主の酒井家が1600年代後半に造った大手門から伸びる橋のたもとにあった石垣とみられる。石一個当たりの大きさは幅約110センチ、高さ約80センチ。市指定文化財の車橋門(同市大手町)の石垣より大きく、表面を加工して隙間なく積んだ「切込接(きりこみはぎ)」になっている。
 周辺の堀跡から瓦や、しっくいが付いた木片も大量に見つかった。前橋城は酒井家に続く藩主の松平家が1767年に川越に移ったのを機に破却されており、その際に壊され、堀に投げ込まれた建造物の一部とみられるという。石垣は先月末、再開発ビルの工事中に地表から1.5メートル下で見つかり、工事を一時中断して市教委が発掘や調査研究を進めてきた。石垣は調査後に埋め戻して現状保存する予定だが、堀跡から見つかった建造物の一部は、建築予定の建物敷地内で公開する方向で調整している。』
本日2/15 10:00〜雨が降り続く中、現地説明会を開催。報道会社も多数見られた。明日以降埋め戻す予定であると市役所の方がおっしゃってました。

2021年01月05日 芦屋能登守虎吉
前橋城



群馬県庁が城跡です。本丸周囲には土塁も遺され、北曲輪から空堀辺りは今でも高低差がはっきりわかりますので(萩原朔太郎生家横の庭園(臨江閣)は昔の空堀を活用してます)、何もない、と言われるほどなにもなくないです。坂東太郎に削り取られた歴史も、県庁展望台に登ればよくわかりますよ。

2020年11月23日 おかねい
前橋城

遺構、思ったよりもきれいに残っていました。土塁、堀も。るなぱーくはコロナ対策の入場制限があり、長い行列で入るのに時間がかかりました。

2020年07月29日 真田上野介信吉
車橋門跡[前橋城  遺構・復元物]



前橋城車橋門は外曲輪から三の丸、本丸への重要な門で、前方は馬出し状になっていました。
区画整理により石垣は8㍍程狭められてしまっている為、少し不恰好に映るかもしれません。

三の丸にある前橋地裁前の道を進み、法務総合庁舎右前方の細い路地へ。そこを更に数十㍍進むと右側に石碑が現れます(添付写真)。
一見、人の家の敷地に入り込むような雰囲気がありますが進みましょう。

本丸は群馬県庁、群馬県警など、城郭は群馬県や前橋市の官公庁となり遺構は余りありません。そういった中で、車橋門跡は訪れた際是非見ておきたい遺構ではないでしょうか。


2015年04月15日 野呂利左衛門督休三
前橋城

土塁の遺構は県庁周辺の本丸だけでなく、現在前橋公園の北郭のものが残っています。
堀跡はほぼありませんが、裁判所の西と南に名残が残ります。

北郭の北の空堀跡は初代群馬県令の楫取素彦(小田村伊之助。杉文の二度目の夫)らによって建てられた迎賓館の臨江閣の庭と、るなぱあく(遊園地)になっています。

県庁の南にある清光寺は楫取素彦夫妻によって創建された寺で、かつての南郭内の道路に位置します。松の巨木が本堂前と墓地にありますが、両方とも城の松と考えられています。

2015年03月14日 中務卿一之介
前橋城

解説に「遺構の保存状態はよくない」とありますが、見事な高い土塁がいい状態で保存されています。
数少ない遺構のひとつである車橋門跡は、場所がわかりにくいですが、検察庁近くに古い建物の医院があり、その裏手あたりにあります。私は、土塁前に建っている縄張り図を利用した案内板のおかげで見つけられました。

県庁に併設されている昭和館で、2016年1月末まで「花燃ゆ」の特別展示を開催中です。

2015年02月20日 牢屋見廻り同心マダオ
前橋城

前橋城(県庁)南、紅雲町にある龍海院には前橋藩主酒井氏歴代の墓があります。初代が酒井重忠で、九代酒井忠恭の時に姫路に転封になりました。
初代・重忠、二代・忠世、三代・忠行、四代・忠清、五代・忠挙、六代・忠相、七代・親愛、八代・親本、九代・忠恭、十代・忠以、十一代・忠道、十二代・忠実、十三代・忠学、十四代・忠宝、十五代・忠顕、伊勢崎藩主初代・忠寛、六代・忠良の墓があります。


2015年02月20日 牢屋見廻り同心マダオ
前橋城

解説以外の遺構として遊園地「るなぱあく」がある場所は外堀になります。道路との段差が掘だと確認できます。
また関連文化財として
酒井重忠肖像画(源英寺)、酒井家資料129点・松平大和家記録(前橋市立図書館)、松平家奉納能装束一式・陣羽織・軍配(東照宮)、松平大和家甲冑(総合教育プラザ)、松平大和守直矩筆絹本著色菊図・松平大和守直矩書写紺紙金泥妙法蓮華経提婆達多品(考顕寺)、家老小河原左宮の甲冑附旗差物(個人蔵)、松平大和家歴代肖像画附その他10幅などがあります。ただし、非公開の物もあります。

2013年11月25日 イダッチ内膳正ヨッチャン
前橋城

県庁から東に少し行った所に、車橋門跡の石垣が残っています、大通りから少し入った路地にあり、やや分かりにくいですが数少ない前橋城の遺構です。

2013年01月14日 尾張守ひろっちぃ
前橋城

市役所裁判所 公園周辺がかつての前橋城の縄張り。ただ役所のため中に中に入れないところが殆ど

2010年09月24日 徳川内大臣源朝臣康武
前橋城

本丸にある群馬県庁展望台から見下ろすと、縄張図を見るように現存土塁の屈曲がよくわかります。

前橋城の周辺スポット情報

 車橋門跡(遺構・復元物)

 外郭の土塁(遺構・復元物)

 前橋城大手門跡(遺構・復元物)

 旧前橋城冠木御門(移築門)(遺構・復元物)

 空堀跡(遺構・復元物)

 石垣(移設)(遺構・復元物)

 本丸土塁(遺構・復元物)

 前橋城土塁(遺構・復元物)

 再築前橋城復元図(碑・説明板)

 前橋城天守閣推定位置(碑・説明板)

 藩営前橋製糸所跡(碑・説明板)

 前橋藩刑場跡供養塔ならびに道しるべ(碑・説明板)

 前橋城址之碑(碑・説明板)

 前橋城址の碑入口(碑・説明板)

 金山城(周辺城郭)

 前橋東照宮(寺社・史跡)

 前橋藩主酒井雅楽頭家墓所(寺社・史跡)

 永寿寺(えいじゅうじ)(寺社・史跡)

 孝顕寺(こうけんじ)(寺社・史跡)

 長壁神社(寺社・史跡)

 八幡山砦(寺社・史跡)

 東福寺(寺社・史跡)

 隆興寺(寺社・史跡)

 豊川稲荷(寺社・史跡)

 養行寺(寺社・史跡)

 正幸寺(寺社・史跡)

 群馬県庁昭和庁舎(寺社・史跡)

 ヴェントまえばし(御城印)

 県庁来訪者駐車場(平日のみ)(駐車場)

 伝・観民亭(観民御茶屋・観民園)(その他)

 伝城内の松(その他)

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