高崎城(たかさきじょう)

高崎城の基本情報

通称・別名

(和田城)

所在地

群馬県高崎市高松町

旧国名

上野国

分類・構造

梯郭式+輪郭式平城

天守構造

独立式層塔型御三階櫓[3重3階/1597年築?/破却]

築城主

井伊直政

築城年

慶長2年(1597)

主な改修者

安藤重信

主な城主

井伊氏、諏訪氏、松平氏、安藤氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

乾櫓、移築門(東門)、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

県重要文化財(乾櫓)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

倉賀野城(群馬県高崎市)[5.3km]
北新波砦(群馬県高崎市)[5.3km]
島名城(群馬県高崎市)[5.3km]
山名城(群馬県高崎市)[5.7km]
奥平城(群馬県高崎市)[6.3km]
蒼海城(群馬県前橋市)[7.9km]
里見城(群馬県高崎市)[8.6km]
阿内城(群馬県前橋市)[8.6km]
石倉城(群馬県前橋市)[9.0km]
前橋城(群馬県前橋市)[9.2km]

高崎城の解説文



高崎城(たかさきじょう)は、群馬県高崎市(上野国群馬郡高松町)にあった日本の城(平山城)。旧名・和田城(わだじょう)。江戸時代には高崎藩の藩庁となった。城跡の一部が高崎市の史跡に指定されているほか、現存建造物や関係史料が県または市指定の重要文化財に指定されている[1][2]

概要 

高崎城は烏川に沿って築城された輪郭梯郭複合式の平城である。本丸には御三階櫓(天守)と乾(いぬい/北西)、艮(うしとら/北東)、巽(たつみ/南東)、坤(ひつじさる/南西)の4基の隅櫓があった。現存するのは乾櫓(県重文指定)のみである。本丸を囲むように、西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋があり、二の丸、三の丸が梯郭式で構えられていた。城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんど造られなかった。かつて城内には本丸門など16の門があり、通用門として使われていた東門(市の重要文化財)だけが移築復元されて現存している。また、三の丸土塁と水堀は現在の町並みにも活きており、当時の面影を今に伝えている。

現在、城跡は市街化が進み、超高層21階の市役所や音楽センターなど公共施設が多く並ぶ。お堀の周辺は高崎城址公園として、約4.9haが整備されており春には約300本のソメイヨシノやツツジが満開となる。城を囲む土塁の上は遊歩道になっている。

歴史・沿革 

和田城時代

高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城があった。和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われる。

室町時代になり関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属した。永禄4年(1561年)当時の城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄についた。和田城は上杉勢の度々の侵攻によく耐えた。その子、和田信業は、北条氏に属した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城した。和田城の留守を預かる信繁の子・兼業は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月19日(新暦5月22日)に落城し、廃城となった。

高崎城

小田原征伐の後、関東には徳川家康が入部した。家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、慶長2年(1597年)家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為である。翌、慶長3年(1598年)直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。直政は入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開山龍山詠潭和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」との進言により)と名付けたとされている。箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となった。その後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えた。最後の藩主は輝声(てるな)である。松平(長沢・大河内家)は歴代幕府要職に就くものが多かった。

元和5年(1619年)に入城した安藤重信は城の改修に着手した。以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備された。

寛永10年(1633年)には、実兄である3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が当城で自裁した。

明治6年(1873年)廃城令により存城となり、第3師官官内分営所が置かれた。以後建造物は移築もしくは破却され、跡地の大半は歩兵第15連隊の駐屯地として使用された。

考古資料 

遺構

上述の通り、堀と土塁がほぼ残っている。高崎市立中央図書館の正面玄関付近には調査の際に発見された石垣水路と石樋の一部が移築再現されている。

建築物は1974年(昭和49年)乾櫓が市内の農家に払い下げられ移築されて納屋として利用されていたが、群馬県指定重要文化財に指定されたのを期に三の丸模擬石垣上に移築復元された。また、東門も同じく農家に払い下げられていたが1980年(昭和55年)に乾櫓近くに移築復元された。市内の長松寺には徳川忠長が自刃したという書院が移築され、庫裡となっている。

高崎城の口コミ情報

2024年11月03日 藤井刑部大輔晧玄
高崎城



あまり期待しない方がいい。本丸付近にはオフィス、官公庁が建ち並び面影なし。わずかに堀らしき水路と、移築門があるのみ。

2024年10月02日 ひらお上野介
高崎城

リア攻めポイントには城跡が感じられるものはなく、近くの音楽センター周辺には堀や櫓があります。

2024年03月30日 小野右馬頭梵天丸
高崎城



敷地は狭いですが乾櫓はとても見応えがあります。

2024年01月08日 【不楽是如何】まつ2左近衛大将
高崎城



本丸跡地は駐車場でした😢乾櫓、水堀、土塁は確認できます。

2023年10月01日 大膳大夫しろし
高崎城



外堀結構残ってます。井伊直政のマンホールも発見、

2023年08月13日 千葉左京亮太朗
高崎城



櫓と堀と門がありました。本丸は少し離れた場所のようですが、遺構はなさそうでした。

2023年05月30日 RED副将軍
高崎城



市街地の中に土塁と水堀が現存する井伊直政ゆかりの城跡

⁡オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎⁡

歴史は古く平安時代末期に和田義信によって築かれた和田城が前身とされます。和田義信は、有力鎌倉御家人である和田義盛の六男であり和田合戦で壮絶な討死をした人物です。その後、和田氏は関東管領上杉氏の家臣となり、鎌倉公方の足利持氏との永享の乱にも従軍したとされます。

戦国時代になると上杉謙信に属していましたが、反旗を翻し武田信玄に従属。長篠の戦いにも従軍しました。武田氏が滅亡すると小田原北条氏に属しましたが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において和田信業は小田原城に籠城しましたが小田原城は開城となり、和田城も落城しました。和田信業は紀伊国へ逃れ、和田城は廃城となりました。小田原征伐の後、関東に徳川家康が入封。1597年、徳川家康は箕輪城の井伊直政に和田城跡に高崎城を築かせ、地名も高崎と改めます。

1600年、関ヶ原合戦後に井伊直政は近江国佐和山に転封となると、その後は酒井氏、戸田松平氏、藤井松平氏、安藤氏、大河内松平氏、間部氏と目まぐるしく城主が入れ替わります。1717年に再度、大河内松平氏が入部すると代々続き明治を迎えました。

⁡見所
本丸や二の丸の中心部は市役所や公園となり市街化により消失。しかし、周囲を取り囲んでいた三の丸の土塁と水堀が良好に残存しています。また、大手門跡に、二重の乾櫓と東門が移築され現存しています。⁡何故か毎年の様に高崎市に宿泊する機会があり、折角なので土塁と水堀を一周してみました。

2023年04月17日 朽木修理大夫元綱指令【柴】
高崎城

土塁と堀が結構あり見ごたえがります。御朱印も色々な種類がありかっこよかったです。建物は、すごく良かったです。とてもおすすめです

2023年01月06日 まー刑部卿
石上寺跡(廃寺)[高崎城  その他]

高崎城下町探訪 ー歴史と文化財ーより
新義真言宗。寺伝では、貞観16年(874)在原業平が大和国の石上寺を遷したとされる。慶長3年(1598)住職第59世賢芳が井伊直政の高崎城築城時に箕輪から鞘町に移転。元禄3年(1690)に宮元町に移転。明治初期に三ツ寺村(三ツ寺町)の石上寺へ移転。

2022年12月18日 まー刑部卿
石上寺跡(廃寺)[高崎城  その他]

井伊直政公が箕輪城から高崎城へ居城を移した際に移設した祈願所の石上寺がありました。明治10年(1878)に廃寺となったそうです。その跡地に鞘町小学校が前年焼失したため移設され高崎小学校となりその後、中央小学校と改名されました。バルコニーがついたモダンな洋風建築は町民から募った当時約4,500円の寄付金により建てられた、と説明板に書かれています。その後常盤町に移転され現在地は東京電力(株)高崎支社になっています。

2022年12月07日 まー刑部卿
円石(和田三石)[高崎城  その他]

高崎市の古文献である「高崎志」や「更正高崎旧事記」の中でも、この三石のことについて触れられており、和田氏や井伊氏も築城の際には、この名石を使おうとしなかったと書かれています。
“円石”は、もともと上和田の畑にあり、享保年間の末に善念寺の住職が地主に請うて、石工に命じてこれを切らせて門前の橋にした。しかし、名石を橋にして人に踏ませたということで異変があったらしく、その後他に移したが、めぐりめぐって成田町の成田山光徳寺におさまったそうです。
〜高崎市中央図書館資料より〜

2022年11月22日 まー刑部卿
九蔵町の一里塚跡[高崎城  その他]



『井伊直政は中世の中山道を取り込む形で高崎城下を築きました。慶長九年(1604)江戸幕府が、日本橋を基点として東海道や中山道に一里塚の設置を始め、江戸から中山道二十七里の一里塚がここに置かれました。二十六里は江戸方面の佐野柏沢に、京方面の上豊岡に二十八番目が設けられ、上豊岡は県内で唯一残存しています。一里塚が設置され始めた慶長九年に、高崎城主となった酒井家次は同十一年に中山道の道筋を変えました。それまでは赤坂から本町を通り東に直進し、大雲寺の角を南に曲がり通町方面に進んでいましたが、これを本町三丁目で田町・連雀町方面へと曲げ、城下の中心を通す付け替えを行いました。 このことに因り往来は新しい中山道を利用し、この地にあった一里塚は、稲荷の小祠が面影を微かに残すのみとなりました。』と書かれています。

2022年09月07日 まー刑部卿
高崎市歴史民俗資料館[高崎城  その他]



建物は旧群南村役場庁舎で国登録有形文化財。
2階にある高崎城甍の間に貴重な遺物があります。約50年前に山﨑一先生が作成された高崎城模型(1/250)や発掘調査からの遺物、軒丸瓦や軒平瓦、鬼瓦。軒平瓦では高崎で代々瓦師を務めた福島吉兵衛の作とわかる瓦も発見されています。鬼瓦は大河内松平家の家紋の『浮線蝶』(正式名称:臥蝶[ふせちょう]に十六菊)で藩の公有施設の屋根に使用。また資料館倉庫に眠っていた厩の桁材
で厩は現在の柳川町である城の馬場がありました。文久3年(1863)に建造された厩の桁材とわかっているそうです。
入館料無料、資料館前に駐車場有ります。
以前パンフレットとして配布されていた【高崎城下町探訪】というものがあり高崎街図に高崎城下町を重ねたもので高崎城下町を散策するのに快適なものがあります。職員の方に尋ねて下さい。
今回は運良く頂戴しました。

2022年09月05日 アランラッド
高崎城

三の丸の土居と堀は市史跡です。見どころとしてはこれでしょうか?

2022年06月13日 菊左近衛少将
高崎城

本丸はNTTになっていました。近くの歩道橋から見える川と山の景色が、とても綺麗でした。

2022年03月21日 まー刑部卿
井野弁財天[高崎城  寺社・史跡]



現地説明板より
《 ここ井野は、古来沼のような湿地帯で、水深く湧き水の絶えることなく、その霊泉は諸廟を平癒し、五穀豊穣をもたらすと伝えられることから、泉を湧く野『いの』と呼ばれます。
 昔ここに、暴れ者の白蛇がおり、それを高僧が壺に封じ込めて埋め、弁天を祀ったという話が伝わっています。また『夜刀の神』は蛇の形をし、これが現わると人々はみな逃げ出すのでうち殺し、神の地を定めて社を作り祀ったという話もあります。
 このような謂れのある地につき、承応三年(一六五四)高崎城主安藤右京進は御神徳に深い敬崇の念を抱いて、弁財天の祠を建立したのがこのお堂です。弁財天は、金光明最勝王経に出てくる水神で福智を増進し、長寿と財宝をもたらし、天変地異を除き、戦いにおいて勝利をもたらす女神でもあります。》
と書かれています。 

2022年03月01日 まー刑部卿
高崎藩武家屋敷跡[高崎城  碑・説明板]



『江戸時代、現在の柳川町中部と西部は高崎藩武家屋敷でした(東部は藩の馬場)。
そのため当時は町名が無く、明治六年(一八七三)に用水の流れる脇に大きな柳の木があったことから命名されました。武士の住居は藩から与えられたもので、役職が代る度に転居しました。安政四年(一八五七)の城下図に柳川町では三十八名の藩士名が見られ、高崎城下で今日まで場所が変わらずに続く二軒が記載されています。明治初期には宗教家内村鑑三や元日銀総裁深井英五が住んでいました。』と看板に書かれています。

2022年02月25日 まー刑部卿
石垣水路と石樋の一部(移築)[高崎城  遺構・復元物]



以前発掘調査で見つかった水路を移築復元したもの。二の丸堀と本丸堀を繋ぐ水路の役割をしていて二の丸堀の水位が上がるとこの水路を使って本丸堀に流れていく水位の調整の役割を果たしていた水路といわれています。
井伊直政が1598年に高崎城を築いた頃に作られたと発掘された遺物から考えられる。

その後、使用されていくにつれ埋まり天明三年浅間大噴火によりほぼ完全に埋まり奥に見える樋を使われた水路に変わっていく変遷が確認されているそうです。
高崎城は御城御土居通御植物木尺附絵図(かみつけの里博物館蔵)を見てみるといろいろなところに石垣が使われていることが確認出来ますが現在石垣を見ることが出来るのはここの水路のみ(発掘調査で見つかった石垣は地中保存されている)。乾櫓に使われている石垣は昭和の移築復元した時に作られた石垣です。

2022年01月29日 まー刑部卿
乾櫓・東門[高崎城  遺構・復元物]

乾櫓の石垣は昭和の移築復元した時に造られたもので当時のものではありません。当時の高崎城の石垣を見るには高崎市立中央図書館がある総合保健センター前にある石垣水路跡(移設)が築城時の石垣と言われている。また東門は三の丸東門の説や二の丸の城主居た出入口に使われた門の説がある。御門御櫓両刎橋武者雪隠絵図(かみつけの里博物館蔵)の門と明らかに違っている。

2021年08月02日 織田上総介晃司
高崎城

乾櫓近くのコインパーキングに駐車。遺構のそれぞれが離れているので全て制覇しようと思えばそこそこ時間を有するようになります。

高崎市は巨大な高崎観音と高崎だるまが有名。
全国的に有名なラスクの店も高崎市だったと…

そして伝説のロックバンドBOØWYの聖地。

2021年07月12日 まー刑部卿
新井堰の分水[高崎城  関連施設]



慶長三年(1598)井伊直政は和田と呼ばれていた地に高崎城を築いたとき、城の北側を流れ農業用の用水であった長野堰に着目し、これを城の堀や城下の用水堀として活用できる事に着目し、この場所に取水口を作らせました。開墾にあたった新井喜左衛門に因んで『新井堰』とよばれています。
と書かれています。また新井堰は暗渠になっているため流れを地表から見られるのはこの場所のみ、とのこと。

2021年04月26日 兵部卿藤重真
高崎城

一見すると普通の公園の様ですが、お堀や土塁など遺構が確認出来ます。

2021年02月19日 まー刑部卿
徳川忠長の墓[高崎城  その他]



幼稚園が開園日に見学することが出来ますが本堂周りは園児の遊戯場のため通用門が閉めらてしまう恐れがありますが周りにいる先生にお声を掛けて頂ければ鍵を掛けていないのもありますが開けて出ることが出来ます。
本堂右脇から入ると右手に【守随彦三郎の墓(高崎市指定重要文化財)】に隣接してあります。(高崎市指定史跡)

2021年02月13日 まー刑部卿
元威徳寺の内陣[高崎城  その他]



『高崎城南中門外にあった高崎藩主大河内家の祈願所威徳寺にあったものである。威徳寺は宝永六年(1709年)高崎城主大河内輝貞が高崎城内に開基したもので徳川五代将軍綱吉とその寵臣であった輝貞他の大河内累代の霊牌を安置した寺である。堂は756㌢×747㌢のほぼ正方形。軒高44㌢、外は廻り縁大床切目板張り、内は板張り漆塗り、須弥壇付き、板張り金箔貼り壁、丸桁は格天井金箔極彩色、屋根は宝形棧瓦葺上に宝珠がのせてある。威徳寺から光徳寺に移されたのが明治9年6月で保存するため昭和45年に現在の位置へ移した。現在の礎石はコンクリートである。』と書かれています。

2021年02月11日 明石家船上
和田城[高崎城  周辺城郭]

井伊直政が高崎城を普請する以前から存在していた和田氏の和田城跡

2021年02月11日 明石家船上
高崎城

本丸、二の丸の遺構は無い。明治に入ってから、陸軍の連隊が置かれ、堀・土塁・馬出・櫓台は真っ平にされた。

三の丸の土塁と外堀は一部残っている。
大手門石垣の一部、再移築された乾櫓も残っている。

城の西側は烏川で守ることができるので、城の東側に向けて大手門を作り、堀を三重に作っていた。

大手門の外に出る時、道路が微妙にクランクに作っているところで、大手枡形がかつて存在していたとわかる。

本丸のあったあたりに、中世の和田城があり、井伊直政が拡張して街を高崎・城を高崎城と名付けた。

御城印は大手門近くの本屋で売っている。

駿河大納言・松平忠長の墓所は、大手門をまっすぐ行った駅近くの寺にある。

2021年01月31日 まー刑部卿
長松寺[高崎城  寺社・史跡]



徳川忠長自刃の間が書院となって残存しています。訪れたのが夕方だったため見学はしていません。また境内には旧樹徳子守学校(旧日の丸幼稚園園舎)があります。長松寺北と東に高崎城遠構えがあったと2000年当時の新聞に記されています。

2020年11月16日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
高崎城

僅かな遺構ですが、往時の規模を想像させるには十分です。蛇足ですが、ここに駐屯していた高嵜15連隊は、日本でも有数の強さだったとか。

2020年09月11日 
三階御櫓[高崎城  遺構・復元物]

周りに跡地とわかるような、説明文等は一切ありませんでした。

2020年07月08日 ヨシシ【鬼玄蕃】
無料駐車場[高崎城  駐車場]



10台ほど停められます
無料ですが長時間はご遠慮ください

2019年09月03日 まー刑部卿
高崎城



高崎郵便局の辺りが子之門跡にあたる。建物に沿って土塁があり遊歩道となっている。水濠をやめて親水公園のようになっている。

2019年05月15日 
堀[高崎城  その他]

冬場この辺りでイルミネーションを見られます。

2019年04月23日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
出枡跡[高崎城  遺構・復元物]



出枡跡。堀沿いに出っ張り部分があり、隣の道は門跡を通ってます。


2019年04月23日 
乾櫓跡[高崎城  遺構・復元物]

中には入れませんが横にある門は横の部分をくぐれます。少しいったところの階段を登ると石垣の上にある飛龍松が見られます。

2018年01月05日 真田安房守左馬允右京
高崎城

堀は冬になると、イルミネーションがきれいです。(土塁は、入れなくなります。)

2016年06月26日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
高崎城

NTT群馬支店がある場所が本丸(本城)にあたります。武家諸法度により土塁を盛った上に三階櫓がたっていたそうです。

城の西に流れる烏川が天然の要害、また、長野氏が北新波砦の西にある榛名白川から長野堰用水を引いたといわれ、井伊直政はこの用水を延長し高崎城の周囲を囲むお堀と城下町で使う水を確保しました。また、箕輪城から職人、商人、寺院が移り城下町を形成しました。
城下町の構造は小田原城に似ていて、他には彦根城が小田原城に似ているそうです。これは井伊氏が合戦への参戦の場で学習したことが築城に影響しているそうです。


平成28年5月 「世界かんがい施設遺産」の国内候補に「長野堰用水」が決定しました。

2016年01月01日 まー刑部卿
高崎城

高崎市役所の公開展望所(無料)から見下ろすと土塁やお堀がよく見えます。三の丸土塁は市役所すぐそばにあります。

2015年02月21日 牢屋見廻り同心マダオ
高崎城

高崎城下、あら町にある諏訪神社には真田氏由来の宝石が祀られてます。諏訪神社を信仰する真田氏によって信州諏訪より勧請した宝石を箕輪城下の下ノ社に祀り、その後箕輪城に入部した井伊直政が高崎城に移る際に箕輪城下より下ノ社を勧請したのが諏訪神社の始まりで、その時に宝石も移されました。

2011年07月26日 ばっち上野介こーい
高崎城

長松寺はいくべき

2010年08月23日 傾奇揚げ仙兵衛
高崎城

達磨弁当と旅がらすでしょう。旅がらすはホワイトクリームを薄いウエハースで挟んだヤーツ

高崎城の周辺スポット情報

 乾櫓跡(遺構・復元物)

 出枡跡(遺構・復元物)

 三階御櫓(遺構・復元物)

 石垣水路と石樋の一部(移築)(遺構・復元物)

 三の丸外囲の土居と堀(遺構・復元物)

 乾櫓・東門(遺構・復元物)

 大手枡形跡(遺構・復元物)

 高崎城遠堀跡(遺構・復元物)

 榎郭切岸(遺構・復元物)

 遠構え最下流(損馬堀)(遺構・復元物)

 高崎城三の丸と土塁(碑・説明板)

 高崎城の歴史(碑・説明板)

 高崎藩武家屋敷跡(碑・説明板)

 遠構え跡(碑・説明板)

 乾櫓(碑・説明板)

 城址周辺案内図(碑・説明板)

 和田城(周辺城郭)

 頼政神社(寺社・史跡)

 長松寺(寺社・史跡)

 愛宕神社(寺社・史跡)

 井野弁財天(寺社・史跡)

 高崎観音(寺社・史跡)

 文開堂(御城印)

 無料駐車場(駐車場)

 新井堰の分水(関連施設)

 五霊神社(関連施設)

 (その他)

 徳川忠長公の墓所(大信寺)(その他)

 ハクモクレン(その他)

 本丸跡(その他)

 飛龍松(その他)

 和田の立石(和田三石)(その他)

 元威徳寺の内陣(その他)

 上和田の円石(和田三石)(その他)

 下和田の方石(和田三石)(その他)

 円石(和田三石)(その他)

 徳川忠長の墓(その他)

 高崎市歴史民俗資料館(その他)

 九蔵町の一里塚跡(その他)

 石上寺跡(廃寺)(その他)

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