九蔵町の一里塚跡
九蔵町の一里塚跡([高崎城 その他])
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九蔵町の一里塚跡の口コミ情報
2022年11月22日 まー刑部卿
『井伊直政は中世の中山道を取り込む形で高崎城下を築きました。慶長九年(1604)江戸幕府が、日本橋を基点として東海道や中山道に一里塚の設置を始め、江戸から中山道二十七里の一里塚がここに置かれました。二十六里は江戸方面の佐野柏沢に、京方面の上豊岡に二十八番目が設けられ、上豊岡は県内で唯一残存しています。一里塚が設置され始めた慶長九年に、高崎城主となった酒井家次は同十一年に中山道の道筋を変えました。それまでは赤坂から本町を通り東に直進し、大雲寺の角を南に曲がり通町方面に進んでいましたが、これを本町三丁目で田町・連雀町方面へと曲げ、城下の中心を通す付け替えを行いました。 このことに因り往来は新しい中山道を利用し、この地にあった一里塚は、稲荷の小祠が面影を微かに残すのみとなりました。』と書かれています。