倉賀野城(くらがのじょう)

倉賀野城の基本情報

通称・別名

雁城

所在地

群馬県高崎市倉賀野町

旧国名

上野国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

倉賀野頼行

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

倉賀野氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

山名城(群馬県高崎市)[2.2km]
島名城(群馬県高崎市)[4.3km]
高崎城(群馬県高崎市)[5.3km]
藤岡城(群馬県藤岡市)[6.4km]
阿内城(群馬県前橋市)[7.2km]
奥平城(群馬県高崎市)[7.7km]
平井城(群馬県藤岡市)[8.5km]
金窪城(埼玉県児玉郡)[8.8km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[9.5km]
一郷山城(群馬県高崎市)[9.7km]

倉賀野城の解説文



倉賀野城(くらがのじょう)は、群馬県高崎市倉賀野町にあった日本の城。

概要 

倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する。東西800メートル、南北400メートルを城域とする。

鎌倉時代 

倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。

南北朝時代 

南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。

== 戦国時代 ==

上杉氏配下時代

戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。

永禄年間に後北条氏が上野を領国化したが、このとき、上杉憲政の旧居城・平井城ではなく、倉賀野城が後北条氏の領国経営の中心になっていたとみられる。しかし上杉謙信が永禄3年に越山してくると、倉賀野氏はすぐに箕輪長野氏と上杉に従っており、倉賀野城も上杉方となった(『新編高崎市史』)。

倉賀野城は上杉方の長野氏が拠る箕輪城の支城としての役割を果たしていた。

武田氏配下時代

永禄4年(1561年)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565年)に落城した。倉賀野尚行も上杉謙信を頼って越後に逃れた。

元亀元年(1570年)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗った。

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕えた。

後北条氏配下時代

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、秀景は後北条氏武将として小田原城に籠城する。結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。

その他 

国道建設等により発掘調査が行われているが、遺構は殆ど残っていない。烏川沿いの公園に石碑が建っている。

参考文献 

  • 簗瀬大輔、「真田丸時代の高崎」、群馬県立歴史博物館、2016年

倉賀野城の口コミ情報

2024年07月23日 迷ったさん
倉賀野城



川の近くの公園内に城址跡の碑あり。正面から撮ると住宅が映り込むのが残念。

2023年10月02日 大膳大夫しろし
倉賀野城



すっかり住宅地の中なので遺構は感じられませんが小さな公園になっていて川っぷちの崖感が感じられます。

2023年08月13日 しまむっ
倉賀野城



なかなか川沿いどんつきで、城感はありません…

2022年03月20日 まー刑部卿
諏訪神社[倉賀野城  寺社・史跡]



【この社は、倉賀野城主金井淡路守が、永禄年間(一五五八〜六九)に信州の諏訪湖畔に建つ諏訪大社から勧請し建立したと言われています。

ご祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、五穀豊穣、開運長寿、風水害除けにご神徳があると信仰されています。八月二十六日の例祭で参詣者に授けられる『茅のカマ』は、全国にあるお諏訪さまでも珍しい『風除け』のお守りです。
境内社の池鯉鮒(ちりゅう・知立)神社は、嘉祥三年(八五〇)慈覚大師(円仁)が旅の途中蝮に噛まれたので知立神社平癒を祈願したところ、痛みも去り腫れも引いたといいます。

このご神徳を敬って、三河国(愛知県)より池鯉鮒大明神を勧請して祀った石宮です。そのため、『蝮よけ、長虫よけ』の神様として信仰され、参拝することで山野を歩いていても蝮蛇に噛まれないと言われています。】と説明板に書かれています。

2022年02月22日 まー刑部卿
九品寺[倉賀野城  寺社・史跡]



『一行光明院九品寺は、延徳三年(一四九一)に倉賀野城主倉賀野五郎行信により開基された浄土宗の古刹です。墓地には、江戸時代末期の国学者・歌人・地誌学者として知られる飯塚久敏の墓があります。

久敏は、良寛の伝記をまとめた『橘物語』の筆者でもあります。その他、倉賀野宿の町役を務めた須賀五家や飯盛女の墓があります。寺宝の善光寺三尊像は高崎市指定文化財です。明治六年(一八七三)に倉賀野小学校の前身となる倉賀野学校が当寺の本堂を仮校舎として開校しました。

中山道を新町宿方面へ進むと、下町で日光例幣使街道とが分れます。その場所は当寺の飛地境内で、阿弥陀堂(通称閻魔堂)と常夜灯が並んで建っています。灯には寄付者として相撲の雷電、歌舞伎の松本幸四郎や市川団十郎などの名前が刻まれています。』と書かれていました。

2022年02月19日 まー刑部卿
倉賀野城



倉賀野城石碑には『治承年間武州兒玉党の余流秩父三郎高俊この地に来り居館を構え以来倉賀野を氏となす應永年中に至り室町幕府漸く衰え戦雲諸国を掩ふ爲に倉賀野三郎光行防禦急なるに迫られこれを改修し要害となす斯くして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く然るに時移って戦国動乱の世を迎ふるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといへども噫々武運は空し天正十八年相州小田原に討死城も亦ともに興亡の歴史を閉づ今先人の足跡まさに消えなんとするに当り懐旧の情禁で得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ
天日よここを照せ大地よここを抱け
昭和四十五庚戌年四月 前沢辰雄撰文
           真下四郎書』
と書かれています。

2022年02月19日 まー刑部卿
中山道と例幣使街道の追分[倉賀野城  寺社・史跡]



『江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。
例幣使は京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。
例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含まれている。
勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
常夜灯
正面『日光道』右側面『中山道』左側面『常夜燈』裏面『文化十一年甲戌(一八一四)正月十四日 高橋佳年女書』
総高  三七三㌢ 台石高  六七㌢
灯籠高 三〇五㌢ 灯籠屋根幅 一〇五㌢
道しるべ
正面『從是 右 江戸道 左 日光道』
裏面『南無阿弥陀仏 亀桶水書』
総高  一七ニ・八㌢
台石高   八・八㌢
石柱幅 一辺三十三・七㌢
平成八年三月
高崎市教育委員会』
と案内板に書かれています。

2022年02月19日 まー刑部卿
阿弥陀堂(閻魔堂)[倉賀野城  その他]



『この御堂は日光例幣使街道の起点に位置し、江戸時代には『浄土宗阿弥陀堂』であったが、明治四十一より浄土宗九品寺飛地境内仏堂として位置『寺院明細帳』より
 八月十六日は本尊阿弥陀如来の御開帳で百万遍念珠繰りや露店も出て近在からも多くの善男善女の参詣があった。平成二十六年二月の百年来の大雪で瓦損傷又建物の老朽化が酷くなり、同年九月に解体し平成二十七年五月に再建完了す。
九品寺二十五世 仁誉一行』
と石碑に書かれています。

2022年01月30日 まー刑部卿
金井淡路守夫妻の墓[倉賀野城  その他]



永泉寺にあります(駐車場有り)。
ここは永泉寺砦跡とも呼ばれていて堀(水路跡)に一部ですが囲まれています。お墓の場所は奥の方にあり石碑も建っているので見つけやすいかと思います。
墓石の傍にある石碑には
『常照院殿前淡州月山清含大居士
長運院殿單窓妙全大姉
倉賀野城主 金井淡路守
上野源氏新田義重末裔金井三郎長義ノ族倉賀野十六騎トシテ活躍ス
永禄三年武田信玄ヨリ板鼻ノ戦功ニヨリ淡路守ノ称号ヲ戴き倉賀野城主トナリ其ノ武名関八州ニ轟ク
天正元年曹洞宗大用山永泉寺ヲ建立ス天正十八年相州小田原ニテ討死ス
昭和四十四年三月各地ニ離散セル一族ニヨリ三百八十回忌ノ追善供養ヲ修行奉賛会ヲ結成ス コノ度墓所ヲ整備シ永ク其ノ徳ニ報イントス
維時昭和四十六年三月二十一日
奉賛会々員建立』と記されています。
また本堂前に金井淡路守の家系図の碑がありました。

2022年01月30日 まー刑部卿
太鼓橋[倉賀野城  寺社・史跡]



旧17号線上にあり現在は五貫堀も水が流れておらず遊歩道となっています。その傍に標柱があり、『五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり、板橋であったため度々の大水で押し流されました。享和三年(一八〇三)、当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。
その石(標柱に掲示されている)は、倉賀野宿を陰で支えた飯盛女が名前を刻んで寄進した、と伝えられ、現在、名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されています。
参勤交代の大名も日光例幣使も、そして、皇女和宮の行列も渡った太鼓橋です。』と書かれています。

2022年01月26日 まー刑部卿
二の郭跡[倉賀野城  その他]



二の郭は住宅地となっており現在は高低差を感じ取れます。標柱も全くありません。

2022年01月26日 まー刑部卿
二の郭・三の郭の堀跡[倉賀野城  その他]



二の郭(右)・三の郭跡(左)は住宅地です。道路は堀跡です。左手の住宅地あたりに山の井という井戸があったようですが標識もありません。

2022年01月24日 まー刑部卿
三の郭跡[倉賀野城  遺構・復元物]



ここは井戸八幡宮と呼ばれ三の郭跡とあります。

現地説明板には『【井戸八幡宮縁の井戸と大神輿】この覆屋の中にある井戸が正面に建つ八幡宮の俗称《井戸八幡宮縁の井戸》です。八幡宮は倉賀野城三の郭跡の古井戸から、一夜にして水が噴き出し八幡大神が現れたのを起源と伝えられます。創建は正保三年(1646)で代々の高崎藩主が篤く崇敬し、宮元である田屋町の住民が誇りを持って守ってきました。

現在井戸枠の上には江戸中期頃に造られた立派な神輿が安置されています。この神輿は特別の祝祭時に出御する宮神輿で平成十七年九月倉賀野神社造営七五〇年大祭の時に社殿前に出御されました。その際は倉賀野神社の《天明神輿》(制作年の天明に因んで呼ばれる)の渡御を迎え、天明神輿と共に並んで安置されました。』と書かれています。

2022年01月23日 まー刑部卿
外堀跡[倉賀野城  遺構・復元物]



九品寺墓地裏手にある五貫堀跡はかつての外堀跡で山崎一氏による群馬県古城塁址図からもうかがえます。現在の高低差はあまりありません。

2022年01月23日 まー刑部卿
外堀跡[倉賀野城  遺構・復元物]



山崎一氏による群馬県古城塁址の絵図からこの辺りは外堀として位置づけられており、現在は駐車場となっています。高崎市倉賀野市民サービスセンター並びに高崎市倉賀野公民館図書室の裏手になります。幅は目測40mはあるかと思います。

2022年01月23日 まー刑部卿
深堀跡[倉賀野城  遺構・復元物]



山崎一氏による群馬県古城塁址による絵図からここは倉賀野城の深堀となっています。目印は冠稲荷神社(三光稲荷神社ともいう)。現在は幅約40m、高さは目測5m以上はあります。この深堀には一部住宅地となっています。

2016年02月24日 永眠武蔵守釋 葱進
倉賀野城

倉賀野駅や中山道からは、住宅地を通り抜けて突き当たり右側の公園に石碑や解説板があります。
河岸段丘上にあることから、南側烏川の眺めはなかなかのものです。
残念ながら遺構は残っていないとのこと。

公園用の駐車場はありませんが、突き当たり左側の井戸八幡宮の駐車場が利用できます

2015年03月01日 傾奇揚げ仙兵衛
倉賀野城

倉賀野駅に向かって井戸八幡宮の左側で八幡宮脇の川沿いの道を倉賀野神社方面


2015年02月20日 牢屋見廻り同心マダオ
倉賀野城

倉賀野城北西にある林西寺の辺りが支城・倉賀野西城で、倉賀野城北、倉賀野駅近くの永泉寺が支城・永泉寺砦です。遺構は少ないですが、倉賀野城の近くなのでセットで巡るのも良いかと。また、永泉寺には倉賀野城主・金井淡路守秀景の墓があります。

倉賀野城の周辺スポット情報

 五貫堀跡(遺構・復元物)

 深堀跡(遺構・復元物)

 外堀跡(遺構・復元物)

 外堀跡(遺構・復元物)

 三の郭跡(遺構・復元物)

 外堀跡(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 和田下之城(周辺城郭)

 諏訪神社(寺社・史跡)

 吉川栄左衛門の墓(寺社・史跡)

 岩鼻陣屋跡(寺社・史跡)

 中山道と例幣使街道の追分(寺社・史跡)

 太鼓橋(寺社・史跡)

 九品寺(寺社・史跡)

 二の郭・三の郭の堀跡(その他)

 二の郭跡(その他)

 金井淡路守夫妻の墓(その他)

 阿弥陀堂(閻魔堂)(その他)

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