倉賀野城(くらがのじょう)

倉賀野城の基本情報

通称・別名

雁城

所在地

群馬県高崎市倉賀野町

旧国名

上野国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

倉賀野頼行

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

倉賀野氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

山名城(群馬県高崎市)[2.2km]
島名城(群馬県高崎市)[4.3km]
高崎城(群馬県高崎市)[5.3km]
藤岡城(群馬県藤岡市)[6.4km]
阿内城(群馬県前橋市)[7.2km]
奥平城(群馬県高崎市)[7.7km]
平井城(群馬県藤岡市)[8.5km]
金窪城(埼玉県児玉郡)[8.8km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[9.5km]
一郷山城(群馬県高崎市)[9.7km]

倉賀野城の解説文



倉賀野城(くらがのじょう)は、群馬県高崎市倉賀野町にあった日本の城。

概要 

倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する。東西800メートル、南北400メートルを城域とする。

鎌倉時代 

倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。

南北朝時代 

南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。

== 戦国時代 ==

上杉氏配下時代

戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。

永禄年間に後北条氏が上野を領国化したが、このとき、上杉憲政の旧居城・平井城ではなく、倉賀野城が後北条氏の領国経営の中心になっていたとみられる。しかし上杉謙信が永禄3年に越山してくると、倉賀野氏はすぐに箕輪長野氏と上杉に従っており、倉賀野城も上杉方となった(『新編高崎市史』)。

倉賀野城は上杉方の長野氏が拠る箕輪城の支城としての役割を果たしていた。

武田氏配下時代

永禄4年(1561年)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565年)に落城した。倉賀野尚行も上杉謙信を頼って越後に逃れた。

元亀元年(1570年)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗った。

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕えた。

後北条氏配下時代

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、秀景は後北条氏武将として小田原城に籠城する。結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。

その他 

国道建設等により発掘調査が行われているが、遺構は殆ど残っていない。烏川沿いの公園に石碑が建っている。

参考文献 

  • 簗瀬大輔、「真田丸時代の高崎」、群馬県立歴史博物館、2016年

倉賀野城の口コミ情報

2026年07月12日 マグロ常陸介祐平
和田下之城[倉賀野城  周辺城郭]



和田城の支城となります。和田城は、高崎城の前身の和田氏の城で、和田城(上之城)に対して下之城と名付けられたようです。支城とはいえ主郭の周りを幾つもの郭が囲む四方向連郭式の規模のあるお城で、城下町も形成されていたようです。

日本城郭大系に残っていた高さ2.5mの土居が近年崩されたと書かれているので、昭和50年代以前には遺構はほぼ消滅していたようです。本丸跡は「下之城児童公園」となっており、石碑と説明板が設置されています(写真1,3,5枚目)。また、僅かですが石碑の裏のお宅には土塁状の土盛りが見られ(写真2枚目)、小さな水路は堀跡のようです(写真4枚目)。以下は石碑の裏面のお城の説明となります。

「和田城主和田業繁(吉景)は出城として下之城を築き、弟信景(正盛)を置いたが、永禄六年(一五六三)兄弟とも武田信玄に属した。同十二年信玄は北條氏に備えて倉賀野領の一部を信景に与え城を強化させた(奈良梨鈴木文書) 。天正十年(一五八二)武田氏滅亡後正盛は隠居し、その子左衛門尉正直がついで北條氏に従い、天正十八年北條氏滅亡と同時にこの城も廃された。城東の字松村は堀をめぐらした初期城下町(根小屋)で如意寺・徳昌寺が並び、徳昌寺には城主信景以下の墓がある。
城址内堀改修を期に下之城の町名の由来を後世に伝える為 町民二百有余名建之 昭和六十年三月吉日」

和田下之城の根小屋に建つ徳昌寺は下之城和田氏の菩提寺で、歴代の墓が並んでいます(写真6枚目)。宝篋印塔と五輪塔の部材がバラバラに積まれているように見えますが、中世のものが多い印象です。また、城郭の遺構かどうかは分かりませんが、お寺周辺には空堀状の溝や土塁状の土盛りも見られ(写真7,8枚目)、総構えのお城の一部の様な雰囲気が感じられました。

2026年07月11日 マグロ常陸介祐平
永泉寺砦[倉賀野城  周辺城郭]



倉賀野城の本丸から北に約700m、永泉寺は天正元年(1573年)に倉賀野城主金井(倉賀野)淡路守秀景が創建したお寺で、倉賀野城を守る砦として機能していたとされています。倉賀野城の北限の九品寺からは、300m程の距離です。遺跡名は「永泉寺の砦」、時代区分は中世となっています。

お寺の門の前にある直線の水路は堀跡とされるようですが、北側を走る高崎線の線路よりもやや低い土地で、立地的には砦を築くのに適した場所という感じではありません。

お寺は金井氏の菩提寺で、墓域には秀景のお墓があります。また、江戸時代のものですが、倉賀野十六騎に名が見られる勅使河原氏の墓も見られますが、子孫でしょうか。

山門を入った左側には「永泉寺の幽霊石」なる石仏があります。この石仏は金井秀景の奥方を埋葬するために掘った穴から出てきた奇石で、説明板には「張月の影消えて悲しく散りにし奥方の恨を含む、物語と歌った人もある様に倉賀野古跡を飾る唯一の形見なり」と書かれています。

2026年07月09日 マグロ常陸介祐平
倉賀野城



倉賀野氏のお城となります。藤姓児玉党の秩父行高の子の三郎高俊が、この地に住んで倉賀野を名字としたのが始まりとされます。吾妻鏡に建久元年(1190年)の源頼朝の上洛や建久5年の東大寺落成供養会の隋兵として、児玉党の武士の中に倉賀野三郎の名が見られ、御家人だったことがわかります。南北朝期になると、倉賀野頼行が倉賀野城を築き、倉賀野氏の本城となっています。室町時代には近隣の武士同様、山内上杉氏に仕え、天文15年の河越城の戦いては倉賀野行政が討死しています。

行政の跡は為広、尚行と続き、管領上杉氏を長尾景虎が引き継ぐと従っており、「関東幕注文」の箕輪衆倉賀野左衛門五郎は尚行とされます。倉賀野氏は倉賀野十六騎と呼ばれる家臣団がいましたが、武田信玄による西上野侵攻の中で、金井秀景らが武田方に寝返るなど内訌もあり、永禄6年(1565年)になると倉賀野城は落城し、尚行は越後の上杉謙信の元に逃れています。落城後は、倉賀野城攻略に活躍した大熊伊賀守が城主となり、元亀元年(1570年)になると金井秀景が城主となり、姓を倉賀野に改めています。天正10年(1582年)に武田氏が滅び滝川一益が城主に入ると一益に従い、本能寺の変後の神流川の戦いでは一益方として戦いますが、敗北し北条氏の軍門に降っています。小田原の役では秀景は小田原城に籠城し早川口を守備、開城の22日後に没しています。倉賀野城もこの際に廃城になっています。

話は前後しますが、越後に逃れた尚行は統基と名を変え直江兼続に仕え、直江家断絶後は庄内藩主酒井忠勝、後に米沢藩上杉家に帰参し、子孫は米沢藩士として続いています。また、倉賀野を名乗った金井氏は清和源氏新田氏の一族岩松氏の庶流で、岩松時兼の三男金井長義を祖としています。秀景は倉賀野淡路守を名乗りますが、一益にに従った以降の倉賀野淡路守は秀景ではなく、天正10年に亡くなった秀景の名跡を引き継いだ武田家家臣跡部氏の淡路守家吉とする説もあるようです。近隣の和田城主和田業繁も跡部氏から養子を迎えたとされており、不思議な感じがします。さらに高野山清浄心院上野国供養帳には、「天正十三年六月十五日・命庵玄寿禅定門・倉賀野淡路守為父、年渓妙寿禅定尼・同淡路守為母、上林清十郎殿倉賀野淡路守息子」とあり、謎の上林清十郎が倉賀野淡路守の子として供養しており、埼玉苗字辞典の茂木先生も珍しく困惑されています。

お城は烏川の断崖上に築かれ、城域は東は冠稲荷、北は九品寺、西は倉賀野神社までとかなり広さだったようですが、市街地化により遺構はほとんど残っていないようです。本丸跡には石碑や説明板があり、東側に鎮座する井戸八幡の場所は、三の郭とも二の丸ともされ、覆屋に囲まれた井戸前の段差は、切岸の痕跡かもしれません。

2026年07月08日 マグロ常陸介祐平
木部北城[倉賀野城  周辺城郭]



木部城から北に約1km、玄頂寺が該当地となります。また、北側を流れる烏川の対岸の倉賀野城も1km程の距離となります。お城に関する当時の記録は残っていないようですが、木部氏の木部城の支城と考えられているようです。

お寺には、南北朝期の康永2年(1343年)に建てられた五輪塔があります。群馬県最古の五輪塔で、県の文化財に指定されています。有力な武士階級のものと思われますが、石見国木部荘から移ったとされる木部氏の先祖のものでしょうか。

遺構としては、参道の西側に土塁が一条残っています。参道側には水堀状の池の痕跡が見られ、裏側は空堀の痕跡のようにやや窪んで見えます。参道に並行していることから、一般的に見られる参道に付属する土盛りの可能性も否定できない感じです。

玄頂寺は南北朝期の五輪塔が見られるお寺ですが、創建は江戸時代初期、平賀玄信の曾孫とされる旗本の大井政成が開基となっています。大井政成は小笠原長清を先祖とする信濃国佐久地方の国衆で、耳取城主(小諸市)でした。武田信玄が信濃を制圧すると家臣となり、武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、依田信蕃の配下(家臣ではない)となります。また、信濃大井氏の惣領職と旧領の耳取1300貫を安堵されています。

小田原の役後に家康が関東に移ると、依田信蕃の子の康勝は上野と武蔵に3万石を与えられて藤岡城主となり、配下の政成は藤岡付近に領地を与えられています。康勝が大阪で囲碁の相手を口論の末に殺害して改易になると、政成は子の政吉を連れて康勝に同行して高野山に登りますが、関ヶ原前の小山出陣の際に呼び戻されて復帰します。信濃の地理に詳しいことから秀忠軍に属する予定でしたが病で同行出来ず、子の政吉が従い、上田城を守備しています。

その後政成は亡くなりますが、寛政譜には「其のち故のごとく藤岡の采地をたまひ、八年九月十六日藤岡において死す。年五十五。法名玄頂。かの地阿久津村の玄頂寺に葬る。これ政成が開基せるところなり。」とあり、藤岡付近の知行地は、阿久津村だったことがわかります。

依田(当時は松平)氏に与力する旗本として知行地を持ち、この地で亡くなっていることは、陣屋を構えていたとも考えられ、幕府成立前の大身の旗本が陣屋に隣接、もしくは陣屋の跡地に菩提寺を創建することも珍しくないことから、素人の妄想かもしれませんが、お城は大井氏の陣屋の可能性もあるように感じられます。

2026年02月23日 左兵衛督きんさん
倉賀野城



倉賀野駅からゆっくり歩いて15分くらい。立派な碑と案内板があります。烏川がよく見えます。

2024年07月23日 迷ったさん
倉賀野城



川の近くの公園内に城址跡の碑あり。正面から撮ると住宅が映り込むのが残念。

2023年10月02日 大膳大夫しろし
倉賀野城



すっかり住宅地の中なので遺構は感じられませんが小さな公園になっていて川っぷちの崖感が感じられます。

2023年08月13日 しまむっ
倉賀野城



なかなか川沿いどんつきで、城感はありません…

2022年03月20日 まー兵部卿
諏訪神社[倉賀野城  寺社・史跡]



【この社は、倉賀野城主金井淡路守が、永禄年間(一五五八〜六九)に信州の諏訪湖畔に建つ諏訪大社から勧請し建立したと言われています。

ご祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、五穀豊穣、開運長寿、風水害除けにご神徳があると信仰されています。八月二十六日の例祭で参詣者に授けられる『茅のカマ』は、全国にあるお諏訪さまでも珍しい『風除け』のお守りです。
境内社の池鯉鮒(ちりゅう・知立)神社は、嘉祥三年(八五〇)慈覚大師(円仁)が旅の途中蝮に噛まれたので知立神社平癒を祈願したところ、痛みも去り腫れも引いたといいます。

このご神徳を敬って、三河国(愛知県)より池鯉鮒大明神を勧請して祀った石宮です。そのため、『蝮よけ、長虫よけ』の神様として信仰され、参拝することで山野を歩いていても蝮蛇に噛まれないと言われています。】と説明板に書かれています。

2022年02月22日 まー兵部卿
九品寺[倉賀野城  寺社・史跡]



『一行光明院九品寺は、延徳三年(一四九一)に倉賀野城主倉賀野五郎行信により開基された浄土宗の古刹です。墓地には、江戸時代末期の国学者・歌人・地誌学者として知られる飯塚久敏の墓があります。

久敏は、良寛の伝記をまとめた『橘物語』の筆者でもあります。その他、倉賀野宿の町役を務めた須賀五家や飯盛女の墓があります。寺宝の善光寺三尊像は高崎市指定文化財です。明治六年(一八七三)に倉賀野小学校の前身となる倉賀野学校が当寺の本堂を仮校舎として開校しました。

中山道を新町宿方面へ進むと、下町で日光例幣使街道とが分れます。その場所は当寺の飛地境内で、阿弥陀堂(通称閻魔堂)と常夜灯が並んで建っています。灯には寄付者として相撲の雷電、歌舞伎の松本幸四郎や市川団十郎などの名前が刻まれています。』と書かれていました。

2022年02月19日 まー兵部卿
倉賀野城



倉賀野城石碑には『治承年間武州兒玉党の余流秩父三郎高俊この地に来り居館を構え以来倉賀野を氏となす應永年中に至り室町幕府漸く衰え戦雲諸国を掩ふ爲に倉賀野三郎光行防禦急なるに迫られこれを改修し要害となす斯くして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く然るに時移って戦国動乱の世を迎ふるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといへども噫々武運は空し天正十八年相州小田原に討死城も亦ともに興亡の歴史を閉づ今先人の足跡まさに消えなんとするに当り懐旧の情禁で得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ
天日よここを照せ大地よここを抱け
昭和四十五庚戌年四月 前沢辰雄撰文
           真下四郎書』
と書かれています。

2022年02月19日 まー兵部卿
中山道と例幣使街道の追分[倉賀野城  寺社・史跡]



『江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。
例幣使は京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。
例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含まれている。
勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
常夜灯
正面『日光道』右側面『中山道』左側面『常夜燈』裏面『文化十一年甲戌(一八一四)正月十四日 高橋佳年女書』
総高  三七三㌢ 台石高  六七㌢
灯籠高 三〇五㌢ 灯籠屋根幅 一〇五㌢
道しるべ
正面『從是 右 江戸道 左 日光道』
裏面『南無阿弥陀仏 亀桶水書』
総高  一七ニ・八㌢
台石高   八・八㌢
石柱幅 一辺三十三・七㌢
平成八年三月
高崎市教育委員会』
と案内板に書かれています。

2022年02月19日 まー兵部卿
阿弥陀堂(閻魔堂)[倉賀野城  その他]



『この御堂は日光例幣使街道の起点に位置し、江戸時代には『浄土宗阿弥陀堂』であったが、明治四十一より浄土宗九品寺飛地境内仏堂として位置『寺院明細帳』より
 八月十六日は本尊阿弥陀如来の御開帳で百万遍念珠繰りや露店も出て近在からも多くの善男善女の参詣があった。平成二十六年二月の百年来の大雪で瓦損傷又建物の老朽化が酷くなり、同年九月に解体し平成二十七年五月に再建完了す。
九品寺二十五世 仁誉一行』
と石碑に書かれています。

2022年01月30日 まー兵部卿
金井淡路守夫妻の墓[倉賀野城  その他]



永泉寺にあります(駐車場有り)。
ここは永泉寺砦跡とも呼ばれていて堀(水路跡)に一部ですが囲まれています。お墓の場所は奥の方にあり石碑も建っているので見つけやすいかと思います。
墓石の傍にある石碑には
『常照院殿前淡州月山清含大居士
長運院殿單窓妙全大姉
倉賀野城主 金井淡路守
上野源氏新田義重末裔金井三郎長義ノ族倉賀野十六騎トシテ活躍ス
永禄三年武田信玄ヨリ板鼻ノ戦功ニヨリ淡路守ノ称号ヲ戴き倉賀野城主トナリ其ノ武名関八州ニ轟ク
天正元年曹洞宗大用山永泉寺ヲ建立ス天正十八年相州小田原ニテ討死ス
昭和四十四年三月各地ニ離散セル一族ニヨリ三百八十回忌ノ追善供養ヲ修行奉賛会ヲ結成ス コノ度墓所ヲ整備シ永ク其ノ徳ニ報イントス
維時昭和四十六年三月二十一日
奉賛会々員建立』と記されています。
また本堂前に金井淡路守の家系図の碑がありました。

2022年01月30日 まー兵部卿
太鼓橋[倉賀野城  寺社・史跡]



旧17号線上にあり現在は五貫堀も水が流れておらず遊歩道となっています。その傍に標柱があり、『五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり、板橋であったため度々の大水で押し流されました。享和三年(一八〇三)、当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。
その石(標柱に掲示されている)は、倉賀野宿を陰で支えた飯盛女が名前を刻んで寄進した、と伝えられ、現在、名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されています。
参勤交代の大名も日光例幣使も、そして、皇女和宮の行列も渡った太鼓橋です。』と書かれています。

2022年01月26日 まー兵部卿
二の郭跡[倉賀野城  その他]



二の郭は住宅地となっており現在は高低差を感じ取れます。標柱も全くありません。

2022年01月26日 まー兵部卿
二の郭・三の郭の堀跡[倉賀野城  その他]



二の郭(右)・三の郭跡(左)は住宅地です。道路は堀跡です。左手の住宅地あたりに山の井という井戸があったようですが標識もありません。

2022年01月24日 まー兵部卿
三の郭跡[倉賀野城  遺構・復元物]



ここは井戸八幡宮と呼ばれ三の郭跡とあります。

現地説明板には『【井戸八幡宮縁の井戸と大神輿】この覆屋の中にある井戸が正面に建つ八幡宮の俗称《井戸八幡宮縁の井戸》です。八幡宮は倉賀野城三の郭跡の古井戸から、一夜にして水が噴き出し八幡大神が現れたのを起源と伝えられます。創建は正保三年(1646)で代々の高崎藩主が篤く崇敬し、宮元である田屋町の住民が誇りを持って守ってきました。

現在井戸枠の上には江戸中期頃に造られた立派な神輿が安置されています。この神輿は特別の祝祭時に出御する宮神輿で平成十七年九月倉賀野神社造営七五〇年大祭の時に社殿前に出御されました。その際は倉賀野神社の《天明神輿》(制作年の天明に因んで呼ばれる)の渡御を迎え、天明神輿と共に並んで安置されました。』と書かれています。

2022年01月23日 まー兵部卿
外堀跡[倉賀野城  遺構・復元物]



九品寺墓地裏手にある五貫堀跡はかつての外堀跡で山崎一氏による群馬県古城塁址図からもうかがえます。現在の高低差はあまりありません。

2022年01月23日 まー兵部卿
外堀跡[倉賀野城  遺構・復元物]



山崎一氏による群馬県古城塁址の絵図からこの辺りは外堀として位置づけられており、現在は駐車場となっています。高崎市倉賀野市民サービスセンター並びに高崎市倉賀野公民館図書室の裏手になります。幅は目測40mはあるかと思います。

2022年01月23日 まー兵部卿
深堀跡[倉賀野城  遺構・復元物]



山崎一氏による群馬県古城塁址による絵図からここは倉賀野城の深堀となっています。目印は冠稲荷神社(三光稲荷神社ともいう)。現在は幅約40m、高さは目測5m以上はあります。この深堀には一部住宅地となっています。

2016年02月24日 永眠武蔵守釋 葱進
倉賀野城

倉賀野駅や中山道からは、住宅地を通り抜けて突き当たり右側の公園に石碑や解説板があります。
河岸段丘上にあることから、南側烏川の眺めはなかなかのものです。
残念ながら遺構は残っていないとのこと。

公園用の駐車場はありませんが、突き当たり左側の井戸八幡宮の駐車場が利用できます

2015年03月01日 傾奇揚げ仙兵衛
倉賀野城

倉賀野駅に向かって井戸八幡宮の左側で八幡宮脇の川沿いの道を倉賀野神社方面


2015年02月20日 牢屋見廻り同心マダオ
倉賀野城

倉賀野城北西にある林西寺の辺りが支城・倉賀野西城で、倉賀野城北、倉賀野駅近くの永泉寺が支城・永泉寺砦です。遺構は少ないですが、倉賀野城の近くなのでセットで巡るのも良いかと。また、永泉寺には倉賀野城主・金井淡路守秀景の墓があります。

倉賀野城の周辺スポット情報

 五貫堀跡(遺構・復元物)

 深堀跡(遺構・復元物)

 外堀跡(遺構・復元物)

 外堀跡(遺構・復元物)

 三の郭跡(遺構・復元物)

 外堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 虎口跡(遺構・復元物)

 丸馬出跡(遺構・復元物)

 二ノ丸虎口跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 残存土塁?(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 和田下之城(周辺城郭)

 木部北城(周辺城郭)

 八幡原やかた(周辺城郭)

 八幡原城(周辺城郭)

 新井屋敷(周辺城郭)

 永泉寺砦(周辺城郭)

 諏訪神社(寺社・史跡)

 吉川栄左衛門の墓(寺社・史跡)

 岩鼻陣屋跡(寺社・史跡)

 中山道と例幣使街道の追分(寺社・史跡)

 太鼓橋(寺社・史跡)

 九品寺(寺社・史跡)

 下滝遺跡群(寺社・史跡)

 丁子堂房右衛門(御城印)

 二の郭・三の郭の堀跡(その他)

 二の郭跡(その他)

 金井淡路守夫妻の墓(その他)

 阿弥陀堂(閻魔堂)(その他)

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