倉賀野城(くらがのじょう)

倉賀野城の基本情報

通称・別名

所在地

群馬県高崎市倉賀野町

旧国名

上野国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

倉賀野頼行

築城年

南北朝時代

主な改修者

主な城主

倉賀野氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

山名城(群馬県高崎市)[2.2km]
島名城(群馬県高崎市)[4.3km]
高崎城(群馬県高崎市)[5.3km]
藤岡城(群馬県藤岡市)[6.4km]
阿内城(群馬県前橋市)[7.2km]

倉賀野城の解説文

倉賀野城(くらがのじょう)は、群馬県高崎市倉賀野町にあった日本の城。

概要
倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する。東西800m、南北400mを城域とする。

倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。

南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。

戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。

永禄年間に後北条氏が上野を領国化したが、このとき、上杉憲政の旧居城・平井城ではなく、倉賀野城が北条氏の領国経営の中心になっていたとみられる。しかし上杉謙信が永禄3年に越山してくると、倉賀野氏はすぐに箕輪長野氏と上杉に従っており、倉賀野城も上杉方となった(『新編高崎市史』)。

倉賀野城は上杉方の長野氏が拠る箕輪城の支城としての役割を果たしていたため、永禄4年(1561年)には甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565年)に落城した。倉賀野尚行も謙信を頼って越後に逃れた。

元亀元年(1570年)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗った。

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕えた。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、秀景は北条方武将として小田原城に籠城する。結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。
...

倉賀野城の口コミ情報

永眠武蔵守釋 葱進様[2016年02月24日]
倉賀野駅や中山道からは、住宅地を通り抜けて突き当たり右側の公園に石碑や解説板があります。
河岸段丘上にあることから、南側烏川の眺めはなかなかのものです。
残念ながら遺構は残っていないとのこと。

公園用の駐車場はありませんが、突き当たり左側の井戸八幡宮の駐車場が利用できます

傾奇揚げ仙兵衛様[2015年03月01日]
倉賀野駅に向かって井戸八幡宮の左側で八幡宮脇の川沿いの道を倉賀野神社方面

牢屋見廻り同心マダオ様[2015年02月20日]
倉賀野城北西にある林西寺の辺りが支城・倉賀野西城で、倉賀野城北、倉賀野駅近くの永泉寺が支城・永泉寺砦です。遺構は少ないですが、倉賀野城の近くなのでセットで巡るのも良いかと。また、永泉寺には倉賀野城主・金井淡路守秀景の墓があります。

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