金窪城(かなくぼじょう)
金窪城の基本情報
通称・別名
- 金久保城
所在地
- 埼玉県児玉郡上里町金久保1626-4他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 加治家季
築城年
- 治承年間(1177〜1181)
主な改修者
- -
主な城主
- 加治氏、畑時能(新田氏家臣)、斎藤氏、川窪氏
廃城年
- 元禄11年(1698)
遺構
- 土塁
指定文化財
- 県旧跡(伝金窪館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
那波城(群馬県伊勢崎市)[4.8km]
本庄城(埼玉県本庄市)[5.5km]
藤岡城(群馬県藤岡市)[6.4km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[6.6km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[7.6km]
雉岡城(埼玉県本庄市)[8.4km]
倉賀野城(群馬県高崎市)[8.8km]
阿内城(群馬県前橋市)[9.6km]
山名城(群馬県高崎市)[9.9km]
島名城(群馬県高崎市)[10.0km]
金窪城の口コミ情報
2026年07月06日 マグロ常陸介祐平
長浜氏館[金窪城 周辺城郭]
勅使河原氏館から南に約2.5km、同族の長浜氏の館です。丹党の秩父基房の子の新里恒房の子の三郎信光がこの地に居住し、長浜を名乗っています。南北朝期には一族の長浜六郎左衛門光経が新田義貞に従い、侍所として鎌倉攻略や全国各地を転戦し、建武4年(1337年)に新田義顕と共に越前金ヶ崎城で討死しています(太平記)。但し、風土記稿には、金窪城(登録城)に古くは新田義貞に従軍した長浜六郎左衛門が居城していたといわれていると書かれています(金窪村の項)。
余談ですが埼玉苗字辞典では、後奈良天皇の時代(1526~1557年)に群馬県吉井出身の富田氏が長浜城主になったとしています。神流川戦記に金久保に陣を取った富田左近の名が見られ、富田左近は横地左近と名を変え雉岡城主となり、後に井伊直政に仕え、彦根藩の家老になったとしています(本来横地氏の先祖は遠江の国人とされます)。面白い異説です。
お城のサイトの一部には、土塁や空堀が部分的に残っているとするものがあり、写真も掲載されていますが、探し方が悪いのか、遺構らしきは見当たりませんでした。立派な石碑が立ち、裏側には長浜氏の説明文が刻まれています。
2026年07月05日 マグロ常陸介祐平
勅使河原館[金窪城 周辺城郭]
源平盛衰記、平家物語、吾妻鏡などに登場する勅使河原氏の館となります。館跡に建つ大光寺の系図によると、勅使河原氏は丹党の武士で、秩父太郎丹五郎基房の子の直時が勅使河原に居住し勅使河原を名乗り、孫の弥三郎有直は源頼朝に仕え、大光寺を開基したとしているようです。南北朝期になると勅使河原丹三郎直重は南朝方として戦い、京都羅生門近くで自害しています(太平記には信濃国の住人とある)。室町幕府が成立する頃に勅使河原氏はこの地を離れたようです。また、大光寺はすぐそばで行われた天正10年(1582年)の滝川一益と北条氏直・氏邦による神流川の戦いにおいて焼け落ちています。
本堂の南側には、巨大な土塁の一部が残っています(鎌倉時代のものとは思えない)。また、境内には神流川の戦いで焼け残ったとされる山門や寺を開基した有直や直時・直兼・有直・有則・信直の墓が見られます。
2022年08月01日 マグロ常陸介祐平
金窪南城[金窪城 周辺城郭]
城址は陽雲寺となっています。本堂の東側に土塁がよく残っています。江戸時代初期には川窪信俊の陣屋となっており、母親の信玄夫人の墓があります。また、新田義貞の家臣畑時能の供養塔も寺の入口にあります。
2022年08月01日 マグロ常陸介祐平
金窪城
立派な石碑と案内板のうらに土塁が確認できます。周囲に目立った遺構は見当たりませんでした。
2022年04月18日 ️…
川井城[金窪城 周辺城郭]
約20前にネットで検索しても場所が特定できず、玉村町で聞き込みを重ねてたどり着いた思い出深い城です😌
RPGのイベントみたいで楽しかったのも確かですが、行きたい人がダイレクトに行けるように自身のブログ(現在は閉鎖🥺)記事に当時最先端の機能で地図🗾を貼り付けておいたのも懐かしい思い出😚
そんな川井城を城めぐでもリア攻めマップ登録&口コミ一番槍をつけることができ、感慨深いものがあります😌
川井城は烏川北岸にあった平城で、本能寺の変により派生した神流川の戦い⚔により落城しています🔥
八千矛神社⛩がある場所が楼台と云われています🤔
写真を撮っておらず、縄張り図も確認していないのでなんとも言えませんが、周辺道路にクランクしている箇所があり、往時の縄張りに沿っているような印象を受けました🙄
駐車スペースはありませんが、交通量は少なく、後続車が来ても神社周辺を周回する道路がありますし、遺構は楼台だけですので、心✋配✋御✋無✋用✋です😅
〜以下、現地解説板より〜
川井城跡 八千矛神社
玉村町大字川井字守理忍巡1192
鳥川対岸の金窪城主・斎藤定盛の支城で、第の石見守基盛が在城し、北条氏の磨下であったが、天正13年(1582年)の神流川合戦で滝川一益に攻め落とされた。
堀の内の小字名が残る。
箕輪城麾下の時重の四代目・清水内記邦正が定盛の長女を妻としての地を譲り受けた。
子孫代々城の楼台跡に摩利支天(陽炎の神格化した武神)を祀り、慶応4年(1868年)に神仏判然令で八千矛神社(祭神・大巳貴命)となったが、一般には摩利支天様として信仰されている。
平成元年11月
玉村町教育委員会
2021年06月13日 つか征夷大将軍ぽ
神流川古戦場跡の碑[金窪城 碑・説明板]
滝川一益と北条氏の戦い神流川合戦!橋の建設によりGoogleマップ等の場所から線路沿いに移設されています。仮設らしいので橋が完成したらまた移設されると思います。案内板の滝川が途中瀧川になってる。
2014年11月03日 牢屋見廻り同心マダオ
金窪城
金窪城南にある陽雲寺には大畠氏の居城、金窪南城の土塁や堀跡が見られます。また川窪信俊養母の陽雲院殿の墓や畑時能の供養祠などがあります。
2014年05月08日 土塁ルイ
金窪城
車は金窪城址公園北を流れる川をはさんだ黛神社の入口に止められます。
戦国期関東最大の野戦といわれる「神流川の戦い」の主戦場ですが遺構は土塁らしきものがある程度です。群馬県側には「神流川古戦場碑」や滝川一益の本陣・軍配山古墳、首塚や胴塚などのスポットがあります。
軍配山から眺める景色は一面の田園で、おそらく滝川一益が見た風景とそれほど変わっていないだろうと思いました。









