雉岡城(きじおかじょう)

雉岡城の基本情報

通称・別名

八幡山城、雉ヶ岡城

所在地

埼玉県本庄市児玉町八幡山446

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

山内顕定

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

山内上杉氏、夏目(有田)氏、横地氏、松平氏

廃城年

慶長6年(1601)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)

指定文化財

県史跡(雉岡城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

藤岡城(群馬県藤岡市)[7.1km]
本庄城(埼玉県本庄市)[8.1km]
天神山城(埼玉県秩父郡)[8.2km]
金窪城(埼玉県児玉郡)[8.4km]
真下城(群馬県藤岡市)[8.9km]
花園城(埼玉県大里郡)[9.0km]
平井城(群馬県藤岡市)[9.1km]
岡部陣屋(埼玉県深谷市)[11.2km]
鉢形城(埼玉県大里郡)[11.3km]
那波城(群馬県伊勢崎市)[12.0km]

雉岡城の解説文



雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他(武蔵国児玉郡八幡山)にあった日本の城。埼玉県指定史跡[1]。別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

概要 

山内上杉家によって児玉郡八幡山の独立丘陵に築かれた城ではあるが、鎌倉時代には武士が居住していたと考えられており、城としての形態に整備されたのが室町時代末期(戦国時代初期)とされる(15世紀後半に築かれたと言う事になる)。

『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』などによれば、山内上杉氏の居城として築かれるも、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。

築かれた目的は、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられている。つまり、当初は五十子陣の支城としての役割があった。五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。

150年近い歴史をもち、最終的には松平家1万石の城となり、八幡山藩が立藩するものの、江戸時代をむかえる前に廃城となった。

地理・構造 

城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、東西北の三方に堀を構え、南の一方のみ平地に続き、大手口があり、大手前に馬出跡がある。南側から本丸・二の丸・三の丸の順に連なり、ほかに伯耆曲輪・馬出などの郭から成る。

歴代城主 

城主は初め上杉家の家臣・夏目定基(元は有田氏)であり、『新編武蔵風土記稿』によれば、定基の子息である定盛が2代城主になったとされる。定基は赤松円心の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。

上杉氏が衰退し、城が後北条氏の手に落ちると、鉢形城主となっていた北条氏邦の管理下に置かれ、永禄年間には武田信玄や上杉謙信との武州争奪戦の舞台となる。天正10年(1582年)の神流川の戦い以降、北条氏の支配が確定すると横地忠晴が城代に任命された。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐のおり、豊臣方の前田利家ら北国勢の攻撃によって落城する。伝承によれば、城代であった横地左近は大軍に恐れをなして鉢形城に逃れたともされる。

その後、徳川家康が関東へ入り、江戸城主となる頃には、八幡山城と呼ばれ、松平清宗、家清父子が1万石で当城に配された。清宗は諸税免除などで城下の振興を計ったが、入封後すぐに死去し、家清が家督を継いだ。関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、慶長6年(1601年)、家清は三河国吉田に3万石に加増されて転封となり、以後、当城も廃城となった。松平家の城としての歴史は11年足らずであった。

  • 15世紀末から16世紀中頃までは、上杉氏家臣夏目氏(伝承では、定基と定盛が確認されている)。
  • 16世紀中頃から末までは、後北条氏家臣横地氏(城代)。
  • 1590年から1601年までは、竹谷松平家。

大半は夏目氏が歴代城主として管理に当たっていたものと考えられるが、短命で終った五十子陣と比べ、文献資料に乏しい為、詳細は不明である(伝承に頼るところが大きい)。

伝承 

夜泣き石

本丸南側の郭の堀底に、「夜泣き石(親子石)」と言われる石が残る。児玉町に伝わる民話によると、 城主の側女お小夜が、城主の奥方の怒りを買い井戸に沈められ殺されてしまった。お小夜はそのとき妊娠しており、彼女の死後、井戸や堀の水が乳色に濁り、夜な夜などこからともなく赤子の泣き声が聞こえてくるようになった。井戸を攫ってみると底から大小二つの石が出て来たので、お小夜とその子が姿を変えたものと思い、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、堀端にこの二つの石を祀り、剃髪して喪に服したという。

姫塚

現神川町植竹における伝承によると、九郷用水に沿って村の東はずれまで来ると大きな塚があり、姫塚と呼んでいる。永禄年間に、北条氏に攻めたてられて上野にひきあげようとしていた時、あいにく、病弱な姫君がおり、一族は姫君の安否が気がかりでならなかった。やがて八幡山から藤岡に向って逃げのびようと暗い夜の山道を姫を連れて植竹村まで来たが、ついに姫は林の中で息を引き取ってしまった。一族ははかなかった姫君の為、近くにあった塚に墓を作ったが、永く住みなれた八幡山城が眺められる様に塚の東南に墓碑を立て、姫の霊を弔った。その後、この塚を姫塚と呼ぶようになったと伝えられている。

城跡公園 

現在、本丸・二の丸は本庄市立児玉中学校、三の丸は埼玉県立児玉高等学校となっているが、南東側の数郭は「雉岡城跡公園」として整備され堀や土塁の遺構が残り、塙保己一記念館が建てられた(2015年アスピアこだま内に移転)。

雉岡城跡(城山公園)には300本のソメイヨシノが植えられており桜の名所として知られている[2]

備考 

  • 初代城主である定基は、八幡山に浄眼寺を、児玉には東福院を開基したと伝えられ、八幡神社を信仰して社領を寄進したとされる。玉蔵寺や八幡神社については、雉岡城築城に際して現在地に移転したものと伝えられている。
  • 児玉町金屋に所在する真福寺の阿弥陀像の底に書かれた墨書には、「上杉景勝が生野山に陣を敷き、その為、真福寺の本尊が失われた」と書かれている。激しい戦闘はなかったとみられるが、放火や略奪が行われたものとみられる。
  • 江戸時代初期の廃城後、城内の建造物は取り壊されたが、堀、土塁は残った。江戸時代後期には旧城域の一部が開墾され田畑となり、明治時代に入ると、三の丸一帯に児玉高等女学校が建設された。

参考資料 

  • 『武蔵国児玉郡誌』
  • 『本庄市の文化財』 本庄市教育委員会 2009年 市役所発刊
  • 『県北の伝承と民俗』(『児玉地方の伝承と民俗』が初版であり、後に改題され、出版)
  • 『写真で見る児玉の歩み』
  • 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|ref=}}
  • 【書籍】「旧鎌倉街道 探索の旅」

雉岡城の口コミ情報

2025年04月20日 マグロ常陸介祐平
真下氏館[雉岡城  周辺城郭]



真下城の帰りに、真下氏の本貫の地にあった館跡を訪れてみました。

真下氏の初代真下基行は、児玉党本宗家の2代目児玉太夫弘行の三男(実際は弘行の次男有道(入西)資行の末子のよう)で、この地に館を構えたようです。平家物語や吾妻鏡に一族の名が見られ、子孫(坂本氏)に伝わる文書には土佐坊昌俊に従って義経襲撃にも加わったとしています。南北朝期に南朝方として真下春行や一族多数が討死すると脇屋義治の子が養子に入り、清水と名を変え越後に隠れ住んだとしています。一族の中からは(春行の弟基行?)鬼石譲原に移った者がいたようです(真下城主真下氏)。清水氏となった真下氏は、その後、坂本と改名し、現代まで続いています。どこまでが事実なのかは見当もつきませんが、真下氏の古いお墓は(板碑や南北朝からの小さな墓石群)は、真下氏の館跡にある坂本家の墓域に存在します(写真3枚目,Googleマップに古石碑群で位置登録)。

館の跡は、畑(写真4枚目,包蔵地付近)や馬頭観音堂や墓地となり、遺構は皆無ですが、近くには真下基行の守り本尊を祀る龍泉寺(写真1,2枚目)や真下基行が勧請した金佐奈神社(写真5,6枚目)が建ちます(近年の移転ですが)。

2025年04月17日 マグロ常陸介祐平
御嶽城[雉岡城  周辺城郭]



丹党安保氏の安保吉兼が文明12年(1480年)に築城したとされています。お城の麓には武蔵国二ノ宮の金鑽神社が鎮座しており、本殿は建物ではなく、当お城である御嶽山となっています。境内には多宝塔(国指定重要文化財)建っていますが、天文3年に安保弾正全隆の寄進によるものです。

御嶽城は、武蔵と上野の境目のお城として 度々登場します。天文21年(1552年)には、関東管領上杉方として北条氏により攻略されて金鑽山諸堂宇は焼き払われ安保泰広・泰忠は降伏し北条方の城となり、永禄13年(1570年)には武田氏による城攻めにあい落城、翌元亀元年には安保氏に代わり城主を勤めていた平沢(長井)政実を調略して武田方の城となり、元亀2年に甲相同盟が成立すると北条氏に引き渡されています。お城は、小田原の陣により廃城となったようです。

神社の奥から整備されたハイキングコースを登ると国の特別天然記念物「鏡岩」があります。断層面が地中でズレた際に摩擦によって出来たもので、遠方にある高崎城が落城した際に炎上する炎が写し出されたと伝わります。さらに登ると石仏群がある東郭に出ます。郭の入り口は虎口状で(写真6枚目)、背後には奥宮や護摩壇跡や弁慶穴が見られる岩山(写真3枚目)となっており関東平野を一望出来ます。見張りには最適な場所となっています。

東郭の向かいの山道を御嶽山(主郭)を目指して登ると手前に小さな堀切(写真8枚目)、主郭の切岸手前にも堀切(写真1枚目)が見られます。切岸(写真5枚目,男坂)をローブをつかみながらよじ登ると山頂のかなり狭い主郭(写真7枚目)に出ます。さらに北に進むと大きめな堀切があり、二段となっている2郭に出ます。2郭には東側と北側に薄い土塁(写真2枚目)が見られ、西側には一段下に腰郭がついています。主郭に戻り女坂を下ると直ぐに分岐点があり、新宿・秋葉神社方面に進むとやや大きめな堀切(写真4枚目)があります。東郭に戻り、石仏が並ぶ西側のコースを下り、法楽寺跡を見学し元の金鑽神社に戻ります。

主郭を中心に三方向に伸びる尾根を堀切で遮断するシンプルな縄張りです。何度か落城していますが、大人数が詰められるスケールはありません。堂宇が焼き払われたということですが、多宝塔が残ったのは奇跡だと思います。

2025年04月15日 マグロ常陸介祐平
塩谷氏館[雉岡城  周辺城郭]



風土記稿ではこの地に児玉庄太夫家弘の弟、塩谷平太夫家遠の子孫連錦が居住したとしています。こちらのサイトの登録城である渋谷城(現 金王八幡宮)の渋谷金王丸(土佐坊昌俊)は、塩谷重家の養子となったという伝承もあり、館跡に建立された真鏡寺の開基・開山は渋谷金王丸とされ、墓域には金王丸の供養塔があります(風土記稿では鹽谷某の古墳と云伝わるとしています)。

近年まで土塁や空堀が残っていたようですが、曲輪の痕跡と思われる段差が見られる程度で明確な遺構は確認出来ませんでした。

2025年04月14日 マグロ常陸介祐平
雉岡城



14世紀初めまでに成立した謡曲集「宴曲抄」に「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」とあることから、14世紀までには武士の居館が存在していたと推定されています。城郭としては15世紀に関東管領山内上杉氏が築城し、夏目氏が詰めていたようです。その後、後北条氏の支配下となり、小田原の陣後の天正18年(1590年)は、松平(竹谷)家清が1万石で入部、慶長6年(1601年)になると三河吉田3万石に栄転し、雉岡城は廃城になっています。

お城は南北に400m程あったようですが、北側は中学や高校となり遺構は消滅し、ニノ郭、馬出、南ノ郭、東ノ郭の一部が公園として整備されています。南ノ郭を囲む土塁は高く、外堀と内堀が一部水堀として残ります。1万石とはいえ近世城郭として11年間存在していましたが、複雑な縄張りは、戦国期のものを多分に利用していたと思われます。

馬出部分は以前塙保己一記念館が立てられていた為、堀が現代的なものになっています(写真4枚目)。発掘調査が進められており、現在は馬出の西側を発掘中です。

2024年03月10日 埼玉だ
雉岡城



残された城跡は公園として整備されており、入口付近に駐車スペースとトイレがあります。深い堀が残されており、その底の部分には井戸があります。

2023年10月11日 左近衛少将軍曹
白石城[雉岡城  周辺城郭]

猪俣党白石氏の居城。戦国時代に白石播磨守宗清が拠り、南西の宗清寺に宗清の墓が残る。上州と鉢形城を往来する街道を抑えた城。土取りで大部分が消滅。

2023年06月05日 弾正一秀
雉岡城

雉岡城はそんなに広い駐車場では有りませんが車を止める所もありますね❗わずかですが水堀や土塁も残ってましたね😁現在は公園成ってますよ

2022年11月13日 マグロ常陸介祐平
安保氏館[雉岡城  周辺城郭]



安保氏は鎌倉幕府の御家人で、室町時代までこの地にいたようです。石碑と説明板のみで遺構は見当たりませんでした。近くに阿保神社がありますが、明治になって改称された神社名のようです。

2022年05月14日 busuka
雉岡城

本丸は児玉中になっています。公園になっているのは馬出付近ですが掘、土塁がしっかり残っています。

2022年04月18日 ️…
鏡岩[雉岡城  寺社・史跡]



金讃神社から御嶽城に登る道沿いにあります🪨直接的な城の遺構ではありませんが、東南郭の直下にあることから、敵兵が登ってきた場合、黒光りする鏡岩🪨が威圧感たっぷりに迎え撃つんだろうな🤔とか、単純に滑りやすくて東南郭を落とすのは困難だろうな🙄なんて思いました 高崎城落城の際、炎🔥が映ったというエピソードも萌えます🥰

〜以下、鏡岩解説板より〜

御嶽の鏡岩

昭和31年7月19日 国指定特別天然記念物

御嶽の鏡岩は、約1億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線ができた時の断層活動のすべり面である。
岩面の大きさは、高さ約4メートル、幅約9メートルと大きく北向きで 約30度の傾斜をなしている。
岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生ずる擦痕がみられる。
岩面の大きさや、断層の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。
鏡岩は古くから人々に知られていたようであり、江戸時代に記 された 『遊歴雑記』には、鏡に向えば「人影面の皺まで明細にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」とあり『甲子夜話」にも同様の記述がある。
また、鏡岩がある御嶽山の一帯は、中世の山城である御嶽城跡が所在することでも知られているが、 鏡岩が敵の目標となることから、城の防備のため松明でいぶしたので赤褐色になったという伝説や、高崎城(群馬県) が落城した時には火災の炎が映ったとも伝えられている。
このように鏡のように物の姿を映すということから、鏡岩といわれるようになった。

平成9年3月
神川町教育委員会

2022年03月23日 播磨守風のこうちゃん✨️
雉岡城



車で訪問致しました。数台停めれます☝️現地トイレ有ります。城郭は当時の1/3の規模迄縮小されてますが、大きな空堀に土塁等、見所満載!!

2021年05月22日 陸奥守新九郎
雉岡城

コンパクトながら、大規模な横堀がめぐる良いお城です。
学校建設により壊されてしまった部分が大きいのが本当に残念です。

2019年05月28日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
雉岡城



本丸の東側に堀を挟んで「ほうき郭」が隣接する。周囲の土塁はだいぶ崩れたらしく、ゆるく低くなっているが往時の雰囲気は感じられる。

2019年05月25日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
雉岡城



夜泣き石のある空堀が菖蒲の池に変わるあたりに、細く急なトレイルで本丸に登る道がある。かつてはこの先に虎口があったかも知れないが今は削り取られているか…

2019年05月25日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
雉岡城



夜泣き石のある空堀が本丸東を深く抉っている。高さ20mはあろうかという立派な堀が南へ伸びる。この城の遺構はみなスケールが大きく、戦国末期以降に相当手が入っているように見える。

2017年10月18日 安田民部卿秀俊
雉岡城

大手口 土塁上に、こじんまりと騎馬武者の像があります。 台座に何も書き彫られてないので誰をモデルにしているのか不明。
凛々しい顔してます。

2015年10月13日 永眠武蔵守釋 葱進
雉岡城

城跡入口に駐車スペース数台分あり、トイレもそこにあります。
自販機はありませんが、城跡が旧児玉町の中心部にあるので飲食物の心配はないでしょう。
解説板と見取り図が入口と馬出跡(旧塙保己一記念館)付近にありますが、どちらも地図の向きが90度ずれている(西向きに設置されてるが北が上に描かれている)ので、ちょっと戸惑うかも。
多くの敷地は学校等になってしまってますが土塁や堀が相応の範囲で遺されており、草刈りなどの手入れもきちんとなされています。

雉岡城の周辺スポット情報

 馬出(遺構・復元物)

 夜泣き石(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 大手(遺構・復元物)

 鎌倉街道上ノ道・地図(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 石碑(碑・説明板)

 御嶽城(周辺城郭)

 安保氏館(周辺城郭)

 白石城(周辺城郭)

 塩谷氏館(周辺城郭)

 真下氏館(周辺城郭)

 玉蓮寺(寺社・史跡)

 熊野神社(寺社・史跡)

 長福寺(寺社・史跡)

 八幡神社(寺社・史跡)

 金鑽神社(寺社・史跡)

 鏡岩(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

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