藤岡城(ふじおかじょう)

藤岡城の基本情報

通称・別名

芦田城

所在地

群馬県藤岡市藤岡城屋敷1848

旧国名

上野国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

依田康勝

築城年

天正18年(1590)

主な改修者

主な城主

依田(芦田)氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

平井城(群馬県藤岡市)[4.7km]
山名城(群馬県高崎市)[5.8km]
倉賀野城(群馬県高崎市)[6.4km]
金窪城(埼玉県児玉郡)[6.4km]
雉岡城(埼玉県本庄市)[7.1km]
一郷山城(群馬県高崎市)[8.1km]
島名城(群馬県高崎市)[10.0km]
真下城(群馬県藤岡市)[10.3km]
本庄城(埼玉県本庄市)[10.6km]
奥平城(群馬県高崎市)[10.6km]

藤岡城の口コミ情報

2026年06月03日 マグロ常陸介祐平
落合城[藤岡城  周辺城郭]



日本城郭大系に、平井城の外堡、方80m、南の一方に虎口があると書かれています。お城は鮎川の西側、段丘の隅部分にあります。城主や来歴などは不明のようですが、埼玉苗字辞典によると松代藩士落合氏の系図に「在原業平後裔、上杉憲房に仕へ上州上郷落合村に住す、上杉憲政(藤岡市平井城主)が越後長尾景虎を頼って亡命したとき落合九郎左衛門元忠が同行す、憲政没後は沼田に帰り沼田真田氏に仕へる。その子瀬左衛門元重は真田信之に仕へ信州松城に移り寛文三年卒八十歳」とあることから、落合氏のお城だった可能性もあるように思われます。落合氏は「落合文書」と呼ばれる古文書を残しており、南北朝期からの山内上杉氏や総社長尾氏との関わりや長野氏に属していた事が確認できます。文書は長野市立博物館が所蔵しており、博物館だよりの103号で解説されています。

段丘の隅部分に位置しており、東側と北側は切岸加工されているように感じられ、ソーラーパネルの手前には、薄い堀状の構造が見られ、東側縁部の延長先には虎口のようなものも確認できます。大系に書かれている南側の虎口は、ソーラーパネルの先にあり、未確認です(消滅しているらしい)。

周辺は古墳群となっていて、走っていると車窓からいくつもの古墳が見られます。近くには藤岡歴史館もあり出土した遺物などを見ることができます(写真8枚目、無料)。藤岡市はお城の多い地域でもありますが、お城に関しての展示は、平井城と金山城の簡単な説明のみとなっています。

2026年06月02日 マグロ常陸介祐平
下大塚城[藤岡城  周辺城郭]



小林氏の居館とされる中大塚城から北に約500m、下大塚集会所の南側が城址となります。来歴等は不明ですが、立地的に小林氏に関連するものと推測されているようです。

西側の道路沿いに80m程の空堀が残っており、北側と南側で折れた先で途切れています。北の隅と中央部には土塁の残欠と思われる土盛りが確認できることから、堀に沿って土塁も廻っていた事が推測できます。堀や土塁の残欠には大きな礫が大量に見られますが、地質的なものか古墳の葺石を利用したものなのか、よく分かりません。

残る遺構は管理されているかのごとくよく残っていますが、説明板などは設置されておらず、意図して残した風でもないことから、近代まで使用された近世の名主層などの屋敷跡の可能性もあるように思われます。

2026年06月01日 マグロ常陸介祐平
篠塚城[藤岡城  周辺城郭]



義輝山光源院というお寺が城址となります。新田四天王の一人、篠塚伊賀守のお城とされています(苗字の地はここではなく、邑楽郡の篠塚とされる)。地区が設置した光源院の説明板によると、お寺は足利義輝の孫の木食上人覚海が寛文10年(1670年)に篠塚伊賀守の館に閻魔堂を建てて開山したとされ、光源院は義輝の戒名(光源院融山道圓)から名付けられたとしています。年代的にも厳しく、南朝を代表する武士の館跡に足利氏を供養する寺を建てるのも不思議な感じがしますが、近くには伊賀守を祀る篠塚神社もあったりするようです。

遺構としては、お寺の西側に土塁状の土盛りが見られ、虎口らしきが開口しています。中世城館として遺跡名は篠塚館、埋蔵文化財包蔵地となっています。

2026年06月01日 マグロ常陸介祐平
森中城[藤岡城  周辺城郭]



群馬県古城塁址の研究で、森中城は小野里氏、小野沢氏等の地侍の寄居で、周辺の諸士は児玉党など武蔵七等の分派であろうとされているようで、周辺に多く見られる小林氏同様秩父氏の一族の可能性があるようです。また、小野沢氏に関しては、菅原是善の子孫とされているようです。

埼玉苗字辞典によると小野里氏は忍城主成田長泰の子で烏山藩主となった泰親や泰之が小野里を名乗ったとしており、こちらの小野里氏との関連を示唆しています(成田氏の頁)。確かに成田氏分限帳には御家門として小野里太右衛門尚久と小野里刑部少輔尚政の名が見られますが、このお城に居住するのは少々無理があるように思われます。

お城は光明寺の北側に位置しており、日本城郭大系によると250×170mとそこそこの規模があったようですが、現在は北側の道路沿いに僅かに土塁と空堀の一部が残るのみとなっています。土塁の高さは堀底から3m程はあるように見えました。

2026年06月01日 マグロ常陸介祐平
森西城[藤岡城  周辺城郭]



森東城同様に周辺に一族が多い小林氏のお城とされています。広い外郭の中に80×50m程の内郭で構成されていたようです。

現在、内郭は民家となり背後は雑木林となっています。雑木林は畑の先にあり、近づいて確認することはできませんでした。お城に関して複数のサイトで紹介されていますが、遺構の残存に関して明確に表現しているものはありません。

近くに建つ泡輪神社や盛勝院に関しても、ネットでは情報を拾えず、お城との関連も分かりませんでした。

2026年05月31日 マグロ常陸介祐平
森東城[藤岡城  周辺城郭]



近隣の中大塚城、上大塚城、下大塚城森西城同様に山内上杉氏の家臣小林氏の居城とされています。小林氏は桓武平氏秩父氏流の高山氏の一族で、永禄6年の文書に森郷の武士として小林右馬允の名前が見られるようです。また、県道前橋長瀞線を挟んだ西側にある泉通寺は小林出羽守政忠の開基で、墓地には政忠の供養塔があります。また、地域が北条氏の支配下となると針谷対馬が居城したとされています。針谷対馬の名は、天正14年の中栗須神明宮の勧進帳に見られるようです。

遺構としては民家の西側に土塁と空堀が残っており、その規模から居館として使用されていたものと思われます。また、菩提寺の泉通寺の西側にも土塁状の土盛り、北側には空堀状の溝が見られますが寺院としてのものでしょうか。

森地区には森東城の他、森西城と森中城がありますが、強い関連は無さそうです。中世武士の多い地域です。

2026年03月13日 ᴿᴱᴰ副将軍
藤岡城



徳川家康の家臣である依田康勝の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1590年に依田康勝により築城。
依田康勝は武田氏重臣の依田信蕃の次男であり、武田氏滅亡後は徳川氏の人質となっていました。
1586年には徳川氏家臣に取り立てられ、徳川家康の前で元服。さらに家康から「康」の偏諱を受け、松平姓を名乗ることも許されました。
天正壬午の乱で活躍をした父の依田信蕃は北条方の岩尾城に攻め寄せるも討死しており、家督を継いだ子息への高待遇はいかに徳川家康は依田信蕃を評価していたかが分かります。
1590年に上野国石倉城攻めにおいて兄の依田康国が討死すると家督を承継。徳川家康の関東入封に従い、藤岡に所領を与えられ築いたのが藤岡城です。
しかし、1600年に依田康勝は囲碁をしていた際に小栗三郎と口論となり殺害してしまったため改易となり高野山の蓮華定院に蟄居。その際に藤岡城は廃城。
その後、依田康勝は母方の加藤性を名乗り加藤康寛と改名。越前国福井で結城秀康に仕え、1614年の大坂の陣においては、越前大野城代として留守の防備を任されています。

見所
現在は藤岡市立第一小学校の敷地となり、遺構の大半は消失。
元は約150m四方の方形居館であったと考えられており、小学校の北側に大規模な土塁が残っています。
北東と西北角に櫓台が築かれており、北と南に虎口が開口していたとされ、南側が大手であった様です。

2026年01月26日 マグロ常陸介祐平
大神宮山城[藤岡城  周辺城郭]



日本城郭大系では、「大神宮山の砦」の名称で「200m‪✕‬100mの丘城。堀切・腰郭がある。」とのみ書かれています。城主や来歴など伝わらないようですが、西に5km程にある平井城の支城と考えられているようです。

庚申山の北端に位置しています(南端にも詳細不明の常岡城があります)。鳥居をくぐり北側の参道から登ると途中帯郭があり(写真1,3枚目)、上部の郭には神明社が鎮座しています(写真2枚目)。神社は藤岡城主芦田氏の創建のようで、参道も藤岡城側からのものとなりますが、何故か社殿は反対側を向いています。神社の正面に鳥居はありません(写真4枚目)。

神社は単郭の削平された郭の中ですが、遺構は見られません。正面は薮となっている為、北西側の切岸沿いを進むと縁部に薄い土塁が現れ(写真5枚目)、折れて台地上を仕切る堀切を伴うやや高い土塁となります(写真6,7枚目)。土塁近くには、参道がなく薮を抜けるしかない摩利支天堂があります(写真8枚目)。

大変シンプルなお城でした。

2024年05月05日 DAI.勘解由次官
藤岡城



残存する遺構は土塁のみですが、土塁の高さは周囲の2階建て住宅を超える高さです。自然丘陵を利用したものでなく、人工的に築造されたもののようで、人工築造の土塁でこれだけの高さのものは、他の城趾でもなかなか存在しないと思います。現地に行って、見て登って体感するのをオススメいたします。

2022年11月13日 マグロ常陸介祐平
中大塚城[藤岡城  周辺城郭]



鎌倉時代末期からの地頭職の小林氏の居館です。単郭で周囲を土塁と空堀が囲んでおり、虎口には古い門が建っています。また、堀には僅かですが石積みも見られます。郭内は個人宅の為、立ち入ることは出来ませんが、外周からでも中世館跡の雰囲気を十分に感じられる史跡です。

2022年11月13日 マグロ常陸介祐平
藤岡城



藤岡第一小学校の北側にかなりの高さの土塁が見られます。大変な土木量で築城されたと実感できます。公園になっていますが城に関する説明はありません。城主の芦田康真(依田(松平)康勝)は、改易後に加藤康寛と改名して福井藩士になったようですが、市内にある芦田氏の菩提寺の光徳寺には、江戸時代の芦田氏関連の墓があったりします。謎が多い芦田氏です。

2022年05月01日 参議くるみ丸
藤岡城



城主の子孫が、学校建設用地として寄付された貢献を称え、銅像が建てられていました城址を一周できます

2016年03月27日 永眠武蔵守釋 葱進
藤岡城

芦田(依田)氏によって築城されたことから芦田城とも呼ばれており、現地にあるプレートには「芦田城址」と書かれています。
跡地は現在藤岡第一小学校があり、学校を取り囲むように北から西にかけて土塁が遺されています。
土塁は遊歩道化など手が加えられていますが、5mは超えるであろう高さがありかなり見応えあります。

城自体はわずか10年で廃城となったものの戦後まもなくまで個人により管理されており、学校建設の際に城跡を寄贈され現在に至ります。
城そのものの説明はないが、寄贈に至った経緯は土塁上にある寄贈者(井元たい氏)の銅像の台座に記されています。

土塁に沿って歩くといつの間にか校庭に出ます。今のご時世に珍しく開放的な学校だなという印象を受けました。

藤岡城の周辺スポット情報

 中大塚城(周辺城郭)

 下大塚城(周辺城郭)

 上大塚城(周辺城郭)

 落合城(周辺城郭)

 大神宮山城(周辺城郭)

 森東城(周辺城郭)

 森中城(周辺城郭)

 森西城(周辺城郭)

 篠塚城(周辺城郭)

 落合代官所(周辺城郭)

 土師神社(寺社・史跡)

 諏訪神社(寺社・史跡)

 鎌倉街道上ノ道・葵八幡(寺社・史跡)

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