本庄城(ほんじょうじょう)

本庄城の基本情報

通称・別名

所在地

埼玉県本庄市本庄3-5

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

本庄実忠

築城年

弘治2年(1556)

主な改修者

主な城主

本庄氏、小笠原信嶺

廃城年

遺構

土塁

指定文化財

市史跡(本庄城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

那波城(群馬県伊勢崎市)[5.3km]
金窪城(埼玉県児玉郡)[5.5km]
岡部陣屋(埼玉県深谷市)[7.0km]
三ツ木城(群馬県伊勢崎市)[7.9km]
雉岡城(埼玉県本庄市)[8.1km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[8.7km]
深谷城(埼玉県深谷市)[9.7km]
今村城(群馬県伊勢崎市)[10.3km]
人見館(埼玉県深谷市)[10.4km]
藤岡城(群馬県藤岡市)[10.6km]

本庄城の解説文



本庄城(ほんじょうじょう)とは、戦国時代の武蔵国児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市)に、武蔵七党の一角を占める武士団である児玉党を構成する本庄氏によって築かれた日本の城(平城)。後に本庄藩の居城となる。

概要 

石垣の城ではなく、畿内の近世城郭のような天守も存在しなかった。本庄宮内少輔実忠が古河公方家を迎え撃つために、弘治2年(1556年)に構築し、元の本拠地であった東本庄館から移動した。ただし書籍などによって築かれた目的は異なり、見解は諸説ある。永禄10年(1567年)に北条軍に攻められ落城させられるも、本庄氏は降伏し、後北条方に服属することで城を回復した。[1]。天正8年(1580年)、実忠の死後に家督を継いだ本庄隼人正近朝が城主となった。天正18年(1590年)に後北条氏傘下として豊臣秀吉と対立し、小田原城へ籠城するも開城に際して自害した。同年5月27日には本庄城も落城しており、鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡した。本庄氏による本庄城在城期間は、2代合わせて34年である。

範囲と地理

『児玉記考』によると、「本庄氏滅亡の前は大池形をなせる凹地をはさんで左右に城郭を構え」とある。この凹地とは、久城堀である。本庄城は、当初、久城掘りの東側から現在の本庄自動車学校付近までの大規模な範囲にあった。本庄城址は、現在の本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺(久城堀西側)を指すが、この辺り一帯だけではなかった。本庄城址とされる地域は、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であった。城の守護神については、椿稲荷明神(つばきのいなり みょうじん)であり、長峯付近にあったとされる。

城の北の崖下には小山川が流れ、東の地は窪んでおり、西の地はまた少し土地が高く、南は宿(城下町)の裏に続く。元の本拠地であった東本庄館より北方に位置し、より国境に近い位置に築かれた。実忠は戦国乱世の中で天寿を全うすることができたが、近朝の代には本庄の地理上、有力な列強大名達の板挟みされる状態となった。

城下町が形成されるに至るまで

実忠が本庄城を築いたのは60歳前後の時であった。100年近く本庄氏が本拠地としていた東本庄館を去り、一から城下町を築いていった。『徳川時代之武蔵本庄』(諸井六郎著)によると、弘治2年(1556年)の頃は、まだ城下町として完全には成しておらず、野原中に12の農家の散在と利根川沿岸の花の木・本宿・籠瀬(現在の台町永峯付近)に十数戸の民家が存在したに過ぎなかった、とある。古老の伝えでは、花の木18軒の古百姓は、本庄氏が築城して土着する以前から在住していた者達であったという。弘治・永禄年間の頃(1555年 - 1570年)より、戸谷・諸井・森田・内田・田村などなど、新田氏の遺臣を本庄村に移住させ土着させることにより開墾が進み、本庄氏が没落した天正18年(1590年)の頃には、城下町の大きさは15町50間となり、農家が38軒にまで達した。約2、30年の間に城下町が形成されたことが分かる。

近世本庄城(小笠原氏本庄城) 

天正18年8月、徳川家康に旧北条領が与えられ、その家臣である信州松尾の小笠原掃部大夫信嶺が9月に本庄一万石を配領した。小笠原氏により本庄城は改築され、信嶺の養嗣子となった信之により、本庄藩が立藩することとなる。この頃の本庄城の城下町は15町50間、農家が38軒あった。しかし慶長17年(1612年)に本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となった。小笠原氏の城下町としての歴史は22年足らずであった。その後の8年間は旗本四家が分割支配した。残された城下町は整備され、後世、中山道において有数の規模の宿場町となる本庄宿が形成されていくこととなる。

範囲について

現在一般的に本庄城址と言えば、こちらの近世の本庄城の方を指す。元禄13年(1700年)の検地帳に三町四反五畝二十九歩あったと記録されており、約34300m2に相当する。これはおよそ東側の台町八坂神社付近から現在の本庄市役所周辺の規模に当たる。南の円心寺は慶長14年(1609年)に小笠原氏が圓心房を呼び、開山させている。また、西方の開善寺は小笠原氏の菩提寺であるから、城に関する領域はもっと広かった可能性もある。

城郭・堀などの位置について

検地帳を参考にすると、本丸の位置については、城山稲荷神社の南西部一体と推定される。現在の本庄市役所との間である。この部分を東西・南にコの字形にめぐる堀が存在した。西の堀は「一の谷」と呼ばれていた。さらに、一の谷の西にも堀が存在し、一つの郭を作っている事が発掘調査で判明している。これが西郭とされる。一方、本丸東の堀より東で八坂神社までは、三方が崖となり、出丸的な施設と推定される。東郭と仮称されている。本丸之内大手東とは、本丸内の大手の東を示し、城山稲荷神社の参道と東掘の間とされる。本丸大手西方は、参道と市役所の間で、面積の上からもほぼ整合する。したがって、城の正面入口の大手門は参道付近にあったとみられる。浄土裏は、南方の円心寺が浄土宗であることから、その裏を示すものと考えられる。現在の墓地と西郭の間の敷地は、検地帳の面積とほぼ合っている。土取場下や土取場南方は、一段低い部分を示すから、東郭の南一帯に当たると考えられる。坂下と坂下北之方は、本丸の北が神社と元小山川の崖であるから、東郭の北一帯を指す。その他にも、堀潟、北久保、橋場、堰場上などの地名が見え、これが小笠原氏本庄城の範囲である。

この小笠原氏本庄城も、石垣ではなく、崖を利用し土塁を築き、板塀と櫓を構えてはいたが天守は無く、本丸にあった館は今日のお寺の本堂のような形であったと見られ、つまり典型的な戦国期関東の城郭形式であったと見られる。正直に言うと、丁度1万石の小大名としては適度なものである。

歴史 

  • 1556年(弘治2年) - 古河公方家を迎え撃つために本庄実忠によって築城されたとされる。ただし築かれた目的は諸説あり、断定はできない。
  • 1567年(永禄10年) - 北条軍に攻められ落城。降伏して北条方に服属する。
  • 1580年(天正8年) - 本庄実忠が85歳で死去。本庄近朝が城主となる。
  • 1590年(天正18年)5月 - 小田原征伐によって小田原城で籠城していた本庄近朝が落城に際して自害。武蔵国の本庄氏は滅亡。5月27日には本庄城も落城。
    • 9月 - 信濃国松尾城の小笠原信嶺が封じられ、本庄藩1万石の藩祖となる。
  • 1598年(慶長3年) - 小笠原信嶺が死去。家督を継いだ小笠原信之が城主となり、本庄藩初代藩主となる。
  • 1612年(慶長17年) - 小笠原信之が古河藩に加増移封されるにともない、本庄藩が廃藩となり、本庄城も廃城となる。本庄実忠が城を築いてから56年後であった。本庄城の城下町付近には本庄宿が形成されていくこととなる。

その他 

  • 研究者の考察として、本庄氏時代の本庄城は軍事的な城の役割の方が強かったが、小笠原氏が築いた本庄城は藩庁として、すなわち行政役所としての役割の方が強かったと見られている。
  • どの書籍においても、本庄城の想像図(イメージ図)は、小笠原氏の本庄城の方である。これは、戦後になるまで初期本庄城と近世本庄城を混同視し、本庄氏の本庄城の所在に気付かなかったためとされる。現在でも前期本庄城の所在推定地の説はあるが、確定はしていない。
  • 発掘調査の結果では、後期本庄城の堀の幅は20m、深さは10mとある(昭和期の『資料館だより』より引用)。
  • 前期本庄城について、東本庄館を移築したとする説もあるが、城下町自体は一から形成されたものである。
  • 『児玉記考』等の伝承から家長城(栗崎館)と混同視されがちであった。栗崎館も以前は単に本庄城と記述されていた。これは「庄氏が本庄に城を建てた」とする伝承が複数あったためであるが、研究が進んだ現在、庄氏が建てた城堡と本庄城は区別されている。

参考文献 

  • 『武州本庄宿ふるさと人物史1』 1989年 (旧説など多く、古いが、全体的なイメージ図あり)
  • 小暮秀夫 『武蔵国児玉郡誌』シリーズ 1927年
  • 『児玉記考』(前編) 初版 明治33年
  • 『本庄市立歴史民俗資料館紀要』1号
  • 『本庄歴史缶』 1997年 (北側から見たイメージ図と地図あり)
  • 柴崎起三雄 『本庄人物事典』 2003年 (築城目的に関して、北条方に組した結果、上州からの進軍に備えて築かれたものとしている)
  • 『埼玉県本庄市宮本町自治会記念誌 みやもと』 2004年 (詳細な地図あり)

本庄城の口コミ情報

2022年06月29日 まー刑部卿
小笠原信嶺公夫妻墓[本庄城  その他]



徳川家康の関東入国後の天正18年(1590)9月、1万石で本庄城城主となる。市内開善寺を開き没後葬られる。左側の宝篋印塔が信嶺公の墓。跡を継いだ養嗣子の信之公の下総国古河城へ転封により本庄城は廃城。墳墓の上に建つ。開善寺南側にある。本庄市指定文化財。

2022年06月29日 まー刑部卿
小笠原信之公墓[本庄城  その他]



酒井忠次三男。天正16年(1588)に本庄城城主小笠原信嶺の娘を娶り養嗣子となり小笠原家を継ぐ。慶長17年(1612)に下総国古河城へ転封、慶長19年(1614)同地で死去。享年45。市内開善寺に葬られる。

2022年04月12日 ジュニア越後守
五十子陣[本庄城  周辺城郭]



国道17号沿い天狗茶屋の隣の建物裏に小さな公園があり、そこに説明板が設置されていました。本庄カルタ横に案内表示あり。

2021年04月04日 真田10000石一橘
本庄城



本庄城訪問🏯本庄市役所正門から入りすぐ右手の駐車場🅿️に車を停めて攻城開始するもどこ?市役所裏側から表に廻ったところで竹林の切れ目から一気に展望が開け高台にでる。空堀のあるここが主要な郭であったことにようやく気付いた。

眼下の川向こうに移動し川の飛び石を慎重に飛び越えて公園側より稲荷神社⛩️に移動するといきなり、おおきな欅の木が迎えてくれる。根元の大きさ、祠状の割れ目は築城当時に植えられたもので本庄の城の歴史とともに生きてきた。
これからもこのまちで無言のまま人々を見まもりたたずむ大きなシンボルであってほしい。

参道逆歩き両側に植えられた山桜🌸の真っ白な花びらが雪のように舞い降りて幻想的な時間をくれました。

2021年02月26日 国府左京亮城介
五十子陣[本庄城  周辺城郭]



享徳の乱における山内上杉氏の居城

【歴史】
関東管領の上杉房顕が、康正3年(1457)に古河公方の足利成氏と対峙するために築城し、享徳の乱における居城として機能した。この地を巡って、断続的に合戦が起きている。文明9年(1477)に、古河公方方に寝返った長尾景春(長尾景春の乱)によって攻め落とされ、廃城となった。
なお、文献資料上において、五十子城という記述はないため、五十子(の)陣と表記されている。

【遺構】
本庄城南東約2.8kmに位置し、女堀川と小山川に挟まれた段丘崖に築かれている。
城は3つの郭からなっていたらしく、各郭の間には空堀があったらしい。東西1km、南北500mとかなり広く、一時的な陣城ではなく、山内上杉家の拠点に相応しい居城である。
明確な遺構としては、1郭(現・小山川水循環センター)の南側の空堀が残っている。また、地形に当時の城の面影を感じさせる場所が数か所ある。なお、遺構は埼玉県の埋蔵文化財包蔵地となっている。(東五十子城跡遺跡(県遺跡番号53-034、53-035))

【感想】
享徳の乱を調べると、この五十子陣というのが良く出てくるので、一度は行ってみたかったお城です。事前に調べた通り、遺構はほとんど残っていないが、1郭の南側の空堀は綺麗に残っており、かつては城の跡であることを思い起こさせてくれます。ただし、中に入れないので、遠くから見ることしかできません。また、1郭と2郭の間の空堀は、周囲の地形と道の形状から往時の空堀の形を推測できます。女堀川の土手を歩くと、1郭のかつての切岸らしき地形を確認することが出来ます。
街中を探索することで、往時の面影を見つけることを楽しめるお城だと思います。

【アクセス】
深谷駅からレンタサイクルで、30分。
本庄駅から徒歩で40分。
岡部駅から徒歩で45分。

【写真】
1:1郭南側の空堀
2:1郭と2郭の間の空堀跡
3:1郭北側の切岸
4:本庄かるた(スポットの場所)
5:2郭跡
6:2郭の南西に位置する若電神社(古墳)

2019年06月18日 仲乃丞中務丞ひろぴい◢⁴⁶
本庄城



本庄城跡。本庄市役所の駐輪場のフェンス越しから民家に残る土塁が見え、また、城山稲荷神社の説明板の裏の小さな盛り上がりも土塁だとか。
遺構は街中でほとんど破壊されてますが市役所駐車場に車をとめて城下公園まで歩くと高低差の地形はなんとなくお城の雰囲気。八坂神社脇の道路(写真、左に八坂神社)は空堀跡だそうです。

2015年06月16日 永眠武蔵守釋 葱進
本庄城

車は城跡隣接の本庄市役所駐車場を利用できます。

2014年11月03日 牢屋見廻り同心マダオ
本庄城

城山稲荷神社付近に巣があるのかスズメバチが多数居ます。訪問される方は注意されたし!(特に社殿付近)

本庄城の周辺スポット情報

 本庄城跡石碑(碑・説明板)

 小島氏館(周辺城郭)

 五十子陣(周辺城郭)

 大ケヤキ(その他)

 鎌倉街道本庄道(その他)

 鎌倉街道本庄道(その他)

 鎌倉街道本庄道(その他)

 島村の渡し(その他)

 鎌倉街道本庄道(→寄居・赤浜の渡し)(その他)

 小笠原信之公墓(その他)

 小笠原信嶺公夫妻墓(その他)

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