人見館(ひとみやかた)
人見館の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 埼玉県深谷市人見1513他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 人見政経
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 人見氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(人見館跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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人見館の口コミ情報
2024年10月21日 マグロ常陸介祐平
人見館
平安時代末期に武蔵七党の猪俣党に属する河匂政経がこの地に住み、人見六郎と名乗っています。鎌倉幕府の御家人となり、室町時代初期に丹波に移ったとされています。子孫は、江戸時代になると旗本になっています。室町時代中期になると深谷上杉氏の一族の上杉憲武が人見氏の館を改修して、居住しています。憲武は憲長の嫡男のようですが、家督は憲長の弟の憲信がついでいます。
説明板によると、昭和初期の実測図から館は3つの郭で構成されていたようです。説明板の先に続く土塁と空堀が西側で折れ、竹林の中まで確認出来ます。
人見氏の墓は、南に500mほど離れた一乗寺にあります。風土記稿では、人見四郎の墓は実名が異なる為、別人ではないかとしており、傍らにある人見治部大輔の墓も天正18年の碑があるが、寛政年間に建てたもので、歴代上杉氏に仕えていたのではないかと疑っています。埼玉苗字辞典では、幕臣になった丹波出身の人見氏が先祖の墓と称して古い五輪塔を集めたのではないかとしています。真相は如何に?という感じで想像するのも楽しみの一つです。
2024年02月19日 埼玉だ
人見館
車で行きましたが、水路際に位置した目立たないところで、人家が建っており、舘跡に足を踏み入れるのは憚られ、看板により館を想像しました。
2015年09月06日 永眠武蔵守釋 葱進
人見館
国道17号や深谷駅から訪問する場合、案内板がありその矢印に従えば行けますが、現地近くの仙元山グランドにある案内板矢印が(記入日現在)あさっての方向を指しており注意が必要です。
その案内板向かいにある配水タンクの脇を入ると程なく最後の案内板があり、そこを曲がると館跡に着けます。
館跡から500mほど南、藤沢小学校隣に人見氏累代墓のある一乗寺があります。
ここは深谷七福神めぐり・七草めぐりのお寺の一つにもなっています。
【交通】深谷駅南口からコミュニティバスくるリンで人見第3下車後徒歩(館跡)、藤沢小学校入口下車すぐ(一乗寺)