花園城(はなぞのじょう)
花園城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 埼玉県大里郡寄居町末野城山
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 藤田政行
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 藤田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- 県選定重要遺跡(花園城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
鉢形城(埼玉県大里郡)[2.5km]
天神山城(埼玉県秩父郡)[5.0km]
千馬城(埼玉県秩父郡)[7.0km]
雉岡城(埼玉県本庄市)[9.0km]
高見城(埼玉県比企郡)[9.0km]
本田城(埼玉県深谷市)[9.6km]
人見館(埼玉県深谷市)[10.1km]
腰越城(埼玉県比企郡)[10.1km]
岡部陣屋(埼玉県深谷市)[11.3km]
真下城(群馬県藤岡市)[12.3km]
花園城の解説文
花園城の口コミ情報
2024年10月01日 武蔵守のむげん
花園城
車は踏切渡ってすぐのお寺の駐車場を利用させていただきました。そこから西に2.300m歩いたところが登城口となり神社がその目印です。杖と縄張図もありますので是非手に取って攻略しましょう。整備状況は お世辞にも良いとは言えませんが、所々に順路を示す案内が掲示されているので、上へ上へ登っていけば本郭にたどり着けます。本郭だけではもったいないので、二の郭、三の郭、東の郭とそれを隔てる堀切は、余す事なく見ておきたいです。兎に角断崖絶壁の堀切に萌えまくります。山城でここまでの大規模な堀切、竪堀は見たことがありませんでした。半袖長ズボンの格好でしたが、蚊がまだうざいので長袖がおすすめです。蜘蛛の巣は50個程破壊。 足場も腐葉土のような状態のところがほとんどでしっかりした靴を入っていくことが必要です。郭から下を見下ろせば、下から攻め上がってくる敵兵が一目瞭然です。眺望は利きませんが、整備が進めば、山城として続100名城級のお城だと思います。
2024年05月14日 すなちゃん武蔵守
花園城
1156年〜1159年に築城され、武蔵北部の有力国衆藤田氏の本城である。
特徴としては、岩盤をくり抜いた堀切や石積みもよく残っていて二重竪堀が特に印象に残る。
城跡は、全て個人所有との事なので配慮が必要である。
諏訪神社が有るので数台なら車が止められそうだが、こちらも配慮が必要である。
2024年05月11日 千葉相模守早雲【権六】
花園城
武蔵七党藤田氏の居城。北条氏康四男の氏邦が藤田氏の養子に入り、その後鉢形城に拠点を移したようです。
本郭から東に向かって郭が一直線上に並び、岩盤を削った深い堀切で区切っています。
南側の斜面には細長い腰曲輪を幾つも設け、所々に石積みが残っていて、明確に郭や虎口を形成しているところもあります。
何と言っても4筋の大きな竪堀が見どころ。二重竪堀になっているところや堀切が折れて堀底道となり、竪堀へ繋がるなど技巧が満載。
山城の魅力が詰まっていて、オススメです!
1.石積みが直角に折れて郭の隅部を形成している。
2.竪堀6と7の二重竪堀。
3.竪堀10。
4.虎口を形成する石積み。
5.堀切3。
6.堀切4。
7.堀切5。
8.竪堀1を上から覗く。
2024年03月02日
花園城
難所が多く、道が整備されていないため滑りやすい。特に竪堀が厄介です。
2023年12月09日 いれぶん[⭕️雁雁]
藤田善導寺[花園城 寺社・史跡]
藤田善導寺
浄土宗の寺であり白狐山悟真院藤田善導寺といい、別名を藤田道場、又は藤田の壇林といいます。建物は、本堂を中心に山門、稲荷社、観音堂、大玄門からなります。
中世の武蔵七党猪俣党の支流である藤田氏の菩提寺であります。
この寺は、永仁5年(1297年)に藤田持阿良心上人により創建され、おける藤田派の中心の寺院として栄えました。また、天文年間(1532年頃)になって、督蓮社法誉聰上人が花園城主の藤田康邦の後援を受けて復興し、鉢形城主の北条氏邦も帰依して繁栄したが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の後北条氏攻略の軍勢による兵火の為に破壊され衰退しました。
徳川家康入府の後、川越から照蓮社寂誉遵道上人が来て再典したので、これを中典としています。
本尊として室町中期の作の阿弥陀如来を安置し、本堂と無常門は寛延3年(1750年)に建築されました。堂内には寛延6年には金竜斉宗信の绘画「百人一首画格天井」があり、また、平安時代末期作の木造釈迦如来像とも寄居町文化財に指定されています。寺宝として、江戸時代初期の雄誉霊厳上人の書「一枚起請文」の掛軸があります。
寄居町 埼玉県
(案内看板より)
御朱印をお願いしましたら本堂にあげていただけ、百人一首画格天井や花園城合戦(攻防両軍配置図)等を拝見させていただきました。藤田氏の菩提寺であり後北条氏よりの立ち位置になりますが、現御住職は比較的最近に就任されて余り詳しくご存知ではないそうでした。
攻防両軍配置図によると、善導寺も藤田氏の陣城であったようです。
2023年08月25日 RED副将軍
花園城
大規模な岩盤掘削の堀切と複雑に竪堀、横堀を張り巡らせた関東を代表する名城のひとつ✨
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。平安時代末期に藤田政行により築かれた藤田氏代々の居城と云われます。
藤田氏は、武蔵七党の一つである猪俣党の一族とされ榛沢郡藤田郷を領して藤田氏を称しました。
室町時代は山内上杉氏に属していましたが、小田原北条氏が勢力を拡大し武蔵に進出すると従属。北条氏康の三男である北条氏邦を養子に迎え、藤田氏の嫡流は北条氏邦が承継。当主であった藤田康邦の実子は用土城に隠棲し用土氏を名乗りました。
北条氏邦が鉢形城に本拠を移すと支城となった様です。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐によって花園城も攻められ落城し、廃城となりました。
見所
荒川北岸の丘陵西頂部に築かれており、東西に伸びる尾根に郭が連なる連郭式山城です。
ピークの主郭は周囲を岩盤掘削の空堀が巡り、南側上部には石積みが認められます。
東の尾根筋に二郭、三郭、東郭が連なり、それぞれの郭は深い堀切で区切られ、堀切の端部は長大な竪堀として麓まで落ちています。
竪堀は折れが伴い、途中で横堀や郭を配して横矢掛かりを形成しており、かなり技巧的な縄張りです。
行き方は、南側麓の諏訪神社を目標に設定。登城路が付いています。登城路はしばらくすると竪堀につながり、三郭と東郭を隔てる堀切に辿り着きます。比高は80mほどで数分の登りで素晴らしい遺構が堪能できます。
2023年02月18日 城
花園城
埼玉県の山城と言えば杉山城があまりにも有名ですが、花園城の縄張りも一見の価値があります。特に標高200メ−トルから走る4本の竪堀は高さも有り圧巻です。城域の案内板も整備され山城の勉強には最適です。
2022年10月20日 RED副将軍
花園御岳城[花園城 周辺城郭]
小規模ですが横堀、竪堀と連動した虎口が特徴的✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
花園城の北西を見張る支城であったと云われ、花園城と同じく藤田氏によって築かれたと考えられています。
見所
花園城から北西500mに位置する標高247m御嶽山山頂に築かれています。
主郭は御嶽神社が祀られ、砦くらいの小規模ですが、横堀、竪堀、内枡形の山城遺構が確認できます。
主郭東下には横堀が巡り土橋が付いていますが後世の参道に見えます。
一番の見所は主郭南西下で、内枡形の様な土塁囲みの空間が下の小郭に接続し、主郭への虎口であると思われます。
小郭の下に横堀が巡り、東側に長大な竪堀を挟んで三郭を配しています。
虎口の下に小郭を置き、竪堀と横堀を連動させた仕方は花園城や周辺の城郭にも共通しています。
主郭付近は神社建立による改変がありますが、周辺はヤブっていますが残存度は良好です。
行き方は、少林寺を目指してください。比高90mくらいの裏山が城跡で整備された登山道が付いています。途中に五百羅漢が立ち並び、飽きずに登ることができました。
広場に出ると西の尾根筋を登ると辿り着きます。
2022年05月09日 大膳大夫しろし
花園城
鉢形城のすぐそば、最初の登りは、結構キツイですが竪堀沿いに登って右側の
少し平らな所の奥に石積みが確認出来ます。また、本丸周囲の岩を削って切り通した堀は見応えがあります様
2021年11月10日 三ツ鱗▲钁湯無冷所
花園城
下記は2021.11.10に、鉢形城歴史館の方に直接伺った内容です。
➡️結論)氏邦公当時の花園城の大手・大手口は文献が無いので不明。
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北条氏邦当時の大手及び大手口については、花園城についての文献資料等は一切残っておりませんので、不明です。西に延びる半島状の山地に築かれていることから、東郭にいたる尾根上にあったと思われます。あるいは、麓に藤田善道寺があり、その西脇から城に登れたという地元の方々の話があることから、そのお寺周辺にあったのかもしれません。
2021年09月29日 大蔵大輔シエラ
花園城
縄張り図をを見ながら見学しました。二重竪堀などよく残ってました。蜘蛛の巣がたくさんあったので長袖、帽子は、必須だと思います。
2021年05月14日 つか征夷大将軍ぽ
説明板[花園城 碑・説明板]
縄張り図がもらえます。ここでもらうと回りやすいです。また正式なのかわかりませんが駐車は路上駐車を案内されてます。駐停車禁止じゃないので地域の人に迷惑にならなければ大丈夫と言うことかな。
2021年01月31日 eiki
虎ヶ岡城[花園城 周辺城郭]
秩父鉄道の波久礼駅から陣見山ハイキングコースの途中に城趾はあります。約1時間の行程です。城趾は平場で郭であったことがうかがえます。そこから陣見山に向かう方向に3つの堀切が残っています。東屋があり群馬県側が開け上州方面の物見の役割を担っていたのだろうと推測できます。
2021年01月20日 拓之助中務少輔
花園城
花園城跡の登城についての口コミです。
※城郭図必要※
・駐車場:藤田氏の墓がある正龍寺に観光駐車場
・トイレ:正龍寺の観光トイレ
・登城路:正龍寺より線路脇を秩父方面に5分ほど進み、右手にあぜ道の奥にある諏訪神社の裏側に登城路あります。
登城路は諏訪神社の本堂を正面からみて右手に進み小さな社があります。その裏側にピンクリボンがついた登城路が続きます。ピンクリボンを頼りまっすぐにすすみ竪堀に突き当たります。突き当たったら回れ右をして竪堀横の道を直登りで上がります。ここもピンクリボンあります。
登ると竪堀と横堀が突き当たるt字空間に当たります。そこを回れ左をしてみると櫓跡に、すぐに回れ右をすると竪堀がありそこを登ります。すると腰曲輪にでますからあとはそこからまっすぐ上を目指し登ります。そしたら廓2にでます。そこから回れ左をしてみると本郭と廓2の間の堀切にあたります。
堀切は回れ左をした正面から右側に小さな土橋があるので、そこを上がれば本郭です。
・道に迷っても頂上を目指せば確実です。
・城郭図は必ず必至です。
2021年01月08日 左近衛中将かめかめ
花園御岳城[花園城 周辺城郭]
少林寺の駐車場に車を停めさせて頂き、登城開始。途中郭とも考えられる広場を経て20分程で主郭下の郭へ到着します。
城郭範囲は広くありませんが、竪堀と横堀を組み合わせた遺構を確認できます。
写真①:主郭南西の竪堀
写真②:主郭西の竪堀
写真③:2条の竪堀間に配置された横堀
2020年08月21日 小屋のgyopi3
花園城
諏訪神社右奥の登山口から、木に巻いてあるリボン沿いに登ると本郭まで行けました。堀切等しっかり残っていて見応えあります。
10分程度ですが、キツイ登りで、しっかりした靴でないとあぶないです。
2020年07月20日
正龍寺[花園城 寺社・史跡]
正龍寺
曹洞宗のお寺で越生龍穏寺(おごせりゅうおんじ)の末寺です。
境内には埼玉県指定史跡の
藤田康邦、
北条氏邦夫妻の墓があります。
また北条氏に関する文書や刀などの文化財がたくさんあるそうです。
2020年07月20日
猪俣城[花園城 周辺城郭]
猪俣(いのまた)城
武蔵七党猪俣氏の居城と伝えられています。
北条氏邦の家臣である猪俣範直が真田氏の名胡桃城を攻略したため小田原征伐になったことは有名です。
猪俣の百八燈は猪俣一族の霊を慰める行事で
国指定重要無形文化財に指定されています。
土塁 曲輪 堀などが残っています。
2020年01月19日 三男坊.k大学頭
猪俣城登り口[花園城 その他]
この看板の分岐を右に登ると比較的楽に登城できます。左の沢筋を進んで二つ目の砂防ダムからも登城できますがきつめの直登になります。お勧めは右です。
2019年02月18日 愛甲太閤【相模の狂人】
花園城
先人の情報の通り諏訪神社裏手のトレイルから登ると、5分ほどで土塁に仕切られた竪堀が現れます。この先道ははっきりしなくなり、ササもかぶって来ますが、竪堀を見失わないように登ってゆけば頂上の曲輪群にたどり着きます。
遺構かどうかは分かりませんが、所々に石積みが残っています。
大きな曲輪が4つ並んでいて、それぞれの間が立派な堀切で仕切られています。特に西端の曲輪の両側が見事です。整備の手が入っていないような雰囲気な割に遺構はハッキリしています。
道が不明瞭なので山慣れていないと危険と思いますが、廃城感は満点です。
2016年03月26日 まー刑部卿
花園城
先人の言われるように諏訪神社裏手から登城出来ますが途中倒木や落ち葉で滑りやすく歩きづらいです。縄張り図があるなら持参するといいでしょう。無い場合は竪堀をしばらく上ると途中で隣の竪堀と行きあいます。その辺りをお寺側に進むと石積み遺構があります。先程の竪堀まで戻り更に上がると赤茶色のリボンが木に括り付けてあるところを上ると2郭(藪)でさらにリボンを頼りに進むと堀切があるので渡ると本郭で更に進むと立派な花園城跡の石碑があります。もと来た道に戻れればいいですがわからなくなった場合は竪堀を最後まで下りていくと竹が伐採しているところへ出るのでそこを掻き分けて下りていくと畑に出ますが柵がしており秩父方に歩くと砂利道にでるので左に歩いていくと藤田善導寺に着けます。
2013年02月25日 すかんぴん左馬助
花園城
善導寺の前の駐車場に停められます。観光トイレも完備されています。
そこから線路沿いを秩父方面に200メートル程歩くと神社があり、その後ろから登城しました。
ただし堀切りを辿って行くしか道がないようです。
季節によっては相当の覚悟が必要と思われます。
麓の正龍寺には鉢形城主の北条氏邦の墓があります。
遺構
南麓に荒川を見下ろし、北側には山々が連なる標高約200mの山頂に築かれている。岩盤をくり抜いた切通のような堀切と、竪堀と横堀を駆使した縄張が特徴だ。山頂の主郭付近に並ぶ4つの曲輪は、クランクする大規模な5つの堀切で分断されている。南斜面には竪堀と連結する横堀もある。
山頂から山裾まで続く竪堀が4本確認されており、最大幅は約16m。南斜面には二重の竪堀もある。南斜面は北斜面より勾配が緩いため、竪堀が多く設けられているようだ。また、西側よりも東側が強化されている。
山頂部に階段状に曲輪を配置し、その南側に腰曲輪を階段状に配してある。この腰曲輪に多用された石積みも特徴で、岩盤を削った石が利用され、現在は木々に覆われている虎口も石垣で固められている可能性がある。
荒川を挟んだ南側の段丘面には伝藤田氏館があり、土塁の一部と堀跡とみられる小川が残る。その隣にも方形の中世城館が見つかっている。15世紀中葉~後期の遺物が出土しており、花園城を詰城とする関係性もうかがえる。成立時期は不明だが、伝藤田氏館の北側には16世紀までに宿が発展していた。
歴史
築城年代は定かではないが、15〜16世紀に藤田氏が居城とした。藤田氏は、鎌倉時代から花園城がある藤田郷を本拠としていた一族だ。16世紀に北条氏が武蔵へ進出すると、藤田康邦は北条氏康の三男である北条氏邦を婿に迎えた。以来、藤田氏の嫡流は氏邦が継ぎ、康邦の実子らは用土氏を名乗った。天正17年(1589)正月の氏邦の書状に花園城(花園山)の記述があり、これが花園城の初見史料となる。
氏邦が鉢形城へ居城を移した永禄年間(1558~1570)頃、花園城もその支配下に入ったと考えられる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻めにより鉢形城が落城。このときに花園城も終焉を迎えたと考えられている。
交通
・関越自動車道花園ICから車で約20分参考文献
・『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年・『中世北武蔵の城』梅沢太久夫、岩田書院、2003年