千馬城(せんばじょう)
千馬城の基本情報
通称・別名
- 千馬山城、龍ヶ谷城、龍が谷城、竜ヶ谷城、要害山城
所在地
- 埼玉県秩父郡皆野町大字三沢2980他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 用土正光
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 用土氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、土橋、虎口、犬走り
指定文化財
- 県選定重要遺跡(竜ヶ谷城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
天神山城(埼玉県秩父郡)[5.3km]
花園城(埼玉県大里郡)[7.0km]
鉢形城(埼玉県大里郡)[7.5km]
秩父氏館(埼玉県秩父市)[8.9km]
腰越城(埼玉県比企郡)[10.2km]
根古屋城(埼玉県秩父郡)[11.2km]
真下城(群馬県藤岡市)[11.6km]
高見城(埼玉県比企郡)[12.8km]
雉岡城(埼玉県本庄市)[13.4km]
大築城(埼玉県比企郡)[14.6km]
千馬城の解説文
千馬城の口コミ情報
2023年08月16日 マグロ常陸介祐平
阿左美氏館[千馬城 周辺城郭]
北条氏邦の旧臣、阿左美(朝見)氏の居館です。横瀬町の根古屋城を守っていましたが、鉢形城落城後にこの地に住み、里正(名主)を務めています。近くにある秩父札所の結願寺である水潜寺は、阿左美氏の開基です。
戦国期ではなく江戸時代初期のものですが、石垣は4段あり、食違い門の痕跡が見られます。曲輪内は人が住んでおり入ることは出来ませんが、石垣だけでも見ごたえがあります。
道が狭いのと、木の枝が垂れ下がった場所があるので、走行には注意が必要です。
2023年08月16日 マグロ常陸介祐平
小池氏館[千馬城 周辺城郭]
北条氏邦の家臣とされている小池氏の館です。北条氏改易により帰農して名主となっています。また、埼玉苗字辞典には、畠山重忠の兜を所持していた旨が記載されています。
風土記稿では、小池氏は旧家者として紹介され、今も遺構として残る庭園は郡中第一といわれ方々から遊覧者が多く来ると記載されています。案内板には土塁が残ると書かれていますが、見当たりませんでした。(4枚目の写真は池の畔?)
入口の雑草が激しいため、たどり着くのに苦労します。
2023年01月23日 おかっぴき
千馬城
登城口は民家の横にあり小さな看板があります。そこから道なりに行けば20分くらいで頂上まで行けます。頂上には説明板かあります。曲輪、土塁、横堀、虎口などあります。
2022年09月17日 副将軍お加代
千馬城
山道は、緩やかで、登りやすいです。幅が狭い為、蜘蛛の巣がひどいので、杖等があれば助かります。主郭の祠は、崩壊していました。
2021年06月08日 愛甲太閤【相模の狂人】
比丘尼城[千馬城 周辺城郭]
アプローチでは恐らく関東最凶と思います。
安易にアタックすると遭難します。
先人の登録に相乗りさせていただきました。位置はリア攻めマップ上のシンボルの位置で間違いありませんので、アタックを計画される際は地理院地形図を使ってルート検討しておきましょう。
城自体が岩峰立ち塞がるヤセ尾根の先に立地しているので岩場をこなせる技術がなければ突破できません。
のみならず、周囲の山地は同じような崖やヤセ尾根が多いため非常に迷いやすいです。特に尾根の分岐等で誤った場所に入り込みやすく、体力を激しく消耗して行動不能になるリスクもあります。スンナリ行けば距離的にはさほどでもありませんが、到達するには読図能力、どんな状況に陥っても冷静に判断できる沈着さも含めた高度な登山スキルが必要です。
城は山陵上に小さな岩盤堀切、その先の小ピーク上に(見えた限りですが)2つの曲輪を並べています。狭い尾根上で周囲に居館などの跡も分からず、水の手らしい場所も見当たらなかったので、軍事的には物見台がせいぜいでしょうか。
先達の方々が位置を非公開とした意思を尊重して、私もアプローチが分かる情報は載せません。ルートを地形図からきちんと読み取れる事が最低限必要です。
2021年04月30日 つか征夷大将軍ぽ
強石橋バス停[千馬城 その他]
千馬城(龍ヶ谷城)の近くには駐車場が無いのでバスで来るか道の駅から2キロ弱歩くかですね。
2021年02月06日 三輪左近衛少将直虎
浦山城[千馬城 周辺城郭]
城峯山系に点在する城館のひとつです。車で訪れることができるので探訪は楽ですね。観光案内板にも浦山城のイラストが描かれていました。カタクリ群生地の奥に城跡はあり、小さいながらも2つの堀切が良く残されています。眺望も見事で少し歩けば金沢城山がありますが、こちらは城跡としては正直微妙ですね。
2020年12月30日 前後北条安房守ぷいちー
千馬城
北西の郭、もしくは二の郭からロープを伝って北に降りられ、ハイキングコースに出られます。断崖で、軍手必須です。気をつけてね。
2020年08月29日 ️
諏訪城[千馬城 周辺城郭]
諏訪神社が城跡です。付近の道は狭く感じますが、VOXYでも通行可能でした。令和元年に設置された解説板には『埼玉の中世城館跡』から縄張り図が引用されており、当地が要害であったことが実感できます。
以下、諏訪城解説板より
諏訪城跡 埼玉県選定重要遺跡
諏訪城跡は標高185メートルで、南から北にゆるく傾斜し、南側の底辺にあたる部分に空堀、土塁を設けて区画している。西を荒川、東を横瀬川に挟まれ、両崖の高さ30メートルの急傾斜を利用した要害である。川の合流点に築かれ、三角形をした城郭は、荒川上流域に特徴的にみられる。
令和元年十月二十二日 蓼沼・下小川諏訪神社社務所
2020年08月05日 龍馬備中守【】
吉田竜ヶ谷城[千馬城 周辺城郭]
埼玉県の秩父市にある竜ヶ谷城☆
登城道は見当たりませんでした☆
リア攻めマップに記した城郭付近の山肌を直登して行くと尾根に出ます☆
岩盤が剥き出しになった痩せた尾根を突き進むと削平された平地に辿り着きます☆
城郭に入る迄は痩尾根ですが登った先はビックリでそれなりに兵を溜める事も出来ます☆
主郭、副郭を繋げた削平地を巨大な堀切で遮断☆三〜五郭までは堀切を用いながら郭として繋がってます☆このお城は久長但馬守が築いた城郭です☆鉢形城、花園城の支城として機能します♪阿佐見伊勢守が武田信玄の軍勢が侵攻してきたことを伝えた「吉田之楯」に描かれてます☆豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると長久但馬守は上杉景勝に仕えました〜☆
2018年01月20日 三男坊.k大学頭
千馬城
(更に続き)
トレッキングシューズ、ストックは必需品です
お忘れなく!
2018年01月20日 三男坊.k大学頭
千馬城
(続き)
二郭東の横堀に戻って東に下りると三郭、腰郭、横堀、東の郭Ⅱ、逆L字横堀が出てきますが立ち枯れた竹やぶでそれ以上進めないので無理せず戻りましょう
戻ったら、肩の郭東の腰郭を見るのを忘れないように
尾根道は整備されていて歩き易いですがちょっと外れると傾斜がきつく落ち葉で滑るので最大限の注意を払いましょう
トイレはないので、道の駅みなので必ず済ませてから
駐車場はありませんので路駐になります
2018年01月20日 三男坊.k大学頭
千馬城
カーネルさん口コミに補足
ブルーシートをかけた建物の前を左に折れて進むと右手に祠が見えます
この祠のすぐ先を右に曲がると城跡への尾根道です
しばらく進むと二重堀切、左堀切、右堀切、一重堀切が順番に現れ、もう一登りするさんと肩の郭です
ここで一息ついて、歩みを左手に向けましょう
南西の尾根伝いに物見郭があります
上ばかり気にしていると見過ごしてしまいますから気を付けよう
肩の郭の右手には腰郭がいくつかありますが、それは帰りに見ましょう
次はいよいよ本郭
途中で三郭、二郭に繋がりそうな武者走りが出てきますが我慢して登りましょう
浅くなってしまった横堀を渡ってもう一登りすると本郭です
本郭は二段になっていて高い郭の小さな祠の裏手から北西の尾根道に繋がる堀切と小さな郭があるのでこちらもお見逃しなく
本郭に戻って二郭から東の横堀に降ります
この横堀は南に向かって下りながらクランク してますのでここもお見逃しなく
この横堀を北に進むと断崖になるのでそこを右に折れて尾根伝いにしばらく下りると二重堀切が出てきます
ここが城域の北端(続く)
2016年03月20日 カーネル
千馬城
秩父鉄道親鼻駅から
改札とは逆の出口から出ると国道への近道ですが、時間によっては貨物が止まっていて通行出来ないので注意です
駅から南東へ。県道82号を進み有料道の高架下をくぐり、その先の強石橋(バス停あり)を渡り鋭角に左折すると龍ヶ谷城の地図があり、さらに進むと膝下高さの看板に『龍ヶ谷城↑』の看板があるので坂を登る。ここまで40分弱
民家の庭先を通った先に、骨組みにブルーシートをかけた建物があり、ここで左折すると山道です。私はその先の民家の脇から登ってしまい・・
最初は道があったのに、途中から小枝が張り出してきて、完全に薮の中。我慢して尾根を登り竹林に入ると、遺構が出始めました
薮の中の堀って、写真ではわからないものなのに、ここは非常に高低差がハッキリしていたので、投稿させていただきました
稜線によじ登ったら岩盤切り出しの堀が迫力あります。石積も小ぶりですが多数あります。ちなみに、道は間違えようがないくらい整備されていて帰りは早かった・・・
薮のせいで往復2時間半強かかりましたが大満足です
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
歴史
中世文書では千馬山城と称している。近世の地誌によれば城主は用土新左衛門正光(または政光)としている。新篇武蔵風土記稿では三沢村の項で「正光寺 この寺は用土新左衛門正光の子正憲なるもの父のために創建せし所なり。因って父の実名を以て寺号とせりと云」とあり、秩父風土記や秩父志でも同じ記述をしている。
この城の縄張り(設計)は、用土新左衛門築城と伝えられる寄居町の花園城並びに長瀞町の天神山城と軌を一にするところが多い。
とくに竪堀(傾斜面に縦に掘られた堀)があること並びに竪堀と横堀を交錯させて相乗効果をねらっている方式や尾根上に構えた大規模な堀切り(尾根を断つ堀で両端を切り離したもの)等は、三城に共通な手法である。築城も城主も用土新左衛門であることは疑いを入れない。
また城主として三上外記(または刑部)の名も見える。秩父郡誌白鳥村の条に、「要害山城址は大字下田野にあり。北条氏邦の臣三上外記の居城にして。現に城隍を存す。」とあり、関八州古戦録「鉢形落城事」の中に、
秩父領には、山中の日尾の城に諏訪部遠江守定勝、田野に三上外記・安藤兵庫助、築瀬の後面虎ヶ岡の城に猪股能登守が弟小平太則宗相籠て、大手の方円良田村を堀切柵をふり塀を付たり。根古屋の城には渡辺監物・浅見伊賀守・同左馬介父子是を守れり。
とあり、少くとも天正末期、鉢形落城ごろの城将は、用土氏ではなく三上外記・安藤兵庫助であった。
田野城・要害山城とも竜ヶ谷城(千馬山城)のことである。この城は大字三沢と大字下田野境いにあり、さらに大字皆野分に小字戦場、大字下田野に小字向戦場がある。
戦場は千馬である。なお、竜谷と要害は天険の地を示す同義と考えられ、新記でも、「リュカイ山 村の北の方にあり。郡中所々にこの唱あり。要害山なるべきを土人唱へを誤るなるべし。」とある。
最近定着している城名は竜ヶ谷城であるが、永禄のころは千馬山城、天正のころは田野城と呼ばれ、さらに秩父郡誌で要害山城といわれるのも理由のないことではない。
新篇武蔵風土記稿三沢村の条に、「要害の地なれど今に石壁なども往々に遺りてあり、十坪許の平坦に小祠を置用土が霊を祀ると云。」とあり、秩父志下田野の条に、「竜ケ谷ノ城迹ハ同村ノ戦場ト云所ニアリ。山二登ル事十町余ニシテ池隍、本丸等ノ形ヲノコセリ。」とある。
秩父郡誌でも白鳥村の条に、「現に城隍を存す」として、すべて城に遺構のあることを伝えている。
城の遺構をもつ場所は、下田野・三沢地内では他に見あたらないことからいっても、これらの城の名まえはみな竜ケ谷城の異名と考えられる。
城跡
概況、大字下田野と三沢地内にまたがる標高330メートルの山塊に設けられた城である。三沢川に面した西方と、田野沢川に面した北方は急坂険阻である。城の遺構は、山頂より東南方向に展開される。山頂には用土新左衛門を祭る石宮があり、竜ヶ谷稲荷・竜神を祭る小社がある。
三沢川に沿って、秩父と北武蔵・鉢形を結ぶ古道(曾根坂峠より釜伏峠へ通ずる道と、下田野口から釜伏峠へ通ずる道)を眼下にし、西方荒川を隔てて御嶽筋と称される児玉・上野への道を望むことができる。
秩父郡北部の皆野・長瀞町を一望にし、相対する天神山城・高松城・城峰等をとおして秩父の諸城を掌握することのできるこの城は、秩父を経略しようとする後北条氏にとって、きわめて重要な価値をもっていた。
麓の郭
西の尾根道の登り口に麓の郭(平坦な場所)がある。面積約150平方メートルの平地である。尾根の岩盤を約9メートル穿ち、削平した西方に高さ1~2メートル、長さ約15メートルの石垣を築く。平石の平積みで、この城の所々に見られるものと同一の手法である。南方に幅約3メートルの虎口(入口)も見られる。 伝承では茶坊主屋敷と呼ぶが、この呼び名は近世的な発想である。兵農未分離であった天文・永禄ごろの山城に、茶坊主の職制があるはずはない。後世の呼び名であろう。
この郭から肩の郭・物見郭、その延長線にある主郭が見とおせる。これらの城の中心部の見とせる麓の場所はここより外にはない。
山城では麓に郭をおいて、城中との連絡・兵員の交替・警備等の基地にしたことが考えられる。
西の尾根道
麓の郭から尾根道を北に登ると、数分にして左右に小さな石垣をおいた第一の堀切りに達する。土橋(堀切りの中央を通路にしたもの)の左右の堀とも、長さ約10メートル、幅3メートルである。その上に左右に削平した小さな郭を設け、右の郭は右方へ長く延びる。ついで約60平方メートルの門跡の郭となる。やはり右方に湾曲し、延長線は長さ8メートル、幅3メートルの堀となる。
第二の堀切りは片土橋(道の片方に堀切りをもつ)左方の堀である。堀の上端に石垣をもつ。つづいて第三の堀切りとなる。土橋左方は長さ8メートル、右方は10メートルの土居(土を盛り上げた土手)を伴う湾曲した堀とな
り、その先端は約40平方メートルの矩形の郭となる。この西尾根の道では最も大きな堀である。
西尾根の遺構は、堀切りの上に郭を構えそれらを右へ巻き上げる方式を重ねながら、やがて肩の郭へ続いていく。右へ巻く堀と郭は、複雑に相互に通路となって緊密に連絡し、西尾根の東下にある水の手(水口)を守る形を作っている。
肩の郭は約100平方メートル、不規則に削平した跡が認められる。ここから西方へ4メートルばかりの物見櫓の郭が延びる。途中土橋の両端に長さ7メートルばかりの堀切りがある。この郭からは、三沢・皆野が一望できる。肩の郭から屈曲しながら北へ登ると、やがて城の中心部へ出る。
東の道
若荷沢口から東の道をたどると、土橋の左右に土居を伴った堀切りに着く。左方の堀が長さ12メートル、右方は16メートルで、ともに2メートル50幅である。ここが東の道の虎口である。右堀の先は、城中で最長(約40メートル)の竪堀に連絡する。
つづいて道の左方に40平方メートルばかりの郭がある。つぎに右方に土居を伴った直角に折れ曲がった深い堀がある。竪堀につづくこの直角な堀の手法も、用土式築城の特徴であろうか。
やがて、道の左に土居を伴う第三の堀切りとなる。片土橋で長さ21メートル、その先は二の郭から下ろされた長さ38メートルの竪堀につらなる。
虎口よりこの堀切りまでの東の道も、西尾根の道と同じく堅固そのものである。
この堀切りの右端の石垣に沿う道を登ると細長い郭に出る。道の左は約50平方メートル、左は100平方メートル、幅は左右とも3~4メートルの、犬走り(幅1メートルぐらいの通路)に似た細長い郭である。この郭のほぼ中央部から、東の道に沿って40メートルの竪堀を下ろしているのである。
またこの竪堀の東に並行して11メートルの竪堀があり、その竪堀の先は、長さ12メートルの横堀につながりこの城の東端を固めている。
城の中心
西尾根の道の肩の郭から城の中心部に入る。頂上の50~60平方メートルの2つの円形の郭を主郭と考える。この主郭から、西北の尾根道がつづく。険阻なせまい尾根上に小さな堀切りと郭が構えられ、下田野愛宕山につらなる。この城の搦手(裏口)であろうか。主郭の東の長さ20メートル幅3メートルの堀切りを隔てて、二の郭を構える。ここは不整形な削平の見られる郭であるが、ここから主郭・二の郭を堅固にするための長さ10メートルと38メートルの2本の竪堀を下ろし、さらに竪堀の上部から当城第一の規模をもつ横堀が東へ延びている。長さ43メートルで途中に折り(堀が直角に折れ曲がること)を持ち、高い土居を伴ったものである。
この土居の下方に約90平方メートル、矩形の袖郭(堀を隔てた郭をいう)が広がっている。
主郭より東北に延びた長い尾根は、堀切りによって幾重にも仕切られている。とくに3つめの堀が最も大規模である。二条の大堀切りである。どちらも長さ30メートル余の堂々とした、この城の東尾根を断ち切るにふさわしい堀切りである。
参考文献
・「皆野町誌 通史編」