庁鼻和城(こばなわじょう)
庁鼻和城の基本情報
通称・別名
- 国済寺館
所在地
- 埼玉県深谷市国済寺
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 上杉憲英
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 庁鼻和上杉氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 県選定重要遺跡(庁鼻和城跡)
再建造物
- 碑、説明板(国済寺)
周辺の城
-
深谷城(埼玉県深谷市)[1.7km]
別府城(埼玉県熊谷市)[3.8km]
人見館(埼玉県深谷市)[3.9km]
岡部陣屋(埼玉県深谷市)[4.7km]
平山館(埼玉県熊谷市)[7.7km]
下田島城(群馬県太田市)[8.1km]
本田城(埼玉県深谷市)[8.6km]
中条氏館(埼玉県熊谷市)[9.5km]
三ツ木城(群馬県伊勢崎市)[10.1km]
成田氏館(埼玉県熊谷市)[10.4km]
庁鼻和城の解説文
庁鼻和城の口コミ情報
2024年10月20日 マグロ常陸介祐平
秋元氏館[庁鼻和城 周辺城郭]
深谷上杉氏の家臣、秋元氏の居館です。秋元氏は深谷城に秋元越中守曲輪の名称が伝わる重臣でした。
秋元氏は、君津にある秋元城主の一族とされ(家紋が木瓜紋の成田一族とされる熊谷上之の秋元一族との説もあるようです)、景朝が上杉憲賢・憲盛に仕えこの地に館を築いたとされます。景朝の子の長朝は、天正18年(1590年)の小田原の役では、小田原城に入城した主君氏憲に代わり、深谷城を守るも開城しています。2年間の隠棲後(隠棲先が登録城の平山館の説あり)に、どのような縁なのか井伊直政の推挙により徳川家康に仕官し、直政の配下として上野に4000石を与えられています。関ヶ原の戦い後には、上杉景勝への降伏の使者となり、功績として総社藩1万石の藩主となっています。子孫は栄達し、最終的には館林藩で7万石(明治になって)となっています。
新編武蔵風土記稿では陣屋蹟として、「村の中程の小高い所にあり、小字として金燈籠と呼ばれ、秋元越中守長朝の陣屋で、寛永10年に長朝が甲斐国谷移ると廃されたという。今は大部分が林となっているが、土塁と堀の跡が残っている」としており、江戸時代後期には遺構が残っていたようですが、現在は住宅地となっており、ロータリーに石碑と説明板があるのみで遺構は残っておりません(写真1.2枚目)。館跡の古地名が金燈籠となっていますが、由来は世良田東照宮にある日本一の鉄燈篭が秋元長朝が寄進したもので、納品前にこの地にあったことから名付けられたものです。
近くにある元誉寺には、景朝と長朝の供養塔があります(写真3,4,5,6,7枚目)。
2024年10月20日 マグロ常陸介祐平
庁鼻和城
14世紀後半に初代関東管領上杉(山内)憲顕の6男憲英が、築いたお城です。上野を本拠にする南朝方の新田氏を抑えるためにこの地が選ばれたと考えられているようです。現在もこの地に存続する国済寺は、康応2年(1390年)に憲英が城内に建立したとされており、憲英の墓は本堂の西側にあります。憲英の曾孫の房憲が康正2年(1456年)に足利成氏に対抗するために、西に1.5kmの地に深谷城を築くとお城としての機能を失っていったようです。
お城は、国済寺の本堂を中心とする一辺約180mの内郭と、東西約700m、南北約500mの外郭で構成されていたとされていますが、周辺にある物見櫓跡、北西隅外郭土塁、大手門跡などは近年都市化により消滅したという事ではなく、伝承地のようですので実態はよくわかっていないようです。そもそも城としては短期間の活用で、早い段階で役割を終えたようですので無理もないことです。昭和61年に本堂の南西部を発掘調査していますが、ハッキリとしたお城としての遺構は見つかっていないようです。本堂の裏には、土塁や空堀が見られ、お城に関する小字名が多くみられることから、お城であったことは間違いありません。
風土記稿には、この地を庁鼻祖郷と言い、深谷に住む上杉憲英の嫡子の庁鼻左馬助憲光がここに住んだことで、このように名乗ったとし、お城に関する記述はありません。
2024年10月18日 マグロ常陸介祐平
東方城[庁鼻和城 周辺城郭]
戦国期は深谷上杉氏の支城で、四宿老の一人とされる矢井伊勢守重家の弟、若狭守重任が城代を務めたとされています。天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国後に、松平康長(二連木戸田宗家)が1万石で東方城に入り、慶長6年(1601年)に2万石で上野白井城に移ると廃城になったようです。
お城は、土塁に囲まれた曲輪が飛び地のように散在しており、さくら保育園の南側が本丸と思われる御所屋敷、西側にお庫屋敷(道路となっている)、東側に城主別邸とお姫屋敷(土塁があるようだが確認できず)、お姫屋敷の南東にも発掘調査で堀が検出されています。
御所屋敷は、標柱のある南側から西側にかけて土塁が良く残っており、北側は二重土塁になっています(写真1,3,4,5,6枚目)。この付近はクヌギが多く大量のスズメバチに遭遇したので注意が必要です。また、西側の道路沿いにも土塁が残り(写真2枚目)、道路の向かい側には古墳が見られます。城主別邸は、東方城城塁跡(二号)の標柱が立つ民家(写真7枚目)の庭の裏にありますが、見学出来る雰囲気ではありません。
お城から500mほど西に熊野大神社があり(写真8枚目)、曲輪とされているようですが、今ひとつ実感が湧きませんでした。
2022年08月20日 城社まにゃ日向守柴田軍織田
庁鼻和城
好いお寺さんです。ここへ来る前に国道沿いの蕎麦屋さんで涼みました
2022年08月03日 ファン掃部助トム治郎
庁鼻和城
小雨降る夜中に籠原から深谷まで歩く途中で攻城ましした。籠原駅から一時間くらいです。寺域は暗く遺構までは確認はできませんでした。
2022年07月21日 成田上野介のぼう長親
庁鼻和城
現地は国済寺というお寺になっています。駐車スペースもありますので、周辺を散策してはどうでしょう?土塁跡や竹林もあり、往時を偲ばせてくれます。
2022年07月18日 菊左近衛少将
庁鼻和城
深谷城から2km程度、歩いて城攻め。途中、神社がいくつかと、古い建物の学校もあって、なかなか趣き深い感触を受けました。
2021年12月05日 三河守ぱーる
庁鼻和城
紅葉がきれいでした。境内の裏に土塁があります。
2015年09月05日 永眠武蔵守釋 葱進
庁鼻和城
三門右手の掲示板内に国済寺の由緒書きのプリントが置いてあり、そこに庁鼻和城のこともさらりと触れています。
境内北側に深谷上杉氏歴代の墓があり、そのさらに北に築庭跡の土盛や土塁が遺されています。
大手門跡(市内幡羅町付近)および北西隅土塁跡(国済寺近く)には案内板が設置されてますが、遺構は消滅しています。深谷市内でも人口の多いエリアなので仕方ないかな。
ベイシア(スーパー)隣の物見櫓跡に至っては現在結婚式場となっていて案内板さえありませんが、竹林が広がり何となく雰囲気だけは味わえます。
車はお寺の駐車場利用可。
近隣には飲食店が多くあり、また温泉(国済寺温泉美肌の湯)もごく近くにあります。
庁鼻和上杉氏は房憲の代から深谷城を居城とし、庁鼻和城は廃城となった。
城跡には上杉氏の菩提寺として国済寺が建てられ現在まで続いており、寺域には当時の土塁などが確認できる。