三ツ木城(みつぎじょう)
三ツ木城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県伊勢崎市境三ツ木
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 根岸助国
築城年
- 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 根岸氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
下田島城(群馬県太田市)[4.4km]
新田荘城館(群馬県太田市)[4.5km]
久永氏陣屋(群馬県伊勢崎市)[6.1km]
那波城(群馬県伊勢崎市)[7.6km]
本庄城(埼玉県本庄市)[7.9km]
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市)[8.4km]
岡部陣屋(埼玉県深谷市)[8.7km]
深谷城(埼玉県深谷市)[9.0km]
庁鼻和城(埼玉県深谷市)[10.1km]
新田金山城(群馬県太田市)[10.7km]
三ツ木城の口コミ情報
2025年11月01日 マグロ常陸介祐平
上矢島城[三ツ木城 周辺城郭]
西今井中世館から西に約600m、徳蔵寺が城址となります。新田政義の三男の矢島(谷島)三郎信氏(鎌倉時代中期の人)が城主と伝わります。東京都中野区の実相寺の寺伝によると、正平7年(1352年)に新田一族が信濃宮宗良親王を奉じて、武蔵に足利軍と戦った時に、矢島三郎信氏の子孫である矢島内匠と同図書が戦いに敗れて、結城一族とともに沼袋村に来て一家屋を建立したのが起源で、現在も矢島を名乗る信檀徒が半数以上を占め、矢島寺とも呼ばれているとしており、南北朝期までこの地にいたのかもしれません。
徳蔵寺は、新田金山城由良氏の家臣で元北面の武士南(藤原)義頼の子の南頼広が文禄3年(1594年)に開基したお寺です。戦国期には南氏が城主だったのかもしれません。
お城の南側(暗渠)と東側には水堀の痕跡かもしれない水路があり、山門の東側には土塁が見られます。南側の水路(暗渠となった水堀の痕跡)と土塁は離れており、配置的には違和感がありますが、遺構でしょうか。
土塁上には、宝塔の残欠と思われる円柱状のものが2基並んでいます。満徳寺資料館のそばにある新田義重の墓と大きさは異なりますが、材質や形状が似ており、信氏に関連するものでしょうか。また、周りには中世のものに見える宝篋印塔があり、こちらは南氏に関連するものなのかもしれません(写真8枚目)。
2025年11月01日 マグロ常陸介祐平
西今井中世館[三ツ木城 周辺城郭]
説明板(写真1枚目)によると、鎌倉時代に新田氏の一族である今井氏が居住し、後に桐生から茂木氏が移り住んだと伝わり、茂木氏は戦国期にはここに居住、当時境城主だった小此木氏と縁戚があったとされます。また、茂木氏に伝わる江戸時代初期に画かれた「上今居郷屋敷図」と比較しても今残る縄張りとそれ程の違いがなく、中世の館跡の形態を今に伝える貴重な史跡としています。また、こちらの水堀は防御の為だけではなく、農業用水としての重要な役割も担っていたようです。
説明板のあるお宅には、今も茂木氏がお住いで、門の東側には堀が見られます(写真2枚目)。茂木家の東側に隣接する妙見寺(写真5枚目)は、周囲を水堀が囲み、主郭と思われる茂木家とは水堀で仕切られています(写真3,4,7,8枚目)。ただし、境界部分の水堀(写真7枚目)は、住職さんの居住空間の為、離れて見る感じです。近ずいたところ、不審者と思われてしまい、住職さんが出てこられました。御堂の裏側に水堀に沿って土塁状の土盛り(写真6枚目)が見られますが、こちらは駐車場を作った際に出来たものとのことでした。妙見寺自体は、明治18年の創建で、古いものではありません。
2025年10月20日 内記かすりヾ(・ε・。)
世良田館[三ツ木城 周辺城郭]
さて、徳川氏が源氏である事は一般的な常識として定着していると思うんだけど、安祥松平氏が源氏であるとの認識は特に家康から始まった事ではなく、祖父、清康は清和源氏を称し、世良田次郎三郎を名乗った時期があったりもする。途方もないので詳細も真偽も語らないけど。少なくとも家康は自らのルーツを新田氏の流れである事を当初から意識しており、その根拠にと求められたのが今回紹介する館の主、世良田氏だと言えそうだ。そう、家康も元を辿ればその発祥はグンマーだった(のかもしれない)のだ。
世良田館は三ツ木城の南南東約1.9km、利根川北岸(左岸)、早川北岸(左岸)、標高約38mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地は木崎台地の南縁部に当たり、旧石器時代から人の定住が見られる地域である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「新田荘歴史資料館」の駐車場に捨てればよい。該地はこの資料館に付随する芝生広場として整備されている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり世良田氏です。同氏は上野国新田郡新田荘下司、新田義重の四男、義季が新田荘内世良田郷の地頭職を分与され、同名の二男、頼氏が在名を取って世良田弥四郎を名乗ったのがその始まりだ。
寛元二年(西暦1244年)、京都大番役として在京中の新田政義は、昇殿と検非違使の役目を朝廷に勝手に求めた事が問題視され、幕府から所領の一部と新田氏惣領職を没収されてしまうが、事後に同族の岩松時兼と世良田義季が新田氏の半分惣領となっており、両氏が幕府にも認められる程の有力者であった事が窺える。頼氏は将軍の近習を経て閣内で重んじられたようで、「吾妻鏡」には「新田三河前司」として登場し、三河守に叙任されていた事が推測出来る。
頼氏は文永九年(西暦1272年)二月の「二月騒動」に連座して失脚、佐渡へ流され、同年の六月、同地で没する。曾孫の世良田弥次郎満義は鎌倉時代の末期に新田義貞に従い討幕に加担、元弘三年(西暦1333年)五月十八日から始まった鎌倉攻めに際しては極楽寺坂の切通に攻め寄せた。南北朝時代には南朝方として各地を転戦し活躍したがこの頃には世良田郷から退転してしまったようだ。
その一方で、頼氏の実兄、世良田頼有は、同族、岩松氏から養嗣子として義政を迎えでいる。同名は初め新田氏を称したそうだが、世良田郷を宛行われた以降には世良田氏を称した。義政は下野国を本拠として北朝方に与して働き、後には軍忠を褒されて上総国守護となっているが、新田氏残党等を募り南朝方へ通じたとの嫌疑をかけられ、貞治三年(西暦1364年)七月二十七日、足利基氏の追討を受け、その翌日、兄弟や梶原景安と共に長楽寺如来堂において自刀した。後裔は同じく同族の山名氏に従って伯奢国へと移り住み、森本(守本)氏を称したんだそう。
居館の現況は…芝生公園となっており、2回の発掘調査によって検出された堀跡が復元されている。但し、調査範囲は限定的、堀跡は東辺と北辺の一部分である事から、かつての居館敷地範囲は西側の一般住宅地にまで及んでいたようだ。ちなみに公園内には説明板が立っている。
発掘調査の出土品の中には、「正慶元年(西暦1332年)壬申十月八日比丘尼蓮性」と刻まれた「比丘尼蓮性の板碑」がある。板碑は簡略形式の塔婆として鎌倉時代に流行し、主に関東で広まったそうだが、板碑が完全な形で出土するのは稀有な事例なんだそう。物は前述した「新田荘歴史資料館」で常設展示されているので板碑マニアは訪ねるとよい。ちなみに供養者の日比丘尼蓮性については、新田氏一族の有力者の妻等が推測されている。
※「新田荘歴史資料館」〜かつての新田荘内に存在する、寺社、館跡、湧水地等、11箇所の遺跡から構成される、国指定の史跡、「新田荘遺跡」を展示物の中心とした資料館である。荘園と新田氏をメインに解説が進められ、中世濃度が比較的に高く個人的には大好き。
※長楽寺如来堂〜寺地は世良田館に隣接しており、正式名称は世良田山真言院長楽寺である。かつては臨済宗の寺院だったが、家康の関東加増移封に際して有名な天海大僧正を住職として再興され、併せて天台宗へと改宗されている。創建当時の開基は文中にある新田義季、徳川氏は先祖の開基した寺を重んじていた訳だ。
2025年10月18日 内記かすりヾ(・ε・。)
悪源太義平の墓[三ツ木城 寺社・史跡]
さて、城めぐ的には丹波の赤鬼、赤井悪右衛門直正なんかが「悪」て称される代表格だと思うんだけど、この場合の「悪」はバンクロブするよな犯罪者の事じゃなくて、勇猛だとか猛々しいていう意味で付けられている(中世の「悪党」も本来は同じ意だ。)。そんな「悪」を冠する人物の墓所が今回の口コミ、書くのは虫も殺せない天使の様な美少年なんだけどね。
悪源太義平の墓は三ツ木城の南東約1.5km、利根川北岸(左岸)、早川東岸(左岸)、義平山清泉寺の境内、標高約38mの河岸段丘台地上平場に建つ墓石です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「義平山清泉寺」を目標に設定して下さい。車は門前に捨てられる。神社仏閣訪問時の停め方としては大胆だが、たとえ見られたとしても「あらあら…」で済んでしまう筈…理由はお寺さんが既に無住、破れ寺に近い状態だからだ。
まず、悪源太義平て誰なんだよ…て話なんだけど、平安時代末期に東国へ下向した朝臣、源義朝の庶長子、義平の事なんすわ。ここまで書けばもう気付いたかな。そうなんす、義平はあの源頼朝の異母兄に当たる人物なのれす。
兎に角、脳筋な人物だ。圧倒的に強ぇえ。義平の生涯は僅かに二十年だったけど、強烈なインパクトを残したと言ってよい。その名を轟かせたのが、久寿二年(西暦1155年)に行われた同族争い、「大蔵合戦」だ。実父、義朝が対立していた、同名の異母弟、源義賢の館(アプリの登録城、大蔵館の事である。)を急に襲い、義賢とその舅、秩父重隆を討ち取り武名は天下に鳴り響いた。悪源太(鎌倉悪源太とも。)と呼ばれるようになるのはこの合戦の後の事である。ちなみにかずぽんの推し武将、木曽義仲の実父が義賢なのさ。この事件がなければ木曽に匿れる事もなかったろう。
「平治の乱」を書いた軍記物、「平治物語」ではスター級の扱いである。内裏の諸門の一つである待賢門を奪われた義朝は、義平にこれを追い返すよう命じ、これに応えて同名は坂東武者十七騎を引率して平重盛勢、五百騎の中に殴り込み!基本的に脳筋の人には彼我の人数の差なんて関係無い。暴れられればそれでよいのだ。そして何とか出来るとさえ思っているポジティブ思考!フィジカルの強い人間がなんだかんだで営業で勝ちを収めるのと同じ感覚だ。全ての大脳皮質を筋肉に置き変えよう!筋肉こそが全てなのだっ!みんなも昼休みの時間に1万回は腕立て伏せをしよう!
義平は重盛と組み打ちしようと、内裏の左近の桜、右近の橘の間を七、八度も追い回す。重盛は新手を以て再び門内に押し出すが、脳筋にはそんなの一切関係無い。逆に勇みに勇んで嫡男同士の決着を声高に求める始末、重盛が「この人、ちょと無理…」て言ったかどうか知らんけど、遂には門内から敗走!坂東武者はこれ等を追って平氏勢を散々に討ち破る…みんなも100kgの負荷を背負ってスクワットに死ぬ気で励め!止め時は立てなくなってから考えればよい。
一方、都芳門で戦っていた実父の義朝は、平氏勢を深追いし内応者を出す等して内裏は同勢の占拠する所となってしまう。退路を失った義朝は人数を極端に減らしながらも六波羅へ攻め寄せる…義平はこの際に御味方の源頼政が人数を留めて傍観しているのを見咎めると後先考えずに殴り込み!が〜んっ!正に脳筋の面目躍如、ムカついたら秒で反応、即座に行動に移してしまう悲しき性なのだ。結果として頼政は当たり前の如く平氏方に…みんなも腹筋を鍛えよう!人体構造上はとても無理な6パックを超えるのだっ!
墓石の現況は…元々がただの石の塊なんだろうか。文字が刻まれていなかったらそこら辺の庭石と変わらない。刻まれた文字も摩耗が少な過ぎるような…新田荘歴史資料館の学芸員さんに真偽を尋ねても謎だった。ちなみに六条河原で斬首された義平の首を該地に埋葬したのは、同名の妻、新田義重の娘、祥寿姫と伝わるが、この姫、頼朝が懸想してラブレターを送った事でも知られる。きっと武士は未亡人が好きなんだろう。
源氏て頼朝の武家の棟梁のイメージが強いと思うんだけど、おいらが抱く源氏のイメージは、為朝、義平、義仲、義経の持つそれだ。何れもチート級の武士なんだけど、どことなく短慮で軽はずみな所があり政治的に未熟、強ぇえんだけどそれが故に身を滅ぼしてしまうていう…でもこんな輩がみんな大好きでしょ?日本人のDNAに深く刻み込まれた判官贔屓てやつだ。
※「大蔵合戦」〜生年が正しければ義平が十五歳の時である。やんちゃだったんだろう。
※「平治物語」〜合戦の描写は殆どが脚色されている。但し、義平の戦いぶりが人々の印象に残ったのは確かなようだ。
※嫡男同士の決着〜平清盛の嫡男が重盛である。同時代の人達の評価は極めて好意的だ。
2025年01月19日 見城
武士城[三ツ木城 周辺城郭]
室町時代、関東平野の南北に流れる渡良瀬川、利根川を中心に、東側の勢力圏は古河公方、西側は関東管領の山内上杉氏の勢力圏として川をはさみ対峙しており、武士城は、利根川の東側の勢力圏にある城郭で、西側勢力圏の上杉氏の五十子陣営を眺望できる丘陵・御嶽山にあります。
現在は伊勢崎市境の御嶽山自然の森公園として憩いの場所となっています。野鳥や季節には昆虫観察もでき、河川敷には芝生もあり散歩やランニングしている方がおりました。
城郭東の帯郭の位置には、特養ホームや福祉センターの施設があり、車で来られる方は福祉センターの駐車場が利用できます。武士城は、地域の方に守られ、公園として町に溶け込んでおります。
・城郭東側
・御嶽山南側 粕川遊歩道から
・城郭南側 登城アプローチ
・御嶽山西側 左手は粕川河川敷
・御嶽山南側から粕川、広瀬川方向を見下ろす
・城郭の平場 公園散策の小径
・城郭北側からみた南側の自然の森公園
・公園化基本計画(案内板)
2023年06月12日 マグロ常陸介祐平
徳川義季公館[三ツ木城 周辺城郭]
縁切寺として有名な満徳寺の北側、徳川東照宮の東隣が館跡となります。遺構はありません。
徳川東照宮の由来によると、徳川義季から八代目の親氏(松平氏初代)が室町幕府による新田氏残党追捕により出国の際、生田隼人に徳川郷を預け生田氏が郷主となり、家康が関東に移封後の天正十九年、生田家十六代義豊が家康に謁見し、徳川系図の提出と生田から正田への改姓、後に徳川郷へ300石の寄進(正田隼人家の取り分は内60石)と館跡への居住許可を受けたとあります。美智子上皇后様は、この正田隼人の御子孫(この家から分家)に当たります。嫡流の御子孫は現在も館跡にお住いです。
親氏が出国後(真偽は別として)も徳川氏は存続したようで、成田家分限帳(天正十年)には徳川茂左衛門の名が岩松内記(庶流でしょう)と並び記載されています。天正十年といえば、本能寺の変の年で、上杉、武田、織田に蹂躙された上州の武士と思われる名字が分限帳には他にも多数見られます(徳川氏など新田一門の名字が多いのは、権限が縮小した由良氏配下が、知行地はそのままで北条氏により成田氏に付属させられた?)。茂左衛門本人又は数代前の先祖が徳川の地に居住していた可能性もあるように思われます。何故か正田隼人が家康に謁見する前、天正十八年の忍城の戦いの時点で岩松内記の名はありますが徳川茂左衛門の名は見られなくなります。
岩松守純(本家)が家康に謁見の際、家系に関する失言により20石(後に120石)しか貰えなかった説がありますが、身近な一門に徳川氏がいたことが失言につががったようにも思えてしまいます。
余談ですが、成田家分限帳には鵜殿、松平といった三河の特徴を持つ名字もみられ(他にも関東・中部地域特有の名字多い)武士の移動についても興味をそそられました。
館の北側には、新田義重夫妻の墓があります。説明板には江戸幕府により特別に保護されてきたとありますが、そんな風には見えません。
満徳寺資料館では、縁切の資料の他、縁を切りたい内容を札に書いて専用のトイレに流して祈願することが出来ます。
2023年06月11日 マグロ常陸介祐平
世良田館[三ツ木城 周辺城郭]
徳川氏の先祖世良田氏の館です。発掘された堀が復元されていますが、発掘面積が狭く中世の館跡としての決め手に欠けているものの、伝承により世良田氏館とされたようです。隣接する世良田東照宮と長楽寺は国指定史跡の新田荘遺跡に含まれており、東照宮は国指定文化財、長楽寺は三仏堂や太鼓門が大変見事で、徳川義季公累代の墓や交代寄合岩松氏の墓が見られます。
新田荘歴史資料館も隣接しており、周辺探索前の予習に最適です。
2023年06月06日
織間本陣[三ツ木城 寺社・史跡]
かなり近接して(斜向かい)飯島本陣跡と記された標柱があり、文政12年(1829年、文政大火のころ)になんらかの損壊が修復できず、織間家に本陣が移ったとされます。文政13年はお蔭参りの最盛年、限りなく近代よりではあり、意外なおもいでした。
2022年05月22日 マグロ常陸介祐平
三ツ木城
真福寺の土塁の一部が残り、土塁の上に三ツ木神社が鎮座しています。事前に知らなければ土塁とは思えない状態です。歴住の墓域には、古い女性の墓があり、城主の縁者かもしれません。
2018年07月15日 まー刑部卿
三ツ木城
ナビだと三ツ木神社としか出てないため目標物とする。駐車は三ツ木区屋台庫及び境町三ツ木水防倉庫の前辺りに停められるが真福寺境内(チェーンが張られていなければ)に置くと良い。境内に車乗入れ禁止と書いてあったが多数のタイヤ痕があったので問題ないかと。説明書きの三ツ木城なのか三木城なのか曖昧な説明書き有り。車の通行に支障しない停め方であれば問題なし。
2015年10月11日 永眠武蔵守釋 葱進
三ツ木城
真福寺境内が本丸跡と云われてますが、遺構としては本堂西側に土塁が遺されているのみです。その土塁の上には三ツ木神社が鎮座しています。
三ツ木城そのものに関する解説板の類いはなく、真福寺に関する解説板にかろうじて名前が出てくるのみです。
近隣は閑静な住宅街、駐車場はないけど西側の道路上であれば短時間路駐も問題ないかと。









