徳川義季公館
徳川義季公館([三ツ木城 周辺城郭])
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徳川義季公館の口コミ情報
2023年06月12日 マグロ常陸介祐平
縁切寺として有名な満徳寺の北側、徳川東照宮の東隣が館跡となります。遺構はありません。
徳川東照宮の由来によると、徳川義季から八代目の親氏(松平氏初代)が室町幕府による新田氏残党追捕により出国の際、生田隼人に徳川郷を預け生田氏が郷主となり、家康が関東に移封後の天正十九年、生田家十六代義豊が家康に謁見し、徳川系図の提出と生田から正田への改姓、後に徳川郷へ300石の寄進(正田隼人家の取り分は内60石)と館跡への居住許可を受けたとあります。美智子上皇后様は、この正田隼人の御子孫(この家から分家)に当たります。嫡流の御子孫は現在も館跡にお住いです。
親氏が出国後(真偽は別として)も徳川氏は存続したようで、成田家分限帳(天正十年)には徳川茂左衛門の名が岩松内記(庶流でしょう)と並び記載されています。天正十年といえば、本能寺の変の年で、上杉、武田、織田に蹂躙された上州の武士と思われる名字が分限帳には他にも多数見られます(徳川氏など新田一門の名字が多いのは尚純追放の影響?)。茂左衛門本人又は数代前の先祖が徳川の地に居住していた可能性もあるように思われます。何故か正田隼人が家康に謁見する前、天正十八年の忍城の戦いの時点で岩松内記の名はありますが徳川茂左衛門の名は見られなくなります。
岩松守純(本家)が家康に謁見の際、家系に関する失言により20石(後に120石)しか貰えなかった説がありますが、身近な一門に徳川氏がいたことが失言につががったようにも思えてしまいます。
余談ですが、成田家分限帳には鵜殿、松平といった三河の特徴を持つ名字もみられ(他にも関東・中部地域特有の名字多い)武士の移動についても興味をそそられました。
館の北側には、新田義重夫妻の墓があります。説明板には江戸幕府により特別に保護されてきたとありますが、そんな風には見えません。
満徳寺資料館では、縁切の資料の他、縁を切りたい内容を札に書いて専用のトイレに流して祈願することが出来ます。