深谷城(ふかやじょう)
深谷城の基本情報
通称・別名
- 木瓜(ぼけ)城
所在地
- 埼玉県深谷市本住町他(地図は石碑の場所を示す)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 上杉房憲
築城年
- 康正2年(1456)
主な改修者
- -
主な城主
- 深谷上杉氏、長沢松平氏、酒井氏
廃城年
- 寛永11年(1634)
遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県旧跡(深谷城跡)
再建造物
- 模擬石垣、模擬塀、石碑、説明板
周辺の城
-
庁鼻和城(埼玉県深谷市)[1.7km]
岡部陣屋(埼玉県深谷市)[3.1km]
人見館(埼玉県深谷市)[3.5km]
別府城(埼玉県熊谷市)[5.4km]
下田島城(群馬県太田市)[7.8km]
三ツ木城(群馬県伊勢崎市)[9.0km]
本田城(埼玉県深谷市)[9.2km]
平山館(埼玉県熊谷市)[9.2km]
本庄城(埼玉県本庄市)[9.7km]
中条氏館(埼玉県熊谷市)[11.1km]
深谷城の解説文
[引用元:Wikipedia「深谷城」の項目]深谷城(ふかやじょう)とは、現在の埼玉県深谷市本住町にあった日本の城である。
城の形態としては、平城であった。
【概要】
康正2年(1456年)に深谷上杉氏の上杉房顕が台地の北端部付近に築いたものである。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で開城するまで、深谷上杉氏の居城であったが、徳川家康の関東入部に伴い、長沢松平家の松平康直が1万石で入城した。
その後、家康の七男松千代、兄の六男忠輝が継いだ。しかし、忠輝は慶長7年(1602年)に下総佐倉へ転封となり、慶長15年(1610年)に桜井松平氏の松平忠重が入封したが、元和8年(1622年)上総国佐貫へ移封された。
その後酒井忠勝が1万石を領有して入封したが、寛永4年(1627年)に武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩となり、寛永11年(1634年)に廃城となった。
【現況】
現在は、城址公園として整備されているが、遺構は残っていない。模擬石垣・塀・堀が造られている。ただし、隣接する富士浅間神社の周囲に外堀跡が残っている。
【参考文献】
・深谷市教育委員会 埼玉県深谷市埋蔵文化財発掘調査報告書 深谷城跡 第1~14次[続きを見る]
深谷城の口コミ情報
2019年05月03日 こいちゃん
深谷城
(案内板より)城は唐沢川・福川に囲まれた低湿地にあり、本丸を中心に、各曲輪は土塁や深堀に囲まれていました。その形状がボケの花に似ていることから木瓜城とも称されていました。
2017年05月08日
深谷城
現在は、深谷城址公園になっていて、
市民の憩いの場所です。
特に桜の季節は、とても綺麗です。
駐車場、トイレもあります。
私は車でしたが、JR高崎線深谷駅より、
徒歩15分くらいです。
公園自体に遺構はありませんが、
隣接する富士浅間神社にある外濠跡は、
貴重な遺構だと思います。
2015年09月05日 永眠武蔵守釋 葱進
深谷城
追記&訂正
深谷城をはじめとする発掘調査の記録や、深谷上杉氏をメインに市史跡等の研究をしている団体の会報などが、本丸跡地に建つ市立図書館の郷土資料コーナーに置いてあります。(基本的に月曜休み)
先の口コミ、城址公園近くを流れる川は唐沢川です。
2015年09月05日 永眠武蔵守釋 葱進
深谷城
城があったという史実をもとに、遺構等お構い無しにイメージだけで整備したら白壁に囲まれた城址公園になりました、という悪しき例の一つですね。
(きちんと発掘調査などやっていたはずなんですが)
模擬天守がないだけまだましかもしれません。
さすがに神社境内は手をつけられず、かろうじて外堀跡だけが残されています。
史跡として見るなら、先の口コミにある高臺院や管領稲荷神社へ行かれるのをお勧めします。
なお、公園としての深谷城址公園は結構居心地良い場所で、特に桜の時期は近くを流れる小山川の桜並木とともにお勧めです。
2014年11月03日 牢屋見廻り同心マダオ
深谷城
高臺院本堂裏と管領稲荷神社に土塁が残ります。また高臺院には深谷城主上杉憲賢と憲賢室高泰姫の墓があります。
2013年08月15日 空灯
深谷城
外から見ると城っぽい塀がありますが、中はふつうの公園でした。
一応駐車場ありました。
2010年09月09日 傾奇揚げ仙兵衛
深谷城
深谷ネギだね。ネギ畑だらけです