世良田館
世良田館([三ツ木城 周辺城郭])
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世良田館の口コミ情報
2025年10月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、徳川氏が源氏である事は一般的な常識として定着していると思うんだけど、安祥松平氏が源氏であるとの認識は特に家康から始まった事ではなく、祖父、清康は清和源氏を称し、世良田次郎三郎を名乗った時期があったりもする。途方もないので詳細も真偽も語らないけど。少なくとも家康は自らのルーツを新田氏の流れである事を当初から意識しており、その根拠にと求められたのが今回紹介する館の主、世良田氏だと言えそうだ。そう、家康も元を辿ればその発祥はグンマーだった(のかもしれない)のだ。
世良田館は三ツ木城の南南東約1.9km、利根川北岸(左岸)、早川北岸(左岸)、標高約38mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地は木崎台地の南縁部に当たり、旧石器時代から人の定住が見られる地域である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある「新田荘歴史資料館」の駐車場に捨てればよい。該地はこの資料館に付随する芝生広場として整備されている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり世良田氏です。同氏は上野国新田郡新田荘下司、新田義重の四男、義季が新田荘内世良田郷の地頭職を分与され、同名の二男、頼氏が在名を取って世良田弥四郎を名乗ったのがその始まりだ。
寛元二年(西暦1244年)、京都大番役として在京中の新田政義は、昇殿と検非違使の役目を朝廷に勝手に求めた事が問題視され、幕府から所領の一部と新田氏惣領職を没収されてしまうが、事後に同族の岩松時兼と世良田義季が新田氏の半分惣領となっており、両氏が幕府にも認められる程の有力者であった事が窺える。頼氏は将軍の近習を経て閣内で重んじられたようで、「吾妻鏡」には「新田三河前司」として登場し、三河守に叙任されていた事が推測出来る。
頼氏は文永九年(西暦1272年)二月の「二月騒動」に連座して失脚、佐渡へ流され、同年の六月、同地で没する。曾孫の世良田弥次郎満義は鎌倉時代の末期に新田義貞に従い討幕に加担、元弘三年(西暦1333年)五月十八日から始まった鎌倉攻めに際しては極楽寺坂の切通に攻め寄せた。南北朝時代には南朝方として各地を転戦し活躍したがこの頃には世良田郷から退転してしまったようだ。
その一方で、頼氏の実兄、世良田頼有は、同族、岩松氏から養嗣子として義政を迎えでいる。同名は初め新田氏を称したそうだが、世良田郷を宛行われた以降には世良田氏を称した。義政は下野国を本拠として北朝方に与して働き、後には軍忠を褒されて上総国守護となっているが、新田氏残党等を募り南朝方へ通じたとの嫌疑をかけられ、貞治三年(西暦1364年)七月二十七日、足利基氏の追討を受け、その翌日、兄弟や梶原景安と共に長楽寺如来堂において自刀した。後裔は同じく同族の山名氏に従って伯奢国へと移り住み、森本(守本)氏を称したんだそう。
居館の現況は…芝生公園となっており、2回の発掘調査によって検出された堀跡が復元されている。但し、調査範囲は限定的、堀跡は東辺と北辺の一部分である事から、かつての居館敷地範囲は西側の一般住宅地にまで及んでいたようだ。ちなみに公園内には説明板が立っている。
発掘調査の出土品の中には、「正慶元年(西暦1332年)壬申十月八日比丘尼蓮性」と刻まれた「比丘尼蓮性の板碑」がある。板碑は簡略形式の塔婆として鎌倉時代に流行し、主に関東で広まったそうだが、板碑が完全な形で出土するのは稀有な事例なんだそう。物は前述した「新田荘歴史資料館」で常設展示されているので板碑マニアは訪ねるとよい。ちなみに供養者の日比丘尼蓮性については、新田氏一族の有力者の妻が推測されている。
※「新田荘歴史資料館」〜かつての新田荘内に存在する、寺社、館跡、湧水地等、11箇所の遺跡から構成される、国指定の史跡、「新田荘遺跡」を展示物の中心とした資料館である。荘園と新田氏をメインに解説が進められ、中世濃度が比較的に高く個人的には大好き。
※長楽寺如来堂〜寺地は世良田館に隣接しており、正式名称は世良田山真言院長楽寺である。かつては臨済宗の寺院だったが、家康の関東加増移封に際して有名な天海大僧正を住職として再興され、併せて天台宗へと改宗されている。創建当時の開基は文中にある新田義季、徳川氏は先祖の開基した寺を重んじていた訳だ。
2023年06月11日 マグロ常陸介祐平
徳川氏の先祖世良田氏の館です。発掘された堀が復元されていますが、発掘面積が狭く中世の館跡としての決め手に欠けているものの、伝承により世良田氏館とされたようです。隣接する世良田東照宮と長楽寺は国指定史跡の新田荘遺跡に含まれており、東照宮は国指定文化財、長楽寺は三仏堂や太鼓門が大変見事で、徳川義季公累代の墓や交代寄合岩松氏の墓が見られます。
新田荘歴史資料館も隣接しており、周辺探索前の予習に最適です。









