平井城(ひらいじょう)
平井城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県藤岡市西平井字新曲輪235-1他(平井城址公園)
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 長尾忠房
築城年
- 永享10年(1438)
主な改修者
- 山内上杉氏
主な城主
- 山内上杉氏
廃城年
- 永禄3年(1560)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(平井城・金山城跡)
再建造物
- 土塁、石碑、説明板
周辺の城
-
金山城(群馬県藤岡市)[1.3km]
一郷山城(群馬県高崎市)[3.7km]
藤岡城(群馬県藤岡市)[4.7km]
山名城(群馬県高崎市)[6.7km]
真下城(群馬県藤岡市)[7.4km]
倉賀野城(群馬県高崎市)[8.4km]
奥平城(群馬県高崎市)[8.6km]
雉岡城(埼玉県本庄市)[9.1km]
小幡陣屋(群馬県甘楽郡)[10.5km]
金窪城(埼玉県児玉郡)[11.1km]
平井城の解説文
[引用元:Wikipedia「平井城」の項目]平井城(ひらいじょう)は、現在の群馬県藤岡市にあった日本の城である。群馬県指定史跡。
【歴史・沿革】
永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実+幕府の連合軍の間で永享の乱が起きたが、憲実方が勝利した。
文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。 古くから、平井城が関東管領であった山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料もあるが、実際には永正9年(1512年)の永正の乱もしくは大永年間(1520年代)以降の拠点で、16世紀前半の短期間のものであったとみられている。
天文21年(1552年)、北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで北条に寝返っていたためである。
永禄3年(1560年)に長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。
【構造】
平地部分に本丸などの本城があり、背後の山には詰城である金山城(平井金山城)があった広大な城である。[続きを見る]
平井城の口コミ情報
2021年01月24日 まー刑部卿
高山城[平井城 周辺城郭]
車でお越しの際は近くにある金井の湯の受付でお城の跡を見に来ました、って言えばすんなり停められますが結構賑わっているためお昼過ぎだと停めるのに苦労するかと思います。登城口は金井の湯から高山城方面に行くと電柱があるのでその脇から入るといいでしょう。現地案内板はないため藤岡歴史資料館で情報を得るといいかと。以前訪れた時は資料を頂いたことがありました。
2020年06月16日 大隅守上
高山城[平井城 周辺城郭]
岩盤を利用した堀切があります
2015年04月26日 傾奇揚げ仙兵衛
平井城
本丸から100mくらいの場所に親子二代で平井城を調査している方がやっているプレハブの観光案内所が有ります。
立ち寄ると丁寧に説明してくれます。
詰め城の金山城の道案内もしてくれます。
(口答で)
2015年03月01日 まー刑部卿
平井城
相変わらずの牛臭さ。竪堀は一度道路に出て一つ目のT字路を右折すると復元した木橋があるのでその横にある。
2014年11月12日 こにみん
平井城
石碑、土塁のある場所は、県道173号沿東側で県道41号との交差点から南へ約850mの位置でした。現状の地図情報と異なっているのでご注意。
2014年11月09日 牢屋見廻り同心マダオ
平井城
平井城近くの円満寺には関東管領山内上杉憲房の墓と上杉憲実墓、上杉顕定墓を複製した供養塔があります。
2013年10月19日 イダッチ内膳正ヨッチャン
平井城
数年ぶりに訪問しました。
本丸の整備計画が進められており土塁、空堀、竪堀、木橋が復元されています。最終的には本丸全域を整備、公園化する計画のようですが、現在はまだ本丸内に牛舎があり、其処は立ち入り禁止なので、やや見学が不便です。
駐車場、トイレあります。
本丸の背後は鮎川の断崖になっており、北に郭を連ねた総構えの広大な規模で、更に詰城の金山城もある関東管領の居城に相応しい城だったようです。
上杉憲政の越後退去のせいで弱いイメージの山内上杉氏ですが、かつては権勢を誇っていたことを偲ぶことができます。