奥平城(おくだいらじょう)
奥平城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県高崎市吉井町下奥平
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 奥平氏
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- -
主な城主
- 奥平氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、屋敷跡
指定文化財
- 市史跡(奥平城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
白倉城(群馬県甘楽郡)[3.7km]
富岡城(群馬県富岡市)[5.6km]
山名城(群馬県高崎市)[5.9km]
高崎城(群馬県高崎市)[6.3km]
一郷山城(群馬県高崎市)[6.6km]
小幡陣屋(群馬県甘楽郡)[6.8km]
倉賀野城(群馬県高崎市)[7.7km]
安中城(群馬県安中市)[8.6km]
平井城(群馬県藤岡市)[8.7km]
国峰城(群馬県甘楽郡)[9.0km]
奥平城の解説文
奥平城の口コミ情報
2026年03月16日 マグロ常陸介祐平
神保植松城[奥平城 周辺城郭]
鎌倉時代からこの地に存在した神保氏のお城です。古くからの居館と思われる神保館から東に約800m、15世紀に築かれたと推測されています。神保氏の記録が武田氏の滅亡と共に見られなくなることから、16世紀後半に廃城になったとされます。上信越自動車道の開通により、お城の大半が消滅しましたが、城域全体の詳細な発掘調査により、遺構の全容が記録されています。
お城は台地の縁に築かれ、南北約200m、東西最大幅約125mの規模で、南の崖端には外郭も存在したようです。縄張りは崖沿いにふたつに別れた主郭を中心に郭が囲むもので、土橋や堀に石積みも確認されています。また、建物や遺物も多く検出され、縄文時代からの複合遺跡ということもあり(遺跡内には古墳まである)、調査報告書は1130頁と膨大です(他に写真図版)。
お城の中央部分は高速道路となっています(写真3枚目)。高速道路北側の台地は薮と畑になっていて、遺構らしきは見当たらず(写真1,2枚目)、高速南側に橋を渡ると西側に古墳が見られます(写真4枚目)。側道を東に進むと鉄塔が立っており、台地の先端となっています(写真5枚目)。遺構は見られませんが、南側には古くからありそうな道が付いています(写真6,7枚目)。古墳と鉄塔の間には、僅かに土塁が残るようですが、薮のため確認できませんでした。吉井郷土資料館では、発掘調査を元にした復元図を見ることができます。
2026年03月15日 マグロ常陸介祐平
神保館[奥平城 周辺城郭]
辛科神社付近が館となります。館の主である神保氏は、吾妻鏡の宇治川の合戦の中に神保与三の名が見られ、神保の地名は辛科神社の所領だったことに由来していることから、古くからこの地に住み着いた一族のようです。室町時代にも足利義詮御教書案に佐々木道誉に抵抗する武士として神保太郎左衛門尉の名が見られ、上杉謙信の関東幕注文には白井衆として神保兵庫助、武田信玄の生島足島神社の起請文には長根衆として神保小次郎昌光の名が記されています。武田氏滅亡後の動向は不明のようですが、神保氏は辛科神社の神職として、その後もこの地に居住しています。神保氏は、戦国期になると台地上に神保植松城を築いています。また、鎌倉時代から畠山氏に仕え、室町時代には越中・能登・紀伊などの守護代を務めた神保氏の出身もこの地とされ、家紋の竪二引両も同じです。
明確な遺構としては、辛科神社の北東側の道路の先に僅かですが土塁と空堀が見られます。道路自体も堀切の跡のように感じられますが、土塁はこの道路で止まっているので微妙な感じです。
2026年03月09日 マグロ常陸介祐平
多比良城[奥平城 周辺城郭]
関東管領上杉氏の平井城の支城で、多比良豊後守友定が城主とされます。現地の説明板には、一郷山城と別城一郭をなしていたと書かれていますが、山上の詰城の一郷山城とは直線で約3km程離れています。永禄3年の関東幕注文に惣社衆として記載されており、高崎市文化財情報によると、永禄6年の武田信玄による上野侵攻では隣接する普賢寺(写真7枚目)と共に焼け落ちたとし、お城には上杉家の宝物が収蔵されており、友定は武田氏にさらわれるのは末代の恥ということで、宝物を焼き捨て子女を自害させ割腹して果てたとしています。実際には友定は武田氏に降ったようで、甲陽軍鑑には西上野衆として「たい羅 四十騎」と多比良氏の名が見られます。武田氏が滅びると北条氏に従いますが、天正18年の小田原の役では上杉景勝軍の先鋒藤田能登守信吉に降伏し、お城は廃城になったようです。上杉景勝の家臣の子の夏目定房の著した軍記「管窺武鑑」には、藤田信吉に息子を人質に降伏するも、北条氏邦に内通したことがバレて友定は殺され、息子は仕官するも3年目に病死して多比良(平)氏は断絶したと書かれています。
お城は東に土合川、西に杉井戸川が流れる舌状台地上に築かれ、規模は南北250m×東西200m、本丸は南北90m×東西80m、複数の曲輪で構成されていたようです。本丸は畑、本丸南側の空堀はソーラー発電となっています(写真1~4枚目)。ソーラーの空堀は浅く不自然な広さで、どれくらい旧態を残しているのかよくわかりません。北側は、結構な崖になっており要害性は感じられます(写真5,6枚目)。
2026年02月10日 マグロ常陸介祐平
長根陣屋[奥平城 周辺城郭]
奥平信昌は長篠の戦いで活躍し、家康と正室築山殿の長女亀姫を娶ります。亀姫の産んた亀松丸は天正16年に外祖父家康の養子となり、松平の姓と偏諱を許され松平家治を名乗っています。家康が関東に入国すると奥平の苗字の地に近い長根の地に7000石を拝領、廃城になったばかりの長根城を使用せず、長根陣屋はこの際に築かれたものと考えられます。近隣の白倉氏や小串氏は、お城とは別に居館を麓に設けているので、長根衆の居館を利用したのかもしれません。同じ頃に実父信昌は付近の小幡(宮崎)に3万石で入っています。
家治は14歳で早世し絶家となりますが、弟で同じく家康の養子となる忠明(忠の字は秀忠の偏諱)が長根7000石を引き継いでいます。関ヶ原の戦い後の慶長7年に1万石を加増され、三河作手に移封となると、長根陣屋は廃されたようです。忠明はその後、大阪城主、姫路城主と加増を重ねています。
Googleマップに長根館跡で位置登録されていますが、遺跡名の長根陣屋という表現が適切と思われます。また、マッピングぐんまでは長根城となっており、遺跡内容は台地上の長根城と全く同じ内容となっています。
陣屋は下仁田街道沿いとなります。街道沿いということと、早い時期に廃されたこともあり遺構は残っていないようです。民家の周りを用水路が流れており、堀跡のようにも感じられますが、7000石の陣屋としてはマッチしていないように感じられます。想像するに、天正期に建てられた家康養子の陣屋とすると、それなりにゴージャスで、土塁と堀に囲まれた比較的規模の大きいものだったのではないでしょうか。
2026年02月09日 マグロ常陸介祐平
長根城[奥平城 周辺城郭]
長根城は、小幡氏の一族とされる小林氏が天文~永禄年間に居城して長根縫殿助を名乗ったとされます。その後、縫殿助は石倉城(群馬総社)に移って滝川一益に従い、神流川の合戦に参戦したようです。天正18年、依田康国は石倉城で寺尾左馬助に殺害されていますが、依田氏の系図には長根縫殿助に殺害されたとあるようです。
築城間もない頃に長根を去った長根(小林)氏の後には、小河原(長根)右馬助重清が城主となったようで、永禄6年の武田信玄による上野侵攻で武田氏に従い、生島足島神社の起請文にその名が見られます。重清は、天正8年の膳城の戦い(膳城素肌ぜめ)で討死したとされています。
長根の武士は長根衆と呼ばれ、縫之助(=縫殿助?)、雅楽助などが同時代に表れ、関係は複雑そうです。小河原系図では、縫之助は諱を信秀(=右馬助重清?)とし、小幡信実の弟とされ、縫之助信秀の子の縫之助信盛が小幡から小河原に改めたとしているようです(埼玉苗字辞典より)。
また、城域にある小河原家の墓碑には、「小河原氏は武蔵七党の第一児玉党の一族にして、藤原伊周公七世の孫小河原重長を始祖とす。」から始まる小河原氏の歴史を刻んでいます。
天正18年、長根には奥平信昌の子で徳川家康の養子となった松平家治が7000石で入部しますが、長根城には入らず、下仁田街道沿いに陣屋を構えています。
お城は台地の縁に築かれ、本丸は100m✕80m、城坂と呼ばれる自然地形を利用した坂を境に西側には、100m✕150m程の二の丸で構成されていたようです。本丸入口には虎口のようにも見える土壇があり、上部はお墓になっていますが、巨大な土塁の痕跡かもしれません。本丸の中はお墓と畑になっており、周りは少し低くなっています。低い部分は堀跡とされるようですが、虎口のような土壇が土塁の痕跡とすると堀跡との関係がつながりません。廃城後に本丸は寺院となり、明治になると学校が建てられたことで、かなり改変されているように感じました。
2026年02月08日 マグロ常陸介祐平
本郷城[奥平城 周辺城郭]
城主等は伝わらないようですが、江戸時代前期に成立した箕輪軍記(口語訳がネットで読めます)に、永禄6年の武田信玄による上野侵攻の出来事として、「信玄は山を二つ越えて西の久保と千部の原にかけて陣所を移し、吉井・河内・上野・白倉・塩川・天引・真庭・本郷・小幡の城を落とすことを謀った。」とあることから、江戸時代の前期にはお城があっと認識されていたようです。
実際にお城を訪れると、鏑川の河岸段丘上に物見として使用されたと推定される円墳が目立っています。北側の道路とは切岸のような段差となっており、道路は堀跡かもしれません。古墳の西側には一条の溝があり、堀切の痕跡と思われます。
はっきりとした遺構は見られませんが、こじつけるように痕跡を探すのを楽しめるお城でした。
2026年02月07日 マグロ常陸介祐平
馬場城[奥平城 周辺城郭]
奥平城から北に1.2km程に位置しています。日本城郭大系には、奥平城の解説の中で奥平城を中心とした4つの砦のひとつとして名前が出ており、末尾に独立した説明はありません。
お城の入口までは、広さのある林道が通っていますが、竹の倒木があり、車では通行できません。お城には、一直線に主郭まで上がれる階段を登ります(写真1枚目)。お城は独立した山で、中腹には細い帯郭があり(写真2枚目)、ピークの主郭(写真3枚目)のすぐ下には三方に小さな腰郭が見られます。降りやすい東側の腰郭の先には堀切があり、堀切を南に降ると帯郭に出ます(写真4~8枚目)。北側の腰郭の先にも堀切があるようですが未確認です。
人がほとんど入っていないようで、時期的な問題もあると思いますが、落ち葉が多く斜面の昇り降りには苦労しました。手すりがあるので主郭まで辿り着けましたが、落ち葉でくるぶしまでもぐる状態で階段の抜けに気が付かず、滑落しそうになりました。行かれる方は気をつけてください。
2026年02月06日 マグロ常陸介祐平
奥平城
三河作手の豪族から、長篠の戦いで家運を開き、後に豊前中津藩主となる奥平氏の先祖のお城です。家康の関東入国時に奥平の地に近い小幡に入部したのには縁を感じます。
奥平氏は村上源氏赤松則景の次男氏行が、児玉庄左衛門の婿となり、その末流がこの地に居を構え奥平を家号としたとされます。奥平氏の家紋が団扇を使用することから、児玉党ということに信ぴょう性があるように思われます。8代当主定俊が天授年間(1375~1380年)に三河に移りますが、縁者がこの地に残り、お城は永禄6年(1563年)の武田信玄の上野侵攻により落城したと伝わるようです。残った縁者に関しては、残念ながらネットではヒットしませんでした。
お城は北側に川が流れる台地の先端に位置しています。標柱から南側の登城路を登ると道はそのまま薄い堀切となります。堀切東の郭は規模が小さく、西側の郭は竹林となり、削平されているものの明確な遺構は見られませんでした。
2026年02月01日 マグロ常陸介祐平
岩崎城[奥平城 周辺城郭]
応永年間(1394~1428年)に岩崎左衛門が築城したとされ、天文年間(1532~1555年)に岩崎美濃守蔵久の子の蔵景が新田荘に移るまで居城したとされます。500m程西に建つ覚性寺には、宝徳元年(1449年)岩崎左衛門入道教阿の位牌あるようです。岩崎氏が移った後、岩崎村には武田氏に従う井上氏が居り、井上勘解由助清重は永禄7年(1564年)に信玄より倉賀野城攻めに活躍して賞されたようです。岩崎城は居館という感じではなく、井上氏がお城を利用したのかは不明です。
県道200号線を岩崎神社手前で北に曲がると、弁天池があります。池越に見る岩崎城は高さもなく攻略は楽勝と思われました。池を過ぎ、民家の脇からお城方向に向かう林道を見つけ、探索を開始しました。すぐにまっすぐ進む道とやや戻るようにお城を回り込む道に別れますが、まっすぐ方面は北にズレるように感じ、帯郭状にお城の南側を進むコースをとりました。竹林の中で、城に入れそうな場所からアプローチしますが、主郭まで僅かなところで激薮に撃退され、東側の中国化薬の敷地の堺の道から入り口を探すも薮に阻まれてしまいました。結果として、狭い空間を40分さまよって遺構は確認出来ずじまいとなりました。余呉さんの解説によると縄張りは山頂部の長軸15mほどの主郭を中心として、周囲に腰曲輪を配置したもので、物見や狼煙台等の施設の設置場所というべきものであろうとしています。
2026年01月31日 マグロ常陸介祐平
馬庭城[奥平城 周辺城郭]
馬庭氏のお城です。惣社長尾氏に属したようで、永禄3年の上杉謙信の関東幕注文に惣社衆として名前が見られます。永禄6年の武田信玄による上野侵攻では、武田氏に降伏して臣従しており、永禄10年の生島足島神社の起請文に高山衆として馬庭中務少輔家重の名が見られます。その後馬庭氏は、馬庭の地を離れたようで、馬庭の地は元亀3年に小幡氏より峯山城の富田氏や松本氏などに宛てがわれています。
城跡は馬庭念流の道場となっています。馬庭念流は相馬四郎義元入道慈恩が生み出したとされ、天正期に念流7代友松偽庵が中国地方から馬庭村を訪れ在地の樋口定次に伝授し、樋口氏により代々引き継がれています。江戸時代になると江戸にも道場を開くなど、メジャーな流派となっています。なお、樋口氏は義仲四天王の樋口兼光の子孫とされ、平井城主で管領上杉氏の家臣として明応9年(1500年)に馬庭村に住み着いたと伝わるようです。馬庭城主馬庭氏との関係はどのようなものだったのでしょうか。
お城の遺構は殆ど残っていないようですが、道場のすぐ西にある摩利支天の小さなお堂の建つ土壇が櫓台の跡とされるようです(写真3,4枚目)。現地は馬庭念流道場として群馬県の史跡に指定されていますが、説明板にお城や馬庭氏に関することは触れていません。
2026年01月30日 マグロ常陸介祐平
小串城[奥平城 周辺城郭]
下仁田街道沿いに居館(小串館)がある、小串氏の詰城となります。小串館同様、永禄6年武田信玄の上野侵攻により廃城になったとされています。小串氏は帰農したとされることから、多勢に無勢と悟り落城前に降伏したのではないでしょうか。生島足島神社の起請文に小串氏の名が見られないことから、武田氏には従わなかったように思われます。
小串館から南西に約600m程の台地の角部に位置しています。下仁田街道が通る北側は高低差のある崖となっていますが、南から東にかけては平坦地が広がっています。主郭と西郭の2つの郭があったとされるようですが、現状は一面の畑となっており遺構らしきは見当たりません。
2021年05月22日 桑風迷走
奥平城
城跡は、現在、個人所有ですので、見学には注意しましょう。
2021年05月06日 見城
奥平城
県道吉井安中線を車で西へ進むと、奥平城の看板のある畑の入り口に車1台分のスペースがあり、止めさせてもらいました。
奥平城郭は高台にあり、縄張り図をみると申田川と桜沢の合流地点まで平郭があったと日本城郭大系に記されています。
平郭は一段低くなっており、南側の高台から攻め込まれ易いと考えた場合、南側高台は奥平城郭の守りの一部になっていたのではないかと想像しました。
本丸は竹深いエリアで侵入することは断念しましたが、キジが何かに追われて飛び出して現れました。
・平郭から見上げた西の高台は現在は畑。先人様の仰られるように物見台を想像します。
・本丸へ向かう入り口
・高台の城郭
・現在の城郭入り口 石碑と説明板あり
・手前は申田川、茂みは城郭
・左手の桜沢と平郭の一部
・物見台の高台から。桜沢を挟んで向こう側は南側の高台
2019年04月28日 Toる
奥平城跡説明板[奥平城 碑・説明板]
道沿いの入り口です。高崎駅から約10キロです。
2018年04月28日 だび
奥平城
東側大手入口上がるとすぐ現状畑の郭がある。物見には最適。
本丸らしき部分は竹藪になっている。
全体としては狭く両側は崖になっている天然の要害だが西側本丸奥に堀切もないので当時どのように使われていたかは見学しただけではイメージがつかない。
静かな農村のただ中にありいい場所ではある。
2015年01月27日 牢屋見廻り同心マダオ
奥平城
奥平氏ファンなら奥平城の支城である馬場城、岩崎城もセットで巡られるのも良いかと。また奥平城近くには奥平神社、奥平公廟所があり、奥平公廟所には奥平氏発祥の地碑、古い五輪塔があります。また仁叟寺には開祖奥平貞訓の墓があります。










概要
鏑川北の丘陵地を貫流する申田川の岸に広がる、幅約700m、長さ2.5km程の平地の中央に位置する。立地・構造
城は西の丘陵に接し、両側が川に囲まれた地に造られている。城の東北側の申田川を渡った地域は、武家の居住区と考えられる九台(くだい)で、屋敷跡が多い。ここは周囲を申田川と宝性寺境の空堀、背後の丘陵に囲まれている。その内の南北80m、東西200mが城となっている。上下2段からなり、東部が数m低い。
追手は両者の間にあって北面に開き、西の外郭を武道原という。2つの川の合流点を今も「止め場」と呼ぶのは、ここを堰き止めて水を溜め、要塞とした証拠である。
一段下がった南東部は腰巻、大手は東方にあり南より登って本丸に入る。
本丸西面に搦手の食い違い土塁があった。水の手は城内に川久保城谷の井戸が1つ、九台の北方に二つ井(井戸谷)南の桜沢を渡ったあたりに銀(しろがね)の井があった。周囲には溜め池も多い。
歴史・沿革
奥平城は奥平氏の居城であり、奥平氏は鎌倉初期氏行が甘楽郡司となってから代々ここに住み、系譜が残されている。初代から7代まで奥平に住み、8代定俊は天授年間(南朝年号1375~1380)三河国作手に移った。
その後も縁者がこの地に残ったが、永禄6年(1563)武田信玄に攻められ落城した。
地区内の主な呼称としては殿山、武道原、腰巻、徒(かち)坂、姥坂、止め場、おくり(御庫裏)、文治屋敷、松屋敷、新屋敷、吉右衛門屋敷等がある。
参考文献
・高崎市公式サイト(https://www.city.takasaki.gunma.jp/)。