安中城(あんなかじょう)
安中城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県安中市安中3
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 安中忠政
築城年
- 永禄2年(1559)
主な改修者
- 井伊直勝
主な城主
- 安中氏、井伊氏、水野氏、堀田氏、板倉氏、内藤氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
里見城(群馬県高崎市)[3.6km]
富岡城(群馬県富岡市)[6.8km]
北新波砦(群馬県高崎市)[7.7km]
奥平城(群馬県高崎市)[8.6km]
松井田城(群馬県安中市)[9.3km]
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国峰城(群馬県甘楽郡)[12.9km]
安中城の解説文
[引用元:Wikipedia「安中城」の項目]
安中城(あんなかじょう)は、上野国碓氷郡安中(現・群馬県安中市安中)にあった戦国時代・江戸時代の日本の城。江戸時代には安中藩の藩庁が置かれた。別名の扇城(おうぎじょう)は、本丸の御殿を要として、他の城地が東西南の三方に扇のように広がっていることに由来している。
略史
近世に成立した『和田記』『上野志』によれば、永禄2年(1559年)4月、原市の榎下城主・安中左近忠成が、それまで窪庭図書がいた野尻の地に移り地名を安中に改め安中城を築いたとされている。また永禄6年(1563年)2月に武田信玄の攻勢を受け松枝城と安中城は落城し、忠成の父・越前守忠正は切腹し忠成は信玄に降伏して安中を安堵されたともある。
同時代史料における安中城の初見は弘治2年(1556年)11月16日の足利義氏感状写であり、永禄年間の史料に見える安中氏の人物は越前守重繁と左近大夫景繁である。
安中氏は永禄4年(1561年)時点では上杉謙信に属していたものの(『関東幕注文』)、永禄6年(1563年)2月には武田方となっている。武田信玄が安中に攻め寄せたのは史料によれば永禄5年(1562年)のことであり、5月時点では信玄は安中を攻略できていなかったものの、9月ごろには安中は武田氏に服属したものとみられる。なお越前守重繁は武田氏への服属後も存命であったが、隠居して家督を景繁に譲ったとみられる。
武田氏のもとで安中氏は安中城主の地位を保ったものの、安中景繁は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死し、七郎三郎が跡を継いだ。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により、上野国を鎮撫した織田勝長が入城した。上野国は滝川一益に与えられ、他の武将ら同様、安中左近(七郎三郎)も一益に服属し、一益は5月に安中町郷宛て定書を発している。しかし6月に本能寺の変が発生し、神流川の戦いで一益が敗れたことで北条氏邦が上野国に侵入し西上野を支配下に収めている。氏邦は天正13年(1585年)閏8月に足利から坂本まで伝馬を定めて安中を伝馬宿の一つとしている。
天正18年(1590年)4月、小田原征伐に伴う豊臣軍の攻勢により松井田城が落城、その影響で上野国内の各城が続々と降参、上野国は秀吉の支配下となった。なお安中城主・安中景繁(七郎三郎の誤りか)は小田原城を脱走し秀吉に降っている(『日本戦史小田原役』)。
天正18年(1590年)徳川家康が関東の地に入封。
慶長19年(1614年)、井伊家が安中に入封し、安中城の普請と町割りを行った。『上野志』によれば安中城は田畑にされてしまっており、『安中記』は城内の住人を谷津村に移住させたのが今の上野尻村であるとしている。
安中藩は井伊家2代(3万石)、のち水野家2代(2万石)、堀田家1代(2万石→4万石)、板倉家2代(2万石)、内藤家2代(2万石)、再び板倉家6代(2万石→3万石)と続き、板倉主計守勝殷の時に明治維新を迎えている。歴代藩主の中で著名なのは堀田正俊と板倉勝清であり、それぞれ老中を勤めている。
明治維新後に安中城は取り壊されるが、その時期は明治5年(1872年)から明治7年(1874年)まで記録がありはっきりしないが、明治5年の段階で取り壊しが決定されたものとみられる。
構造
中世の安中城は九十九川の河岸段丘上に築かれた城で、東西900メートル、南北400メートルの規模であった。現在の安中市文化センターの場所に位置した本丸は東西170メートル、南北110メートルの規模で、崖に面した北側以外の三方には空堀をめぐらしてあった。本丸の北西に櫓台(烽火台)があったが安中バイパスの建設によって削られている。
近世の安中城は大きく分けて本丸・二の丸・家臣の住居という構造になっていた。御殿のあった本丸は現在の安中市文化センターと安中小学校校舎の部分であり、小学校校庭南部分にあたる二の丸には複数の蔵があった。安中城の出入口は3箇所があり、町口門が現在の旧碓氷郡役所の前にあり安中宿に通じており、東門は熊野神社の前、西門は妙光院の手前にあった。町口門から西門に通じる現在群馬県道132号となっている通りを大名小路と呼び、安中藩郡奉行役宅、安中藩武家長屋(いずれも安中市指定重要文化財)が復元されている。なお安中城には天守閣はなく、御殿も茅葺であり、いわゆる陣屋づくりの城であった。
遺構
遺構として、専門家の検証はなされていないが、市内熊野神社に城門が1棟、民家に城門が都合それぞれ2棟、そして市内民家に武器庫が現存している。
安中城には町口門から北に進んだ場所、大手門の東に太鼓櫓があり、太鼓を叩いて時を知らせていた。太鼓は現在「安中様の大太鼓」として安中市の重要文化財となっている[1]。
参考文献
- 【書籍】「安中市史 」
- 【書籍】「群馬県の中世城館跡 」
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安中城の口コミ情報
2024年07月28日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
安中城
学校のおたよりより安中小学校の給食室が改築となり夏休み中にボーリング調査、2月より解体、埋蔵文化財調査が行われる予定です。
2024年03月03日 弾正一秀
安中城
安中城は現在図書館のように成ってましたね😁長篠の合戦では出陣した城主を筆頭に1人も戻らなかった悲しい歴史が残る城ですね❗
2024年02月22日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
安中城
安中小学校の校長先生より小学校校庭南側、安中城の石碑付近の桜の木を伐採するとお知らせが届きました。R6/3/9〜3/11の期間に安中城へ立ち寄られる方はご注意ください。
2022年08月27日 まー刑部卿
移築城門[安中城 遺構・復元物]
専門家の検証はなされていない民家に移築された城門。個人宅のため敷地外からの撮影。車は離れた場所に路駐。安中宿本陣の須藤家の末裔?というくらい広い敷地の入り口にある門でした。
表札は個人宅のため消しました。
2022年08月27日 まー刑部卿
武家長屋[安中城 遺構・復元物]
現在武家長屋は工事中のため、立入禁止。そのため郡奉行役宅は無料になっています。工事期間はいつまでか?と役宅の案内人の方に聞いたが工事は終わっているので足場撤去のみ、で職人さん次第だと回答されました。
2022年08月14日 まー刑部卿
安中様のお太鼓[安中城 その他]
『この太鼓は安中藩太鼓櫓において時を知らせており熊谷の土手までその音が聞こえたそうで【御代々留】によると貞享2年(1685)、時の藩主 板倉重形の時に太鼓で時を知らせ始めたとありそれ以前は大泉寺の鐘が時の鐘として使用されていた。明治4年(1871)に安中城が廃城後、安中小学校が明治16年(1883)新築開校すると太鼓は正面玄関の上り口に吊るされ校時を知らせる太鼓として使用されていて開校100周年を記念して昭和48年(1973)に皮の張り替えを行った際に鋲穴から過去6回張り替えしたことが判明している。昭和50年(1975)12月15日安中市指定重要文化財に指定された。また同年に復活した安政遠足侍マラソンのスタートを告げる太鼓として長年使用されてきた。現在はふるさと学習館1階(火曜日定休)に展示されています。』と現地説明板や安中市役所HPに掲載されています。なおふるさと学習館入口から右手にあり無料スペースにあります。無料駐車場有り。
2021年07月24日 まー刑部卿
八重が淵の碑[安中城 碑・説明板]
『つづき』
この伝説には後日譚があり、殿様の毒見役の御殿医の讒言により非業の死を遂げたお八重の怨霊は歴代の医師に(医師は一代限り)祟りを為すと恐れられました。そこで安中の医師会では昭和10年お八重の霊をを慰めるべく法要を行い更に昭和25年に安中城櫓台跡に『八重が淵』の碑を建立しお八重の霊を慰めました。その後、国道18号線安中バイパスの開通に伴い櫓台跡は姿を消しかつてのお八重が淵を見下ろすこの地にお八重の碑はたっています。
2021年07月24日 まー刑部卿
八重が淵の碑[安中城 碑・説明板]
【八重が淵伝説】
お八重伝説とは安中城主に仕えていた美しい女官の八重が殿様に寵愛され、そのことを妬んだ他の女官の恨みをかうことになり殿様の食事に縫針が仕込まれ下手人とされたお八重が無実の罪で生きたまま大きなカメに毒虫や毒蛇と一緒に押し込まれたという伝説です。
2021年07月23日 まー刑部卿
旧安中藩郡奉行役宅[安中城 遺構・復元物]
駐車場は向かい側に約3台ほど停められます。(安中城内現況対照図[明治初年]が建っているため城内を回る時に参考にされるといいかも)入場料は確か230円だったかと。何回も訪れているため今回は入っていません。
道路を挟んだ向かい側に旧安中藩武家長屋があります。ここも併せて入場出来ます。
2021年07月23日 まー刑部卿
武家長屋[安中城 遺構・復元物]
入口が開いていますが道路を挟んだ向かい側にある『旧安中藩郡奉行役宅』でお金払って入ってください、と入書かれています。確か230円だったかと。今回は何度も入ったことがあったので入りませんでした。武家長屋奥に安中城絵図がプリントされた板書がありました。この向かい側にある武家屋敷跡と思われる石垣は現存と『旧碓氷郡役所(入場無料・駐車場有り)』の職員の方がおっしゃっていました。説明板に石垣が現存していると書かれていたのでその時に訊ねたらそうお話ししてました。
2020年11月16日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
安中城
残念ながらほぼ何もありません。
武家屋敷くらいかな。
2020年04月05日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
安中城
安中城の史跡柱のある安中小学校ですが、目と鼻の先に学童保育舎が新築されました。写真撮影の際は子ども達や送迎の保護者に配慮をお願いします。
2017年05月06日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
安中城
安中小学校の隣、碓氷郡役所跡に安中城のジオラマがあります。
鳥瞰図も販売されています。
2017年05月04日 虎御前民部卿
安中城
2017年4月22日~5月21日(花と緑のぐんまづくりの期間中)まで、安中城下の旧安中藩郡奉行役宅・武家長屋は入館無料です。
2010年09月13日 古楽侍従広家
安中城
日本最初のマラソン、安政の遠足(とおあし)があった場所。