松井田城(まついだじょう)
松井田城の基本情報
通称・別名
- 小屋城、霞ヶ城、堅田城、諏訪城
所在地
- 群馬県安中市松井田町新堀
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 安中忠政
築城年
- 永禄元年(1558)
主な改修者
- -
主な城主
- 安中氏、大道寺氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、虎口
指定文化財
- 市史跡(松井田城安中郭跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
坂本城(群馬県安中市)[8.2km]
安中城(群馬県安中市)[9.3km]
富岡城(群馬県富岡市)[11.5km]
里見城(群馬県高崎市)[11.7km]
小幡陣屋(群馬県甘楽郡)[15.1km]
国峰城(群馬県甘楽郡)[15.3km]
白倉城(群馬県甘楽郡)[15.9km]
奥平城(群馬県高崎市)[16.2km]
北新波砦(群馬県高崎市)[16.7km]
箕輪城(群馬県高崎市)[16.9km]
松井田城の解説文
[引用元:Wikipedia「松井田城」の項目]
松井田城(まついだじょう)は、群馬県安中市松井田町高梨子(上野国碓氷郡)にあった戦国時代の日本の城(山城)。諏訪城・小屋城・霞ヶ城・堅田城ともいわれる。「安中郭」が安中市指定史跡に指定されている。
歴史・沿革
松井田宿北方の尾根にある山城で、城の北側には碓氷道・東山道が通り、南側には中山道が通る交通の要衝に位置する。また碓氷峠に備える役割も担っていた。
- 概要
南北1km・東西1.5kmに広がる城で、東西に伸びた比高130mの尾根を城郭化している。また、断崖の南側に対して北側はなだらかな枝尾根が尾根から手指のように伸びており、この枝尾根も城郭化されている。東端に浅間出丸、尾根東半分には安中郭、西半分には大道寺郭があり、「別城一郭」の複合城郭を成している。東の安中郭が安中氏時代のもので、大道寺郭は後北条氏時代に築城されたものである。
築城は永禄初年、1560年頃とみられているが、既にこの地には城が存在した。安中忠親[1]の松井田西城と松井田諏訪氏の諏訪城である。長享元年(1487年)に安中忠親が城主としてあり、その子・忠清が榎下城に移ったという[2]。その後、松井田諏訪氏(松井田諏訪氏の当主としては長野憲業の庶弟である諏訪明尚の存在が知られる)[3]が松井田西城に入っており[4]、一方の諏訪城は永禄4年に武田信玄の攻撃を受けている。松井田西城と諏訪城のどちらかが現在の松井田城の前身とも考えられる。
- 安中氏の時代
諏訪氏の後は、再び安中氏が松井田を領したらしく、安中忠清の子・忠政が安中城を築城したが、その際に忠政は子・忠成を安中に置き、自身は松井田城を改修し居城としたという。安中氏の行動は武田信玄の西上州進出に対抗したものであり、この時本格的に整備されたと考えられる。
永禄7年(1564年)、松井田城は武田氏の攻勢で開城し、武田方のものとなった。子の安中忠成は早い時期に降伏したため安中城を安堵されるが、父の安中忠政は抵抗を続けたために降伏後に松井田城を没収された上に出家・隠居を余儀なくされた。松井田城は小山田虎満、小山田昌成父子に与えられた。その後、安中忠成は天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにて、小山田昌成は天正10年(1582年)3月の高遠城の戦いにて戦死した。
- 武田氏の時代
同月、武田氏が滅亡すると後閑氏が後北条氏に通じ松井田城を占拠するが、すぐに織田信長方の滝川一益の軍に奪取された。松井田城は与力の津田秀政に与えられ、後閑城も秀政により落とされている。しかし、同年6月2日の本能寺の変で信長が死去し、6月18日、19日の神流川の戦いで滝川一益が後北条氏に破れ上州から伊勢に撤兵すると、滝川一益を追って北条氏直の軍勢が松井田城に入り、大道寺政繁が城代となった。
- 織田氏の時代
後北条氏は天正壬午の乱において碓氷峠を超え東信州に進出するが、氏直と徳川家康との和睦により撤退し、碓氷峠が後北条領国の境界に確定した。そのため、政繁は松井田城を大改修している。現在残る遺構はこの改修後のものである。
- 後北条氏の時代
天正17年(1589年)小田原征伐が起こると、豊臣秀吉の命で前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする北国勢が松井田城を攻撃した。しかし数千の兵が籠る松井田城は3月20日の総攻撃でも落城せず、持久戦が行われることになった。この結果、約1ヵ月後の4月22日に城代大道寺政繁は降伏し、松井田城は豊臣側に明け渡され、廃城となった。
現在、大道寺政繁の居館跡には、政繁の菩提寺たる補陀寺が存在する。
歴代城主
- 安中忠政 : 山内上杉氏の家臣
- 小山田虎満 : 武田氏の家臣
- 小山田昌成 : 虎満の子
- 後閑某 : 後北条氏に従属
- 津田秀政 : 織田氏の家臣
- 大道寺政繁 : 後北条氏の家臣
参考文献
- 平井聖〔ほか〕編集『日本城郭大系』第4巻、新人物往来社、1979年
- 安中市市史刊行委員会編 『安中市史』第2巻(通史編)、安中市、2003年。
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松井田城の口コミ情報
2024年09月19日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
松井田城
松井田城保存会Facebookより2024/09/19
【松井田バイパス側登城路 通行止めのお知らせ】
大雨の影響で大きな倒木が道を塞いだため、松井田バイパス側の登城路は通行が出来なくなっております。
電車で西松井田駅から徒歩で登城する場合は、山を越えた林道側からしか入れませんのでかなりの遠回りになるため来訪を中止していただいた方が良いと思います。
素人には撤去困難な倒木なので復旧の時期は未定です。
2024年06月14日 風雷坊織部正雨降師
松井田城
国道18号線松井田バイパスを走っていると「松井田城跡」の案内板が見つかるし、登城口の駐車場まで迷わずに行けます。
登城口から本丸までは30分かからずに登れますが、城跡はとても広大で、本丸から南側の安中郭やS字空堀、また本丸に戻って、西~北側の二の丸、連続竪堀等まで足を伸ばすと、たっぷり1時間半~2時間は必要ですし、それだけ見所満載の城跡です。
すべて土の登山道、急登、ロープ場あり、ですし、トレッキングシューズ等を履き、最低限の登山装備は必須です。
また、先達の皆さんも書かれていますが、ヤマビル対策をしつつ、熊避けの空き缶を鳴らしながらの行軍です。(忌避剤を足元に塗布し、登山道も薬品散布はされている様ですが、それでもヤマビル2匹遭遇しました)
それにしても登山道や案内所、説明板の整備等、地元城址保存会の皆様の温かい心遣いに深く御礼申し上げます。
登城後は、松井田城主 大道寺政繁の居所だった「補陀寺」に立ち寄り、政繁公のお墓をお参りしました。
2024年01月14日 RED副将軍
松井田城
北条氏が改修した連続空堀、S状空堀等の見所多数な関東屈指の名城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。1558年に安中重繁(安中忠政)による築城とされてましたが、安中忠親の松井田西城または松井田諏訪氏の諏訪城が前身であったというのが通説です。
安中重繁は、甲斐の武田信玄に備えて松井田城を改修。居城であった安中城に嫡男の安中景繁(安中忠成)を置き、松井田城を自らの居城としました。
1559年から武田信玄は西上野に侵攻し、松井田城に幾度か攻め寄せましたが落城には至らず。
しかし1562年に安中城の安中忠成は武田信玄に降伏。その後も安中忠政は松井田城に籠城して抗戦するもやがて降伏し開城。
最後まで抵抗した安中重繁は松井田城を没収されて家督を譲り隠居。家督を継承した安中景繁は早期に降伏したため所領を安堵され安中城にとどまり武田氏に臣従し、松井田城には武田氏家臣の市川国貞が城代として入城しました。
1582年に織田信長により武田氏が滅亡すると、織田信長家臣の滝川一益の所領となりますが、その後まもなく織田信長が本能寺の変で没すると、滝川一益は伊勢へ退去。武田氏の旧領である上野は北条氏が支配し、松井田城には北条氏重臣の大道寺政繁が入城。この頃に現在に残る松井田城に改修、増築されました。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、前田利家が松井田城に攻め寄せ、大道寺政繁は降伏し開城。その後に廃城となりました。
見所
中山道を押さえる要衝の九十九川と碓氷川に挟まれた丘陵上に築かれています。
東西に伸びる尾根上に東から安中郭、主郭、馬出し、二郭と連なり、北へ伸びる数本の尾根筋にも遺構が残りかなり広い城域です。
見所として西端部の連続空堀、東端部のS 状空堀、北尾根の畝状竪堀等が多数ある関東屈指の名城です。
行き方は、国道18号から側道から城域東側の大手登城口につながる林道に入ります。駐車場が完備され城域も適度に整備されています。
但し夏期はヤマビルが多いので避けた方が良いです。
2023年11月01日 たららん
松井田城
縄張り図パンフレットは駐車場降りてすぐの小屋にありました。小屋にはヒル避けの食塩水スプレーや熊避け缶、棒が設置されていて地元の方々の優しさをかんじます。熊避け缶は城内見学ルートのあちこちに設置されているので、安心です。
大きな山城で、時間の都合で全て見られなかったのでまたいつか来ます。
2023年10月17日 RED副将軍
後閑城[松井田城 周辺城郭]
小田原北条氏、武田氏の改修が入っているとされる後閑氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1445年頃に依田忠政により築かれたとされます。
依田忠政は元々は御嶽城の城主でしたが後閑城を築いて代々の居城としました。
依田光慶は箕輪城の長野業政の11女を娶っており長野業政の同心となっていました。そして1538年には長野業政の命に従い鷹巣城に移りました。
その後、北条政時が入城し城主になっています。
しかし丹生城の新田景純と所領争いとなり、1555年に北条政時は新田景純に敗れます。後閑城は新田景純の支配となり後閑氏を名乗りました。
後閑景純は長野業政に従っていましたが、長野業政の死が近づくと武田信玄に内応し離反します。
そして1566年には長野氏の箕輪城が武田信玄により攻略されてしまいます。
その後、当主の後閑信純は武田信玄の命により上条氏を継いだともされますが定かではありません。
1582年に武田氏が滅亡すると北条高広に従い、上条氏から後閑氏に復姓しています。
同年に本能寺の変で織田信長が没すると小田原城の北条氏直に属し、鉢形城の北条氏邦の配下となります。次男・後閑重政と、三男・後閑信久は両後閑と呼ばれ厩橋城の在番を命じられています。
この頃に後閑城は、豊臣秀吉に備えて小田原北条氏により改修をされたと見られています。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めにおいて、両後閑は小田原城で籠城しており、後閑城は松井田城の大道寺政繁の支城として機能しました。
北条氏が滅亡すると後閑氏は没落し後閑城も廃城となりました。
見所
後閑川と九十九川の合流地から張り出した丘陵先端部に築かれており、現在は後閑城址公園として整備されています。
山頂の主郭を中心として四方に伸びた尾根上に郭を展開。西側は広大な段郭群が連なり、残りの三方は主郭と尾根を堀切で遮断しています。
駐車場も完備されており気軽に訪れることができます。
2023年09月29日 オチョ
松井田城
車で行く、駐車場の登り口にヤマヒル注意⚠️が、ヒル対策の農塩水のボトルがたくさんある。足に吹きつけて行くが下りで足元を見るとスニーカーにヒルが!夏場は注意、
2023年05月14日 RED副将軍
菅原城[松井田城 周辺城郭]
上州の険しい山陵に築かれた堀切と物見台が見事な隠れた名城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。在地土豪である高田氏により築かれた高田城の支城と云われます。
高田氏は、清和源氏の三代目である源頼光の系譜と云われ高田城を居城としました。
吾妻鑑にも高田氏の記述が見られ鎌倉時代からこの地を所領としていた名族です。
室町時代には、関東管領上杉氏に属し各地で転戦。
武田信玄が笠原氏の佐久志賀城に侵攻した際には、笠原氏の援軍として城内に入り落城と共に討ち死にしたという記録があります。
1561年、武田信玄により西上州侵攻が始まると抵抗するも降伏し、武田氏配下に収まりました。
1582年に武田氏が滅亡すると滝川一益、その後は北条氏直に属しました。
後北条氏配下時代の具体的な動向は不明ですが、小田原侵攻により北条氏が滅亡すると、高田氏は徳川家康に属し旗本となって存続したと云われます。
見所
標高452m山陵に築かれており、山頂と北東に伸びる尾根筋、主郭から鞍部を隔てた北西峰ピークの西郭を中心に郭が展開されています。
特筆すべきは、主郭から西郭を結ぶ尾根には鞍部に郭を設けており両側を美しく鋭い堀切で遮断しています。
主郭から北東の尾根にも二条の堀切が良く残り、先端部には堀切と土橋が配された美しい物見台がありました。
妙義山系の山城だけあってなかなか険しいですが面白い山城です。
行き方は、菅原公民館に駐車させて頂き北側から侵入するルートで入城しました。
今回は、地元の城友さんにアテンドしてもらい、公民館を管理されている方に駐車や入山の許可も取ってもらい大変助かりました。
2023年01月16日 RED副将軍
人見城[松井田城 周辺城郭]
ハイクオリティな馬出し遺構は一見の価値あり✨
プチ整形を思わせるパッチリ、クッキリです。
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。
南北朝時代に足利氏に属していた人見恩和の居城とされます。
馬出しや横堀、竪堀の組み合わせ等の縄張りに戦国時代末期の特徴が見られることからそれまで拡張、改修が為され利用されたと思われますが城主などは伝わっていません。
見所
横瀬川の比高20mほどの河岸段丘先端部に築かれています。
堀で区切った曲輪が連なる連郭式ですが、最大の見所は主郭東下の馬出しです。クッキリと土塁囲みが残存しており、かなりハイクオリティです。
宅地化による埋め立てもありますが横堀、竪堀も比較的よく残っています。
お手軽に登城できるオススメ城です。
2023年01月09日 【】修理大夫こーへー
松井田城
数年ぶりに訪城しました。大手道登城口駐車場に案内所が設置されていてパンフレット、縄張図入手出来ました。保存会の方々の整備で以前よりも城の遺構がハッキリと見学、鑑賞する事が出来ました。特にS字状空堀、連続竪堀、馬出しは必見だと思います。
2022年12月22日 RED副将軍
磯部城[松井田城 周辺城郭]
小規模ながらも技巧的な縄張りで動線萌えは必至✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
1201年に鎌倉御家人の佐々木盛綱により築城されたとの伝承があります。
その後、永禄年間の1562年頃に関東侵攻を目指した甲斐武田氏により安中城や箕輪城を攻略する最前線の拠点として改修されたというのが定説です。
若しくは小田原北条氏により改修されたとも、武田氏滅亡後に接収されたとも考えられています。
見所
碓氷川南岸の標高250mの河岸丘陵上に築かれています。比高は50mほどで城山公園として整備されています。しかし、主郭や城域西側はヤブっています。笹ヤブなので年中枯れることはありません。
やはり一番の見所は南側大手から登ると最初に目に付く三郭下、二郭下の見事な横堀でしょうか。円弧を描いた横堀に武田テイストを感じます。切岸の鋭さもかなりのもの。
至るところに横矢が掛かり、要所を堀切や虎口で防御線が張られており動線萌えをします。
主郭と二郭は高い仕切り土塁で区切られていますが熊笹で判別困難。もう少し整備が為されれば良い城跡だけに残念。
行き方は、城域南側に駐車場ならびに登城口があります。駐車場への侵入路は狭いので大型車は無理と思います。
2022年10月12日 よあ中務大輔
松井田城
クマよけの缶が適当にぶら下がっていて、叩きながら歩けた。鈴より音が大きくて安心した。ヒル注意。山に入る前に塩水スプレーがあったが空だった。靴周りにまくらしい。地元の方々が大変整備して下さっている様子。帰り際に整備に来た方にお会いした。
2022年01月27日 美海(ミミ)安房守
菅原城[松井田城 周辺城郭]
菅原城の続き 主郭〜東尾根、西側段郭
①主郭から下の郭を見る。主郭はとても狭く形式のみの印象。
②主郭下の曲輪。右手は主郭。この郭は広大で、主郭との高低差がかなりある。実質的な城の機能はこの郭に置かれていた感じ。
主郭が北側にあり、切岸がこの辺りの厳しい北風避けになっている♬
③東側尾根は急傾斜で、写真左側の城塁は急角度の岩盤。
④⑤東尾根の急角度の城塁
⑥⑦西側の段郭
東尾根は慎重目に。
この山の土質も滑りやすく、落ち葉と相まってズルっと行きやすいです。
後から思いましたか、チェーンスパイクなど装着すると滑りにくいかもしれません♬
2022年01月27日 美海(ミミ)安房守
菅原城[松井田城 周辺城郭]
菅原城 北西尾根
菅原城の3つある登城路の中で、1番楽な北側から登城しました。
国道51号のこのT字路(36.2763173, 138.7748075)を曲がり、山に向かいました。
このT字路の近く、国道51号沿いの下仁田寄りに公民館っぽい建物があり空きスペースがありますが、私有地だそうで地主さんの許可を得ないと駐車できません。
山城は道は無く、直登です。
①北西尾根の二重堀切が木々の向こうに見える。
②二重堀切の右手の堀切
③西上州の縄張に多い「1城別郭」の別郭にあたる郭の虎口
④別郭。広い削平地と北側は土塁状に削り残しがある
⑤土塁状遺構の先端。通路になっている
⑥主郭方面に続く土橋状の岩盤。
⑦⑥の側面
⑧ 二重堀切の左側の堀切
西側からの寄せ手から防御する北西の尾根は、元々の急峻な尾根に、更なる様々な防御を施していて素晴らしい遺構が見れます✨💕
堀切好きにはお勧めの尾根です♬
2021年10月29日 ノア
松井田城
本郭と二郭の間の馬出が見所です。それぞれの郭と馬出の行き来がしやすい様に、堀切が浅くなっています。馬出は兵が隠れられる様に、二郭に対して土塁が築かれています。
2021年10月29日 三日左馬助落人
松井田城
昔は藪だらけだったのが、今はよく整備されていて分かりやすい案内板があちこちにあります。熊やヒルに注意を促す内容が多く、私も足元に注意して歩きましたが、10/29早朝時点ではヒル被害はありませんでした。
熊鈴をつけた同好の方とたまたま遭遇して話がはずみ、当アプリをお勧めさせて頂きました(^^)
2021年10月21日 うっきー
松井田城
松井田駅から歩いて20分ほど。ただ城域は非常に広大であるため全て見てまわろうとすると2時間はかかります。
2021年04月16日 愛魚人遠江守
松井田城
縄張り全部を廻るとなると1日では足りないと思える程の規模です。
野性動物の棲息地に足を踏み入れると言う事を念頭に入れ、熊避けの鈴にラジオや携帯電話の音楽をかけながらヒルの侵入も防げる服装で登るのがベストと思います。
私が登った時にもヒルに血を吸われていた方が居ました。
入り口に松井田城址保存会様の管理されている小屋が有りまして、縄張り図や見学のポイント等が記載されている資料が入っていますので頂いて登ると良いと思います。
独特な雰囲気が有り、足を踏み入れるのには多少なりと覚悟が必要です。
2021年03月24日 昌幸近江守更に吉
菅原城[松井田城 周辺城郭]
関東管領山内上杉氏に仕えた、土豪高田氏の城。信濃からの武田氏の侵攻に備え、松井田城の前衛として築城された。
山内上杉氏衰退後は長野氏の下で抵抗を続けていたが、長野業政逝去後は武田氏に服属した。武田氏滅亡後は北条氏、北条氏滅亡後は信濃に移り住み、この城も廃城になったとされる。
下に通る街道へ「不審者通らすまじ」と睨みを効かせるロケーションで、城にとりつくのも難しく、上手くとりつけたとしても沢山の堀切で尾根を割っている。
リア攻めも急勾配と堀切によるアップダウンの連続で結構しんどかったです。ですが『堀切三昧』を感激できる方にはオススメですよ。
足元はしっかりした靴で登って下さい。疲労の蓄積軽減のため。
【写真の説明】
①西側からの侵入を防ぐ二重堀切
②ニ郭。ここから主郭までも沢山の堀切を越えることになる。
③主郭-ニ郭間の堀切。
④主郭直前の細尾根も切る。何という徹底ぶり。
⑤主郭から下った所にある物見のような郭。妙義山が見える。
⑥祠が多かったですね。なぜかこの祠は斜面にあった。
2021年02月12日 ゆっくり春夏秋冬
松井田城
松井田城落城の際の悲話が伝えられている、仙ヶ滝という滝があります。
松井田城はとても大きな山城であり、見所が本当にたっくさんありますが、この滝もちょっと寄り道して行く価値はあると思える場所です。
2020年12月23日 龍馬備中守【】
磯部城[松井田城 周辺城郭]
群馬県の安中市にある磯部城♪
元々は鎌倉御家人の佐々木盛綱が築城したと伝わります☆
その後戦国時代に武田信玄によって改修され西上野の「繋ぎの城」として利用されました☆武田氏滅亡後は北条氏によって接収されたと思われますが詳細は不明になります☆
城郭としては南側に大手道を入れ込み小郭を挟み登り切ると最初の三郭に入ります♪三郭の3面は横堀を廻し込みます☆三郭の南側には張り出した尾根がありこの尾根には二条の堀切を構え城郭の主要部分はココで区画します☆最高所に主郭、副郭を同列に配置してます☆2つの郭は大土塁で区間し、主郭へは虎口が開きます☆主郭は現在笹藪ですが、こちらの背面に搦手を置きます☆
副郭東側には分厚い土塁♪櫓台かな〜?
主郭、副郭の下には馬出しという看板があるのですが馬出しと言うよりは2段に構えた郭だと思われます☆この場所は主郭側の切岸から攻める寄せ手に対しての防御空間として利用していたのでしょう☆
武田好きなら1発であっ🤭って思ってしまう位に武田の特徴が存分に出た城郭になります☆上野国をヒタヒタと狙う武田氏の土木が入り込みます☆現在公園になっている為直ぐに行けて直ぐに遺構とご対面出来る素敵なお城です🥳
2020年11月16日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
松井田城
絶句です。
険しい地形を活用し、大きな土木工事を必要としないように配慮されていました。1番の見どころと言われる連続空堀は高所恐怖症の自分には無理でした。
2020年11月14日 【籠城中】下野守智ぞう
松井田城
群馬オフ会で15人で登城!
北条の山城の集大成と言っても過言ではない遺構パラダイス!!
豊臣の関東攻めで1ヶ月も持ちこたえるスゴさ!!山中城は半日で落ちたのに!
滞在時間三時間オーバーしますた!
二の丸から連続竪堀降りる方面で、ロープを使い急斜面を降りて行く為、
体制は後ろ向きでロープに身を任せゆっくり降りて行く事をオススメします✨
2020年08月12日 まー刑部卿
簗瀬城[松井田城 周辺城郭]
城山稲荷神社が城跡。駐車場はなく周辺は住宅地はあるが数台駐車可。城跡標板そばに堀跡が確認出来る。土塁は神社の周りに残存。
2020年06月26日 大隅守上
磯部城[松井田城 周辺城郭]
堀切等遺構が良好に残ってます。
2020年06月26日 大隅守上
後閑城[松井田城 周辺城郭]
城址公園になってます。
2019年02月11日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
松井田城
駐車場(入る道は狭いが停めるスペースはわりと広い)のある東側大手道登城口から登城。
群馬県では幾つもない規模の大きな山城。いくつかの尾根上に郭があり、郭間の堀切と連続竪堀、連続空堀がよく残る。
遺構には説明板があり、登城口にある見学ルートと見所ポイントの紙でわかりやすく見て歩けました。
何ヵ所か急な場所があるので軍手の用意と両手はフリー、靴もしっかりした物が良いです。
過去の写真や口コミから草の少ない時期の方が比較的遺構がわかりやすいと思います。
少し伐採や草刈りも力を入れてきたのか思ってたよりわかりにくくは無かった印象でした。
時間ある方は20分ほどで着くアプリ未登録の安中の後閑城址公園もお勧めです。
本丸廻り東西南北の段々の郭群が冬枯れの芝でくっきり。城址公園ですがそこそこの規模で良い城跡でした。
2018年02月15日 昌幸近江守更に吉
松井田城
この城はなんといっても様々な堀が見所です。
畝状竪堀・S型竪堀・郭毎を隔てる堀切等…
いかんせん整備が追いついていません。
城址保存会が定期的に草刈りを行なっていただいてますが限界があると思いますので、自治体中心の整備を切に願っています。
2016年03月06日 まー刑部卿
松井田城
昨日久しぶりに訪れました。駐車場は横川方から国道18号で行くと左手に蕎麦屋がありそこの側道を下りて左折し道なりに行くと登城口に当たり更に左折し道なりに行きますが車一台分の幅で途中まで行かないとすれ違うことが出来ませんがこの時期はすれ違うことはありませんでした。駐車場からしばらく歩くと堀切があり大手門跡に出れます。更に進むと水の手と本丸跡の表示板に出れますが左手の水の手に行くといいです。その分岐点から約300mほど歩くとあります。更に進んでいくとそのうち上っていくと枡口や安中郭の二の丸、本丸に出れます。その後下ったり上ったりで二の丸、本丸跡に進めます。駐車場に戻る時は本丸と二の丸の堀切のところに下に降りる道があるので進んでいくと門跡があるのでそこを下っていくと先ほどの分岐点にぶつかります。この時期は杉花粉が服にまとわりつくので花粉症の人にはつらいかもしれません。
2015年11月07日
松井田城
信越線西松井田駅から10分程の補陀寺裏手から登城しました。
こちらからだと松井田城の目玉と言える、土塁と堀が幾重にも連なる連続空堀に近いです。
しかし先人の口コミにもあります駐車場がある東側入口よりかなり道が悪かったのでご注意を。
城跡は全体的に藪の侵食が進んでいるので軽装だと辛いかもしれません。
また二の丸から西側の連続空堀に下りるにはほぼ崖と言える急坂を下らなければいけないので、足元もトレッキングシューズ以上をお勧めします。
しかし遺構は上記の連続空堀の他にも、大手門跡から北に延びる郭群にある連続竪堀や、多くの郭間にはっきり残る堀切等、今まで登城した山城の中でもかなり素晴らしいものでした。
山城に慣れた方だと文句無しに楽しめると思います。
また安中郭には大道寺政繁居城記念碑が、麓の補陀寺には大道寺政繁の墓があります。
2015年01月24日 志能便右京大夫
松井田城
小さい案内板を曲がって細い山道を少し登ると登城口に着きます。
そこに車数台が停められるスペースがあります。
整備されてる城趾公園のつもりで登るとキツイです。
登城コースは、細い山道や滑りやすい苔むした道がありますので、登山靴等の装備をお勧めします。
また、本曲輪から二の曲輪、連続竪堀に向かう堀切で、かなり急な所があるので、気を付けて進んでください。
倒木や枯れ葉の堆積もあり、木の伐採や下草処理もあまり行われていないようで、道が悪いです。
私自身、ゆっくり回って軽く迷いながらおよそ2時間かかりました。
2014年07月25日 三日左馬助落人
松井田城
国道18号松井田バイパスから脇道に入ると「松井田城跡弓道場」があり、そこから更に進んだところに登城口を示す案内板があります。
ただ、案内板は木で隠れていて見過ごしやすかったので慎重に見つけて下さい。
城跡の近くに駐車スペースがあって車で登って行けますが、案内板から先の道はよくないのでこれまたご注意を。
城跡からの眺めはなかなか壮観。
中仙道と城下がはるか下に見え、妙義山の奇怪な山容が拝めます。
2012年04月24日 傾奇揚げ仙兵衛
松井田城
花の慶次「焔」では何度も攻めた場所
大導寺政繁なかなか手強い