後閑城
後閑城([松井田城 周辺城郭])
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後閑城の口コミ情報
2023年10月17日 RED副将軍
小田原北条氏、武田氏の改修が入っているとされる後閑氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1445年頃に依田忠政により築かれたとされます。
依田忠政は元々は御嶽城の城主でしたが後閑城を築いて代々の居城としました。
依田光慶は箕輪城の長野業政の11女を娶っており長野業政の同心となっていました。そして1538年には長野業政の命に従い鷹巣城に移りました。
その後、北条政時が入城し城主になっています。
しかし丹生城の新田景純と所領争いとなり、1555年に北条政時は新田景純に敗れます。後閑城は新田景純の支配となり後閑氏を名乗りました。
後閑景純は長野業政に従っていましたが、長野業政の死が近づくと武田信玄に内応し離反します。
そして1566年には長野氏の箕輪城が武田信玄により攻略されてしまいます。
その後、当主の後閑信純は武田信玄の命により上条氏を継いだともされますが定かではありません。
1582年に武田氏が滅亡すると北条高広に従い、上条氏から後閑氏に復姓しています。
同年に本能寺の変で織田信長が没すると小田原城の北条氏直に属し、鉢形城の北条氏邦の配下となります。次男・後閑重政と、三男・後閑信久は両後閑と呼ばれ厩橋城の在番を命じられています。
この頃に後閑城は、豊臣秀吉に備えて小田原北条氏により改修をされたと見られています。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めにおいて、両後閑は小田原城で籠城しており、後閑城は松井田城の大道寺政繁の支城として機能しました。
北条氏が滅亡すると後閑氏は没落し後閑城も廃城となりました。
見所
後閑川と九十九川の合流地から張り出した丘陵先端部に築かれており、現在は後閑城址公園として整備されています。
山頂の主郭を中心として四方に伸びた尾根上に郭を展開。西側は広大な段郭群が連なり、残りの三方は主郭と尾根を堀切で遮断しています。
駐車場も完備されており気軽に訪れることができます。