坂本城(さかもとじょう)
坂本城の基本情報
通称・別名
- 城の峯城
所在地
- 群馬県安中市松井田町坂本1671他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
松井田城(群馬県安中市)[8.2km]
安中城(群馬県安中市)[17.0km]
里見城(群馬県高崎市)[18.6km]
志賀城(長野県佐久市)[19.3km]
富岡城(群馬県富岡市)[19.6km]
御影陣屋(長野県小諸市)[21.7km]
大井城(長野県佐久市)[21.9km]
箕輪城(群馬県高崎市)[22.6km]
平賀城(長野県佐久市)[22.7km]
国峰城(群馬県甘楽郡)[22.8km]
坂本城の口コミ情報
2024年01月08日 マグロ常陸介祐平
原城[坂本城 周辺城郭]
高崎市の文化財に指定されている城で、説明板には濠で南北三つに区切られた並郭式の小規模な岸端城と簡単な内容ですが、先人様の口コミ通り、空堀はお城の規模に似合わず大変な土木量です。
地元豪族の長壁道観が斎藤道三の末流の賓将斎藤半兵衛竜政と築いた城とされているようですが、夢のある伝承ですね。
斎藤家の墓地が最東方にあるとのことですが、牛舎の奥にあるため見ることが出来ませんでした。
2021年06月13日 真田上野介信吉
小栗上野介忠順の墓[坂本城 寺社・史跡]
譜代の旗本に生まれ、遣米使節として米国~世界一周の旅から帰国すると外国、勘定、江戸町、歩兵、陸軍、軍艦、海軍各奉行を歴任。幕府の要職にあって米国での見聞を基に日本近代化の方策を実行に移し、横須賀造船所建設、仏語伝習所や日本初の株式会社兵庫商社の設立、仏式軍隊の導入訓練、滝野川反射炉による大砲製造のほかガス灯・郵便制度・鉄道・新聞発行を提唱するなど幕末の多端ななかに活躍、『明治の近代化は小栗の敷いたレールの上になされた』といわれる業績を残している。
幕府崩壊後、移り住んだ領地権田村で、上野介、塚本真彦・荒川祐蔵・佐藤藤七とアメリカ帰りの四人が若者の教育を目指した。しかし、小栗公の実力を恐れた西軍により小栗父子は家臣とともに無実の罪で斬首された。
ー群馬県高崎市倉渕支所発行のパンフレット(小栗上野介顕彰会編集)よりー
6月8日リア攻めマップに投稿の『小栗上野介屋敷』から、国道406号を北上すること約1キロに墓所(東善寺)はあります。
東善寺にて本墓、供養墓参り。また併設の遺品館、寺院内において史料の見学(100円)が出来ます。
国道406号界隈は興味深い城郭や史跡に溢れています。様々な時代に想いを馳せ、リア攻め、墓参、見学等されてみては如何でしょう。
2021年06月10日 真田上野介信吉
原城[坂本城 周辺城郭]
中世末期に雨堤の豪族長壁道観が賓将斎藤半兵衛竜政(斎藤道三の末流)と築いた館城といわれている。
濠で南北3つに区切られた並郭式の小規模な岸端城である。北郭がもっとも広く南北40㍍、幅15㍍ほどである。
西南に堤、東方に馬場や居住地などの跡があり、最東方に斎藤家の墓地がある。
ー説明板(旧榛名町教育委員会)よりー
群馬県高崎市(旧榛名町)にある原城。群馬の原城は斎藤道三末裔所縁の城郭です。
国道406号『三ノ倉落合』の信号から県道122号を榛名山方面へ。雨堤の砦の切通を過ぎると『雨堤』のバス停が左側にあり、これを左折し細道を進むと2軒の民家の間が原城の登城口となります。車1台分でしたら停めておけますが、民家の方に断りを入れた方がよいでしょう。おばあちゃん親切でしたよ。
この城の特徴は、城の北から西へ流れ込む川を最大限利用したことにあり、北側から引き入れ主郭(説明板では北郭)をぐるりと囲むように水堀としました。現在は空堀の為堀底を歩けます。水堀としたことで10㍍級の深さはダイナミック。圧倒されてしまいます。
居館(中屋敷)や馬場跡とされる区画は田畑として現在も利用。往時のままの区画を限りなく利用しているのではないかと推察します。
土塁もしっかり残っており、平城格の城郭として見られる遺構は素晴らしいものばかりです。
ただ残念なのは、写真からも分かる通り主要郭は全て未整備の激藪。冬枯れ物件となります。
西上野は、武田信玄の侵攻を許してしまいましたが、その影響で技巧的に仕上げられた城郭が多く存在します。箕輪城を中心に廻ってみては如何でしょうか。
2021年06月08日 真田上野介信吉
小栗上野介屋敷[坂本城 周辺城郭]
『観音山小栗邸跡』
小栗上野介忠順は、江戸幕府の要職を免ぜられ、慶応4(1868)年3月1日、家族、家臣とともに権田村に隠棲した。当初は東善寺を仮住居とし、ここに住宅の建設を始めた。宅地の造成、用水路、田畑の開発を行い、そして3棟の住宅建築にかかり50余日で、間口12間、奥行き7間半総2階の主屋1棟が上棟のはこびとなった。小栗日記によるとこれは4月28日のことである。
ところが、翌29日から事態が急変し、江戸城総攻撃のため薩長の東山道軍が高崎を通過の際、小栗に謀反の意志ありとして配下を差し向け、ついに翌月閏4月5日高崎・安中・吉井の3藩に命じて小栗を捕らえ、一言の取り調べもなく翌6日(太陽暦では5月27日)烏川の水沼川原で家来3人と共に斬首した。
完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。
邸跡には礎石など残り、水路は今も利用されている。
ー説明板(旧倉渕村教育委員会)よりー
群馬県高崎市(旧倉渕村)にある小栗上野介屋敷跡。ネットの情報等、また実際にリア攻めしてみて、これは城郭であると思い、スポット設定に際し周辺城郭を選択しました。
国道406号沿いに『小栗上野介屋敷跡』の標柱がありますから見落とさないようにしましょう。標柱からは、数分間2㍍幅の極狭の道に耐えてください。開けたところに駐車場が待っています。
何故城郭と感じるのか?
駐車場の裏は『馬場跡』の案内。これを進むと武者溜まりであるかのような広い空間。馬場は30㍍X30㍍で仕切りの土塁。また馬場の東側は観音山用水となっていますが、これはどう見ても堀。この用水路の起源を辿るべく北上すると、要害性の高い地形、急斜面が形成されていました。
邸跡は2段下の区画で、パッと見は何処なのか全く分かりません(※案内板は設置してあります)。基本的には敷地全体が山中にあり、要塞・籠城を思い浮かべることでしょう。
国道406号を北上すること約1キロに仮住居、現在は本墓・供養墓のある東善寺です。ここには多くの史料があり、100円で見ることが出来ます。屋敷跡を散策しながら往時に想いを馳せ、墓参と史料の見学は、周辺城郭のリア攻めに含めて廻られることをオススメします。
2021年03月20日 昌幸近江守晩秋リア旅
碓氷峠城[坂本城 周辺城郭]
2017年に新聞報道のあった、北条氏征伐の折の北国街道勢の陣城に行ってきました。
北国街道勢は前田利家・上杉景勝・真田昌幸など錚々たるメンバーの中、この陣城は上杉勢のものだったのではないかとのことです。
遺構の明瞭度は残念ながら低めです。
元々、東山道(江戸時代は中山道)沿いに位置するので、戦国期以降も何かしらに利用されたでしょうし、土質も影響していると思います。
ですが前田も上杉も真田も、ここから大道寺政繁率いる松井田城を攻略しに行った…
「浪漫度」はかなり高めだと思いませんか?
【写真の説明】
①堀切。これで明瞭に残っている方です。
②堀切を挟み、奥の郭を見る。
③旧中山道側にある桝形虎口(左奥が虎口内)
④旧中山道は横堀だった可能性あり?
⑤連続竪堀
⑥連続竪堀の一条を上から。
⑦郭間の大きめな堀切。
⑧土塁。右奥へ向かって堀切が入る。
2021年03月13日 真田上野介信吉
大明神山の砦[坂本城 周辺城郭]
この砦は別名『駒形城』ともいい、戦国時代後期の築城で、真田昌幸が北条勢の侵攻に備えて築かせたもので、のろし台としての役割をもっていたものであるという。
ー主郭設置の説明板よりー
群馬県高崎市倉渕町(旧倉渕村)にある大明神山の砦。岩櫃城からは約13キロに位置します。
麓の浅間神社裏に遊歩道の案内板があり、そこから主郭まで250㍍、約20分とあります。
遊歩道に入ると、いきなり岩盤が聳り立っています。物凄い迫力に圧倒されるところからのスタート。道中は柵にチェーンが張られているので、落ち葉で滑ることがあっても大丈夫です。
登っていくと急斜面に腰郭、その上に主郭を見上げます。広い平場まで登ると、眼下に倉渕の町並みを見下ろします。
この平場からはほぼ全体が見渡せますが、パッと見は四重堀切の様相。
先ず小郭に行きました。この小郭には二重に堀切を設けており、ただの砦にあらず。別名にもある通り城郭です。
主郭と2郭にはやはり二重に弧を描くように堀を設け、主郭側は北側の崖まで、2郭と小郭側の堀切は竪堀となり落ちてゆきます。
主郭虎口の斜道から見下ろした2郭は馬出し的な役割(写真下段③)。
狼煙台は主郭北東隅にあったのではないかと想像するような形状で、この方角は岩櫃城方面となります。その場所に、ひょっこりと現れたニホンカモシカ。運が好ければ出会えます。
国道406号から道一本中に入った道路沿いに浅間神社。道路反対側に3台分の駐車スペースがあります。
真田氏と後北条氏の境目は西上野にもありました。大明神山の砦から岩櫃城へのリア攻めもまたオススメのコースとなりましょう。
2016年11月17日 日高守きこりん
坂本城
坂本ダムの堤体を見下ろす山の上に築かれた城で、非常に険しい要害です。
坂本ダム(碓氷湖)の駐車場から遊歩道を行き、対岸に見える赤い橋(現在工事中で立入禁止)の手前から尾根を直登すると、城域の尾根のはずれにある浅い堀切の辺りに取り付けます。道のないかなりの急斜面で、細かい軽石で滑りやすいので若干危険ですが、登りきってしまえば、なだらかな尾根を歩きながら、良好に残る堀切や段郭などの遺構を楽しめます。
最高所の郭からは碓氷湖を見下ろし、遠くにめがね橋(碓氷第三橋梁)をのぞむ絶景が見られます。城山も周囲の山も一面の紅葉で、素晴らしい雰囲気でした。とりわけ秋がオススメと言えると思います。