大井城(おおいじょう)

大井城の基本情報

通称・別名

岩村田館、(王城、黒岩城、石並城)

所在地

長野県佐久市岩村田字古城3444-1他(王城公園)

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

大井朝光?

築城年

承久3年(1221)?

主な改修者

主な城主

大井氏

廃城年

天正10年(1582)

遺構

曲輪、堀切

指定文化財

県史跡(大井城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

根井氏館(長野県佐久市)[3.0km]
御影陣屋(長野県小諸市)[3.3km]
志賀城(長野県佐久市)[5.0km]
岩尾城(長野県佐久市)[5.3km]
伴野城(長野県佐久市)[5.6km]
平賀城(長野県佐久市)[5.9km]
小諸城(長野県小諸市)[8.3km]
龍岡城(長野県佐久市)[8.9km]
望月城(長野県佐久市)[10.6km]
長窪城(長野県小県郡)[19.2km]

大井城の解説文

大井城(おおいじょう)は、長野県佐久市岩村田にあった日本の城。

歴史・沿革
大井城は佐久市岩村田の東北部に湯川の断崖に沿って、北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城の三城からなり、清和源氏小笠原長清の七男、清和源氏小笠原流大井氏の祖、大井朝光が大井庄地頭としてこの地に居を構えて(「四鄰譚藪」)以来、文明16年(1484年)に落城するまで、佐久郡東北部を中心に勢力を振るった大井宗家の本拠地であった。

弘安2年(1279年)、二代城主大井光長は創建した大井荘落合の新善光寺に、大檀那として梵鐘を寄進した。また、「一遍上人絵伝」に描かれた大井太郎(光長)の館が、どのあたりにあったのかは定かでない。 建武2年(1335年)中先代の乱が起こり、足利方についた四代城主大井朝行(行時)は、東山道を進む朝廷軍一万余を佐久郡で迎え撃ったが、(「於大井庄合戦」(「忽那(くつな)文書」など))奮戦数日の後、ついに落城した。

その後、大井城は復旧し、五代城主大井光長(光栄)は信濃国守護代を勤めた。 その子の六代城主大井光矩は応永7年(1400年)の大塔合戦で守護小笠原長秀と国人衆(大文字一揆)の仲介をして、敗走する小笠原長秀を救った。

次の七代城主大井持光の代には大井氏全盛期となり、繁栄期の大井城下は「応永年中、大井越前守(持光)、関東管領足利持氏公に仕えて武功三軍に出たり、したがって大井の城も盛大なり。」「民家六千軒、交易四達し、賑い国府(松本市)にまされり」(「四鄰譚藪」)、真光寺、龍雲寺、その他の寺社が立ち並んでいた。持光時代の所領は六万貫といわれ、伴野氏、望月氏等の領地を除く北佐久郡のほとんどを領し、上州、武州にも所領を有し、京都参勤には1千騎を率いたといわれる。 永享10年(1438年)に永享の乱が起こり、大井持光は足利持氏の遺児永寿王丸(後の古河公方足利成氏)を安原の安養寺に庇護した。(「足利系図」) 次の八代城主大井政光の代には文明4年(1472年)に甲斐に侵攻、文明9年(1477年)には甲斐勢が佐久に侵攻したが、これを打ち破っている。(「妙法寺記」)

次の九代城主大井政朝は文明11年(1479年)に佐久郡の伴野氏との戦いに大敗し、大井政朝は生捕りとなり、大井氏執事相木氏が討死する。弟の十代城主大井安房丸に代替わりした文明16年(1484年)、更級・埴科両郡から小県郡に勢力のあった村上政清が大軍を率いて佐久に攻め込み、大井城は焼け落ち岩村田城下は一挙に灰燼に帰した。城主大井安房丸は小諸に逃れ、大井朝光が大井城に居城してからおよそ二百六十余年、城は落ち岩村田大井宗家もここに滅亡した。

大井宗家は滅びたが、岩尾、耳取、芦田、相木などの一門、家臣の所領は存続して、大井城主(岩村田城主)には長窪大井氏の大井玄慶(安房丸の子、政信)が継いだ。 天文12年(1543年)、岩村田城主大井貞隆は甲斐の武田信玄に攻略され長窪城に追われた。 天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、岩村田城主大井雅楽助は徳川家康麾下の依田信蕃に下り、城を明け渡した。 大井城の遺構は元文年間(1736-1741年)に書かれた「四鄰譚藪」に記述があるが、現在は殆んどみるべきものが残っていない。主郭部は王城公園となり、県天然記念物の大ケヤキがある。

参考文献
『日本城郭大系』 第8巻 長野・山梨 1980年 笹本正治『川中島合戦は二つあった』1998年 田辺久子『上杉憲実』1999年 坂田祐樹『関東公方成氏』2004年 大井信 『大井氏ものがたり』2005年 大井敏夫『岩尾家譜(現代語訳)』1996年

大井城の口コミ情報

2021年11月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
浅井城[大井城  周辺城郭]



浅井城は大井城の南東約2.8km、香坂川西岸、標高約705mの河岸台地上平場に城域が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方は…誰も行かないと思うのでリア攻めマップを参照して下さいまし。群馬県道・長野県道44号線沿いに立地していますが、こんなん文章で説明出来ませんわ…

築城年代、築城者は不明です。てか長野県町村誌にも記載が無く里伝も無いらしいです。ただ古図には「浅井城、小林右近住」とか「永弐百貫文、安原小林右近介」とか記載があるらしく、少なくともお城の存在は近世までは認知されていたと思われます。ちなみに何で浅井って呼ばれるのかも不明です。

従って…最初に断っておきますが、お城の位置も縄張もあくまで推測に過ぎません。信濃のお城の神も今に残る現況から判定したんでしょう。ただ素人目にも行ってみりゃ「確かに〜」等と何の考えも持たずに軽い気持ちで呟けると思います。

お城の現況は雑木林、耕作地、住宅地等となっています。耕作地はともかく、一般住宅なんかは削平されていない凸凹地形の平場に建っていたりなんかして、ひょっとしたら往時の縄張地形そのままなのかなとか想像出来たりします。ただ神に抗う気持ちは毛頭ありませんが、主郭の位置には少し疑問を持ってしまいます。何れにせよ改変を多く含んでいると思われるのではっきりした事は永遠に判らないでしょう。又、城域北辺には浅いですが堀形が残っていたりなんかもします。

写真はそれっぽく撮りましたw堀切様、虎口様のものなんかは後世の改変で明らかに違います。自分が推測する主郭位置は城域南端の高台なんですが、此処にはちょっとした削平地に墓石と祠が鎮座していました。これを見るのにちょっとした痛い藪漕ぎを敢行しましたが、よく見りゃ道が付いてるじゃねーか…まぁ主郭じゃ無くても櫓台にはぴったりな感じです。

城友さんとメインのデザート感覚で訪ねてみましたが、デザートと言うよりは漬物みたいな感じです。勝手に来られて文句たらたら言われても困るから早く帰れって事なんでしょかね。マニア向け。

2021年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
馬瀬口城[大井城  周辺城郭]



馬瀬口城は大井城の北方約5.8km、標高約820mの台地上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方は…リア攻めマップのみで行けると思います。国道18号線と長野県道134号線が交差する馬瀬口交差点で県道を北上すれば辿り着けるでしょう。ちなみに付近に目標となるものは一切ありません。

築城年代、築城者は不明です。里伝すら無いらしいのですが、馬瀬口と言うからには官制の牧場、塩野牧に関係するものなんでしょか。又、繰矢川が城域外南側を流れているので付近は渡渉場の一つだったとも想像出来ますね。

城域は平成に入り台地の西側部分で断崖を崩す工事と採土が行われ、大きく旧態を損ねています。通称3郭の半分と通称4郭の全ては失われた事になります。

お城の現況はほぼ耕作地となっています。信濃のお城の神も城域の判定や主郭の特定には悩んだようで、広大な台地上の全てを城域とするには無理があるような気がします。又、長野県道134号線から城域に入るには切り通しの舗装路を登って行きますが、この切り通しは堀跡とされ城域内に残る唯一の明確な遺構となります。

信濃のお城の神も御自身の描かれた縄張図には疑問を呈している事でしょう。お城は台地上に登るよりは周辺から田切地形の要害感を楽しむ方がよっぽど面白いと思います。さもないとキャベツを収穫中の農家の方から車が邪魔だとお叱りを受けるはめにもなったりしますね。マニア向け。

2021年11月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
谷地城[大井城  周辺城郭]



谷地城は大井城の北東約5.3km、標高約821mの台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている城域内に建つスナックとまとを目標に設定して下さい。ちなみにお城はしなの鉄道線の御代田駅南東側に立地していて、駅近であるという点では福山城や屋代城と肩を並べる事が出来ると思っています…

築城年代は不明ですが、築城者は小田井又六郎の嫡男、市村弾正と伝わります。小田井氏の滅亡後、弾正は三河国渥美郡市村に逃れて市村氏を名乗りました。天正壬午の乱に際しては北条氏に従い旧領回復を図りますが、依田信蕃に敗れて討死、北条氏は弾正の武勇を惜しみ弾正塚と呼ばれる塚を築きましたが現在は消滅し今は跡地に石碑(探したけど見つからず…)が立つのみとなっています。

お城の現況は概ね住宅地となっています。遺構は消滅、往時の地形すら大きく改変されていると思われるので見るべきものは全くありません。なので弾正の武勇を惜しみましょう。

佐久平におけるリア攻めもよい所を必死に探し出そうとしたりして個人的には結構楽しめるんですが、流石にこれには降参ですわ…何だか幼い頃に自分を捨てたヤクザな親父が片田舎で堅気になって新しい家族を持って幸せな家庭を築いているのを探し出した時に、親父に「そっとしておいてくれ…」と言われた様な感じって言うんですかね、触れなければよかったと一生後悔する気持ちですわ…お城は訪ねてみても仕方無いレベルだし、谷地城の方も「ほっとけ!」みたいな気持ちだと思うので知らんぷりするのが正解です。

個人的に谷地と言えば、おいらを仕事上でイラつかせてくれた谷地君をどうしても思い出すんです。決して当人に問題がある訳では無いんすけど、こんなに信号運の悪い男に出会った事が無い…早く会社に戻りたいのに信号は全て赤…何度か首絞めましたが挙句の果てにはおいらのせいにするという…リア攻め中はそんな谷地君の顔を思い出して少し懐かしい気持ちになりました。あの頃は楽しかったぜ。

2021年11月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
長倉城[大井城  周辺城郭]



長倉城は大井城の北東約3.8km、久保沢川の西岸、南方へ小さく張り出す標高約774mの狭小な舌状台地端部上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている小田井城を目標に設定して下さい。お城は小田井城の西側、久保沢川の峡谷地形を挟んで隣りにあります。長野県道137号線に掛かる小田井橋を渡ると県道脇に小さなパソコン教室が建っており、更にその南西側に建つ納屋を過ぎれば城域に入ります。

築城年代は大永年間(西暦1521年〜1528年)、築城者は小田井吉六郎副親と伝わり、小田井城の支城として整備されました。城主としては長倉猿助の名が伝わりますが、天文十三年(西暦1544年)、武田氏の小田井城攻めに際して落城、長倉猿助は討死しました。

お城は紹介例が少なく(城域を南端まで廻れていない。)全く期待してなかったのですが、久しぶりに萌えたさ〜信濃のお城の神の縄張図にも懐疑的だったし、鋭過ぎる田切地形故に城域南側は崩落してるんじゃないかとさえ思ってました。

狭小な田切地形を活用しているんですが、本当に狭い。通称2郭はそれなりの面積の削平地(現況耕作放棄地、藪です。)ですが、城域南端に向けてボトルネック的に幅員が狭まり、人一人がやっと通れる程度の土橋で主郭と連絡、この土橋は二重堀切(城下より低い位置に残る…珍しい穴二重堀切w)に掛かります。主郭(信じられない事に断崖に向けて虎口様の窪みがあるが…)はある程度の面積の削平地、主郭は東辺で絶壁、西辺と南辺で断崖となって城域は終わります。少数で主郭は守れると思いますが、逆に言えば少数で城域北側を抑えられれば出ても行けなくなる訳でして…本城から見たら兵力を分散させてしまう以外に何の役にも立たないような…本当に友達(支城)なんか?ちなみにレアな逆心郭て呼ばれる縄張らしいっすね。

城域の東辺は所々でマイナス角、落差約30mの目も眩むような絶壁で落ちたら即死間違い無し…西辺も落ちれば重篤な状態に陥る事でしょう。こんなのが宿場町の東端に残っているなんて!小田井城の二重空堀にも驚愕しましたが、これにもびっくりさせられたぜ〜ただ安全の担保は全く取れないし、完全私有地(…後で気付きましたわ…)と思われるのでお勧めはしません。

2021年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
長土呂館(陣城)[大井城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

長土呂館(陣城)は大井城の西北約1.7km、標高約711mの台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。長土呂は大井光長の二男、弥次郎光泰が館を構えた事が伝えられていますが、後には「大井庄内長土呂郷、薩摩五良左衛門尉」の記述が文書から確認出来る事から薩摩氏との関係性が指摘されています。同氏は藤原南家、工藤氏の庶流で、子孫が薩摩守に補任された事から薩摩の姓を名乗り、同地方における鎌倉幕府の有力な御家人の一つとなりました。又、埴科郡坂城郷の地頭であった事が文書から確認出来ます。中先代の乱で薩摩氏は没落し長土呂は大井氏による再支配を受けたものと推測され、従って館の主はこの何れかになると思われますが、昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。佐久市誌歴史編にこの辺りの経緯が詳しいと思われるんですが、中古で五千五百円なんで悩んでます…

居館の現況は写真のとおりです。大正時代まで土塁の残滓が残っていたようなんですが平げられた感じですかね。敷地内には段が付いてましたが後世の改変かもしれません。

隣りにある長土呂公会場では衆議院議員選挙の投票が行われてました。投票を呼び掛けられて困惑しましたが、投票を促す呼び掛けは選挙違反にはならない事を後に知りました。昔やらなかった分、勉強の毎日ですわ…

2021年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
戸谷城[大井城  周辺城郭]



戸谷城は御影陣屋の東方約1.7km、標高約763mの台地上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている三協運輸(株)を目標に設定して下さい。主郭は現況この運輸会社の敷地となっています。

築城年代は大永年間(西暦1521年〜1528年)、築城者は小田井吉六郎副親と伝わります。小田井氏は小田井城(尾台城)を本城とし、その支城として金井城、戸谷城、長倉城を持分としていたと推測されています。

お城の現況は前述のとおり主郭は運輸会社の敷地で事務所と駐車場が、通称2郭と通称3郭は雑木林、竹林、耕作地等となっています。主郭と通称2郭を隔てる空堀様の田切地形は埋め立てられずに残っています(藪だけど…)し、通称2郭と通称3郭を隔てていた空堀の残滓が短いながらも竪堀として城域外西側田切地形底部から確認(藪だけど…)出来ます。又、通称3郭の北端は空堀で城域を断ち切っていたと思われますが、空堀は現況舗装路として名残を留めています。

城域内に足を踏み入れても全くお城が入って来ないので城域外西側の田切地形底部を歩きましょう。「なるへそ〜」等と呟いて納得される方が50人に1人位の割合で現れるかもしれません。マニア向け。

2021年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
曽根城[大井城  周辺城郭]



曽根城は大井城の北方約2.5km、濁川の蛇行点西岸、標高約755mの河岸台地東辺上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明です。神津氏なる氏族に関係するお城とも伝えられていますが、昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。たぶん同じ大井城のリア攻めマップにある曽根新城とは何の関係もありません。又、曽根城遺跡として発掘調査も行われていますが、これは曽根城周辺に点在する様々な時代の遺跡群の総称なんでお城は三の次、いやもっとかな…ぐらいの扱い(自分もまともに読んでません…)です。

お城の現況は主郭に一般住宅、他は耕作地となっています。主郭周りには浅いながらも空堀の一部が残っているそうなんですが、完全に住宅敷地内にあるので探索は断念しました。通称2郭には横矢が掛かる段が設けられている他、城域北辺には浅く幅広な空堀が残っています。が、地形図を見るとその左右に残る田切地形の延長とも思われ、逆に後世埋め立てられたようにも考えられますね。マニア向け。

※写真を撮ってたら近所の人達が遠巻きにしてこちらを見ている…辛くなって敗走しましたわ…

※ちなみに2回目のトライ、前回訪問時は資料を忘れてしまって城域を勘違い…お城の南側に位置するモーテル形式の大人しか入らない宿泊施設の敷地内を探索したり写真を撮ってました。興味を持たれた方は写真送りますので伝言して下さいまし。

2021年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
曽根新城[大井城  周辺城郭]



曽根新城(そねあらじょう)は大井城の北西約1.3km、濁川南岸、標高約736mの河岸台地上平場に城域が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城でした。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域は改変著しく遺構は消滅、地形すらもほぼ平げられているのでその手のマニアでも無理でしょう。

築城年代は不明ですが、築城者は依田信蕃の嫡男、依田康国と伝わります。徳川家康は天正十一年(西暦1583年)三月、岩尾城攻めで討死した信蕃の功績を大とし、その子に「康」の偏偏と松平姓を与えて元服させ、小諸城主、佐久郡六万石(外様とはいえ、当時の徳川氏家臣団とは比べ物にならない大身だ。)の領主として取り立てました。しかし天正壬午の乱後の佐久郡は安定せず、一揆が起きる等不穏な情勢だった事から、その備えとして曽根新城は築かれました。

お城は比較的小さな田切地形を利用した縄張だったと推測されていますが、田切地形の凹部は殆ど埋め立てられていて見る影もありません(それらしきものが少しだけ確認出来るが…)。曽根新城遺跡として発掘調査も行われていますが、これは曽根新城周辺に点在する様々な時代の遺跡群の総称なんでお城は三の次、いやもっとかな…ぐらいの扱い(自分もまともに読んでません…)です。スーパーマニア向け。

※交通量の多い岩村田北交差点周辺で写真撮るの凄く恥ずかしかったわ…

2021年10月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田井城(尾台城)[大井城  周辺城郭]



小田井(尾台城)は大井城の北東約3.6km、久保沢川と井戸沢に挟まれ、その合流点に向けて南方へ張り出す標高約774mの舌状台地端部上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代は大永年間(西暦1521年〜1528年)、築城者は小田井吉六郎副親と伝わります。お城は天文十三年(西暦1544年)、板垣信方の猛攻を受けて落城、小田井又六郎以下将士は全て討死しました。天文十六年(西暦1547年)志賀城攻めの最中に武田氏と関東管領家上杉氏との間で行われた小田井原の戦いの場は正にこのお城の西方でした。天正壬午の乱の際には北条氏の支配が及び、天正十年(西暦1582年)、依田信蕃によって小田井城は落城、廃城となったようです。

お城は舌状台地上をフル活用していて、極めて広大、起伏も殆ど無く耕作地にぴったり。各郭間はそれぞれ長大な空堀や段で区画されています。城内には摺鉢状の井戸なんかもあるようですが、現況たぶん作物の下敷きとなっています。空堀は整地に伴う改変で埋め立てられた箇所もありますが、縄張図と見比べてみても結構残っているとは思います。

ひら〜っとした台地上ではありますが、台地の端に行けば此処にお城を築いた理由がよく解ります。台地の東西南辺は田切地形の垂直の断崖でその落差は深い所で30m位はありそうです。はっきり言って誰も登って来れないし落ちたら死にますわ…従って地形上、城域の北側のみが城下と唯一連絡を保っているのですが、城域北辺に設けられた長大な空堀でこれを見事に堀切っています。空堀の中央部分には土橋が残っており、その土橋から西側部分の空堀は中央に中土塁を配した二重空堀で、この二重空堀のアンビリーバボーな端末処理には誰しも驚愕する事間違い無しでしょう。岩盤層を切削したと思われる突飛な中土塁の延長は端末へ延びる程高くなり(空堀はやや下る。)、二重空堀の行き着く先は田切地形の垂直の断崖…+竪堀の延長なんか必要ありません。こんなん初めて見たわ…

初見は長閑なお城ですが、隠れた部分に凶悪な一面を垣間見せてくれます。中山道の宿場町、小田井宿に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
平尾氏館(白岩城)[大井城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

平尾氏館(白岩城)は大井城の東北約1.9km、湯川の東岸、標高約742mの河岸台地西辺端部上平場に存した居館です。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれた居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。館の敷地は南北に長く、南側は佐久市立平根小学校を越え、北側は台地上北辺の墓地までが推測されています。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは依田氏の庶流、平尾氏です。平尾氏は小県郡の依田氏の者が大井氏に従属して佐久郡平尾に還住し地名を取って平尾を姓としました。平尾氏初代の為泰は宝徳〜享徳年間に居館を築き、以来五代約140年間に渡り同氏の本拠となりました。同じ大井城のリア攻めマップにある平尾城はこの居館の詰城、要害城となります。

平尾氏は天文十三年(西暦1544年)に武田氏に服し、永禄二年(西暦1559年)に一時的に平尾を退去して松井田城の客将となりました。同城は後に失陥しますが、赦されて平尾の地に戻り、三代守芳は天正三年(西暦1575年)に同地の平尾大社本殿の再建を行いました。天正壬午の乱に際しては同族の依田信蕃に従ったようで、子孫は上野国藤岡と武蔵国の一部に所領を得た信蕃の次男康勝に従い藤岡に移ったようです。

居館の現況は雑木林、耕作地、墓地、住宅地、佐久市立平根小学校、佐久市立平根児童館等となっています。主郭の位置は児童館北側の耕作地と推測されており、此処には小さな祠が鎮座、何か意味ありげですね。発掘調査の結果、少なくとも主郭は東南北辺を堀とし、その内側を土塁とした方形の縄張で、その東辺の堀、現在長野県道156号線が南北に走る部分は城域全体で城下と隔てる役割を担い、主郭の東側には土橋が設けられてその連絡が図られていたようです。ちなみに難しい感じで説明しましたが、行ってみりゃ殆ど畑地の印象ですわ…

小田原征伐の際に平尾氏館は前田利家率いる北国勢により平定された事から佐久郡東部はどうやら北条氏支配領域の西端だったようです。三河物語にも「平尾の屋敷城」の記述があるらしく居館の割には意外にも文献に登場しています。実は2回目のお宅訪問、素晴らしい詰城の平尾城とセットで皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年10月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
金井城[大井城  周辺城郭]



金井城は大井城の北東約2.8km、湯川の北岸、標高約758mの河岸台地南辺端部上に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城域は主郭がマレットゴルフ場に改変されている他、北陸新幹線の軌道建設(城域はこれにより南北でばっさり断ち切られている。)、各種工場建設等により台地上地形が大きく損なわれ(それ以前に元々改変を受けていた土地だったらしい。)ています。

築城年代、築城者は不明です。実は歴史的に謎に満ち溢れたお城でして、周辺地域に金井の地名は無く、何でこう呼ばれるのか解りかねます。前述の開発行為に伴い事前発掘調査が行われており、その結果によるとかなりの規模のお城であった事が伺い知れ、お城の築城者は大井氏のみならず、関東管領家まで視野に入れる(立地は西上野に通じる。)べきなのかもしれません。が、最盛期の大井氏なら築城は容易だったと思います。

お城は主郭周辺しか残っていない事になります。マレットゴルフ場建設により地形が改変されている可能性が高いですが、地形を生かしたマレットゴルフ場とも考えられますね。まぁどっちでもよいですわ…ただ主郭の西側に空堀と竪堀の残滓が残っています。

訪問時には城跡でプレイに興じる仲良さげな老夫婦の姿が…お城はインフラ整備により大きく失われましたが、残念ではあるけど個人的には仕方の無い事だと思います。後世の人々がその恩恵を受けている訳だし、地域や地方が前進する一助となっているのだから…お城マニア(極少数の者達w弁えようぜ…長い目で見ればお城が後世辿った変遷もその城歴の一部でしかない。)のエゴをそのまま行政や開発事業に反映させる事なんて出来ないでしょう。発掘調査を実施して極めて精緻な結果を残した佐久埋蔵文化財調査センターには感謝しましょう、その結果については「金井城跡」として調査報告書がネットで簡単にダウンロード出来ます。が、そこに添付されたお城の想像図を見ると…やっぱり勿体無いやw

2021年10月12日 ビン太
大井城



現在は公園になってます。入口はスロープないし階段になりますので車輪は入れません。公園自体は綺麗なのでひと休みには丁度いいと思いました。

2020年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
平尾城[大井城  周辺城郭]



平尾城は大井城の東北約2.9km、標高約948mの秋葉山山頂に主郭が存します。西麓からの比高は190m位でしょか。

築城年代は永正年間、築城者は依田氏庶流の平尾氏で、同氏は大井氏に従っていましたが、大井氏宗家が村上氏によって滅ぼされると国人領主として独立、その後は武田氏被官時代を経て最終的には依田氏の家臣として上野国藤岡に移って行きました。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の守芳院を目標に設定して下さい。このお寺さんの東側には市道が南北に走っていますが、市道から守芳院への進入路脇に「守芳院入口」の看板が立っていて、この看板から南方約50mの場所に山に入る階段が付いており、これが登城路入口となっています。お城は主郭からY字に、北西尾根、南西尾根、東尾根が延びており、このルートは北西尾根を登って主郭を目指すことになります。階段を登るといきなり道がありませんが、見通しがよく適当に登っても城域に辿り着く事が出来るでしょう。

お城は素晴らしいっす。北西尾根、南西尾根は段郭を連ねて要所を堀切でぶった斬り、岩盤や巨岩を上手く利用して郭を形成するところなんかは佐久東部スピリット?に満ち溢れています。又、南西尾根には殆どが岩盤の堀切とかあって萌えまくること間違い無し。主郭部は4段あって綺麗に削平されており、土塁や石積みも確認出来ます。通称2郭には変わった虎口があり、通称2郭と通称3郭の間には見事な堀切を兼ねる横堀があって両郭を隔てています。主郭部東側山側背後は大堀切、ただ主郭部の東側は隈笹が多く群生したままなので、写真を撮ると大変残念な結果に…

とにかく佐久の国人領主の意地を見せつけてくれる素晴らしいお城です。佐久のお城と言えば後世の改変や破壊を伴うものが多く、訪ねるべき所が中々定まり難いのですが、この平尾城はそんな中でも間違いの無いお城の一つとなっています。気になりましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。ちなみに此処から林道を渡って尾根伝いに凄く頑張ると、標高1156mの平尾富士山頂に平尾富士砦(佐久スキーガーデンパラダ…つまりはスキー場の上だ…)というのがあるんですが根性無くてパス。

2019年05月03日 ⏰北海の風雲児⚜️信濃守
大井城



大井城は、湯川を天然障害とした断崖上にあり、堀切によって王城、黒岩城、石並城の3区分され、総称して大井城と言った。

2012年03月13日 天下分け目の征夷大将軍速水右近
大井城

八十二文化財団の方は把握されてないので、ホームページの写真を管理している教育委員会に聞いてもらいました。大井城は川の左の西側一帯の王城公園から3441ー1の個人民家辺りまで。写真は王城公園で石碑などは特にありません。


2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
大井城

岩村田市街地東にある。王城を中心に、北に石並城、南は道を挟んで黒岩城の三つの城で構成されるが、黒岩城は個人宅地、石並城は墓域となっている。中心の王城が公園として整備されているが、城跡らしい遺構はよくわからない。なお、駐車場はない。

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