長窪城(ながくぼじょう)

長窪城の基本情報

通称・別名

深山城、霞尾城

所在地

長野県小県郡長和町古町3747-2

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

望月氏?、大井氏?、芦田氏?

築城年

室町時代中期?

主な改修者

主な城主

長窪氏、大井氏

廃城年

天正11年(1583)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

町史跡

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

望月城(長野県佐久市)[8.6km]
和田城(長野県小県郡)[9.2km]
塩田城(長野県上田市)[9.7km]
岩尾城(長野県佐久市)[14.5km]
小諸城(長野県小諸市)[14.8km]
上田城(長野県上田市)[15.0km]
岡城(長野県上田市)[15.1km]
根井氏館(長野県佐久市)[16.7km]
戸石城(長野県上田市)[17.3km]
真田氏館(長野県上田市)[18.5km]

長窪城の解説文

長窪城(ながくぼじょう)は、長野県小県郡長和町にあった日本の城。

概要
室町時代の応永年間に、大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。

大井氏の親類衆が長窪氏を名乗り、城主となった。
戦国時代の天文12年(1543年)、甲斐の武田晴信(信玄)の軍に攻められた。相木昌朝や芦田信守が内応したため、城主の大井貞隆は降伏した。

武田氏の支配となった長窪城は、武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。

信玄が長窪城に着陣し、東・北信濃を攻略したのは、天文17年(1548年)の上田原の戦い・天文19年(1550年)の砥石城戸石城)攻略・天文22年(1553年)和田城、高鳥屋城塩田城の攻略と3回あったようである。

天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、小県郡は真田昌幸の領地となり、天正11年(1583年)昌幸が上田城を築くと、長窪城は廃城となった。  

長窪城の口コミ情報

2021年02月04日 内記がスリヾ(・ε・。)
中山城[長窪城  周辺城郭]



中山城は長窪城の北西約3.5km、東北へ長く延びる山塊尾根上、標高約755mのピークの一つに主郭が存します。同じ長窪城のリア攻めマップにある武石城の詰城とされ、武石川を挟んで武石城の裏山にあるって感じです。東麓からの比高は110m位でしょか。

さてさて全国各地に存在する中山城(余裕で10以上はあるでしょう…)ですが、日本中に散らばるオラが町の中山城ファンは「一体何処の中山城だっ!」とお怒りになるのもごもっとも…こちらは長野県上田市武石にある中山城です。実は隣町の長和町にも素晴らしそうな中山城があるんですが、両者はお城の立ち位置的にも似ていて混同し易く注意が必要です。今回の遠征では武石中山城→長和中山城とリア攻め計画を立てて張り切っていたんですが、武石の中山城から車に戻って暖まっていたら睡魔が襲ってきてしまい長和の方は残念ながら未見です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の子壇嶺神社を目標に設定して下さい。この神社の裏手に登城路が付いてます。お城へは急坂を一気に登る感じで実に潔い登城路なのですが、落葉の堆積が酷くて二回は滑り落ちましたね〜

お城の築城年代は武石城に準ずると思うんですが、戦乱の時代を経て順次改修されていったようでそれに見合う縄張を持っています。腰郭や小郭は付いているもののほぼ単郭のお城でコンパクトですが、主郭西側山側背後の大胆な二重堀切+竪堀には必ず圧倒されることでしょう。主郭は全周土塁囲みで高さも相当なもの。虎口なんかもありましたが後世の改変かもしれません。又、主郭南側の腰郭には石積みが残されていてこちらも楽しませてくれますが、結構急な切岸斜面にあるので写真撮影に苦労します。

変態が多い信濃の山城マニアの中でも必ず高評価を与えられるお城です。全国的に見れば単郭の山城なんていかにも貧乏な感じですが、自分が信濃の山城に惹かれるのは、それぞれの国人領主が限られた予算や労力の中で実戦に耐えうるお城を無理矢理峻険な山の尾根に造ったことにあると思います。基本尾根から外れることも殆ど無く、尾根筋を広く削平して居住性を上げるなんてことも殆どありません。だから萌えるのさ〜此処に来れば皆様もそんな気持ちがきっと3%位は解るはず…長窪城ぽちの際には是非立ち寄ってみて下さいまし。

2021年02月03日 内記がスリヾ(・ε・。)
武石城[長窪城  周辺城郭]



武石城は長窪城の北西約3.6km、標高約655mの山間部平場に位置する武石小学校の敷地内に存したとされる居館です。小県郡史には既に「見る影もなく平らげられて」とあるので今はもっと見る影もありません。ただ高度な心眼を持つ地形段差マニアには何かが見えるかもしれません…ちなみに自分の心眼では眼を閉じても無理でした。

築城年代は里伝で永和元年(西暦1375年)、築城者は大井孫五郎信之というお方、お住まいになられていたのは武石の大井氏で別称を大和守屋敷とも…武石の大井氏は武田氏に従属していましたが、文禄二年(西暦1593年)に嗣子なく断絶、廃城となりました。ただ跡地には総郭内に真田氏の代官屋敷がリユースされ、更に後の上田松平藩時代には陣屋が本郭内に建てられていたそうです。又、付近には枝垂れ桜で有名?な武石大井氏菩提寺の信廣寺が存します。

お城としては今は当然何もありませんが(平地の方形居館でしょう。)、武石川の水を引き込んで本郭の南と東には濠があったと小県郡史には記述があります。本郭は現在の武石小学校のプール辺りにあったと推定されており、行ってみると現在も水路が記述のとおり確かに流れている…何だか出来の悪い子供の良い行いを見付けて褒めまくる時の感覚に似ていますね。

さてさて何でこの薄いお城を口コミするのかと疑問に思われる方もいらっしゃるかと思いますが、このお城の南側には詰城とされる中山城というお城があるからなんです。このお城、現況は信濃ではABクラスの二つ星城なので、是非この地の歴史を一緒に感じてみて下さいまし。

2021年02月01日 内記がスリヾ(・ε・。)
山の鼻砦[長窪城  周辺城郭]



山の鼻砦は長窪城の北西約2.3km、北方へ延びる山塊尾根上、標高約715mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の登城路入口からの比高は100m位でしょか。

築城年代、築城者は共に不明ですが、位置関係から武石の大井氏の手によるものと推測出来ます。

砦への行き方ですが、Googleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。それじゃ登城口が判らねぃよて感じですが詳細は避けますね。理由は砦のあるお山は完全私有地で、所有者は登城路途中にある台地上の平場で畑を…お山に入れば椎茸栽培なんかを手広くやっていますので注意しましょう。自分は作業中の方に断りを入れてから訪ねましたがトラブルは避けたいものですね。

砦は物見台か狼煙台程度のほぼ単郭です。砦がプアーな事は知っていましたが、物好きの血がひょんなことから思わず騒いでしまいました。目の前通過すればそれがどんなものであれ行ってみたくなるでしょう。ただ簡単に行けるかと思ってましたが想像よりは倍の時間が掛かりましたわ…主郭まで20分は必要ですね。

何の期待もしてませんでしたが、びっくりする事に主郭南西側山側背後の下る尾根に2重堀切が確かにある…しかも東側は竪堀になって落ちている…堀切は浅くはなっていますが、竪堀は意外にも明瞭で二重竪堀感がよく判ります。何だか自動販売機の下を探ったら100円玉を見つけた時と同じ様な気持ちになりますね。又、主郭には土塁の様な土の高まりも…ただ砦としてそれ以上のものは頑張っても何も見付けられないでしょう。

誰も行かないと思うしお勧めもしません。信濃のお城クエストに迷い込んでいる自分にとってはどんなお城でも達成感である程度満足出来るんですが…まぁ何て言うかマニア向け。

2021年01月31日 内記がスリヾ(・ε・。)
丸子城良存館[長窪城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこりと口コミ〜

丸子城良存館は長窪城の北東約5.0km、丸子城の南麓約0.2km、標高約560mの腰越文化伝承館敷地内に存したとされる居館です。丸子城主郭からやや南西直下て感じですかね。丸子城には4つの居館があったとされ、その内の一つということになります。

現況は写真見て頂ければ解るように跡地には体育館?みたいなのと蓮乗寺という廃寺が建っています。往時を偲ばせるものは段々地形と削平地ぐらいで特に何もありませんが、丸子城の搦手筋に出る登城路(10m位しか進んでないけど熊さんの痕跡が3箇所あったよ…)が背後にあります(現在は崩落危険で通行止め…)。

さて此処にお住まいになられていたのは依田氏の庶流、丸子氏の丸子良存という方なんですが皆様知ってます…?おいらも知らんw知らんのも当たり前で何せ地方の一豪族ですし、丸子氏内でどんな役割をしていたかも解らず、あらゆる書物にも名前の記載の無い方で事跡を辿ろうにも辿れない人なんです。

しかし幸いな事にこの方の寄進状は2通が現存しています。1通は上田市下乃郷の生島足島神社に出した戦に出ている息子の無事をお願いするもの。もう1通は高野山!蓮華定院(このお寺、信濃に所縁があるのか禰津氏、真田氏とも関係がある。)に息子の身体堅固をお願いしたものです。殺伐としたこの時代に息子の身を案じて2通の寄進状を出すパパ良存…何ともその人柄を偲ばせてくれる話じゃないですか!

蓮華定院に出された寄進状には「当国(信濃)はことごとく甲越の取合に候。」という胸打つ一文が…考えてみれば信玄の野心とか謙信の義なんて後世の話題にはなるけれど、当事者である信濃の一豪族にとっては実に迷惑千万な話で、下剋上に代表される出世譚とは無縁の、その他多くの地方史を私達はもっと理解する必要があるんじゃないかなと常々思っています。

たった2通の寄進状を頼りにその人柄を知り、その想いに触れる…何と素晴らしい事ではありませんか!館の主は私達に宝物を残してくれた!感謝感謝!そして深く頭を垂れよう。

2021年01月24日 内記がスリヾ(・ε・。)
根羽城[長窪城  周辺城郭]



根羽城は長窪城の北西約4.9km、依田川と内村川に挟まれた北東へ長く延びる山塊尾根上、標高約695mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は135m位でしょか。

お城への行き方は同じ長窪城のリア攻めマップにある鳥屋城、丸子城を参考にして下さいまし。丸子城からは尾根続きで大した苦労も無く行けますが、現在このルートは通行止めとなっています。

お城のある山塊尾根上には狭い範囲に3つのお城が存し、南方から鳥屋城、根羽城、丸子城の順にあります。縦走しても下手な事しなけりゃ半日あれば廻れますが、お城はどれも魅力的なので冬の時期ならやっぱ1日は掛かるかな。

築城年代、築城者は不明です。誰の持分だったかも不明ですが、戦国時代にお城のある丸子、腰越の地は武田氏によって依田氏に保証されています。小県郡史には鳥屋城の支砦だったとの記載がありますが、鳥屋城、丸子城のどちらにとっても搦手筋に位置しています。

お城はほぼ単郭ですが実に小気味良い魅力に溢れてます。主郭の北東側には二重堀切、更に丸子城へ向かう東尾根には連続堀切があります。鳥屋城へ向かう南西尾根は段郭で守る感じ。鳥屋城との分岐に当たる尾根の切り通しまでには幾つかの小さな堀切も設定されてます。しかし何と言ってもこのお城を際立たせているのが主郭部周辺の石積みです。この規模のお城としては結構な量でして、往時は相当派手目だったことでしょう。又、主郭部切岸から西側尾根への落差も凄まじく、はっきり言って行けません。自然地形なんでしょうが少し加工されてる印象です。

自分は今回写真撮り直しに2回目の訪問となりましたが、前回は5月の暗い時間帯だったので多くの再発見がありました。山城にとって最良の季節は雪の無い冬の時期だと個人的に思っています。寒さに負けずこれからも張り切っていきたいものですね!

※丸子城から根羽城へ向かう途中に崩れた石垣のある平場があります。この石垣は裏込め石がちゃんとある近世の物で城域でもないので注意して下さい。たぶん廃神社でしょう。

2021年01月23日 内記がスリヾ(・ε・。)
丸子城[長窪城  周辺城郭]



丸子城は長窪城の北西約5.2km、依田川と内村川に挟まれた北東へ長く延びる山塊尾根上、標高684.6mのピークの一つに主郭が存します。北東麓からの比高は145m位でしょか。

丸子城と言えば駿河の素晴らしい丸子城が思い起こされますが、信濃の丸子城はちびまるこちゃんの「まるこ嬢」と読みまして「まりこ嬢」にはなりません。もっともこの地域もその昔は「まりこ」と呼ばれていた時期があったようです。

築城年代、築城者は不明ですが、依田氏の庶流とされる丸子氏の持分でした。天正年間には丸子三左衛門なる方が城主で、天正壬午の乱の際に真田氏の説得により丸子氏はこれに従属したようです。

駿河の丸子城は目立った戦歴が無いようですが、こちらの丸子城は違います。第一次上田合戦(神川合戦)で徳川氏は上田城の攻略に失敗、手痛い損害を受けましたが、八重原まで軍勢を退かせると体勢を立て直して真田方の丸子城の攻略に向かいます(殆ど腹いせの感…)。諏訪頼忠、岡部長盛らが丸子城に攻め寄せますが、真田方の後詰の到着もあって20日あまりの対陣で攻略を断念、丸子三左衛門は小勢で城を堅守し徳川勢は撤退しました。徳川家康は負け戦のこの合戦に17通もの感状を出したようで家臣を慰めるのも大変だった事が偲ばれますね。トップの苦労でしょか。

お城は一部が公園として整備され、通称ニ郭には模擬櫓が建っています。お城全体は軽めのハイキングコースみたいなちゃんとした道があるので誰でも気軽に散策出来ます。又、城域を過ぎて南西へ尾根を進むと同じ長窪城のリア攻めマップにある根羽城に至ります。ちなみに丸子城から根羽城へ行く道は崩落危険で通行止めなんですが、何処に崩落危険があるのかは理解に苦しむところです。

城域南西端を過ぎても堀切が細かく設定されていたり謎地形があったりするので公園等と侮るなかれ…そして山城初心者には入門に最適なお城だったりもします。周辺諸城を見渡せるロケーションも素晴らしいので丸子に来る事がありましたら是非最初に訪ねてみて下さいまし。

2021年01月22日 内記がスリヾ(・ε・。)
小山城[長窪城  周辺城郭]



小山城は長窪城の北西約3.4km、標高676.5mの山間部の平地にぽつんとある完全独立丘陵の頂部に主郭が存します。東麓からの比高は75m位でしょか。

山塊尾根上を利用する山城が多い信濃では珍しい立地ですが、地図を見てみれば容易に理解出来るように、此処は諏訪郡と小県郡を結ぶ二つの峠道、大門街道と和田街道の延長線上に位置していて、お城はこの街道を監視下に置いていたことでしょう。ちなみに武田晴信の信濃入りにはたぶん大門峠が一番よく使われてたんじゃないでしょか。

お城への行き方ですが、Googleマップに位置登録されてるのでダイレクト設定して下さい。近くに来れば「あそこでしょ〜」等と必ず呟きます。自分はお城の北東麓に路駐して適当に登りましたがちゃんとした道がありました。

登城路の途中には「東京スカイツリー同標高地点634m」の看板があって「へ〜そうなんだ〜」と感心してしまいましたが、よくよく考えてみたら標高634mの地点なんて全国何処でもあるので、思わず感心した自分が恥ずかしくなります。完全独立丘陵なので夏場でも獣は居ないでしょう。

お城は全然期待してませんでしたが意外にも楽しめました。自然と四方に敵を受ける地なので守る気ゼロなんかなと思ってましたが、主郭の東側には二段の腰郭が付いていて、上段の腰郭には武者隠し的な横堀があるような無いような…東麓から攻め上がる敵は下段の腰郭を北側へ巻く様にして通って主郭部に入る必要があるんですが、築城者はそんな意図を持って造ったんじゃないかな…たぶん…又、丘陵ぽい丸っこい縄張を想像してたんですが、意外にも南北に尾根ってまして主郭部の削平具合も良好でした(城域南端には神社が建ってたみたい。)。

築城年代、築城者は不明ですが、土豪が造った砦の規模です。古くから街道筋の要衝であった武石、丸子の地はお城銀座とでも呼べそうな地域、適当なそれらしい山塊を指差せば大体山城ですw皆様も是非訪ねてみて下さいまし。



2021年01月20日 内記がスリヾ(・ε・。)
鳥屋城(烏帽子城)[長窪城  周辺城郭]



鳥屋城は長窪城の北西約4.5km、依田川と内村川に挟まれた北東へ延びる山塊尾根上、標高850.6mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は250m位でしょか。築城年代、築城者は不明ですが、支城である鳥屋山砦が鳥屋甚八郎なる者によるものなんで、これが正しいとするなら鳥屋氏でいいんじゃねぇ…この鳥屋氏の出自となると話は別物ですが…

お城は岩村田大井氏の利用があったとされています。一時期岩村田大井氏は武田氏に従属してましたが、上田原の合戦で武田氏が村上氏に敗れるとこの地域で叛旗を翻します。その際に武田氏に徹底的に殲滅されたらしく、武田氏の業務日誌を基にしたらしい高白斎記には高鳥屋(鳥屋城か?)の籠城の衆を悉く討ち取った事の記述があります。前日には武田晴信が高鳥屋に登って見物した事の記述もあって話に合点がいかなくなりますが、武田晴信が登ったであろうお城の一つに比定されてます。

行き方は3つありますが、自分の下山ルートで使った登城路を紹介します。国道254号線を武石方面から北へ進むとお城のある山塊尾根下を貫通する小屋坂トンネルにぶつかります。到着したらトンネルの入口右側に路側帯があるので駐車しましょう。この路側帯の奥に獣柵ゲートがありますので道なりに進んで下さい。コンクリート製の階段を登って行くと尾根の切り通しが現れますので、この切り通しを右に行くと根羽城を経て丸子城、左に行くと鳥屋城に至ります。根古屋っぽい怪しい地形を通って高みを目指して登れば尾根筋に出ると思います。

お城は素晴らしいっす。特に堀切の美しいお城で主郭部北側には5条の堀切、正確に言うなら三重堀切+二連続堀切でしょか。堀切から延びる竪堀も集合したりしてて感動します。主郭部南側にも二重堀切、1条は圧巻の大堀切です。更に尾根を南方へ進むと実に細かく遺構が残っているんですが、説明すんのが面倒なので現地に赴いて下さいまし。大手筋は主郭部西側で段郭が設定され、隣りの山塊とは人一人が通れるぐらいの自然地形?の土橋で繋がってます。が、土橋の真ん中に松の若木が数本成長中で通る時に腹立ちます。

お城は地元の保存会の方々によって定期的に整備されています。余計な物を足さない、必要な物を削らない。実に理想的な整備ですので、鳥屋城攻めの本拠となった長窪城に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2021年01月19日 内記がスリヾ(・ε・。)
鳥屋山砦[長窪城  周辺城郭]



鳥屋山砦は長窪城の北西約4.2km、南方へ延びる標高729mの山塊支尾根上端部に主郭が存します。南麓からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の弥六堂を目標に設定して下さい。このお堂の北西側に簡素な鳥居が立っていますのでこれが登城路入口となります。主郭には今も小社が建っており、鳥居はたぶんこの小社のものでしょう。が、自分がこれに気付いたのは今さっきでして、自分はお城の南麓から直登しました。たぶんどっちも似たようなもんでしょう。

砦は同じ長窪城のリア攻めマップにある鳥屋城の支城で、鳥屋城の大手筋を西側からカバーし、砦北側山中にある鳥屋峠道への侵入を監視する目的もあったかもしれません。

築城年代は天文年間とされ、築城者は鳥屋甚八郎という方だそうです。この砦は戦歴があり、天文十一年(西暦1542年)十月に武田晴信に攻められ落城、晴信が信濃入りしてから12番目の落城だったと小県郡史は伝えています。

砦はほぼ単郭で主郭北側山側背後は三連続堀切で断ち切っていますが、最北の堀切は頑張れば何となくって感じ…主郭には巨石が多数見られ、現在は若干崩れてますが小社が建っています。特筆すべきはこの規模の砦としては石積みが結構残っていること。当然小社造営の際のものかと思いますが、周囲には崩落石が多数散見され、元々あった石積みに積み直しのものをプラスしたのが現況なんじゃないかなと勝手に想像してみました。

この砦の北側山側背後を進み、尾根稜線上に出て東方へ進むと本城である鳥屋城の大手筋に山側から入ることが出来ます。ただ砦に着いて1ピーク、尾根稜線上に出て2ピーク、下った後に登って3ピーク目が鳥屋城ですので、後で車を取りに行かなくちゃならないし、ここは素直に砦から下山して別ルートから鳥屋城を訪ねるのが正解でしょう。鳥屋城は女房を質に入れてでも行くべき素晴らしいお城です。



2021年01月07日 内記がスリヾ(・ε・。)
鳥羽城[長窪城  周辺城郭]



さてさて一回で納めようと思ったけど、前回は登城の苦労を書いてたら字数があっという間に足りなくなってしまったのでその続きなり。

物凄く頑張って城域に入ったんですが、お城は長い年月を掛けて甘々になっていて、死ぬ程努力したのに「労を多とする。」とだけ上司に言われた時と同じ気持ちにさせてくれます。見所は堀切の1条と主郭部の段々ぐらいでしょか。ただ縄張図外に結構な竪堀が確認出来ます。面白いのはこんな山の中なのに小屋掛け出来そうなぐらいの広めの削平地があること(住みたくはない。)。そしてびっくりすることに城址碑があることです。しかもただの城址碑と違いまっせ〜宝暦四年(西暦1744年!)福島某によって建てられたもので「鳥羽氏先世塁址」と刻まれてます。

築城者は鳥羽氏と考えられ、築城年代は不明ですが、天文年間には福島肥後守という方が城主だったらしく、この方は天正壬午の乱の際に依田信蕃に従い岩尾城攻めで討死しているそうです。城址碑を建てたのは福島某なので、この福島姓は鳥羽氏に連なる者が改姓したと考えてよさそうです。じゃなきゃこんな山の中に墓石大の石を持ち込んで先祖が築城した城跡を明らかにするなんてことはやらないでしょう。

帰りは行きに辿った道?を戻りたくなくて主郭部から南西にある尾根筋を直下山することを迷うことなく決断、登れば急坂でしょうが帰りは比較的すんなり麓まで下りてこれました。所用25分位(行きは2時間位)でしょか。ところが依田川の急流が行く手を阻み駐車場所に戻れない…結局橋を探すのに南下すること50分…河川敷を歩いたり、再び山に入ったりの繰り返しで疲れがピークに…最後までおいらを苦しめてくれました。登城中に見つけた祠に「こにちは〜」ぐらいの挨拶しかしなかったのが原因すかね…それでも山はおいらを無事に日常に帰してくれた!となると山にはやっぱり神様がいるのです。

※安全なルートを開拓しましたが、説明出来ないし、自分しか判らないと思うのでそれはパス…城友さんすまない。

2021年01月04日 内記がスリヾ(・ε・。)
鳥羽城[長窪城  周辺城郭]



鳥羽城は長窪城の北東約3.4km、国土地理院の地図にも記載がある標高843.8mの鳥羽山山頂に主郭が存します。西麓からの比高は290m位でしょか。鳥羽山は登山道が無い上に西麓に急流の依田川が流れており、橋梁が極端に少なくアプローチに苦慮するお山です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の龍福寺を目標に設定して下さい。敷地内に「鳥羽稲荷大明神」というのがあるので、この背後から延びる尾根がスタートとなります。

自分の今までのリア攻め史上最大の恐怖と苦労を味合わせてくれたのがこの鳥羽城です。低登山ではありますが、装備はある程度のクライミング出来る格好を…自己確保が取れる技術がある方は保険を掛けた方が確実でしょう、お城廻りで滑落したら洒落になりません。本当に山登りが嫌いだわ…

まず尾根筋を登って行きますが、最初の平場に出るまで松枯れで倒木が凄まじいです。傾斜はそんなに無いのですが無駄な体力を消耗します。道案内は鹿の足跡…城域まで連れてってくれますねwそして平場を過ぎると最初の急崖に…幅はあるので左右に落ちる心配はないのですが、ポイントを考えながら登らなければならず必要なのは体力と技術と精神力と想像力…

この急崖を登り切ると稜線上に到達、最初に城域に入ったと勘違いするポイントですがただの岩場です。更に細尾根を経て急崖に…泣きそうになります。この急崖を登り切ると祠がある削平地に到達、遂に城域に入ったと確信して城友さんにLINEしましたが「主郭には城址碑があるよ。」との無情の返事が…サポートTHANKS!此処じゃなかったぜ、気持ちを取り直して高みを目指して更に南進、今度は下るじゃねーかっ!

そして現れたのは最大の難所、人一人がやっと通れるぐらいの痩せ尾根が30mぐらい、途中には御丁寧にも岩場が付いちょる…右はほぼ垂直の断崖、左は急崖、落ちても即死にならないように左を意識して進みます。岩場では身体が恐怖で震えちゃって能力がちゃんと使い切れない…情けなくも岩場に抱き付くように乗り越えました。

この後に待ち構える急坂を登り切れば城域にやっと入ります。騙される擬似城域が二箇所…登城路を参考にさせて頂いた先人様も初アタックでは勘違いしたらしいっす。

お城の続きは次回に…

2019年05月19日 信州治部丞克幸
長窪城



大手口は全く人が訪れた様子がない。枯れた松の葉が足元を滑らせます。茸のシーズンは進入禁止だそうです。

2018年12月27日 アマビヱ左衛門佐紺絹地六連銭
長窪城

搦手側から上り、昌幸が作った連続竪堀と土塁の連続を楽しみながら主格を目指すと面白いですよ(^-^)
秋のキノコの時期は一部止め山になっていますが、それを除けば大手口まで往復出来ます!真田昌幸の山城を堪能して下さい\(^-^)/
駐車場は付近にありませんし車道も狭いため、長和町の道の駅(マルメロの里 温泉ありますよ)や神社の駐車場に止めることをお勧めします!

2015年09月27日 雅楽頭オヨ島
長窪城

城跡はとても眺望が良く、戦国武将の気持ちになりました。

2011年10月03日 赤いRVR甲斐守@松本
長窪城

現在、主郭までは行かれますが、南側の遺構群は、止め山のため入れません。

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