長窪城(ながくぼじょう)

長窪城の基本情報

通称・別名

深山城、霞尾城

所在地

長野県小県郡長和町古町3747-2

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

望月氏?、大井氏?、芦田氏?

築城年

室町時代中期?

主な改修者

主な城主

長窪氏、大井氏

廃城年

天正11年(1583)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

町史跡

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

望月城(長野県佐久市)[8.6km]
塩田城(長野県上田市)[9.7km]
岩尾城(長野県佐久市)[14.4km]
小諸城(長野県小諸市)[14.8km]
上田城(長野県上田市)[15.0km]
岡城(長野県上田市)[15.1km]
根井氏館(長野県佐久市)[16.7km]
戸石城(長野県上田市)[17.2km]
真田氏館(長野県上田市)[18.4km]
伴野城(長野県佐久市)[18.7km]

長窪城の解説文



長窪城(ながくぼじょう)は、長野県小県郡長和町長久保にあった日本の城。長和町指定史跡[1]

概要 

室町時代の応永年間に、大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。

大井氏一族が長窪氏を名乗り、城主となった。戦国時代の天文12年(1543年)、甲斐の武田晴信(信玄)の軍に攻められた。相木昌朝や芦田信守が内応したため、城主の大井貞隆は降伏した。

武田氏の支配となった長窪城は、武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。

信玄が長窪城に着陣し、東・北信濃を攻略したのは、天文17年(1548年)の上田原の戦い・天文19年(1550年)の砥石城戸石城)攻略・天文22年(1553年)和田城、高鳥屋城塩田城の攻略と3回あったようである。

天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、小県郡は真田昌幸の領地となり、天正11年(1583年)昌幸が上田城を築くと、長窪城は廃城となった。

長窪城の口コミ情報

2024年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
依田常憲屋敷[長窪城  周辺城郭]



さて、居館廻りを続けていると100件に1件ぐらいの割合でお気に入りの場所てのを見付けたりする。他人が見たらしょうもないもんではあるんだけど、実際に現地に赴いた当人だけが感じ取れる「何か」がどんぴしゃだったりする物件がそれだ。今回の口コミはおいらにとってそんな屋敷跡の一つ。

依田常憲屋敷は長窪城の北北東約7.8km、依田川東岸(右岸)、標高約544mの段丘台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは依田常憲です。依田氏の一族である事に間違いは無いのだが、各種依田氏系図にその名が見られず時代も不明である。もしかしたら常憲とは出家名の事なのかもしれない。依田氏については同じ長窪城のリア攻めマップにある宗龍寺館を併せて参照して下さい。

依田氏は室町幕府の評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出して幕府内で重きをなし、概ねで在地と在府に分かれる事になるが、南北朝時代から室町時代にかけての在地での動向には不明な点が多く論争が決着する事はない。特に同期間において依田氏は合戦史料等に一切現れない一族であったりもする。

室町時代には小県郡から佐久郡への進出が認められるが、その時代となるとやはり論争の的である。佐久郡への進出は同郡に拠った大井氏への服属、被官化が端緒であり、一族の内からは平尾氏、平原氏等を輩出、後には同郡芦田郷にも進出を果たし、同郷の依田氏は在名を取って芦田氏を称した。武田氏時代に信濃先方衆として活躍した信守が芦田姓を称したのはこれが故である。

屋敷の現況は…田地、空地等となっている。縄張図を見ると下段に帯郭状の腰郭が付くが、この段を往時のものとするかについての判断は難しいところだろう。屋敷地には土塁の残欠とも伝わる塚が残り、塚上には石祠が鎮座、別に一本松と呼ばれる大樹が屹立する。

居館跡や屋敷跡て再訪する事は殆ど無いんだけど、上田市丸子に足を運ぶと必ず訪ねるのが依田常憲屋敷だ。おいらは段丘上の一本松が醸し出す夕暮れ時の寂寥感が大好き。過去には屋敷跡を示す石碑なんかも建っていたようだけど、今はこの情景だけで十分だとも思う。田地、果樹園の中、塚上の一本松は此処が武士の屋敷地であった事を今も控え目に教えてくれている。

※依田氏は室町幕府の評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出〜評定衆を務めた左近大夫時朝は足利尊氏の一周忌を執り仕切っている。

※写真⑦、背景向かって左側の山稜が同じ長窪城のリア攻めマップにある依田城の城山っす。

※夕暮れ時の写真はしまい込んでしまって一生懸命にならないと出て来ないや。

2024年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
高築地館[長窪城  周辺城郭]



高築地館は長窪城の北北西約7.3km、依田川西岸(左岸)、標高約573mの段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館地下段には駐車場も付いている。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは依田氏です。同氏については同じ長窪城のリア攻めマップにある宗龍寺館を参照して下さい。依田氏とその一族は佐久郡にも足跡を残す等、戦国時代にもその活躍が知られており、武田氏時代の依田(芦田)信守、その子、信蕃は信濃先方衆として特に高名だ。ちなみに周辺一帯は依田氏被官衆等の屋敷地だったとも推測されている。

依田氏当主、二郎大夫実信(尊卑分脈)は、治承四年(西暦1180年)、依田城を木曽義仲に明け渡してその挙兵を援けたが、その際に移り居したのがこの高築地館だと推測されている。「源平盛衰記」には、寿永二年(西暦1183年)、「倶利伽羅峠の戦い」において、三千余騎を従え、安楽寺を発って平氏方、平維盛が本陣を置いた猿ヶ馬場へ向かう一手の将として「余田次郎」の名が見える。

居館の現況は…同じ長窪城のリア攻めマップにある御岳堂館の口コミでも述べたが、周辺一帯は後世に耕作地としての改変があり、城館としての段なのか、単なる段々畑なのかの区別が全く付かない。居館敷地範囲すら明確ではないし、正直、この辺なら何処でもいいんじゃないかとさえ思える。「高築地」の字名が残っていた場所なんだろうけどねぇ…ちなみにしっかりとした説明板と標柱が立っているので該地の特定だけはすんなりだ。

居館地の下段を東西に通る道筋が推定鎌倉道、西行すれば砂原峠を越えて塩田平に至り、更に西行すれば室賀峠を越えて更級郡に入り、横田河原を東に見ながら北行して犀川を渡れば善光寺平に至る。北陸道を進んだ義仲も通った道である事に間違いは無い。

※「信濃の山城と館3、上田・小県編」に未掲載の物件である。

※居館地の水の手は下段に位置する「正海清水」と伝わる。史跡として整備されているのでリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。

※「源平盛衰記」〜軍記物であり史料として扱う事が大変に難しい。但し、同時代の各種軍記物以外に頼る文献が存在しない。

2024年10月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽義仲挙兵の地[長窪城  碑・説明板]



⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎

帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…

木曽義仲挙兵の地は長窪城の北北西約7.3km、依田川西岸(左岸)、標高約564mの段丘台地緩斜面上平場に立地する標柱です。単なる標柱だけど写真見て頂けたら判るとおり巨大な看板に近い。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。時間を取らないので車は路駐で十分レベルだ。

さぁ、興奮するでしょ〜無位無官の義仲様はこの地から各地で平氏をぼこぼこにして上洛、征東大将軍にまで登り詰めたんすよ〜正に始まりの地である訳だ。えっ、木曽谷に住していた義仲様挙兵の地がなんで上田市の御岳堂にあるのかって?…

…出直して来いやーっ!ヾ(。`Д´。)ノ

…出直されても困るので一応説明しとく。治承四年(西暦1180年)、以仁王の令旨を受けて木曽谷を出た義仲は、同年九月七日、栗田寺別当大法師範覚と村山七郎義直を援けて平氏に与する笠原平五頼直を信濃から越後に逐い(市原合戦)、その後は実父、義賢の旧跡である上野国多胡郡に入る。その二ヶ月後には再び信濃に入り、小県郡依田庄内、現在の上田市御岳堂にて信濃武士等を従えて挙兵に及んだ。信濃に舞い戻った理由は、頼朝や藤原姓足利氏との無用の衝突を避けるためだとも考察されている。そう、義仲様は脳筋のくせに結構気も遣える人物なのだ。

バックグラウンドに乏しい義仲にとってその受け皿となってこれを支えたのは主に佐久郡や小県郡に割拠する国人領主であり、特に依田庄に拠った依田氏は居城を明け渡してこれを援けた。その居城が御岳堂にあった事から当地が木曽義仲挙兵の地と呼ばれる所以である。当時の信濃は頼朝の影響力が殆ど及ばない国であり、義仲が鎌倉に遠慮していたとも考えられるだろう。そう、義仲様は脳筋のくせに控え目に振る舞える事も出来る人物なのだ。

標柱が建っている場所は御岳堂内から適当に選ばれた筈…但し、上段の段丘台地上には義仲様が逗留した「平家物語」の言う、「依田城(依田の城)」の比定地、2箇所が存在する。同じ長窪城のリア攻めマップにある宗龍寺館と御岳堂館がそれだ。

上田市といえば真田ブランドに95%位振り切りった自治体だけど、残りの5%位を占めているのが義仲ブランドだ。特に上田市御岳堂ではその愛が強過ぎる傾向にあり、実に細やかに伝承、伝説地が語られている。御岳堂から京への道のりは片道切符となってしまったけど、多くの人々の心の片隅で今なお追慕され続けているて事なんだろう。

※写真は…1枚でええやろ…

2024年10月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
宗龍寺館[長窪城  周辺城郭]



宗龍寺館は長窪城の北北西約6.8km、依田川西岸(左岸)、標高804.7mの城山北東側下段、標高約580m地点の斜面上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている曹洞宗の寺院、「宗龍寺」を目標に設定して下さい。当然、駐車場も付いている。ちなみに宗龍寺の山号は中峰山、立派なお寺さんだ。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは依田氏です。もしかしたら木曽義仲の逗留もあったかもしれない。

小県郡の武家の発祥は、まず最初に他田氏、次に滋野氏、その次に依田氏が起こったとされる。依田氏は、源満快の曾孫、為公が信濃権主に補任されて信濃国に下向、その六男、六郎為実が小県郡に入り、依田城を築いて依田氏を称したのがその始まりだとされている。但し、その一方で様々な出自がそれぞれに提起されており決着を見る事は難しい。

依田六郎為実の子、次郎実信は、治承四年(西暦1180年)、依田城を木曽義仲に明け渡してその挙兵を援けた。それ故にその滅亡後には衰退を余儀無くされる。即ち、承久四年(西暦1222年)二月廿一日、茂木知基所領譲状案によれば、信濃国依田庄内の五箇村(飯沼、中山、直⬜︎、内村、腰越)等がその子、一王に譲られており、依田氏の本拠地であった依田庄の地頭職は、幕府と縁の深い八田氏の一族、茂木氏となっていた。

依田氏は閉塞し、一説によればこの間においては飯沼氏を称していたらしいが、後には得宗被官として同氏は復権を果たす。正安二年(西暦1300年)には、依田五郎左衛門行盛が執権の使者となって九州へ下向、その舎弟、朝行は、中務丞を授かり鎌倉幕府の評定衆、奉行職を歴任した。依田庄の回復は鎌倉時代の事であろう。又、南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏は室町幕府の評定衆、奉行衆、奉公衆を多数輩出し、概ねで在地と在府に分かれる事になる。

居館の現況は…前述のとおり宗龍寺の境内となっている。城郭遺構は見出せず、現在は寺院としてしか見る事が出来ない。山中の居館地とはいえ、後背地も含めて段付きで敷地面積がしっかりと確保されており、武士の住まう場所としては良物件だと言えるだろう。水の手は居館地東側を流れ下る沢筋か。遡上すると「源水井戸」と呼ばれる湧水もある。

宗龍寺館と後世に呼ばれている訳だが、個人的には同じ長窪城のリア攻めマップにある依田城の事、もしくはその一郭であったと考えており、現在の依田城自体はこの宗龍寺館に付随する狼煙台や物見台に過ぎないとさえ思っている。依田城とは宗龍寺館を中心とする依田の城山全てを活用した一城砦と捉えるのが正解ではないだろうか。

「平家物語」の「横田河原合戦」には、「木曽は、依田城にありけるが…」とあり、「清水冠者」には、「木曽は依田の城にありけるが…」とある。現在の上田市御岳堂に木曽義仲が一時的に逗留していた事に間違いは無いのだが、「依田城」、「依田の城」が、正確に何処の城館を示しているものなのかは不明であり、宗龍寺館はその比定地の一つとなっている。

※宗龍寺東側の登山道をそのまま登れば城山山頂、依田城に至る。

2024年10月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
御岳堂館[長窪城  周辺城郭]



さて、今夏に長野県立歴史館で企画展示されていた、「疾風怒濤 木曽義仲 文書と絵画でみる義仲の一生」には行ってくれたかな?大の義仲推しのおいらは当然の如く毎日通っていた…ような気もするけど、二ヶ月位前の話なんで記憶が曖昧だ。企画展、素晴らしかったんすよ、正直、極めて史料の少ない義仲を題材にして、権威ある県立歴史館として、どんな形で踏み込んでいくのか少し不安だったんすけど、蓋を開けてみれば子供さんにもマニアにも十分楽しめる展示内容だった。写真撮影も殆どOK♪て感じの太っ腹、この展示内容をそっくりそのまま木曽郡木曽町日義の資料館、義仲館(福島城のリア攻めマップにスポット登録がある。)に持ち込んで常設展示にしてくれたらなぁ…

あ、そうそう、おいらは企画展のコーナーの一つで義仲様の花押に挑戦してみたんだけど、なんとびっくり、手が勝手に動いて一発で完璧に書きこなす…脳筋の書く花押なんて誰でも書けるでしょ…なんて思わないでくれよな。前からひょとして…とか思ってたんだけど、たぶんおいらは義仲様の生まれ変わりなんすわ。嘘だと思ったら自宅の本棚を覗いてみて下さいな。

「基礎から学べる金融ガイド」

「日本地名基礎辞典」

「絵とき 溶接の基礎のきそ」

「ハート先生の心電図レクチャー 基礎編」

…木曽だらけや…そこから先に一切進めないのも義仲様の思し召しだったんすわ…生まれ変わりなんだから一生脳筋で過ごせと…

…御岳堂館は長窪城の北北西約7.0km、依田川西岸(左岸)、依田城の城山北方裾野、依田川に注ぐ唐沢の谷筋を前にする標高約593mの段丘台地斜面上平場に立地した居館です。名称は「信濃の山城と館3、上田・小県編」に準じたが、世間一般的には「木曽義仲館」と呼ばれている。

行き方はGoogleマップに「木曽義仲館跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場も付いている。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽義仲です。但し、本来の館の主は依田氏である。治承四年(西暦1180年)九月、義仲が小県郡依田庄において挙兵すると、当主の依田二郎実信は依田城を明け渡し、一族を挙げてこれを援けた。この際に明け渡した依田城が、同じ長窪城のリア攻めマップにある宗龍寺館、もしくはこの御岳堂館であったと推測されている。

時代は下って「芦田家記」には、「文明九年(西暦1477年)七月二十日、継母の奸計を以て布施、小平の二臣及び乳母をして、長男依田孝玄を御岳堂の城中に暗殺せしと云はこの館ならんか。後其霊を氏神として依田社に合せ祭しと見ゆ。」とあるんだそう。この「御岳堂の城中」を御岳堂館と断定する事は難しいが、少なくとも室町時代においても依田氏が御岳堂に住していた事は間違いの無いところなんだろう。

居館の現況は…史跡として整備されていておもてなし度が高い。縄張図を見ると5段の雛壇状の削平地で構成されているが、屋敷地は4段目が推測されている。但し、周辺一帯は後世に耕作地としての改変があり、城館としての段なのか、単なる段々畑なのかの区別が全く付かない。正直、この辺なら何処でもいいんじゃないかとさえ思える。虎口は史跡整備に伴う改変かな。石積みも見られるが明らかに後世の土留めのもの。模擬冠木門なんかも建っていて雰囲気だけはすこぶる良い。

観光スポットとしては義仲パワーによって依田氏の事は完全に隅に追いやられているが、実際には僅かな期間の逗留でしかなかった事は確実、信濃のお城の神が「木曽義仲館」としなかったのにはちゃんとした理由がある。

頼朝や義経の陰に隠れてしまったけど、信濃武士等を従えて平氏の天下に楔を打ち込み武家のトップに昇り詰めたのは誰が何と言おうと義仲様が最初だ。SLG的に能力を表せば、政治力30・武力98・魅力90みたいな脳筋ファイターぶりが実に潔い。有象無象が蔓延る都で失敗、鎌倉との関係が悪化、その散り際も一瞬、漢が惚れるなら頼朝じゃなくてやっぱし義仲だろう。但し、主人には選びまてん。

※疾風怒濤〜義仲を言い表して妙だ。風はいつか勢いを失う。

※義仲直筆ともされる、寿永二年(西暦1183年)の木曽義仲書状の文字がほんと下手(書き慣れていない感がMAX…)、但し、漢字は知ってたみたいだ。 

※写真①が駐車場から撮影した近景っす。背景の山稜が同じ長窪城のリア攻めマップにある依田城、急峻な山城だ。

※なんだかんだで7回目の訪問、誰も来ないし景色が良いのでよくおにぎりを食べに来ている。

2023年11月11日 パジェロ
長窪城説明板[長窪城  碑・説明板]

搦め手口にも説明板がありますが、こちらに綺麗なものがありました。

2023年11月06日 Maru姫22
和田城[長窪城  周辺城郭]



手すりもあって登りやすい山城でした。本郭の奥の堀切は大きかったです。

2023年11月06日 mootze
和田城[長窪城  周辺城郭]



中山道和田宿にあり、街道監視には良い所です、大手道から、登ると、約10分くらいで、曲輪や、主郭に着きます、途中手摺りや階段が整備されて、登りやすいです、主郭から、詰め曲輪までの尾根は連続堀切で、両方が崖に向かって切れてます、なかなか、の堀切で、見応え十分です、

2022年05月03日 平八郎忠勝 中務大輔
長窪城



信玄公が攻めたお城との事で寄ってきました。車を停められる国道の方から登るのが無難です。今回は場所が分からなかったので町道側から登りましたが、こちら側は登り甲斐があります。遺跡は堀切がわかる程度にあるくらいです。

2022年04月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
中山城[長窪城  周辺城郭]



中山城(城山・中山ごや)は和田城の北東約4.8km、北東へ延びる山塊尾根上、標高約881mのピークの一つに主郭が存します。西麓の国道142号線からの比高は165m位でしょか。

行き方はGoogleマップ位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。北麓の青原発電所から保安道を登るルートがよく紹介されてますが、普通に尾根末端から取り付いた方が楽だし確実です(ショートカットにもならないと思う。)。

築城年代、築城者は不明です。各資料を探っても詳細は判らないそうですが、山稜の東側を大門峠道、西側を和田峠道が走り、両道は中山城の北側で合流します。武田勢は両道を頻繁に利用して小県郡に入っていて、地元には武田氏の狼煙台との伝承が残ります。が、ただの狼煙台としては縄張が立派過ぎるし、やはり在地土豪の築いた要害を武田氏が拡張と改修を続けて小県郡における重要な拠点の一つとして維持されたと考えるのが自然ではないでしょか。

お城は南北に長く総延長は約0.8km、信濃のお城の神はA〜Dの4つの地区に区分しています。A地区は物見で岩場と地山に近い数段の削平地、お城のメインはB〜D地区だけど、あくまで私見ですが時代的な変遷も考慮しなくてはならないと思います。当初はB地区までの要害、改修を経てD地区まで、C地区はその繋ぎ…各地区はそれぞれ独立していた印象を感じます。尾根上の要所を堀切と竪堀で遮断、郭には土塁や櫓台、虎口、石積みなんかも確認出来ます。圧巻なのはD地区の郭でして、南側山側背後を竪堀付きの三重堀切、北側正面を同様に竪堀付きの三重堀切を穿っています。小さな郭なんですが全く釣り合いの取れていない圧倒的な土木量、お山の中で突然トレンドの最前線を走るインフルエンサーに出会ったような気分になります。

小県郡と言えば真田氏の影響もあってか注目されるのは千曲川以北のお城ばかり。しかしっ!小県郡南部には凄い山城が沢山隠れているんです。この中山城もそんなお城の一つ。機会がありましたら子供さんの結婚式にぶち当たったとしても行っとけ。城クズとして蔑まれる修羅の道を歩みましょう。

※中山城(上田市)、中山城(長和町)、和田城(長和町)の三城はGoogleマップの航空写真を見れば一目瞭然だけど、山城としての選地が非常に似通っています。

2022年03月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
勝見砦[長窪城  周辺城郭]



勝見砦は長窪城の北方約2.4km、標高約669mの山間部丘陵緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の舗装路からの比高は15m位でしょか。

行き方はGoogle マップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車を付近の果樹園に乗り入れて捨てないようにしましょう。

築城年代は不明、築城者は勝見氏になるんでしょか。同氏の家伝によれば元は有坂にあった斎藤氏の一族で、依田川左岸の開発を目指して立岩に移り勝見の姓を名乗ったそうです。清右衛門常金は武田氏時代に立岩郷の代官となり勝見氏の祖となりました。

砦の立地は北方に勝見峠、深見峠を従え、鳥羽山東麓を進み深見から腰越を過ぎると丸子に至るかつて信玄古道と呼ばれた道がある。東方は山道を進み八重原から御牧原に至る。地味ではあるけど各間道を押さえる要衝であったようです。同じ長窪城のリア攻めマップにある恐怖の登城困難城、鳥羽城の支城とも。

砦の現況は雑木林、墓地等となっています。今でも勝見氏の所有らしく、勝見氏の墓所に加えて勝見氏氏神が祀られた小社が鎮座しています。砦の北側は池跡で、砦の存する丘陵地形は最近まで耕作されていたようです。縄張図に従えばこの四段程の丘陵が城域となりますが、北側斜面には三段程の帯郭状の削平地が付いています。削平が往時のものかは判りませんが、峠道を監視下に置く西向き、北向きの砦であったように思えるので参考までに…又、狼煙台か櫓台と思しき高まりなんかも城域最高所に確認出来ます。

訪ねた際は隣の果樹園でたぶん勝見さんがせっせと作業中…声掛けようかと思いましたがリア攻め終えたので諦めちゃいました。期待してなかったけど真面目にリア攻めすると楽しかったりします。長窪城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

※明治時代初期に編纂された長野県町村誌には絵図が掲載されています。が、難し過ぎるので見ても参考になりません。

2022年03月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
窪城とんがり山物見[長窪城  周辺城郭]



窪城とんがり山物見は和田城のの東方約3.9km、大門川蛇行点東岸(右岸)、標高993mの通称とんがり山山頂から北西へ延びる尾根上、標高約974mのピークの一つに主郭が存します。西麓の国道152号線からの比高は185m位でしょか。

行き方はGoogle マップに位置登録されているのでダイレクト設定してください。該地は通称のとおり結構目立つお山なので近くに来れば判ると思います。が、山裾は水路がぐるりと巡っているので急斜面の木を掴む気持ちで飛び越えましょう。落ちても濡れるだけで終わるとは思いますが…

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に記載があるのですが、それによると「資料や伝承等はなく、はっきりしたこと分からない。」と突き放されたような記述が…信濃のお城の神はお山の西麓に残る「城の腰」の地名と立地から推測して調査に入ってみたら本当に発見してしまったらしいっす。流石にございます。

物見なんですが、まず縄張図が薄過ぎる…細かく等高線が並んだラグビーボール状のお山の形をベースに郭を示す申し訳程度のスリットが描かれている感じ…ぺちゃんこですわ…別に神が悪い訳じゃなくて本当にそうなんだから仕方ない。単郭に堀切が1条、ほぼ地山、ただそれだけの話です。が、個人的には堀切南側山側背後の山頂部も縄張に含んでよいように思いました。理由は別の風景が見れるから、ただそれだけの話です。

この物見、信濃のお城の神本を除けば紹介されるのは初めてだと思います。少なくともネットで検索してもGoogleマップ以外はヒットしません。敬遠される理由は縄張図が原因でしょう、苦労対効果が非常に悪くリア攻めの目標になり難い。平均斜度40°の尾根筋をただひたすら真っ直ぐに登るだけ、鉄塔整備用の保安道が一応付いてましたが、斜面で脛、平面で膝上の積雪で全く活用出来ず…結果が見えてるだけに辛かったです。「全部知ってたさ、でもとんがりとか言われたら無視出来ないよ…」そんな感じです。

2022年03月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
入大門日山(火山)物見[長窪城  周辺城郭]



入大門日山(火山)物見は和田城のの東方約3.4km、大門川蛇行点西岸(左岸)、標高約815mの河岸台地緩斜面上平場に城域が存します。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地は結構目立つ場所なのでリア攻めマップのみで行けると思います。真新しいソーラーパネル群が目印です。ちなみに「日山」の地名がありますが全然山じゃないです。

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に記載があるのですが、それによると「…物見があったという資料や伝承は不明。」と突き放されたような記述が…信濃のお城の神は周辺地域の地名を鑑みて、そして「日山(火山)」の地名が狼煙台の存在を示唆しているとの推測から導き出した答えのようです。おいらは信じますよ、だって信者だから。

物見の現況は一面のソーラーパネル、元々全面耕作されていたらしいですが、信濃のお城の神が調査した平成十三年とも大きく違っています。縄張図には土塁や小郭が描かれているんですが、フェンスによって立入禁止が告知されていて入る事が出来ません。又、付近には土留めの石積みや石塁状の石積みが散見されますが後世の改変でしょう。

立地としては申し分ないと思います。対岸の大門峠道を監視下に収め、大門川の流れは峡谷地形を形成していて守りも充分、ただ山間平野部との比高差が殆ど無い事から物見台や狼煙台として機能するのかは少し疑問に感じます。むしろ関門としての役割を果たしていたものなんじゃないでしょか。

この物見、現地に赴いても楽しめるのは峡谷地形ぐらいで一つも面白くない。ただ上方からの遠景で見ると「なるへそ〜」等と呟けると思います。上方とは…同じ和田城のリア攻めマップにある信者も敬遠する色物物件、窪城とんがり山物見っす。

2022年03月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
窪城の古城[長窪城  周辺城郭]



窪城の古城は和田城の東北約3.9km、大門川東岸(右岸)、標高約787mの河岸段丘台地緩斜面上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている長和町資料館原始・古代体験館を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップと小吹村反別帳とか宮ノ上反別帳とか入大門反別帳とかの古文書をなんとか入手して地名と現在地を確認しながら適当歩き回って下さい。そう、投げっぱなしアテンドってやつです。

築城年代、築城者は不明です。お城は大門峠へ通じる旧道沿いに立地し、旧道は諏訪郡へ通じる古来から往来のあった道でした。

お城の現況は集落の一部となっています。該地には古城の地名は勿論の事、南谷戸、北谷戸、下木戸、袋小路、かまば、腰巻、水堀等の地名が残っていたそうです。これらの断片を繋ぎ合わせてお城の旧態を想像しようとしましたが素人にはとても無理ですわ…又、周辺は中世城館の存在を示唆する別の地名も数多く残っていた地域だそうです。

令和四壬寅年諏訪大社式年造営御柱大祭…簡単に言うと今年の諏訪大社の御柱祭は木落しが行われないみたいですね。鎌倉時代に成立した武士団、諏訪神党三十三家は諏訪大社の神事(花会、五月会、御射山会)に勤仕し、輪番でそれぞれの頭役を勤める等、信濃での諏訪大社の影響力は計り知れないものでした。姻戚関係を元に神氏を称した禰津氏に代表されるように小県郡もその例外ではありません。城下を通る大門峠道は国道152号線として現在も長和町と茅野市を結ぶ唯一のルートですが、諏訪大社へ向かう神党各家の武士等も頻繁に利用していた事でしょう。ちなみに武田勢も御得意様だったと思います。

神事の内、御射山会は階段状に設けられた桟敷の内で相撲、草鹿、揚馬、武射、小笠懸等を競うもので正に中世のオリンピック!その一月後には参加者同士で争いを始めたりするところなんかも似ていたりしますね。

2021年10月26日 赤かぶ【】
中山城[長窪城  周辺城郭]



長和町大門にある中山城は国道152号と国道142号に挟まれた尾根上に城跡があります。交通の要地にある中山城ですが詳しい事は分かっていません。武田氏関連の城や相馬氏関連の城etc.....

登城口は二つの国道を結ぶ旧中山道沿い廃屋の脇にあります。登って直ぐに防獣棚がありますので中に入って行って下さい。ひたすら急坂を登って行きます、一本道ですので道に迷うことありません。ただキツいです⤵︎

稲荷大明神や発電所施設を経て細く急な尾根を上がり切るとコの字形の土塁に囲まれた曲輪に出ます!この光景を見ると今までの苦労が報われます‪w土塁の先には堀切や曲輪が連続♬︎登城口~主郭までの所要時間は約40~50分くらい。主郭周辺にはビニール紐が張り巡らされている為、茸シーズンは注意が必要かもしれません!

① 登城口
② 登城路
③ 広い曲輪と土塁
④ 連続する堀切 1
⑤ 主郭
⑥ 連続する堀切 2
⑦ 堀切

2021年04月24日 赤かぶ【】
箱山城[長窪城  周辺城郭]



上田市丸子字箱山に築かれ山城です!
この城は依田氏の分族箱山判官国正という豪族が、1430年頃、主に佐久方面に備え築いたとされています。

箱山城桜ロードというハイキングコースになっており地元の方が整備されています。感謝ですね!箱山城入口の看板の近くには木製の遊具などもあります‪w
入口の看板から急斜面を登って行きます。途中ムサシ展望台(スカイツリーと同じ標高地点)、八丁坂を過ぎると平坦な道に出ます。
2条の堀切を経て大手坂!ここにはダルマ岩と呼ばれる巨石が3つくらい重なった急坂がありくさりも設置されています!
登りきると主郭西側の土塁が見えてきます。
主郭には縄張図がありめっちゃ参考になります♪
主郭東側は堀切を隔てて二の曲輪があり北側には腰曲輪、東側には三の曲輪で構成されています。
三の曲輪の東側の3条堀切は北側に竪堀としておちていき、やがて1本の竪堀へ♬︎
扇堀でしょうか?!詳細分からなくてごめんなさい<(_ _٥)>
4月中旬に訪れましたが主郭~三の曲輪にかけ低木に覆われ遺構が見ずらいかなと感じました☀︎
① 登城口
② 主郭西側の土塁
③ 大手坂
④ 主郭
⑤ 縄張図
⑥ 三の曲輪東側3条の竪堀

2021年02月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
山の鼻砦[長窪城  周辺城郭]



山の鼻砦は長窪城の北西約2.3km、北方へ延びる山塊尾根上、標高約715mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の登城路入口からの比高は100m位でしょか。

築城年代、築城者は共に不明ですが、位置関係から武石の大井氏の手によるものと推測出来ます。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。それじゃ登城口が判らねぃよて感じですが詳細は避けますね。理由は砦のあるお山は完全私有地で、所有者は登城路途中にある台地上の平場で畑を…お山に入れば椎茸栽培なんかを手広くやっていますので注意しましょう。自分は作業中の方に断りを入れてから訪ねましたがトラブルは避けたいものですね。

砦は物見台か狼煙台程度のほぼ単郭です。砦がプアーな事は知っていましたが、物好きの血がひょんなことから思わず騒いでしまいました。目の前通過すればそれがどんなものであれ行ってみたくなるでしょう。ただ簡単に行けるかと思ってましたが想像よりは倍の時間が掛かりましたわ…主郭まで20分は必要ですね。

何の期待もしてませんでしたが、びっくりする事に主郭南西側山側背後の下る尾根に2重堀切が確かにある…しかも東側は竪堀になって落ちている…堀切は浅くはなっていますが、竪堀は意外にも明瞭で二重竪堀感がよく判ります。何だか自動販売機の下を探ったら100円玉を見付けた時と同じ様な気持ちになりますね。又、主郭には土塁の様な土の高まりも…ただ砦としてそれ以上のものは頑張っても何も見付けられないでしょう。

誰も行かないと思うしお勧めもしません。信濃のお城クエストに迷い込んでいる自分にとってはどんなお城でも達成感である程度満足出来るんですが…まぁ何て言うかマニア向け。

2021年01月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸子城[長窪城  周辺城郭]



丸子城は長窪城の北西約5.2km、依田川と内村川に挟まれた北東へ長く延びる山塊尾根上、標高684.6mのピークの一つに主郭が存します。北東麓からの比高は145m位でしょか。

丸子城と言えば駿河の素晴らしい丸子城が思い起こされますが、信濃の丸子城はちびまるこちゃんの「まるこ嬢」と読みまして「まりこ嬢」にはなりません。もっともこの地域もその昔は「まりこ」と呼ばれていた時期があったようです。

築城年代、築城者は不明ですが、依田氏の庶流とされる丸子氏の持分でした。天正年間には丸子三左衛門なる方が城主で、天正壬午の乱の際に真田氏の説得により丸子氏はこれに従属したようです。

駿河の丸子城は目立った戦歴が無いようですが、こちらの丸子城は違います。第一次上田合戦(神川合戦)で徳川氏は上田城の攻略に失敗、手痛い損害を受けましたが、八重原まで軍勢を退かせると体勢を立て直して真田方の丸子城の攻略に向かいます(殆ど腹いせの感…)。諏訪頼忠、岡部長盛らが丸子城に攻め寄せますが、真田方の後詰の到着もあって20日あまりの対陣で攻略を断念、丸子三左衛門は小勢で城を堅守し徳川勢は撤退しました。徳川家康は負け戦のこの合戦に17通もの感状を出したようで家臣を慰めるのも大変だった事が偲ばれますね。トップの苦労でしょか。

お城は一部が公園として整備され、通称ニ郭には模擬櫓が建っています。お城全体は軽めのハイキングコースみたいなちゃんとした道があるので誰でも気軽に散策出来ます。又、城域を過ぎて南西へ尾根を進むと同じ長窪城のリア攻めマップにある根羽城に至ります。ちなみに丸子城から根羽城へ行く道は崩落危険で通行止めなんですが、何処に崩落危険があるのかは理解に苦しむところです。

城域南西端を過ぎても堀切が細かく設定されていたり謎地形があったりするので公園等と侮るなかれ…そして山城初心者には入門に最適なお城だったりもします。周辺諸城を見渡せるロケーションも素晴らしいので丸子に来る事がありましたら是非最初に訪ねてみて下さいまし。

2021年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
鳥屋城(烏帽子城)[長窪城  周辺城郭]



鳥屋城は長窪城の北西約4.5km、依田川と内村川に挟まれた北東へ延びる山塊尾根上、標高850.6mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は250m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、支城である鳥屋山砦が鳥屋甚八郎なる者によるものなんで、これが正しいとするなら鳥屋氏でいいんじゃねぇ…この鳥屋氏の出自となると話は別物ですが…

お城は岩村田大井氏の利用があったとされています。一時期岩村田大井氏は武田氏に従属してましたが、上田原の合戦で武田氏が村上氏に敗れるとこの地域で叛旗を翻します。その際に武田氏に徹底的に殲滅されたらしく、武田氏の業務日誌を基にしたらしい高白斎記には高鳥屋(鳥屋城か?)の籠城の衆を悉く討ち取った旨の記述があります。前日には武田晴信が高鳥屋に登って見物した事の記述もあって話に合点がいかなくなりますが、武田晴信が登ったであろうお城の一つに比定されてます。

行き方は3つありますが、自分の下山ルートで使った登城路を紹介します。国道254号線を武石方面から北へ進むとお城のある山塊尾根下を貫通する小屋坂トンネルにぶつかります。到着したらトンネルの入口右側に路側帯があるので車を捨てましょう。この路側帯の奥に獣柵ゲートがあり、道なりに進むと尾根の切り通しにぶつかります。この切り通しを右に行くと根羽城を経て丸子城、左に行くと鳥屋城に至ります。根古屋っぽい怪しい地形を通って高みを目指して登れば尾根筋に出ると思います。

お城は素晴らしいっす。特に堀切の美しいお城で主郭部北側には5条の堀切、正確に言うなら三重堀切+二連続堀切でしょか。堀切から延びる竪堀も集合したりしてて感動します。主郭部南側にも二重堀切、1条は圧巻の大堀切です。更に尾根を南方へ進むと実に細かく遺構が残っているんですが、説明すんのが面倒なので現地に赴いて下さいまし。大手筋は主郭部西側で段郭が設定され、隣りの山塊とは人一人が通れるぐらいの自然地形?の土橋で繋がってます。が、土橋の真ん中に松の若木が数本成長中で通る時に腹立ちます。

お城は地元の保存会の方々によって定期的に整備されています。余計な物を足さない、必要な物を削らない。実に理想的な整備ですので、鳥屋城攻めの本拠となった長窪城に来る事がありましたら是非訪ねてみて下さいまし。

2021年01月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
鳥羽城[長窪城  周辺城郭]



さてさて一回で納めようと思ったけど、前回は登城の苦労を書いてたら字数があっという間に足りなくなってしまったのでその続きなり。

物凄く頑張って城域に入ったんですが、お城は長い年月を掛けて甘々になっていて、死ぬ程努力したのに「労を多とする。」とだけ上司に言われた時と同じ気持ちにさせてくれます。見所は堀切の1条と主郭部の段々ぐらいでしょか。ただ縄張図外に結構な竪堀が確認出来ます。面白いのはこんな山の中なのに小屋掛け出来そうなぐらいの広めの削平地があること(住みたくはない。)。そしてびっくりすることに城址碑があることです。しかもただの城址碑と違いまっせ〜宝暦四年(西暦1744年!)福島某によって建てられたもので「鳥羽氏先世塁址」と刻まれてます。

築城年代は不明ですが、築城者は鳥羽氏と考えられ、天文年間には福島肥後守という方が城主だったらしく、この方は天正壬午の乱の際に依田信蕃に従い岩尾城攻めで討死しているそうです。城址碑を建てたのは福島某なので、この福島姓は鳥羽氏に連なる者が改姓したと考えてよさそうです。じゃなきゃこんな山の中に墓石大の石を持ち込んで先祖が築城した城跡を明らかにするなんてことはやらないでしょう。

帰りは行きに辿った道?を戻りたくなくて主郭部から南西にある尾根筋を直下山することを迷うことなく決断、登れば急坂でしょうが帰りは比較的すんなり麓まで下りてこれました。所用25分位(行きは2時間位)でしょか。ところが依田川の急流が行く手を阻み駐車場所に戻れない…結局橋を探すのに南下すること50分…河川敷を歩いたり、再び山に入ったりの繰り返しで疲れがピークに…最後までおいらを苦しめてくれました。登城中に見つけた祠に「こにちは〜」ぐらいの挨拶しかしなかったのが原因すかね…それでもお山はおいらを無事に日常に帰してくれた!となるとやっぱり神様はいるのです。

※安全なルートを開拓しましたが、説明出来ないし、自分しか判らないと思うのでそれはパス…城友さんすまない。

2021年01月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
鳥羽城[長窪城  周辺城郭]



鳥羽城は長窪城の北東約3.4km、国土地理院の地図にも記載がある標高843.8mの鳥羽山山頂に主郭が存します。西麓からの比高は290m位でしょか。鳥羽山は登山道が無い上に西麓に急流の依田川が流れており、橋梁が極端に少なくアプローチに苦慮するお山です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の龍福寺を目標に設定して下さい。敷地内に鳥羽稲荷大明神てのがあるので、この背後から延びる尾根から取り付きます。

自分の今までのリア攻め史上最大の恐怖と苦労を味合わせてくれたのがこの鳥羽城です。低登山ではありますが、装備はある程度のクライミング出来る格好を…自己確保が取れる技術がある方は保険を掛けた方が確実でしょう、お城廻りで滑落したら洒落になりません。本当に山登りが嫌いだわ…

まず尾根筋を登って行きますが、最初の平場に出るまで松枯れで倒木が凄まじいです。傾斜はそんなに無いのですが無駄な体力を消耗します。道案内は鹿の足跡…城域まで連れてってくれますねwそして平場を過ぎると最初の急崖に…幅はあるので左右に落ちる心配はないのですが、ポイントを考えながら登らなければならず必要なのは体力と技術と精神力と想像力…

この急崖を登り切ると稜線上に到達、最初に城域に入ったと勘違いするポイントですがただの岩場です。更に細尾根を経て急崖に…泣きそうになります。この急崖を登り切ると祠がある削平地に到達、遂に城域に入ったと確信して城友さんにLINEしましたが「主郭には城址碑があるよ。」との無情の返事が…サポートTHANKS!此処じゃなかったぜ、気持ちを取り直して高みを目指して更に南進、今度は下るじゃねーかっ!

そして現れたのは最大の難所、人一人がやっと通れるぐらいの痩せ尾根が30mぐらい、途中には御丁寧にも岩場が付いちょる…右はほぼ垂直の断崖、左は急崖、落ちても即死にならないように左を意識して進みます。岩場では身体が恐怖で震えちゃって能力がちゃんと使い切れない…情けなくも岩場に抱き付くように乗り越えました。

この後に待ち構える急坂を登り切れば城域にやっと入ります。騙される擬似城域が二箇所…登城路を参考にさせて頂いた先人様も初アタックでは勘違いしたらしいっす。

お城の続きは次回に…

2019年05月19日 信州左衛門佐克幸
長窪城



大手口は全く人が訪れた様子がない。枯れた松の葉が足元を滑らせます。茸のシーズンは進入禁止だそうです。

2019年01月13日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
和田城[長窪城  周辺城郭]

和田峠を使って上田方面へ、または諏訪方面へ抜けようとされる皆さん。悪いことは申しません。冬場は旧道を通らず、是非新和田トンネルをお使い下さい。その際料金所手前の道の駅やコンビニに入ってからトンネルを目指して下さい。いいことがありますよ!(割◯券が手に入ります)

2018年12月27日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
長窪城

搦手側から上り、昌幸が作った連続竪堀と土塁の連続を楽しみながら主格を目指すと面白いですよ(^-^)
秋のキノコの時期は一部止め山になっていますが、それを除けば大手口まで往復出来ます!真田昌幸の山城を堪能して下さい\(^-^)/
駐車場は付近にありませんし車道も狭いため、長和町の道の駅(マルメロの里 温泉ありますよ)や神社の駐車場に止めることをお勧めします!

2018年03月31日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
和田城[長窪城  周辺城郭]

≪駐車場、交通機関、施設等≫
車の方は長和町国道142号線沿いにある「和田宿ステーション」に駐車場、トイレがありますので活用してください。

公共交通機関は、バスのみです。上田駅から長久保行きに乗って下さい。長久保停留所で男女倉行きのバスに乗り継ぎ「上和田」停留所で降りて下さい。停留所にトイレもあります。本数が少ないので、注意してください。

周辺には、セブンイレブン、和田宿ステーションの裏側には、日帰り温泉の和田宿温泉があります。和田宿温泉では、蕎麦など食事も出来ます。

2018年03月31日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
和田城[長窪城  周辺城郭]

≪注意点≫
山の北側は止め山となっており、入らないように、といいますか、崖から落ちないよう、ビニールテープが張られていますので、そこから出ないように気を付けて下さい。また散弾銃の薬莢等が落ちており、狩猟期間中の入山は目立つ服を着るなどをして特に気をつけて下さい。野生動物の糞も沢山あり、熊避け等の道具が必要です。

道中、滑る場所があるので、軍手や滑りにくい靴があると安心です。

2018年03月31日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
和田城[長窪城  周辺城郭]

旧中仙道和田宿の北に横たわる山全体が山城和田城址です。登山口は、長和町の国道142号線役場前信号交差点から山側へ入り、県道172号線に沿って和田宿から山を回り込むと見えてきます。登山口から主郭までは手摺が付いており、崖っ淵を歩く場所等があるものの、とても登り易くなっています。

神社の建つ場所から主郭までは、三段の曲輪と深い横堀が連続し、美しいです。
主郭部には西側から北側まで土塁が残っています。この主郭部から山頂の郭までの道のりが山城好きには一番楽しい場所だと思います。

主郭の直ぐ裏側には、美しい三段堀切が残っており、見応えがあります。更にここから頂上の郭までは、馬の背のような稜線上を歩きます。気を付けて進んで下さい。南側は急斜面、北側は高い崖の下に川が流れており、稜線上随所に掘られている堀切跡から下を望むと、この山城の堅固さが分かります。山頂部の郭は比較的に広く、その郭に沿って下に二段の曲輪跡が残っています。

2015年09月27日 宮内大輔オヨ島
長窪城

城跡はとても眺望が良く、戦国武将の気持ちになりました。

2011年10月03日 赤いRVR甲斐守@松本
長窪城

現在、主郭までは行かれますが、南側の遺構群は、止め山のため入れません。

長窪城の周辺スポット情報

 長窪城説明板(碑・説明板)

 木曽義仲挙兵の地(碑・説明板)

 鳥羽城(周辺城郭)

 鳥屋城(烏帽子城)(周辺城郭)

 丸子城(周辺城郭)

 山の鼻砦(周辺城郭)

 箱山城(周辺城郭)

 中山城(周辺城郭)

 入大門日山(火山)物見(周辺城郭)

 窪城の古城(周辺城郭)

 窪城とんがり山物見(周辺城郭)

 勝見砦(周辺城郭)

 依田城(内山城)(周辺城郭)

 開戸城(義仲古城・依田城)(周辺城郭)

 丸子城本居館(辰ノ口館)(周辺城郭)

 丸子城安良居神社館(周辺城郭)

 鳥羽館(戸羽館)(周辺城郭)

 依田氏居館(殿入)(周辺城郭)

 依田常憲屋敷(周辺城郭)

 堀之内居館(周辺城郭)

 大年寺館(周辺城郭)

 宗龍寺館(周辺城郭)

 御岳堂館(周辺城郭)

 高築地館(周辺城郭)

 武石城(大和守屋敷・大井本城)(周辺城郭)

 猿ヶ城(周辺城郭)

 物見石山(周辺城郭)

 冬小屋物見(周辺城郭)

 丸子城おたや居館(周辺城郭)

 丸子良存館(東町館・お城屋敷)(周辺城郭)

 根羽城(小屋城・高松城)(周辺城郭)

 小山城(周辺城郭)

 鳥屋山砦(石尊山)(周辺城郭)

 金ヶ崎城(周辺城郭)

 中山城(城山)(周辺城郭)

 御所平居館(周辺城郭)

 御岳山城(周辺城郭)

 古町の堀の内館(周辺城郭)

 相馬伊勢守屋敷(周辺城郭)

 矢ヶ崎城(城ヶ峰)(周辺城郭)

 宇津野の屋敷(周辺城郭)

 竹屋敷(上野の屋敷)(周辺城郭)

 信定寺館(周辺城郭)

 古屋敷(周辺城郭)

 和田城(周辺城郭)

 正海清水(寺社・史跡)

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