戸石城(といしじょう)
戸石城の基本情報
通称・別名
- 砥石城、伊勢崎城、(米山城)
所在地
- 長野県上田市上田城山2505-ホ他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 真田氏?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 村上氏、真田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財
- 県史跡(戸石城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
真田氏館(長野県上田市)[2.4km]
横尾城(長野県上田市)[2.8km]
真田本城(長野県上田市)[3.4km]
上田城(長野県上田市)[4.8km]
松尾古城(長野県上田市)[5.9km]
岡城(長野県上田市)[11.8km]
葛尾城(長野県埴科郡)[11.9km]
塩田城(長野県上田市)[13.2km]
荒砥城(長野県千曲市)[15.2km]
小諸城(長野県小諸市)[15.6km]
戸石城の解説文
[引用元:Wikipedia「戸石城」の項目]
戸石城(といしじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった日本の城(城郭)。形式は山城。別名は砥石城。長野県指定史跡[1]。
地勢
東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。上州街道を真田郷を経て鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。南西部には上田原が広がり、千曲川沿いに下ると埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡ると佐久郡を経て上野国や甲斐国に至る。また上田原を更に西に進み和田峠を超えると筑摩郡へと至る。本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城(小宮山城)、南の戸石城などを含めた複合城郭。
歴史
築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。『神使御頭之日記』によれば、天文10年(1541年)5月に海野氏の一族は海野平の戦いにおいて甲斐の武田信虎、信濃埴科郡の村上義清、信濃諏訪郡の諏訪頼重らの連合軍に敗退し、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らは上野国へ逃れる。砥石城は村上義清が小県郡・佐久郡方面の拠点として大改築した(砥石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。
砥石城は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目に位置し、塩田荘など小県郡の村上領と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。
天文10年(1541年)6月、甲斐国で武田信虎が嫡男の晴信(信玄)により追放される事件が発生する。信虎は信濃の諏訪氏と同盟していたが、天文9年(1540年)に海野棟綱の要請で上野の関東管領・上杉憲政が佐久・小県郡へ出兵し、諏訪頼重は武田・村上両氏に断ることなく上杉氏と和睦し、領地の割譲を行った。晴信はこれを盟約違反として、天文11年6月に諏訪へ出兵すると頼重を滅ぼし、諏訪郡を制圧した。
その後、晴信は村上義清や信濃守護・小笠原氏と敵対し、佐久・小県両郡へ出兵する。天文17年(1548年)2月の上田原の戦いにおいて村上方に大敗したが、同年7月の塩尻峠の戦いで小笠原氏を駆逐すると、松本一帯を制圧した。
天文19年(1550年)8月、晴信は砥石城攻めを行い、再び村上義清に敗退する(戸石崩れ(砥石崩れ))。この時の状況については『勝山記』に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。同年9月、武田家臣となっていた真田幸綱(幸隆)が砥石城の攻略を命じられ、天文20年(1551年)5月に陥落させる。『高白斎記』によれば幸綱の砥石城攻略は「乗取」と記しており、調略を用いたと考えられている。砥石城を含む幸綱の本領であった真田郷の地を与えられた。天文22年(1553年)に晴信は砥石城の改修を命じ、幸綱は小山田虎満とともに城普請を行っている。
村上義清は同年3月に本拠である葛尾城(長野県坂城町)も放棄すると、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り亡命した。
砥石城攻略後、天文23年(1554年)8月に武田氏は南信濃の伊那郡の国衆を服属させると北信濃へ侵攻し、北信濃の川中島四郡をめぐり越後の長尾景虎との川中島の戦いが繰り広げる。幸綱も川中島の戦いや、西上野における戦いで活躍している。
武田氏滅亡後の天正13年(1585年)8月2日・8月20日には、上野国沼田郡・吾妻郡を巡る争いから、三河国の徳川家康と、武田家の滅亡後に自立した真田昌幸との間で上田合戦が起こる。徳川勢は甲府から新府城(山梨県韮崎市中田町中條)を通過して上田城へ向かい、昌幸は越後国の上杉景勝と連携して徳川勢と戦った。一方、徳川家康は相模国の北条氏直と連携しており、真田領は両勢が衝突する地点となった。この戦いで、砥石城のほか上野の岩櫃城・沼田城などは上田城の支城として利用された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中山道を西へ進む東軍の徳川秀忠率いる軍勢に対し、西軍に属した真田昌幸は上田城においてこれを迎撃し、秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に砥石城攻めを命じ、9月5日に城を明け渡させている。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
[続きを見る]
戸石城の口コミ情報
2024年11月03日 鈴木剛
櫓門[戸石城 遺構・復元物]
坂を登って行くと櫓門がみえてきます。櫓の壁には看板が有り、それによると以前は櫓門の上に登ることができたようです。今はどこから登ればいいのかわかりません。
2024年10月20日 鈴木剛
戸石城大手口[戸石城 碑・説明板]
ここから陽泰寺ヘ向かう途中に水の手があり段郭も数多く配置されているそうです。本城、桝形城の方に抜けたのでこの先には行ってません。
2024年10月19日 鈴木剛
米山城[戸石城 周辺城郭]
米山城は、砥石城の西南の峰続きにあって本郭の南下に二の郭・三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれています。白米を使って馬を洗う白米伝説も残っているそうです。
2024年07月27日 ◇オレンジ◇左衛門督
戸石城
石碑に刻まれてる言葉通り、たどり着くには気合いと根性が必要な道程でした。
暑くなく、晴れてる日に登るのが良いと思います。
2024年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
豊城[戸石城 周辺城郭]
豊城(ほうじょう・ゆたかじょう)は戸石城の西南西約2.1km、千曲川北岸(右岸)、太郎山系山塊を構成する一つ、標高約1231mの柏山から南方へ伸びる尾根端部上、標高約620mの小ピークに立地する狼煙台か物見台の類いです。南麓の国道18号からの比高は135m位でしょか。但し、該当尾根は太郎山系山塊の南方裾野、染谷台地上に張り出す山尾根であり、西麓、山口集落中心部からの比高となると50m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている該当尾根末端部上(弥吾台て呼ばれる場所らしい。)に建つ飲食店、「サンポー」を目標に設定して下さい。此処から果樹園脇の農道を徒歩で進み、農道が消滅したら送電線の鉄塔用保安道を続けて登る。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築城年代、築城者は不明、一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
里俗伝によると、戸石城の米山城からの狼煙を受けて同じ戸石城のリア攻めマップにある花古屋城に伝える繋ぎの狼煙台だったんだそう。台地上に張り出す該当尾根上は展望に優れ、狼煙の中継点、物見の場としては適当である。
再訪となる。個人的な話で恐縮なんだけど、スマホで撮影した城郭写真の殆どを誤って削除してしまい、最近は新規開拓と並行して再訪にも労力を割いているのさ。
お城は主郭とその南側下段に腰郭を持つだけの縄張、堀形も1条見られるが埋まり気味、堀切と断定するのは難しい代物だ。該当尾根は西側斜面においてはなだらかであり、そもそも論で守る意識が希薄、過去には城域の際まで耕作されていたそうなので尚更に感じる。主郭には三峯社、別に小祠1基が鎮座、削平だけはしっかりしている。
根本的に狼煙台や物見台の類いは守らなくてもよい場所だ。守るとすれば人数が必要だし、そうなると要害が手不足に陥いる。豊城に城郭遺構が殆ど確認出来ないのは至極当たり前の話しだと思う。
写真を撮り直すためだけに薄い物件を再訪する…二度と訪れる事はないて思ってたのにまさかねぇ…基本的に村上連珠砦コンプリートを目指す変態のみが訪ねるお城だと思う。口コミも薄めにしとこう…
※ 村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※お城の名称、「豊城」は小字として残っている。
※写真①は送電線の鉄塔用保安道、道てよりは草むらっす。
※写真⑧は西麓、山口集落から撮影した近景っす。たぶん一番高い所だと思う…
2024年04月18日 けろりん右京大夫
戸石城
戸石城から本城、桝形城に行き、戻って米山城に登城しました。一連の尾根づたいにに段郭や空堀、切岸など見やすく整備されていました。結構勾配が急で、往時の攻めにくさを感じました。落葉などで滑りやすく、下りは膝にくる感じで、個人的にはトレッキングシューズ装着で良かったと思いました。
2024年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒城[戸石城 周辺城郭]
荒城は戸石城の西方約3.4km、千曲川北岸(右岸)、上田市民の山、標高1164.5mの太郎山から南方へ伸びる尾根中段上、標高約905m地点の平場を中心に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は320m位でしょか。城域周辺の直下では上信越自動車道の太郎山トンネルが東西に貫通している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので太郎山の牛伏コースてのをネットで検索してから登ってね。該地はこのコース上となり、お城の説明板もしっかりと立っている。同じ戸石城のリア攻めマップにある牛伏城から殆ど太郎山山頂を目指す勢いでひたすらに登る…展望も悪いし兎に角、だるいっす(最近は登山トランス状態に自分を追い込めなくなっているんすわ…)。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と総称される根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
村上連珠砦は完全制覇がしんどい城砦群、虚空蔵山とそれに隣接する太郎山に集中するとはいえ、尾根が違ったり高度もばらばら、縦走自体が極めて困難、地道に区域を定めて個別にそれぞれを訪問していくしか道は無い。はっきり言えば毎回コースの違う低登山の繰り返しを重ねる必要がある。又、突拍子も無い変態城もあるんだけど、残念なものも多分に含む。そもそも論でノーマルな方は制覇する必要性が微塵も無い。
幸いな事に荒城は城砦群の中ではまともな砦の一つ、謂わゆる山城然とした趣きで普通に安心出来る。10人詰めるのがやっとの主郭に段郭状の腰郭を持つだけのコンパクト過ぎる縄張だが、尾根筋を断ち切る堀切は総計6条…阿保なんすよ…基本的に考えてる事が…その内の2条は埋まり気味だけど、一部は岩盤層を穿ち落とし込みの竪堀も確認出来る。又、信濃のお城の神は郭として縄張図に描いているが、主郭のコの字形の土塁には萌える事間違い無し。
虚空蔵山と太郎山は通年で崩落を繰り返しているようなお山、該当尾根筋も城域に入ると急峻となり尾根幅も急激に狭まる。縄張は明らかに地形を選んで占地されたもの。信濃の貧乏な砦感を誰でも感じ取る事が出来る。又、守る気満々な縄張ではあるけど、築城主体はこの砦に攻め寄せて来る人数を100人を超えない範囲と見積もっている。そして砦の失陥が大勢を決するような戦いの帰趨には何の影響を及ぼさない事も既に知っている。この類いの吹けば飛ぶよな城砦が存在として成り立つのはそうした理由があるからだと思う。
※村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※荒城の「荒」は急造の「荒」か、新造の「新」を意味するが、現地に赴いてもどっちなのかはさっぱり…仮に新造だと仮定すると古城とする対象が存在しないように思う。
※登山トランス状態とは…足元だけを見て何も考えずに無の境地で登るかずり特有の登山法、気が付くと目的地だったりするんで重宝する。但し、腹ぺこの時には絶対に発動しない。
2024年03月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
牛伏城(牛頸城)[戸石城 周辺城郭]
牛伏城(牛頸城)は戸石城の西方約3.7km、千曲川北岸(右岸)、上田市民の山、標高1164.5mの太郎山から南方へ伸びる尾根端部上、標高687m地点の平場に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は100m位でしょか。上田城を訪ねた事のある方なら認識はしていなくとも太郎山を必ず見ている筈…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので太郎山の牛伏コースてのをネットで検索してから登ってね。該地はこのコース上となり、お城の説明板が突然現れる削平地上にしっかりと立っている。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と総称される根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
おいらは凡ミスをよくやらかすけど、制覇した気になっていた村上連珠砦の内、一つだけ未訪問となっているお城の存在がある事に去年の末に気付いた。それはこの牛伏城の上段に立地する同じ戸石城のリア攻めマップにある荒城なんだけど、これを訪問するために今回、牛伏城を再度通過する事に…あの時気付いていたらなぁ…まぁ折角なんでリア攻めはしっかりとさせて頂いた。てか通過するだけでも80%以上は既に完了していると思う。
お城は尾根上に単郭の縄張だが、主郭の面積は意外にも広く、その主郭北側山側背後を幅員のある堀切で断ち切っている。主郭の土塁は明瞭、堀切は東側端部で二重竪堀となり、別に竪堀が2条付く。こう書くと立派なものだが、堀切は幅員があり過ぎてファジーだし、二重竪堀はもっとファジー(根本的にそう見えない…)、本当にそうなのか?等と疑問も抱く。堀切内には水が湧いている箇所があり、そもそも論で堀切ではなくただの鞍部なのかもしれない。土橋様の地形も確認出来るが、この湧水に付随する単なる遮蔽土塁の可能性すら感じる。全体的に言えば主郭は気持ちすっきりと見れるが、それ以外の部分ではもやもやを抱える事になるだろう。
村上連珠砦て村上氏の小県郡進出後に築かれたもので間違い無いと思うんだけど、小県郡の最重要拠点である戸石城と村上氏の本拠、埴科郡坂城郷とを千曲川の北岸(右岸)、山塊山中で結ぶのがその目的であったと個人的には解釈している。現在はあっと言う間だが、往時は近世の北国脇往還、現在の国道18号に準ずる平地の道筋は無く、太郎山に入って虚空蔵山を山越えするか、千曲川を対岸に渡って室賀峠を越えた後、再び千曲川を対岸に渡って坂城郷に入るしか道筋は無い。
村上氏が埴科郡にあった頃の村上連珠砦の動向は全く不明なんだけど、「天正壬午の乱」の際には上杉氏被官の島津泰忠が虚空蔵山に兵を入れた事が文書で確認出来る。何故兵を入れたかって?…話は別の機会に譲るけど、そう、みんな大好き真田安房守昌幸の御登場て訳だ。昌幸の持つあの「表裏比興な感ぢ?」に惹かれるよて方はその足跡が残る村上連珠砦も是非…
※村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※牛伏城からは上田城がよく覗ける。おいらは牛伏城が村上氏の手によるものではなく、上杉氏が真田氏による上田城築城を牽制するために兵を置いた場所の一つだと考えている。城砦群の中では最も小勢を動かし易いお城、守り難い広めの単郭である事もその理由としたい。
※虚空蔵山山頂は上田市上野の内だが、往時の認識では小県郡ではなく埴科郡の内である。
※該当尾根筋、牛伏城の下段一帯には見事な石積み(写真⑦がその一つっす。)が多数見られるが全て後世の桑畑のもの。積み方はどれも戦国時代の城郭遺構と大して変わりがない。
※写真⑧は東麓、松尾宇陀神社・白蛇神社のなんちゃらの木、上田にも春がやって来た。
2022年11月01日 よあ大宰大弐
戸石城
櫓門前の駐車場に車を置いて、城下を歩いて抜けて15分くらいの、大手口登山路から登城。本城跡あたりに出ます。こちらのが階段がなくて楽だったかも。そこから枡形城跡、本城跡、砥石城跡、米山城跡とめぐり、櫓門口におりました。
2022年06月12日 長けた 右兵衛督 進言
戸石城
真田信幸も籠ったと言われる城です。大手門登城口より300mほど離れた所に駐車場があります。案内板があるので目印にすると良いと思います。山城ですので、それなりの格好で挑む事をお勧めします。のぼりや立て看板等は整備されてはいましたが、多少の藪・ヘビ・虫には注意しておいた方が無難です。
2022年05月08日 尼崎城駿河守一口城主
戸石城
5月2日、今回計画したGW信州お城巡りで一番楽しみにしていた真田の郷巡りを砥石城からスタート。上田城下町からバス🚌で真田の郷に向かいゆきむら夢工房でレンタサイクルを借り砥石城(米山城、本城、桝形城)→信玄の鐘掛けの松→真田記念公園→真田氏館、真田氏歴史館→真田氏本城→長谷寺→日向畑遺跡、松尾古城登山口→山家神社、真田神社→信綱寺と真田相伝六神社御朱印巡りも挟みながら駆け回りました。
いよいよ本題に入ります。砥石城(+3城)は地元の方々に手入れ、整美されているように見受けられ登山道も歩きやすく道標もあり非常に登りやすいお城でした。米山城を一旦下って砥石城に登る階段がややきつかったかなと思うくらいでした。砥石城まで登ると本城〜桝形城はほとんど横移動しているような感じでした。
米山城には村上義清公の碑があり信玄公も苦戦した舞台に立っているんだなあと歴史ロマンに浸っていました舞台。城跡頂点には景観図があり周囲を見渡すのに非常に参考になりました。下城後に信玄の鐘掛けの松🔔も、見てきました。
2022年04月13日 しげしげ主税頭信繁
戸石城
櫓門跡登城口から攻めました。
登り始めはなだらかで広く快適でした。突き当たりで左に行き米山城へ先ずむかい20分程で主郭跡に到着しました。村上義清さんにご挨拶して元来た道を通り先程の分岐点から今度は砥石城へと向かいました。途中に心臓破りの階段を休み休み登り20分程で砥石城主郭に到着しました。
そしてさらに奥の本城へはそれほどの登り下りもなく地形を堪能しながら15分。その先更に枡形城へと突き進みました。
簡単に書きましたが、素晴らしい城址です。自分的には続100名城です。
2021年08月14日 三春田村氏
陽泰寺[戸石城 御城印]
御城印販売所。道が狭く、猫を飼われているので車の方はご注意を
2021年02月16日 mootze
戸石城
冬に、登れるとは思いませんでした、雪がなく、登城口から本丸まで、体力がないと、きついです、本城付近は、お城ファンならば、絶対に、見て喜びます、景色は真田さんの思いで、見れば良い所だと、わかります、
2021年01月04日 赤かぶ【】
花古屋城[戸石城 周辺城郭]
車で行く場合は国道18号上田バイパスの新田の交差点を山側に登って行きます。反対側は上田城・上田市街方面になります!道なりに進むにつれ道幅は狭くなります。進んで行くと高速道路の橋が見えますのでその手前に登山口(登城口)があります。
車は皆さん周辺の路肩に整然と駐車していました。休日等は結構台数も多いので事故などお気を付け下さいませ!!
お城については城友様の口コミの通りで素晴らしいですよ♬︎主郭南側の郭群を見学の際は切岸の高低差もあり足元も悪いので十分注意して下さい!
2020年11月24日 りょうさん飛騨守
戸石城
戸石城という名称の郭は、小さく物足りなくありますが、他と合わせて四つの別郭の大城郭でした。とくに本城の広さには、驚きました。戸石城で、帰ってしまう人が、沢山いたので、是非、奥の本城と枡形城まで、行ってほしい城です。
2020年02月20日 対馬守松太郎
花古屋城[戸石城 周辺城郭]
付近(太郎山裏参道)でツキノワグマ出没の情報がありました。暖冬の影響で冬眠から覚めた熊と遭遇する可能性があります。お気をつけください。
2020年02月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
花古屋城[戸石城 周辺城郭]
花古屋城は戸石城の西方約2.8km、上田市民の山として親しまれている標高1164.5mの太郎山から南東へ延びる尾根上、標高約704mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は120m位でしょか。このお城も村上氏連珠砦の一つで、太郎山登山道の一つである太郎山表参道から少しだけ外れた場所に位置し、この城砦群の中では最も安心(登山者が沢山通ります。)して見学出来るお城だと思います。
村上氏連珠砦は物見台程度のものから城郭規模のものまで様々ですが、このお城はその中でも最も大きな部類に入るものです。魅力的なものが多いこの城砦群ですが、はっきり言って苦労対効果の面から行くのを躊躇するものもあるのも事実(低登山になります。)でその選択に迷うところがありますが、このお城は整備された登山道を15分位登れば到達するので、健脚で無くとも気軽に訪ねる事が出来ます。行き方は太郎山表山道登山口から登って七丁丁石の祠まで、そこに真新しい案内板が立っていますので迷うことは0%です。ちなみに八丁丁石まで登ると城域の最北端に出ます。
この登山道には縄張図に無いのですが、2条の竪堀様地形に並走しています。1条は送電線の鉄塔建設のための作業道ぽいですが、もうひとつはたぶん本物でしょう。麓付近の谷まで落ちる大きなもので誰がどう見ても竪堀です。
お城は素晴らしいです。主郭北側山側背後の堀切、そこから西側斜面を下る竪堀は途中で別の竪堀と集合して感動もの。主郭には土塁が付き、土塁の前には天水でも溜めたのか大きめな窪地があったりします。又、主郭の南側尾根は相当数の段郭で守り、所々を堀切で遮断しています。主郭と段郭の一部には石積みが散見されます。
村上氏連珠砦は最近整備が進んでいるらしく(こんな所に説明板が!みたいな場所も…)、このお城も冬であることを差し引いても、10年位前の写真と見比べて隔世の感があります。この城砦群(和合城、物見城、ケムリの城は必見!)に興味を持ちましたら、手初めにまずこのお城を訪ねてみて下さいまし!
2019年05月05日 わる爺陸前守
義清街道登山口駐車場[戸石城 駐車場]
スポット名は正式なものではありませんが地域の呼び名から命名。狭い道の両側に砥石と米山の由緒書板がありました。
2016年12月02日 野呂利左衛門督休三
戸石城
城の西麓に金剛寺、東麓に伊勢山の各集落があります。
西の金剛寺集落は村上時代の城下で、城代屋敷とされる土塁跡や、事実は不明ですが村上義清と関係があるとする義清水と呼ばれる井戸、1332年に海野幸則開基の洞源寺などがあります。当時はここから北に向かい金剛寺峠を経て城に入ったとされています。金剛寺集落の西側には柏山城(未登録)があります。
東の伊勢山集落は真田時代の城下です。
海野幸実開基の陽泰寺があります。この地域は白壁の家が多いです。伊勢山集会所の裏は飯綱城と呼ばれる砦跡で、立ち入れませんが曲輪跡と思われる地形が外からも見ることができます。
金剛寺集落のリーフレットが金剛寺公民館や米山城の登り口の、伊勢山集落の小冊子が陽泰寺そばの案内地図の、それぞれのケースに入っています。
2016年6月28日訪問
2015年10月27日 カーネル
戸石城
上田駅からバスで真田バス停で下車、松尾古城の登山口のある日向畑遺跡へ向かい、松尾古城に登りました
松尾古城から下山後に真田本丸に寄ってからバスで上田駅に戻る予定が、真田本丸の場所がわからず、あげく帰りのバスにも間に合わないという失態
時間が有り余っているので行くつもりのなかった戸石城まで歩くことにしました
行きのバスで一緒だった人が、幸村の郷でレンタルサイクル借りて走り回ってた。うらやましかった
とは言え、戸石城は北西から登り、枡形・本城経由で本丸へ。さらに米山城を経由して南に下山という、縦走コースは自転車では出来ませんので、歩きもいいですよ
大通りを避けて歩いたせいもあり、自販機がなくて干からびそうでした。戸石城からバス通りに出てバス停にたどり着けたのは真田バス停をでて5時間後
歩き計画している方の時間目安になれば幸いです
2014年12月01日 志能便左京大夫
戸石城
砥石城のほど近くに、真田氏最初の拠点とされる洗馬城と言う素晴らしい山城があります。
そこで、天然記念物のニホンカモシカと遭遇しました。感動です!
ただ、スズメバチもいました(>_<)
地元の人の話によると、真田町の山には熊も出没するそうです。
ご注意を!
2012年08月20日
戸石城
伊勢山口から登り砥石城、米山城、本城、桝形城と登城。戦国有数の山城 だけあり、全て見るにはかなりの体力をもっていかれます。ほぼ登山と考えて足下を固め、飲み物等は用意して行くのが無難です。たまたま一緒に登った地元の方が言うには、米山城は小学生の遠足等にも使われており、今も地中から焼米が出るとのことでした。
第一次上田合戦の際、真田信幸(後の信之)が戸石城から出撃し、上田城を攻める徳川軍の腹背を衝いたと言う事ですが、実際登ってみると、坂は急 で道も狭く、上田城までは直線で4キロ程あります。信幸勢は本当に戸石城から出撃したのか、疑問に感じました。
2012年08月13日 尻啖え孫市権中納言
戸石城
南方から砥石、本城、桝形と攻城。砥石までの登城で相当くたびれるも城跡の醍醐味は奥の本城、桝形にある。大手門、石塁跡など当時を偲ばせる遺構あり。頂で義清、信玄、幸村の郷愁を想う。
2010年11月03日 真田丸
戸石城
毎年11月3日(文化の日)には「砥石・米山城まつり」が開催されます。その時のみ会場周辺は車両通行止めになり、会場へはシャトルバスが運行されます。
2010年09月19日 まったり丹波守屋
戸石城
伊勢山側から登城。登山口付近は映画『サマーウォーズ』のモデルになったらしく看板が目立つ。
米山城、砥石城の分岐からは坂が急になる。砂利混じりなので滑らないように気をつけて下さい。ロープも張ってあるので軍手が有ると便利です。
戸石城の周辺スポット情報
切岸(遺構・復元物)
から堀跡(遺構・復元物)
福沢出丸(遺構・復元物)
櫓門(遺構・復元物)
金剛寺高土手(遺構・復元物)
水の手(遺構・復元物)
見張台(遺構・復元物)
矢竹(碑・説明板)
櫓門口登山道(碑・説明板)
戸石城碑(碑・説明板)
戸石城大手口(碑・説明板)
本城(周辺城郭)
桝形城(周辺城郭)
花古屋城(周辺城郭)
豊城(周辺城郭)
白山城(周辺城郭)
金剛寺城代屋敷(周辺城郭)
向ヒ屋敷見張番所(周辺城郭)
砥石城(戸石城)福沢出丸(福沢砦)A(周辺城郭)
砥石城(戸石城)福沢出丸(福沢砦)B(周辺城郭)
大久保の小丸山(周辺城郭)
長島の堀之内(周辺城郭)
櫓城(周辺城郭)
荒城(周辺城郭)
眉見林の城(眉間林の城・虎ヶ山の城)(周辺城郭)
金剛寺 西山城砦群A(西山城)(周辺城郭)
金剛寺 西山城砦群B(中の城)(周辺城郭)
金剛寺 西山城砦群C(花見城)(周辺城郭)
柏山城(古城・上の城)(周辺城郭)
柏山城(古城・下の城)(周辺城郭)
砥石城の番城(菊畑之城)(周辺城郭)
金剛寺峠の番所(周辺城郭)
内小屋(周辺城郭)
飯縄城(周辺城郭)
米山城(周辺城郭)
牛伏城(牛頸城)(周辺城郭)
荒木氏鴻臚公之墓(玄蕃山)(寺社・史跡)
陽泰寺(御城印)
義清街道登山口駐車場(駐車場)
櫓門口駐車場(駐車場)
金剛寺峠の地蔵尊(その他)