戸石城(といしじょう)
戸石城の基本情報
通称・別名
- 砥石城、伊勢崎城、(米山城)
所在地
- 長野県上田市上田城山2505-ホ他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 真田氏?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 村上氏、真田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財
- 県史跡(戸石城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
真田氏館(長野県上田市)[2.4km]
横尾城(長野県上田市)[2.8km]
真田本城(長野県上田市)[3.4km]
上田城(長野県上田市)[4.8km]
松尾古城(長野県上田市)[5.9km]
岡城(長野県上田市)[11.8km]
葛尾城(長野県埴科郡)[11.9km]
塩田城(長野県上田市)[13.2km]
富士見城(長野県小諸市)[14.4km]
荒砥城(長野県千曲市)[15.2km]
戸石城の解説文
[引用元:Wikipedia「戸石城」の項目]
戸石城(といしじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった日本の城(城郭)。形式は山城。別名は砥石城。長野県指定史跡[1]。
地勢
東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。上州街道を真田郷を経て鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。南西部には上田原が広がり、千曲川沿いに下ると埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡ると佐久郡を経て上野国や甲斐国に至る。また上田原を更に西に進み和田峠を超えると筑摩郡へと至る。本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城(小宮山城)、南の戸石城などを含めた複合城郭。
歴史
築城年代は不明だが、 天文10年(1541年)の海野平の戦いの頃には村上氏の東信濃攻めの拠点となっていたと考えられている[2]。海野平の戦いでは、甲斐の武田信虎、信濃埴科郡の村上義清、信濃諏訪郡の諏訪頼重らの連合軍に敗退し、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らは上野国へ逃れた。砥石城は村上義清が小県郡・佐久郡方面の拠点として大改築した(砥石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。
砥石城は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目に位置し、塩田荘など小県郡の村上領と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。
天文10年(1541年)6月、甲斐国で武田信虎が嫡男の晴信(信玄)により追放される事件が発生する。信虎は信濃の諏訪氏と同盟していたが、天文9年(1540年)に海野棟綱の要請で上野の関東管領・上杉憲政が佐久・小県郡へ出兵し、諏訪頼重は武田・村上両氏に断ることなく上杉氏と和睦し、領地の割譲を行った。晴信はこれを盟約違反として、天文11年6月に諏訪へ出兵すると頼重を滅ぼし、諏訪郡を制圧した。
その後、晴信は村上義清や信濃守護・小笠原氏と敵対し、佐久・小県両郡へ出兵する。天文17年(1548年)2月の上田原の戦いにおいて村上方に大敗した。
天文19年(1550年)8月、晴信は砥石城攻めを行ったが、10月1日に城の包囲を解いて退却するも、村上勢の追撃を受けて敗退する(戸石崩れ(砥石崩れ))。この時の状況については『勝山記』に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。天文20年(1551年)5月26日に真田幸隆が陥落させた。『高白斎記』によれば幸綱の砥石城攻略は「乗取」と記しており、調略を用いたと考えられている。砥石城を含む幸綱の本領であった真田郷の地を与えられた。天文22年(1553年)に晴信は砥石城の改修を命じ、幸綱は小山田虎満とともに城普請を行っている。
その後、1582年まで砥石城は資料に登場しないが、1582年頃の砥石城は伊勢山と呼ばれ、真田昌幸が家臣に出した書状から、昌幸が上田城築城前の一時期は拠点としていたことがうかがえる[3]。
武田氏滅亡後の天正13年(1585年)8月2日・8月20日には、上野国沼田郡・吾妻郡を巡る争いから、三河国の徳川家康と、武田家の滅亡後に自立した真田昌幸との間で上田合戦が起こる。徳川勢は甲府から新府城(山梨県韮崎市中田町中條)を通過して上田城へ向かい、昌幸は越後国の上杉景勝と連携して徳川勢と戦った。一方、徳川家康は相模国の北条氏直と連携しており、真田領は両勢が衝突する地点となった。この戦いで、砥石城のほか上野の岩櫃城・沼田城などは上田城の支城として利用された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中山道を西へ進む東軍の徳川秀忠率いる軍勢に対し、西軍に属した真田昌幸は上田城においてこれを迎撃し、秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に砥石城攻めを命じ、9月5日に城を明け渡させている。
参考文献
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
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戸石城の口コミ情報
2026年04月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
向ヒ屋敷見張番所[戸石城 周辺城郭]
さて、もはや居館、屋敷ですらないびっくり物件を紹介するぜ、だからってあんましびっくりすんなよな…
…番所ですわ、番所、現代なら交番て事になるんすかね、もはや警察署ですらない…近世城郭の城中にあるんなら皆さんの関心を引く事も出来るんだろうけど、あくまでも中世〜戦国時代の番所なんでそこは勘弁してくらさいな。「何でこんなのわざわざ訪ねるの?」て問われれば、「信濃の山城と館8、水内・高井・補遺編」に掲載があるから…て答えるんだけど、ガチにそり以上の理由は一切ありまてん…
向ヒ屋敷見張番所は戸石城の南南西約0.7km、神川西岸(右岸)、矢出沢川東岸(左岸)、標高約579mの段丘台地上平場に立地した番所です。簡単に言えば、同じ戸石城のリア攻めマップにある米山城の南西麓に当たり、立地から米山城に付随する番所だと推測されている。
行き方はGoogleマップに「米山城見張番所」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車で横付け出来るしそのまま路駐でOK♪クラクションを鳴らされたらリア攻めを切り上げてとっとと帰ろう。
築かれた年代は不明、築いたのは村上氏であろう。戸石城は、砥石城、本城、枡形城の三城で構成されているが、これに加えて、同じ戸石城のリア攻めマップにある、飯縄城、米山城、砥石城の番城、福沢出丸、内小屋、金剛寺城代屋敷、各番所等を構成要素に含む、戸石の城山を中心にして展開される純然たる城砦群の総称であると言ってよい。個人的にはその規模の大きさから、村上氏時代には、天文二十年(西暦1551年)五月二十六日の「砥石ノ城眞田乗取」まで、断続的ながらも普請は続けられていたものと考えている。向ヒ屋敷見張番所もそうした拡張の中で必要に迫られて設けられた道押さえの番所の一つであったろう。番所の西側を南北に通る道は、米山城の城下である金剛寺へと通じており、番所を過ぎて矢出沢川を渡ると中村の枡形へと至る。従って番所は単純に米山城にのみ付随するものとは言い難い面がある。
ちゃっちゃと終わらせよう。番所の現況は西側の舗装道路より一段高い平場(空地)となっており、敷地の東側には米山の城山の急な斜面が迫っている。古式の石垣が確認出来るが時代は不明、番所跡を想起させるものはその占地だけだ。全体的に見れば、「あ〜こんな感じになってるんすね〜」としか言いようが無いわ。
位置の特定が難しいかなと思ってたら説明板が立ち傍らには標柱も建っていた。設置者の砥石米山城跡保存会さんを大いにリスペクトしたいぜ。ちなみに同会が発行する、「米山城の里 金剛寺 歴史散策ガイドマップ」が秀逸だ。戸石城や米山城関連の全てを余す所無く教えてくりる裏戸石城ガイドマップとでも言うべき内容であり入魂の一作となっている。戸石城マニアはネットでダウンロード出来るので参考までに。個人的には番所の北側に立地したと云われる向ヒ屋敷の方が気になったんだけど、正確な位置も含めて情報等が全く探し出せなかった。
※探索は真面目にやっちょる。生真面目な美少年なんで…ネガティブな事ばかり書いたんだけど、訪ねればそれなりに楽しんでしまえる安い人間に成長したおいらには十分過ぎる程の物件だ。
※中村の枡形〜集落内の枡形だが何処だか判らんかってん…たぶん通り過ぎていたと思うさ。
2026年04月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
長島の堀之内[戸石城 周辺城郭]
長島の堀之内は戸石城の南南西約1.1km、神川西岸(右岸)、矢出沢川東岸(左岸)、標高約559mの丘陵台地西縁上平場に立地した居館です。簡単に言えば、同じ戸石城のリア攻めマップにある米山城が立地する標高734mの山稜の南方裾野が住吉の丘陵地上に消える場所でもあり、同城は居館の主の詰城、要害であったと考察されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど位置が完全に間違っている。従ってリア攻めマップを参照して居館地を特定しよう。車で横付け出来るし路駐でも全然OK♪レベルだ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小宮山氏と伝わるが、同氏は一筋縄ではいかない氏族であり、発祥、出自等をはっきりとさせる事が難しい。
鎌倉時代の備中国後月郡には大族の小宮山氏があったそうだが、その発祥は信濃国佐久郡小宮山であったと伝わっており、在名をそのままに西国へ移り勢力を扶植させていった事になる。「承久の乱」以降、新補地頭として吉備地方に移り住んだ武家は他にも例が見られる事から備中国の同氏もそういった氏族の一つであったのだろう。
信濃国の小宮山氏は、建暦三年(西暦1215年)二月十五日に発覚した「泉親衡の乱」の同心者として「籠山次郎 同国(信濃国)住人」の名が見られる(「吾妻鏡」)そうだが、同氏との直接の繋がりを明らかにする事は出来ない。一説によれば、佐久郡に割拠した、近隣の臼田氏や小田切氏等と共に滋野姓とも云われ、小県郡等に割拠した滋野三家の一つにして滋野氏の嫡流家、海野氏とは当然ながら同族という事になる。
佐久郡の小宮山は室町時代の中期には伴野氏による代官支配が及んでいる事から、それ以前に退転していた事は確実である。あくまでも個人的な推測に過ぎないのだが、小県郡の海野氏を頼り、該地の長島等に知行地を有していた小宮山氏の一族があった…等とは考えられないのだろうか。
「諏訪御符禮之古書」、享徳三年(西暦1454年)甲戌の条には、「一 小宮山花會滋野維貞御符之禮三貫三百文御頭役二十貫」、寛正二年(西暦1461年)辛巳御射山の条には、「下𡑭小宮山貞維御符之禮四貫六百文御頭役二十貫」、寛正五年(西暦1464年)甲申五月會の条には、「一 加頭小宮山滋野雅貞御符之禮三貫三百文御頭役二十貫」、文明五年(西暦1473年)癸巳五月會明年御頭定の条には、「流鏑馬浅野小宮山上田庄頭本打替々被勤仕候小宮山遠江守持貞代始御符禮三貫三百にて候を當年一貫八百にて御符を付御申候へ来年は引懸不可申候と被申候之間其分状ニ當年計は御意随候来頭には如先々三貫三百と書遣候使四郎頭役二十貫」、文明十五年(西暦1483年)亥卯明年花會御頭定の条には、「一 御堂小宮山幸貞御符禮三貫三百御頭役二拾貫寄子四ヶ地水殿三百」、長享二年(西暦1488年)戌申花會明年御頭定の条には、「一 加頭磯並上田庄御符禮五貫六百六十にて候を是へ三貫三百動足持來候使彌三郎代官今井重春同小宮山副状付候へは五百被出候小宮山幸廣」とあり、滋野姓を称する、小宮山維貞、小宮山貞維、小宮山雅貞(この三名は同一人物と考えられる。)、小宮山遠江守持貞、小宮山幸貞、小宮山幸廣の名が見られる。但し、これ以降、少なくとも同姓の小宮山氏については史料に現れなくなる。
居館の現況は…果樹園、耕作放棄地、空地等となっている。矢出沢川に面し、後背地には段丘台地の最上段面を控えている。城郭遺構云々の話ではなくなっているが、居館地の北辺底部を流れる用水路は堀形を通したものと推定されている。敷地範囲は曖昧だが崖端に占地されている事もあってそれなりに纏まりは良い方だと思う。
つい最近、アプリの家臣団コレクションに加えられた小宮山友晴は信濃国の出身とされているんだけど、その出自を佐久郡を発祥とする小宮山氏に求める事も十分に可能だ。但し、甲斐国の同氏については本姓を異にする全くの別系統とする説もありその論争に決着が付く事はない。
※「諏訪御符禮之古書」によれば、小宮山の姓は高井郡大岩郷の代官にも見られる。須田氏の被官であろう。
※写真⑥、背景中央に写る山稜が米山城の城山っす。
2026年04月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
米山城[戸石城 周辺城郭]
さて、読み方一つで世界が変わるもんだ。いきなりなんすけど、皆さんは「米山」を見て何て読みやすか?たぶん、大概の人は当然の如く「よねやま」て読みやすよね、おいらも実はそうだった。でもねぇ…そりが当てはまらない地域等もあるんすわ。今回紹介するのは、そんな「米山」を名称に冠する物件、おいらはあらゆる意味で誤解してやした…
米山城(小宮山城)は戸石城の南西約0.3km、神川西岸(右岸)、矢出沢川東岸(左岸)、標高1300.7mの東太郎山から南東へ伸びる支尾根端部上、標高734mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の矢出沢川からの比高は150m位でしょか。簡単に言えば、戸石の城山の隣峰に立地し砥石城とは尾根続きにある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある、西麓の「砥石・米山城跡登山口」か、南麓の「砥石・米山城 櫓門跡」からとなり、どちらにも駐車場が付いている。誰でも米山城の単独訪問はあり得ないと思われるので選ぶなら後者だ。
築城年代は不明、築城者も不明としたい。戸石城は、砥石城、本城、枡形城の三城で構成されているが、これに加えて、同じ戸石城のリア攻めマップにある、飯縄城、米山城、砥石城の番城、福沢出丸、内小屋、金剛寺城代屋敷、各番所等を構成要素に含む、戸石の城山を中心にして展開される純然たる城砦群の総称であると言ってよい。但し、米山城の発生については全く別の観点から捉える必要がある。
その立地から戸石城の出城との見方が大勢を占めておりそれは全く正しいのだが、米山城は戸石城城砦群を構成する一つとして新たに普請された訳ではなく、元からあった独立した在地土豪層の要害等を再利用したものだとする説がある。縄張的にも村上氏の要害としては単純に異質だ。。同氏の拠点城たる戸石城は、米山城では手狭に過ぎる事から築かれた要害であったと考える。
米山城の南麓に位置する、同じ戸石城のリア攻めマップにある長島の堀之内の館主は小宮山氏と伝わっている。同氏は滋野三家の一つにして滋野氏の嫡流家、海野氏の同族と推測されており、村上氏が小県郡に勢力を伸長させる以前には、米山城はこの小宮山氏の要害であったようだ。応仁二年(西暦1468年)の「海野大乱」に引き続き、同氏が厳しい立場に置かれていたと考えられる記述が「諏訪御符禮之古書」、文明五年(西暦1473年)癸巳五月會明年御頭定の条には書かれているが、小宮山氏はこの前後に居館地の長島を退転していた可能性が高い。
…さて前置きに戻ろう、おいらは「米山」を「よねやま」て読まない地域等もあるて言った。即ち、この要害における「米山」は「こめやま」て読ませる。つまりは「こみやま」が訛ったものなのだ。はっきりした事は判らないんだけど、小宮山氏の要害であったから小宮山城(米山城)なのだと言ってもよい。
戸石城城砦群を構成する要害の中では最も薄い物件だ。三段の郭で構成される連郭式の縄張、これに加えて小郭程度の腰郭が城山の南面に幾つか設けられている。城郭遺構としては主郭の北面切岸に付く絆創膏程度の石積み、土留めかと思われるが果たして効果はあったんだろうか。ちなみに主郭には四阿、「村上義清公之碑」と大書された大きな顕彰石碑と標柱が建っており、標柱の傍には説明板が立っている。
おいらは単純に過去に戸石城の米蔵を担当していた実績(「長野県町村誌」)や、白米伝説に因む事から米山城て名付けられたて思っていたんだけど、薄い物件、且つ、戸石城城砦群を構成する一つである事から、ろくすっぽ疑いもせずにそのままとしてきた。今回の再訪に併せて真面目に調べ上げてみた結果、そりが誤りである事に改めて気付かされた格好になる訳だ。己れの不明(無知とも言う…)には本当に恥じ入るばかり…もう、ダメめぐら〜て呼んでくれても一向に構わないんだけど、たぶん、口汚い言葉で罵った挙句に猫パンチでぽかすか叩くよ。
※晴れた日なら主郭の四阿でおにぎりを食べると最高だ。傍らにある登山ノートに世界平和を祈念するメッセージなんかを書き込むのもよいかもしれん。但し、薄い物件である事に間違いは無いんで食い終わったらとっとと尾根続きの砥石城を目指すのが正解だ。ちなみに同城へは腹立つ事に下りた後に結構な急登を強いられる。
※戸石城の米蔵〜簡単に連絡が失われてしまうような場所にわざわざ米蔵は建てないだろう。本城で事足りる筈…更に言えば、米山城の立地は城砦群の最前衛に当たっている。
2026年04月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
飯縄城[戸石城 周辺城郭]
飯縄城は戸石城の南東約0.5km、神川西岸(右岸)、矢出沢川東岸(左岸)、戸石城を構成する枡形城から南東へ向けて派生する支尾根末端部上、標高約633m地点の平場に立地する砦です。西麓の舗装道路からの比高は15m位でしょか。簡単に言えば、戸石城の南東麓に当たる。伊勢山の上州道から通じる同城への大手筋を右手に見る砦であり、飯縄城の南面直下を東西に横切る舗装道路が同道の名残りと考えられる。
行き方はGoogleマップに「旧伊勢山集会所(飯綱城)」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。この旧集会所とその後背地が概ねの城地だと推測されている。車の捨て場所は同じく位置登録がある曹洞宗の寺院、「望富山陽泰寺」の駐車場がよい。
築城年代は不明、築城者は村上氏であろう。戸石城は、砥石城、本城、枡形城の三城で構成されているが、これに加えて、同じ戸石城のリア攻めマップにある、飯縄城、米山城、砥石城の番城、福沢出丸、内小屋、金剛寺城代屋敷、各番所等を構成要素に含む、戸石の城山を中心にして展開される純然たる城砦群の総称であると言ってよい。個人的にはその規模の大きさから、村上氏時代には、天文二十年(西暦1551年)五月二十六日の「砥石ノ城眞田乗取」まで、断続的ながらも普請は続けられていたと考えている。飯縄城もそうした拡張の中で必要に迫られて築かれた道押さえの砦、外郭の一つであったろう。該地の伊勢山は、長島から上野坂を登って北行する上州道が神川を渡る場所であり、当然ながら渡し場へと下る同道を扼する役目も持ち合わせている。
おいらのリア攻めを幾度となく阻んできた物件である。城地への進入が一般住宅の敷地を通る必要があるからだ。今回も突撃お宅訪問したんだけど見事に留守…従って少し離れた別の場所、倒竹に塗れた竹林の急斜面をよじ登って尾根上に出る事にした。生きてる竹林なら許せるんだけど倒竹だけはマジで勘弁してくれ、あいつ等は真正面から向き合うと殆ど凶器に近い。登る比高は10mにも満たなかったんだけど、跳ね返る竹の枝が肌の露出部分を叩いたり突きまくったりして痛くてしょうがなかった。
痩せ尾根が先端部で半島状にやや広がる部分を活用した縄張、殆ど単郭であろうが縄張図のとおり2段〜3段程度の腰郭ぐらいは付いていたのかもしれない。推測するに旧伊勢山集会所の位置には番所等が設けられていたのであろうか、行人、荷駄等を検めるのにはもってこいの場所だ。又、城郭遺構としては尾根上に若干の堀形が残っているとされるが、それと認められるものは目を凝らしても確認出来なかった。この砦において優勢な敵方の人数を防ぐ勇気は到底持ち得ないだろう、本城等に退くのに明らかに障害となる堀切を設けるとは考え難い。全体的に見れば現況は畑地等と化しているが、形状自体は往時に近い姿が保たれている…等と信じたい。
城地に建つ旧伊勢山集会所は、明治二十三年(西暦1890年)に木曽の大工を招いて建てられた。文政年間(西暦1818年〜1830年)の古地図によれば、飯縄城と集会所の位置は合致しており、城跡に建てられたであろう事がほぼ確実視されている。南面の立派な石垣の石は神川から採石されたもの、皮肉な事に最も城跡である事を想起させてくれる部分でもある。ちなみに建物は老朽化が進んで状態が悪く現在は修復工事中、従って見学は諦めてしまった。
※飯縄城〜一般的には「飯綱城」の文字が当てられているが、名称は「信濃の山城と館3、上田・小県編」に準じた。
※上州道〜この道から分岐する戸石城の大手筋を近世の松代道の部分とする認識が多く見られるが誤りである。同道の基となった、金剛峠、地蔵峠越えの道は、米山城城下の金剛寺から戸石の城山の西側を登って城中を通る事がない(大体にして通過してたら備えの上で困るだろうに…)。
2026年04月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
砥石城(戸石城)福沢出丸(福沢砦)B[戸石城 周辺城郭]
砥石城(戸石城)福沢出丸(福沢砦)A・Bは戸石城の北西約0.5km、神川西岸(右岸)、矢出沢川東岸(左岸)、戸石城を構成する本城の西側斜面上、標高約633m地点の平場(A)と、同じ戸石城のリア攻めマップにある砥石城の番城が立地する標高約807mの山頂ピークから西南へ向けて伸びる尾根末端部上、標高約634m地点の平場に立地すると推定される砦です。西麓の矢出沢川からの比高は共に15m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「城代屋敷跡」を当座の目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して位置を特定しよう。はっきり言ってまともな紹介例が初出以外皆無な物件、誰も行かんやろ…再訪したおいらも実は行きたくなかった…
築城年代は不明、築城者は村上氏であろう。戸石城は、砥石城、本城、枡形城の三城で構成されているが、これに加えて、同じ戸石城のリア攻めマップにある、飯縄城、米山城、砥石城の番城、福沢出丸、内小屋、金剛寺城代屋敷、各番所等を構成要素に含む、戸石の城山を中心にして展開される純然たる城砦群の総称であると言ってよい。個人的にはその規模の大きさから、天文二十年(西暦1551年)五月二十六日の「砥石ノ城眞田乗取」まで、断続的ながらも同氏によって普請は続けられていたと考えている。福沢出丸もそうした拡張の中で必要に迫られて築かれた道押さえの番所を兼ねる砦の一つであったろう。名称は村上氏の塩田庄代官、福沢氏に因むものだと云われている。
後には上田城城下となる常田から北行した後に東行すると、伊勢崎の台地の西方、長島へと至るが、同地において道筋は二つに別れる。即ち、右手を進む一筋は、上野坂を登って戸石城城下の伊勢山へと至り、神川を渡って同川沿いを北行、後に渋沢川沿いを東行(大笹道)して国境に位置する鳥居峠を目指す上州道、その行き着く先は遠く離れた上野国吾妻郡大笹だ。又、左手を進む一筋は、矢出沢川沿いを北行、同じ戸石城のリア攻めマップにある米原城城下である金剛寺の山間鞍部を抜けて、戸石城の北方に位置する金剛峠を目指す地蔵峠道、同道は金剛峠を越えた後に曲尾、洗馬を経て傍陽川沿いを進み、地蔵峠を越えて埴科郡赤柴へと至る。その行き着く先は同郡英多庄の西条、即ち、近世の松代だ。金剛峠、地蔵峠越えの道は江戸時代に入ると松代道と呼ばれ、幕末の松代藩藩士、佐久間象山も若かりし頃には岩門の活文禅師に学ぶために頻繁に利用した。
砦は、金剛峠、地蔵峠越えの道を矢出沢川の対岸に見ており、あくまでも道押さえの役目しか持ち合わせていない。一部の間では戸石城を補完する支砦との見方もあるのだが、この手の物件に夢を見るのだけは止めておこう。
まず、該地はA、B共に信濃のお城の神が示した比定地である。矢出沢川の対岸には説明板も立っているが、立てた側も正確な位置は判っていない筈だ。どちらも後世には耕作されていたと思われるが、Aの方は段付きの竹林、Bの方は起伏のある耕作放棄地としか言い様が無い。双方、砦跡を思わせるような地形も確認出来るのだがやはり何らかの改変によるものであろう。徒労に終わるだけの物件、贔屓目に見て戸石城の水の手の一つであったと言えなくもないのだが…
どちらも矢出沢川(現在は沢程度…)を渡る必要があるんだけど、特にAは苦労対効果が最悪だ。気持ち的には一段上がるだけとはいえ、倒竹に塗れた竹林の崖地を無理矢理にでもよじ登らなければならない。辿り着いても同様の光景、探索が物理的に痛過ぎる。従って訪ねる阿保はBだけを登ろう、おいらはこちらの方が真の城地だと信じている。金剛峠を扼する砥石城の番城と尾根続きである事がその理由だ。両者はワンセットなのかもしれない。
※道筋は二つに別れる〜長島の長島自治会館の駐車場の隅には、「右ハ上州道左ハ松代道」の道標が今も残っている。
※写真は全てBの物、Aについては別に同じ戸石城のリア攻めマップにスポット登録してあるのでそちらをどうぞ…
※写真①は松代道を撮影した物っす。福沢出丸はこの先にある。近世には北国街道の裏道だが裏過ぎる感じが素敵…金剛峠、地蔵峠越えの道は、何故に戸石城が村上氏にとって重要視されたのかを違った面から教えてくれる。武田氏による信濃経略以前の川中島における最大勢力は村上氏であった。
※写真②は近景っす。矢出沢川に流れ込む小沢を挟んで、Aが右手、Bが左手となる。適当によじ登ってくらさい。
2026年04月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
内小屋[戸石城 周辺城郭]
内小屋は戸石城の西方約0.3km、神川西岸(右岸)、矢出沢川東岸(左岸)、戸石の城山と、戸石城を構成する枡形城から南東へ向けて派生する支尾根に挟まれた、標高約654mの緩斜面上平場に立地した根小屋です。簡単に言えば、戸石城の東麓に当たる。同城の大手口を後背地に控える城番衆等が居した場所であり、戸石城の構えの一つ、即ち、外郭の役目も果たしていたようだ。
行き方はGoogleマップに位置登録されている曹洞宗の寺院、「望富山陽泰寺」を目標に設定して下さい。この寺院の駐車場に車を捨てたら、同じく位置登録がある「砥石城大手口」を目指して徒歩で進もう、内小屋はこの途中に位置している。目印はNTTドコモの電波塔だ。ちなみに前述した陽泰寺は、滋野三家の一つにして滋野氏の嫡流家、海野氏の菩提寺の一つであり大変立派なお寺さんだ。
築城年代は不明、築城者は村上氏であろう。戸石城は、砥石城、本城、枡形城の三城で構成されているが、これに加えて、同じ戸石城のリア攻めマップにある、飯縄城、米山城、砥石城の番城、福沢出丸、内小屋、金剛寺城代屋敷、各番所等を構成要素に含む、戸石の城山を中心にして展開される純然たる城砦群の総称であると言ってよい。個人的にはその規模の大きさから、天文二十年(西暦1551年)五月二十六日の「砥石ノ城眞田乗取」まで、断続的ながらも同氏によって普請が続けられていたと考えている。内小屋もそうした拡張等の中で必要に迫られて築かれた根小屋等を兼ねる外郭の一つであったろう。千曲川右岸地域における小県郡の拠点城として、戸石城は村上氏が特に重要視していた要害の一つであった。
東麓の少し離れた場所から見る戸石城には、崩落箇所も散見される登頂不可能な急崖が立ちはだかっているが、この崖地上に立地しているのが内小屋だ。「枡形城から南東へ向けて派生する支尾根」は、自然地形の外郭大土塁を形成しており、内小屋自体はこれに内包されている。支尾根上には「見張台」と称する物見の場が設けられ、東方の段丘台地上は勿論、直下の神川筋を見るのにも好都合だ。
後世に耕作地としての改変があるが、平面を出すために往時も段が付けられていた可能性は高い。城郭遺構としては横堀状の結構な堀切が1条確認出来る。山上から下りて来たとはいえ、城番衆等も此処ならきっと安心して生活が出来るだろう。又、その立地から、大手口に通じる、尾根間鞍部に設けられた番所の役目も兼ねていたであろう事は想像に難くない。ちなみに内小屋跡を示す石板が転がっているが文字が摩耗しており全く読めない。
村上氏て最盛期には信濃において最大勢力を誇っていた訳なんだけど、荒砥城や葛尾城、虚空蔵山城や塩田城なんかにも見られるように、「一山、まるごと城砦群…」みたいなもんをセオリーとしていたようにも思う。武田氏が勢力の拡大に伴って早々に諦めてしまった山中の拠点城を地で行くような感じなんだけど、それ等が険し過ぎるお山に占地さりている点で極めて異質だ。各所の城砦群の全てを廻り切るのは阿保だけに許された特権とはいえ、少しでもその多くを訪ねる事を推奨する。何故に本城の一つに纏め切れなかったのかが容易に理解出来るて思うさ。
※写真⑦は文中にある山尾根上の「見張台」を撮影した物っす。以前はこの先の段上に稲荷社の小社が鎮座していたんだけど取り壊されてしまったようだ。ちなみに鳥居の東側は絶壁であり落ちたら生存は難しい…
2025年12月14日 加納下総守
戸石城
米山城と合わせちょっとした山登りです 砥石城側は枡形城に至る曲輪が何層にもあって見応えがあります 山道はどこも急崖が多く注意が必要です
2025年12月10日 気分爽快弾正少弼
戸石城
砥石城に登るのは大変だったという記憶があったので、後回しにしていたリア攻めですが、近辺の城をほぼ攻略してしまったので、意を決して出かけてきました。
櫓門前の駐車場から、20分程度で到着してしまい拍子抜けです。最近行った松尾古城のほうが、よっぽどキツい登りだったので、何か記憶が間違っていたのかもしれません。
天気も良く、ちょっと物足りなかったので、本城、桝形城、番城、金剛寺峠、米山城と見てまわり、約2時間の攻城でした。
①駐車場の先にある櫓門
②登城路の途中から見える米山城
③米山城と砥石城の分岐。この先は米山城
④米山城の武者道より見た砥石城
⑤米山城。頂上付近に微妙な石積み有り
⑥砥石城までの急坂
⑦登城路途中にある岩をくり抜いた石段
⑧北側から見た砥石城
2025年06月10日 gannac
戸石城
上田駅からレンタサイクル。基本ずっと上り坂なので電動とは言えかなりしんどい。時間が制約されるが、ゆきむら夢工房までバスで行ってレンタサイクルで一帯を回るのが良い気がする。砥石・米山城櫓門跡から登って米山城、砥石城、本城、枡形城の順に見て、大手口、または水の手回りで下山するのが良い。無論逆でも可。2つの登城口の間は徒歩20分くらいなので歩いて戻れるでしょう。城絵図によっては枡形城北辺辺りから東に降りられる道があるように見えるが、現状恐らく整備されておらず、見つけることができなかった。本城まで戻って大手口か水の手回りで下山した方が無難であろう。米山城の武者道(男坂的なもの)は急だったが短いのでまだ大丈夫、砥石城に登る坂があまりに険しく、長いので麓から見上げるだけで気後れする。飲料水必須。
2025年05月05日 六文銭
戸石城
伊勢山バス停から登城しました。米山城、戸石城の両方を巡りました。かなり、勾配があります。ロープを伝いながらの道もあります。帰りは大手道経由でしたが、枯れ葉が堆積し、道が細いので慎重に降りました。
2025年02月26日 だって左京大夫まさむね
戸石城
上田城跡から車で10分程走った所に『砥石・米山城跡』の櫓門跡入口がある。
『なめんなよ』という挑発的な石碑に煽られつつ登ってみたが、確かに米山城・砥石城分岐から先の砥石城への階段も米山城への急坂もなかなかの登りで、武田軍の『砥石くずれ』にも納得がいった。
両城趾の頂上からは、麓の真田の郷や蓼科他の山々が一望でき、米山城跡の山頂には村上義清氏の碑もあり、かつての村上氏や真田氏の想いが偲ばれた。
2024年11月03日 鈴木剛
櫓門[戸石城 遺構・復元物]
坂を登って行くと櫓門がみえてきます。櫓の壁には看板が有り、それによると以前は櫓門の上に登ることができたようです。今はどこから登ればいいのかわかりません。
2024年10月20日 鈴木剛
戸石城大手口[戸石城 碑・説明板]
ここから陽泰寺ヘ向かう途中に水の手があり段郭も数多く配置されているそうです。本城、桝形城の方に抜けたのでこの先には行ってません。
2024年10月19日 鈴木剛
米山城[戸石城 周辺城郭]
米山城は、砥石城の西南の峰続きにあって本郭の南下に二の郭・三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれています。白米を使って馬を洗う白米伝説も残っているそうです。
2024年07月27日 ◇オレンジ◇左近衛中将
戸石城
石碑に刻まれてる言葉通り、たどり着くには気合いと根性が必要な道程でした。
暑くなく、晴れてる日に登るのが良いと思います。
2024年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
豊城[戸石城 周辺城郭]
豊城(ほうじょう・ゆたかじょう)は戸石城の西南西約2.1km、千曲川北岸(右岸)、太郎山系山塊を構成する一つ、標高約1231mの柏山から南方へ伸びる尾根端部上、標高約620mの小ピークに立地する狼煙台か物見台の類いです。南麓の国道18号からの比高は135m位でしょか。但し、該当尾根は太郎山系山塊の南方裾野、染谷台地上に張り出す山尾根であり、西麓、山口集落中心部からの比高となると50m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている該当尾根末端部上(弥吾台て呼ばれる場所らしい。)に建つ飲食店、「サンポー」を目標に設定して下さい。此処から果樹園脇の農道を徒歩で進み、農道が消滅したら送電線の鉄塔用保安道を続けて登る。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築城年代、築城者は不明、一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と呼ばれる根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
里俗伝によると、戸石城の米山城からの狼煙を受けて同じ戸石城のリア攻めマップにある花古屋城に伝える繋ぎの狼煙台だったんだそう。台地上に張り出す該当尾根上は展望に優れ、狼煙の中継点、物見の場としては適当である。
再訪となる。個人的な話で恐縮なんだけど、スマホで撮影した城郭写真の殆どを誤って削除してしまい、最近は新規開拓と並行して再訪にも労力を割いているのさ。
お城は主郭とその南側下段に腰郭を持つだけの縄張、堀形も1条見られるが埋まり気味、堀切と断定するのは難しい代物だ。該当尾根は西側斜面においてはなだらかであり、そもそも論で守る意識が希薄、過去には城域の際まで耕作されていたそうなので尚更に感じる。主郭には三峯社、別に小祠1基が鎮座、削平だけはしっかりしている。
根本的に狼煙台や物見台の類いは守らなくてもよい場所だ。守るとすれば人数が必要だし、そうなると要害が手不足に陥いる。豊城に城郭遺構が殆ど確認出来ないのは至極当たり前の話しだと思う。
写真を撮り直すためだけに薄い物件を再訪する…二度と訪れる事はないて思ってたのにまさかねぇ…基本的に村上連珠砦コンプリートを目指す変態のみが訪ねるお城だと思う。口コミも薄めにしとこう…
※ 村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※お城の名称、「豊城」は小字として残っている。
※写真①は送電線の鉄塔用保安道、道てよりは草むらっす。
※写真⑧は西麓、山口集落から撮影した近景っす。たぶん一番高い所だと思う…
2024年04月18日 けろりん右京大夫
戸石城
戸石城から本城、桝形城に行き、戻って米山城に登城しました。一連の尾根づたいにに段郭や空堀、切岸など見やすく整備されていました。結構勾配が急で、往時の攻めにくさを感じました。落葉などで滑りやすく、下りは膝にくる感じで、個人的にはトレッキングシューズ装着で良かったと思いました。
2024年03月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒城[戸石城 周辺城郭]
荒城は戸石城の西方約3.4km、千曲川北岸(右岸)、上田市民の山、標高1164.5mの太郎山から南方へ伸びる尾根中段上、標高約905m地点の平場を中心に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は320m位でしょか。城域周辺の直下では上信越自動車道の太郎山トンネルが東西に貫通している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので太郎山の牛伏コースてのをネットで検索してから登ってね。該地はこのコース上となり、お城の説明板もしっかりと立っている。同じ戸石城のリア攻めマップにある牛伏城から殆ど太郎山山頂を目指す勢いでひたすらに登る…展望も悪いし兎に角、だるいっす(最近は登山トランス状態に自分を追い込めなくなっているんすわ…)。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と総称される根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
村上連珠砦は完全制覇がしんどい城砦群、虚空蔵山とそれに隣接する太郎山に集中するとはいえ、尾根が違ったり高度もばらばら、縦走自体が極めて困難、地道に区域を定めて個別にそれぞれを訪問していくしか道は無い。はっきり言えば毎回コースの違う低登山の繰り返しを重ねる必要がある。又、突拍子も無い変態城もあるんだけど、残念なものも多分に含む。そもそも論でノーマルな方は制覇する必要性が微塵も無い。
幸いな事に荒城は城砦群の中ではまともな砦の一つ、謂わゆる山城然とした趣きで普通に安心出来る。10人詰めるのがやっとの主郭に段郭状の腰郭を持つだけのコンパクト過ぎる縄張だが、尾根筋を断ち切る堀切は総計6条…阿保なんすよ…基本的に考えてる事が…その内の2条は埋まり気味だけど、一部は岩盤層を穿ち落とし込みの竪堀も確認出来る。又、信濃のお城の神は郭として縄張図に描いているが、主郭のコの字形の土塁には萌える事間違い無し。
虚空蔵山と太郎山は通年で崩落を繰り返しているようなお山、該当尾根筋も城域に入ると急峻となり尾根幅も急激に狭まる。縄張は明らかに地形を選んで占地されたもの。信濃の貧乏な砦感を誰でも感じ取る事が出来る。又、守る気満々な縄張ではあるけど、築城主体はこの砦に攻め寄せて来る人数を100人を超えない範囲と見積もっている。そして砦の失陥が大勢を決するような戦いの帰趨には何の影響を及ぼさない事も既に知っている。この類いの吹けば飛ぶよな城砦が存在として成り立つのはそうした理由があるからだと思う。
※村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※荒城の「荒」は急造の「荒」か、新造の「新」を意味するが、現地に赴いてもどっちなのかはさっぱり…仮に新造だと仮定すると古城とする対象が存在しないように思う。
※登山トランス状態とは…足元だけを見て何も考えずに無の境地で登るかずり特有の登山法、気が付くと目的地だったりするんで重宝する。但し、腹ぺこの時には絶対に発動しない。
2024年03月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
牛伏城(牛頸城)[戸石城 周辺城郭]
牛伏城(牛頸城)は戸石城の西方約3.7km、千曲川北岸(右岸)、上田市民の山、標高1164.5mの太郎山から南方へ伸びる尾根端部上、標高687m地点の平場に立地する砦です。南麓の国道18号からの比高は100m位でしょか。上田城を訪ねた事のある方なら認識はしていなくとも太郎山を必ず見ている筈…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので太郎山の牛伏コースてのをネットで検索してから登ってね。該地はこのコース上となり、お城の説明板が突然現れる削平地上にしっかりと立っている。
築城年代、築城者は不明です。一般的には村上連珠砦と呼ばれる城砦群の一つとされる。村上連珠砦は虚空蔵山と太郎山の山塊に総計17を数える城砦群、名称のままだと築城者は村上氏て事になるんだけど、そうだとは言い切れないものも幾つか含む。大体にして村上連珠砦と総称される根拠がよく判らん…伝承故なんだろうか。
おいらは凡ミスをよくやらかすけど、制覇した気になっていた村上連珠砦の内、一つだけ未訪問となっているお城の存在がある事に去年の末に気付いた。それはこの牛伏城の上段に立地する同じ戸石城のリア攻めマップにある荒城なんだけど、これを訪問するために今回、牛伏城を再度通過する事に…あの時気付いていたらなぁ…まぁ折角なんでリア攻めはしっかりとさせて頂いた。てか通過するだけでも80%以上は既に完了していると思う。
お城は尾根上に単郭の縄張だが、主郭の面積は意外にも広く、その主郭北側山側背後を幅員のある堀切で断ち切っている。主郭の土塁は明瞭、堀切は東側端部で二重竪堀となり、別に竪堀が2条付く。こう書くと立派なものだが、堀切は幅員があり過ぎてファジーだし、二重竪堀はもっとファジー(根本的にそう見えない…)、本当にそうなのか?等と疑問も抱く。堀切内には水が湧いている箇所があり、そもそも論で堀切ではなくただの鞍部なのかもしれない。土橋様の地形も確認出来るが、この湧水に付随する単なる遮蔽土塁の可能性すら感じる。全体的に言えば主郭は気持ちすっきりと見れるが、それ以外の部分ではもやもやを抱える事になるだろう。
村上連珠砦て村上氏の小県郡進出後に築かれたもので間違い無いと思うんだけど、小県郡の最重要拠点である戸石城と村上氏の本拠、埴科郡坂城郷とを千曲川の北岸(右岸)、山塊山中で結ぶのがその目的であったと個人的には解釈している。現在はあっと言う間だが、往時は近世の北国脇往還、現在の国道18号に準ずる平地の道筋は無く、太郎山に入って虚空蔵山を山越えするか、千曲川を対岸に渡って室賀峠を越えた後、再び千曲川を対岸に渡って坂城郷に入るしか道筋は無い。
村上氏が埴科郡にあった頃の村上連珠砦の動向は全く不明なんだけど、「天正壬午の乱」の際には上杉氏被官の島津泰忠が虚空蔵山に兵を入れた事が文書で確認出来る。何故兵を入れたかって?…話は別の機会に譲るけど、そう、みんな大好き真田安房守昌幸の御登場て訳だ。昌幸の持つあの「表裏比興な感ぢ?」に惹かれるよて方はその足跡が残る村上連珠砦も是非…
※村上連珠砦は捉え方によって数に諸説ある。はっきりとさせる根本が見当たらないのでおいらがそうだと考えているものを数えてみた。
※牛伏城からは上田城がよく覗ける。おいらは牛伏城が村上氏の手によるものではなく、上杉氏が真田氏による上田城築城を牽制するために兵を置いた場所の一つだと考えている。城砦群の中では最も小勢を動かし易いお城、守り難い広めの単郭である事もその理由としたい。
※虚空蔵山山頂は上田市上野の内だが、往時の認識では小県郡ではなく埴科郡の内である。
※該当尾根筋、牛伏城の下段一帯には見事な石積み(写真⑦がその一つっす。)が多数見られるが全て後世の桑畑のもの。積み方はどれも戦国時代の城郭遺構と大して変わりがない。
※写真⑧は東麓、松尾宇陀神社・白蛇神社のなんちゃらの木、上田にも春がやって来た。
2022年11月01日 上泉左近衛中将虎業
戸石城
櫓門前の駐車場に車を置いて、城下を歩いて抜けて15分くらいの、大手口登山路から登城。本城跡あたりに出ます。こちらのが階段がなくて楽だったかも。そこから枡形城跡、本城跡、砥石城跡、米山城跡とめぐり、櫓門口におりました。
2022年06月12日 長けた 左衛門督 進言
戸石城
真田信幸も籠ったと言われる城です。大手門登城口より300mほど離れた所に駐車場があります。案内板があるので目印にすると良いと思います。山城ですので、それなりの格好で挑む事をお勧めします。のぼりや立て看板等は整備されてはいましたが、多少の藪・ヘビ・虫には注意しておいた方が無難です。
2022年05月08日 尼崎城志摩守一口城主
戸石城
5月2日、今回計画したGW信州お城巡りで一番楽しみにしていた真田の郷巡りを砥石城からスタート。上田城下町からバス🚌で真田の郷に向かいゆきむら夢工房でレンタサイクルを借り砥石城(米山城、本城、桝形城)→信玄の鐘掛けの松→真田記念公園→真田氏館、真田氏歴史館→真田氏本城→長谷寺→日向畑遺跡、松尾古城登山口→山家神社、真田神社→信綱寺と真田相伝六神社御朱印巡りも挟みながら駆け回りました。
いよいよ本題に入ります。砥石城(+3城)は地元の方々に手入れ、整美されているように見受けられ登山道も歩きやすく道標もあり非常に登りやすいお城でした。米山城を一旦下って砥石城に登る階段がややきつかったかなと思うくらいでした。砥石城まで登ると本城〜桝形城はほとんど横移動しているような感じでした。
米山城には村上義清公の碑があり信玄公も苦戦した舞台に立っているんだなあと歴史ロマンに浸っていました舞台。城跡頂点には景観図があり周囲を見渡すのに非常に参考になりました。下城後に信玄の鐘掛けの松🔔も、見てきました。
2022年04月13日 sigesige主税頭信繁
戸石城
櫓門跡登城口から攻めました。
登り始めはなだらかで広く快適でした。突き当たりで左に行き米山城へ先ずむかい20分程で主郭跡に到着しました。村上義清さんにご挨拶して元来た道を通り先程の分岐点から今度は砥石城へと向かいました。途中に心臓破りの階段を休み休み登り20分程で砥石城主郭に到着しました。
そしてさらに奥の本城へはそれほどの登り下りもなく地形を堪能しながら15分。その先更に枡形城へと突き進みました。
簡単に書きましたが、素晴らしい城址です。自分的には続100名城です。
2021年08月14日 三春田村氏
陽泰寺[戸石城 御城印]
御城印販売所。道が狭く、猫を飼われているので車の方はご注意を
2021年02月16日 mootze
戸石城
冬に、登れるとは思いませんでした、雪がなく、登城口から本丸まで、体力がないと、きついです、本城付近は、お城ファンならば、絶対に、見て喜びます、景色は真田さんの思いで、見れば良い所だと、わかります、
2021年01月04日 赤かぶ【リベンジ】
花古屋城[戸石城 周辺城郭]
車で行く場合は国道18号上田バイパスの新田の交差点を山側に登って行きます。反対側は上田城・上田市街方面になります!道なりに進むにつれ道幅は狭くなります。進んで行くと高速道路の橋が見えますのでその手前に登山口(登城口)があります。
車は皆さん周辺の路肩に整然と駐車していました。休日等は結構台数も多いので事故などお気を付け下さいませ!!
お城については城友様の口コミの通りで素晴らしいですよ♬︎主郭南側の郭群を見学の際は切岸の高低差もあり足元も悪いので十分注意して下さい!
2020年11月24日 りょうさん飛騨守
戸石城
戸石城という名称の郭は、小さく物足りなくありますが、他と合わせて四つの別郭の大城郭でした。とくに本城の広さには、驚きました。戸石城で、帰ってしまう人が、沢山いたので、是非、奥の本城と枡形城まで、行ってほしい城です。
2020年02月20日 対馬守松太郎
花古屋城[戸石城 周辺城郭]
付近(太郎山裏参道)でツキノワグマ出没の情報がありました。暖冬の影響で冬眠から覚めた熊と遭遇する可能性があります。お気をつけください。
2020年02月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
花古屋城[戸石城 周辺城郭]
花古屋城は戸石城の西方約2.8km、上田市民の山として親しまれている標高1164.5mの太郎山から南東へ延びる尾根上、標高約704mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は120m位でしょか。このお城も村上氏連珠砦の一つで、太郎山登山道の一つである太郎山表参道から少しだけ外れた場所に位置し、この城砦群の中では最も安心(登山者が沢山通ります。)して見学出来るお城だと思います。
村上氏連珠砦は物見台程度のものから城郭規模のものまで様々ですが、このお城はその中でも最も大きな部類に入るものです。魅力的なものが多いこの城砦群ですが、はっきり言って苦労対効果の面から行くのを躊躇するものもあるのも事実(低登山になります。)でその選択に迷うところがありますが、このお城は整備された登山道を15分位登れば到達するので、健脚で無くとも気軽に訪ねる事が出来ます。行き方は太郎山表山道登山口から登って七丁丁石の祠まで、そこに真新しい案内板が立っていますので迷うことは0%です。ちなみに八丁丁石まで登ると城域の最北端に出ます。
この登山道には縄張図に無いのですが、2条の竪堀様地形に並走しています。1条は送電線の鉄塔建設のための作業道ぽいですが、もうひとつはたぶん本物でしょう。麓付近の谷まで落ちる大きなもので誰がどう見ても竪堀です。
お城は素晴らしいです。主郭北側山側背後の堀切、そこから西側斜面を下る竪堀は途中で別の竪堀と集合して感動もの。主郭には土塁が付き、土塁の前には天水でも溜めたのか大きめな窪地があったりします。又、主郭の南側尾根は相当数の段郭で守り、所々を堀切で遮断しています。主郭と段郭の一部には石積みが散見されます。
村上氏連珠砦は最近整備が進んでいるらしく(こんな所に説明板が!みたいな場所も…)、このお城も冬であることを差し引いても、10年位前の写真と見比べて隔世の感があります。この城砦群(和合城、物見城、ケムリの城は必見!)に興味を持ちましたら、手初めにまずこのお城を訪ねてみて下さいまし!
2019年05月05日 わる爺陸前守
義清街道登山口駐車場[戸石城 駐車場]
スポット名は正式なものではありませんが地域の呼び名から命名。狭い道の両側に砥石と米山の由緒書板がありました。
2016年12月02日 野呂利左衛門督休三
戸石城
城の西麓に金剛寺、東麓に伊勢山の各集落があります。
西の金剛寺集落は村上時代の城下で、城代屋敷とされる土塁跡や、事実は不明ですが村上義清と関係があるとする義清水と呼ばれる井戸、1332年に海野幸則開基の洞源寺などがあります。当時はここから北に向かい金剛寺峠を経て城に入ったとされています。金剛寺集落の西側には柏山城(未登録)があります。
東の伊勢山集落は真田時代の城下です。
海野幸実開基の陽泰寺があります。この地域は白壁の家が多いです。伊勢山集会所の裏は飯綱城と呼ばれる砦跡で、立ち入れませんが曲輪跡と思われる地形が外からも見ることができます。
金剛寺集落のリーフレットが金剛寺公民館や米山城の登り口の、伊勢山集落の小冊子が陽泰寺そばの案内地図の、それぞれのケースに入っています。
2016年6月28日訪問
2015年10月27日 カーネル
戸石城
上田駅からバスで真田バス停で下車、松尾古城の登山口のある日向畑遺跡へ向かい、松尾古城に登りました
松尾古城から下山後に真田本丸に寄ってからバスで上田駅に戻る予定が、真田本丸の場所がわからず、あげく帰りのバスにも間に合わないという失態
時間が有り余っているので行くつもりのなかった戸石城まで歩くことにしました
行きのバスで一緒だった人が、幸村の郷でレンタルサイクル借りて走り回ってた。うらやましかった
とは言え、戸石城は北西から登り、枡形・本城経由で本丸へ。さらに米山城を経由して南に下山という、縦走コースは自転車では出来ませんので、歩きもいいですよ
大通りを避けて歩いたせいもあり、自販機がなくて干からびそうでした。戸石城からバス通りに出てバス停にたどり着けたのは真田バス停をでて5時間後
歩き計画している方の時間目安になれば幸いです
2014年12月01日 志能便上野介
戸石城
砥石城のほど近くに、真田氏最初の拠点とされる洗馬城と言う素晴らしい山城があります。
そこで、天然記念物のニホンカモシカと遭遇しました。感動です!
ただ、スズメバチもいました(>_<)
地元の人の話によると、真田町の山には熊も出没するそうです。
ご注意を!
2012年08月20日
戸石城
伊勢山口から登り砥石城、米山城、本城、桝形城と登城。戦国有数の山城 だけあり、全て見るにはかなりの体力をもっていかれます。ほぼ登山と考えて足下を固め、飲み物等は用意して行くのが無難です。たまたま一緒に登った地元の方が言うには、米山城は小学生の遠足等にも使われており、今も地中から焼米が出るとのことでした。
第一次上田合戦の際、真田信幸(後の信之)が戸石城から出撃し、上田城を攻める徳川軍の腹背を衝いたと言う事ですが、実際登ってみると、坂は急 で道も狭く、上田城までは直線で4キロ程あります。信幸勢は本当に戸石城から出撃したのか、疑問に感じました。
2012年08月13日 尻啖え孫市権大納言
戸石城
南方から砥石、本城、桝形と攻城。砥石までの登城で相当くたびれるも城跡の醍醐味は奥の本城、桝形にある。大手門、石塁跡など当時を偲ばせる遺構あり。頂で義清、信玄、幸村の郷愁を想う。
2010年11月03日 真田丸
戸石城
毎年11月3日(文化の日)には「砥石・米山城まつり」が開催されます。その時のみ会場周辺は車両通行止めになり、会場へはシャトルバスが運行されます。
2010年09月19日 まったり丹波守屋
戸石城
伊勢山側から登城。登山口付近は映画『サマーウォーズ』のモデルになったらしく看板が目立つ。
米山城、砥石城の分岐からは坂が急になる。砂利混じりなので滑らないように気をつけて下さい。ロープも張ってあるので軍手が有ると便利です。
戸石城の周辺スポット情報
切岸(遺構・復元物)
から堀跡(遺構・復元物)
福沢出丸(遺構・復元物)
櫓門(遺構・復元物)
金剛寺高土手(遺構・復元物)
水の手(遺構・復元物)
見張台(遺構・復元物)
矢竹(碑・説明板)
櫓門口登山道(碑・説明板)
戸石城碑(碑・説明板)
戸石城大手口(碑・説明板)
本城(周辺城郭)
桝形城(周辺城郭)
花古屋城(周辺城郭)
豊城(周辺城郭)
白山城(周辺城郭)
金剛寺城代屋敷(周辺城郭)
大久保の小丸山(周辺城郭)
長島の堀之内(周辺城郭)
櫓城(周辺城郭)
荒城(周辺城郭)
眉見林の城(眉間林の城・虎ヶ山の城)(周辺城郭)
金剛寺 西山城砦群A(西山城)(周辺城郭)
金剛寺 西山城砦群B(中の城)(周辺城郭)
金剛寺 西山城砦群C(花見城)(周辺城郭)
柏山城(古城・上の城)(周辺城郭)
柏山城(古城・下の城)(周辺城郭)
砥石城の番城(菊畑之城)(周辺城郭)
金剛寺峠の番所(周辺城郭)
飯縄城(周辺城郭)
米山城(周辺城郭)
牛伏城(牛頸城)(周辺城郭)
内小屋(周辺城郭)
砥石城(戸石城)福沢出丸(福沢砦)B(周辺城郭)
砥石城(戸石城)福沢出丸(福沢砦)A(周辺城郭)
向ヒ屋敷見張番所(周辺城郭)
荒木氏鴻臚公之墓(玄蕃山)(寺社・史跡)
陽泰寺(御城印)
トイレ(トイレ)
義清街道登山口駐車場(駐車場)
櫓門口駐車場(駐車場)
金剛寺峠の地蔵尊(その他)
砥石城・米山城跡登山口(その他)









