戸石城(といしじょう)

戸石城の基本情報

通称・別名

砥石城、伊勢崎城、(米山城)

所在地

長野県上田市上田城山2505-ホ他

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

真田氏?

築城年

不明

主な改修者

主な城主

村上氏、真田氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切

指定文化財

県史跡(戸石城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

真田氏館(長野県上田市)[2.4km]
横尾城(長野県上田市)[2.8km]
真田本城(長野県上田市)[3.4km]
上田城(長野県上田市)[4.8km]
松尾古城(長野県上田市)[5.9km]
岡城(長野県上田市)[11.8km]
葛尾城(長野県埴科郡)[11.9km]
塩田城(長野県上田市)[13.2km]
荒砥城(長野県千曲市)[15.2km]
小諸城(長野県小諸市)[15.6km]

戸石城の解説文



戸石城(といしじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)にあった日本の城(城郭)。形式は山城。別名は砥石城。長野県指定史跡[1]

地勢 

東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。上州街道を真田郷を経て鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。南西部には上田原が広がり、千曲川沿いに下ると埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡ると佐久郡を経て上野国や甲斐国に至る。また上田原を更に西に進み和田峠を超えると筑摩郡へと至る。本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城(小宮山城)、南の戸石城などを含めた複合城郭。

歴史 

築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。『神使御頭之日記』によれば、天文10年(1541年)5月に海野氏の一族は海野平の戦いにおいて甲斐の武田信虎、信濃埴科郡の村上義清、信濃諏訪郡の諏訪頼重らの連合軍に敗退し、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らは上野国へ逃れる。砥石城は村上義清が小県郡・佐久郡方面の拠点として大改築した(砥石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。

砥石城は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目に位置し、塩田荘など小県郡の村上領と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。

天文10年(1541年)6月、甲斐国で武田信虎が嫡男の晴信(信玄)により追放される事件が発生する。信虎は信濃の諏訪氏と同盟していたが、天文9年(1540年)に海野棟綱の要請で上野の関東管領・上杉憲政が佐久・小県郡へ出兵し、諏訪頼重は武田・村上両氏に断ることなく上杉氏と和睦し、領地の割譲を行った。晴信はこれを盟約違反として、天文11年6月に諏訪へ出兵すると頼重を滅ぼし、諏訪郡を制圧した。

その後、晴信は村上義清や信濃守護・小笠原氏と敵対し、佐久・小県両郡へ出兵する。天文17年(1548年)2月の上田原の戦いにおいて村上方に大敗したが、同年7月の塩尻峠の戦いで小笠原氏を駆逐すると、松本一帯を制圧した。

天文19年(1550年)8月、晴信は砥石城攻めを行い、再び村上義清に敗退する(戸石崩れ(砥石崩れ))。この時の状況については『勝山記』に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。同年9月、武田家臣となっていた真田幸綱(幸隆)が砥石城の攻略を命じられ、天文20年(1551年)5月に陥落させる。『高白斎記』によれば幸綱の砥石城攻略は「乗取」と記しており、調略を用いたと考えられている。砥石城を含む幸綱の本領であった真田郷の地を与えられた。天文22年(1553年)に晴信は砥石城の改修を命じ、幸綱は小山田虎満とともに城普請を行っている。

村上義清は同年3月に本拠である葛尾城(長野県坂城町)も放棄すると、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り亡命した。

砥石城攻略後、天文23年(1554年)8月に武田氏は南信濃の伊那郡の国衆を服属させると北信濃へ侵攻し、北信濃の川中島四郡をめぐり越後の長尾景虎との川中島の戦いが繰り広げる。幸綱も川中島の戦いや、西上野における戦いで活躍している。

武田氏滅亡後の天正13年(1585年)8月2日・8月20日には、上野国沼田郡・吾妻郡を巡る争いから、三河国の徳川家康と、武田家の滅亡後に自立した真田昌幸との間で上田合戦が起こる。徳川勢は甲府から新府城(山梨県韮崎市中田町中條)を通過して上田城へ向かい、昌幸は越後国の上杉景勝と連携して徳川勢と戦った。一方、徳川家康は相模国の北条氏直と連携しており、真田領は両勢が衝突する地点となった。この戦いで、砥石城のほか上野の岩櫃城沼田城などは上田城の支城として利用された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中山道を西へ進む東軍の徳川秀忠率いる軍勢に対し、西軍に属した真田昌幸は上田城においてこれを迎撃し、秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に砥石城攻めを命じ、9月5日に城を明け渡させている。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年

戸石城の口コミ情報

2022年11月01日 よあ主税頭
戸石城

櫓門前の駐車場に車を置いて、城下を歩いて抜けて15分くらいの、大手口登山路から登城。本城跡あたりに出ます。こちらのが階段がなくて楽だったかも。そこから枡形城跡、本城跡、砥石城跡、米山城跡とめぐり、櫓門口におりました。

2022年06月12日 長けた 治部大輔 進言
戸石城

真田信幸も籠ったと言われる城です。大手門登城口より300mほど離れた所に駐車場があります。案内板があるので目印にすると良いと思います。山城ですので、それなりの格好で挑む事をお勧めします。のぼりや立て看板等は整備されてはいましたが、多少の藪・ヘビ・虫には注意しておいた方が無難です。

2022年05月08日 尼崎城大膳大夫一口城主
戸石城



5月2日、今回計画したGW信州お城巡りで一番楽しみにしていた真田の郷巡りを砥石城からスタート。上田城下町からバス🚌で真田の郷に向かいゆきむら夢工房でレンタサイクルを借り砥石城(米山城、本城、桝形城)→信玄の鐘掛けの松→真田記念公園→真田氏館、真田氏歴史館→真田氏本城→長谷寺→日向畑遺跡、松尾古城登山口→山家神社、真田神社→信綱寺と真田相伝六神社御朱印巡りも挟みながら駆け回りました。

いよいよ本題に入ります。砥石城(+3城)は地元の方々に手入れ、整美されているように見受けられ登山道も歩きやすく道標もあり非常に登りやすいお城でした。米山城を一旦下って砥石城に登る階段がややきつかったかなと思うくらいでした。砥石城まで登ると本城〜桝形城はほとんど横移動しているような感じでした。

米山城には村上義清公の碑があり信玄公も苦戦した舞台に立っているんだなあと歴史ロマンに浸っていました舞台。城跡頂点には景観図があり周囲を見渡すのに非常に参考になりました。下城後に信玄の鐘掛けの松🔔も、見てきました。

2022年04月13日 しげしげ主税頭信繁
戸石城



櫓門跡登城口から攻めました。
登り始めはなだらかで広く快適でした。突き当たりで左に行き米山城へ先ずむかい20分程で主郭跡に到着しました。村上義清さんにご挨拶して元来た道を通り先程の分岐点から今度は砥石城へと向かいました。途中に心臓破りの階段を休み休み登り20分程で砥石城主郭に到着しました。
そしてさらに奥の本城へはそれほどの登り下りもなく地形を堪能しながら15分。その先更に枡形城へと突き進みました。
簡単に書きましたが、素晴らしい城址です。自分的には続100名城です。

2021年08月14日 三春田村氏
陽泰寺[戸石城  御城印]

御城印販売所。道が狭く、猫を飼われているので車の方はご注意を

2021年02月16日 mootze
戸石城

冬に、登れるとは思いませんでした、雪がなく、登城口から本丸まで、体力がないと、きついです、本城付近は、お城ファンならば、絶対に、見て喜びます、景色は真田さんの思いで、見れば良い所だと、わかります、

2021年01月04日 赤かぶ【】
花古屋城[戸石城  周辺城郭]



車で行く場合は国道18号上田バイパスの新田の交差点を山側に登って行きます。反対側は上田城・上田市街方面になります!道なりに進むにつれ道幅は狭くなります。進んで行くと高速道路の橋が見えますのでその手前に登山口(登城口)があります。

車は皆さん周辺の路肩に整然と駐車していました。休日等は結構台数も多いので事故などお気を付け下さいませ!!

お城については城友様の口コミの通りで素晴らしいですよ♬︎主郭南側の郭群を見学の際は切岸の高低差もあり足元も悪いので十分注意して下さい!

2020年11月24日 りょうさん飛騨守
戸石城



戸石城という名称の郭は、小さく物足りなくありますが、他と合わせて四つの別郭の大城郭でした。とくに本城の広さには、驚きました。戸石城で、帰ってしまう人が、沢山いたので、是非、奥の本城と枡形城まで、行ってほしい城です。

2020年05月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
柏山城(上の城)[戸石城  周辺城郭]



柏山城(上の城)は戸石城の西方約1.0km、標高1300.9mの東太郎山から南東へ延びる山塊支尾根上、標高約807mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は190m位でしょか。戸石城より高い位置にある事になりますね。

行き方は同じ戸石城のリア攻めマップにある西山城を参考にして下さい。西山城、中の城、花見城、柏山城(上の城)、柏山城(下の城)の順番でリア攻め出来ます。行くだけなら登城路入口から約40分で到達出来ますが、花見城を過ぎると道が無くなります(それまでだって獣道程度ですが…)ので、尾根を外さないように注意して下さい。又、草木の生い茂る時期は、ちょっと勘弁してくれみたいな事になるかと思います。

このお城も村上氏連珠砦の一つでして、この城砦群の中では最も東方に位置するお城となります。村上氏連珠砦は村上氏の本拠である葛尾城を佐久方面からの侵攻から防ぐために造られたとされていますが、村上氏の小県郡支配の拠点である戸石城と葛尾城との連絡を、虚空蔵山系山塊〜太郎山系山塊を通じて保持するのも目的だったのでしょう。この時代に北国街道は存在せず(千曲川の川幅が今よりもかなり広く、暴れ川としても有名だったことから周辺は湿地帯だったかもしれない。人馬の通行は出来なかったと思います。)、現代人にとっては想像も出来ませんが、上田、坂城間は虚空蔵山系の山塊山中を通るか、千曲川南岸に渡り室賀峠を経て再び千曲川を渡るかの2ルートしか無く、実に近くて遠い場所だったようです。

お城はプアーな柏山城(下の城)と違って楽しめます。主郭のぼこりん感は「あ〜信濃の山城だ〜」と呟く事間違い無しです。主郭北側山側背後には二重堀切、その奥には更に1条の堀切が確認出来ます。主郭には崩落石が多数確認出来ることから石積みもあったのかなとかも思います。主郭から南方に位置する柏山城(下の城)へ向かう途中には、自然地形の竪堀様地形がありますが、岩盤部分にひょっとしたら手が加わってるかもしれません。

一つ行くと全部行きたくなる村上氏連珠砦ですが、自分は制覇まであと二つ。このお城は写真を撮り直しに2回訪問するはめになりましたが、一回行ったら次は無えっ!みたいなお城も城砦群には数多くありますので、暗い時間帯や天気が悪い日はすっぱり遠慮して後悔の無いようにしたいものですね!

2020年05月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
水の手[戸石城  遺構・復元物]



戸石城の水の手とされる場所は戸石城大手道から分岐があり、此処から5分位で到着します。

水の手周辺も防御は厳重で相当数の段郭が付いており、水の手そのものも段郭の一つに存しています。水の手を過ぎて道をそのまま進むと、自然地形(沢跡?)と考えられる竪堀様地形で水の手周辺の北側を分断しており、戸石城の隠れた一端を見る事が出来たりします。

水の手自体は湧水です。今も水は出ていて、たぶんもうすぐ蛙の大合唱が起きることでしょう。

【戸石城の各城の名称について】

戸石城には4つのお城があり、南からそれぞれ米山、戸石、本城、桝形と名称が付けられています。江戸時代に成立した「戸石米山古城図」には本城と桝形城の名称が入れ替わっており、里伝から地元の方は本城を桝形城と呼んでいたように考えられます。すげぃ反発必至で書きますが、桝形城は虎口が桝形だった事からその名が付いたとのことですが、見た方なら解るかと思いますけど、あれを桝形と呼ぶのかは疑問に思います。少なくとも江戸時代にそんな見識でお城を見ていた地元の方ははいないと思うので、本城を桝形城と呼ぶ事が本当は正しいんじゃないかなと…本城の主郭部の造り方の方がよっぽど桝形を想起しやすいと思いません?

まぁ元々各城砦に名称なんか無かったでしょうから、それを言っちゃぁおしめぃよ的なところもありますが、リア攻め中にずっとそんな事を考えてたので、アホの独り言だと思って聞き流して下さいまし。

ちなみに「戸石」か「砥石」かについてはどっちでもOKらしいっす♪

※一連の口コミ、写真については「戸石」と「砥石」が混在してますが、それぞれ案内板、原文等に準拠しています。

2020年05月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
戸石城大手口[戸石城  碑・説明板]



戸石城へ登るには「砥石・米山城 登山コース」を使うのが一般的ですが、本来の大手道は本城の東麓から付いてまして、その大手口はリア攻めマップの位置に示したとおりです。

攻城の際は是非ともこちらを使って下さいまし。陽泰寺に車を停め、登城路入口まで10分掛からないで到着しますし、実は最も楽なコースだとも思います。

この大手道を通らないと多くのものを見逃す結果になります。大手には数多くの段郭を連ね、たぶん木戸があったんだろうなぁという様な虎口も道から外れた場所(登城路は途中まで往時とずれているんだろうと考えます。)に確認出来ます。見事な竪堀なんかもありますので、堅城を誇った戸石城を早速肌で感じとれることが出来るでしょう。又、途中に水の手への分岐がありますので、そちらも是非押さえておきましょう。

2020年05月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
内小屋[戸石城  遺構・復元物]



内小屋は戸石城(本城)の東麓の平場にあり、平時の居館群とされています。平場の東側には細尾根が概ね南北に張り出していて、山塊と細尾根に挟まれる感じで存しています。この細尾根上には砦があったとされ、たぶん内小屋を守るために築かれたことでしょう。

現況は普通に耕作地かと思う内小屋ですが、石の銘板があってその存在を今に伝えています。が、銘板はすり減りまくって文字が殆ど読めません。堀切があるとされていますが、緊急時に内小屋は捨てるものだと思うので、居館間を区画する空堀の様なものだと考えます。

麓の居館群の存在は戸石城の重要性を物語るに十分だと思います。大手口へ向かう途中にありますのでさらっと見学して往時を偲びましょう。



2020年05月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
米山城[戸石城  周辺城郭]



米山(こめやま)城は戸石城の別城一郭を構成するお城の一つで、本城から南西へ延びる尾根上、標高734mのピークの一つに主郭が存します。西麓からの比高は130m位でしょか。

現在の戸石城のメイン登城路(砥石・米山城 登山コース)は米山城の南東麓にその入口があり、この道を使うと戸石城と米山城を結ぶ尾根の中間点に出ますので、向かって左に進めば10分弱で米山城の主郭部に到達出来ます。又、西麓にある住吉地区からも登城路があり、こちらは主郭部南側に出る道となっています。

武田勢による戸石城攻めは天文十九年(西暦1550年)九月九日に開始され、その月の晦日に攻略を断念、十月一日に村上方の追撃を受けて武田勢は大きな損害を出しました。横田備中守高松のような有力な家臣を失い、力攻めの愚を悟った苦い敗戦は「砥石くずれ」として家中で語り継がれることになります。

戸石城攻めは南東側から攻めることを余儀なくされたようで、横田高松は砥石の様な急坂を攻めあぐね、城兵は上から石を落としたり煮湯を浴びせて翻弄し、数百の兵力ながら果敢に応戦しました。城方には乱妨取りも行われた志賀城(去年地元の方とお話ししましたが、今でも武田信玄の事を心良く思っていない。信玄の名前を出した時の苦虫を噛み潰したような顔が強く印象に残っています。)残党や楽巌寺雅方、布下仁兵衛、真田幸隆の弟の矢沢頼綱もあったとされ、士気はすこぶる高かったということです。

戸石城攻めに関して詳細な記録は無く、米山城の動向も定かではありません。推測でしかありませんが、武田勢の攻城ルートは「砥石・米山城 登山コース」に準じたものだったのではないでしょうか。米山城には白米伝説の他に、発掘により焼米(翌年の真田乗取の時のものかもしれませんが…)が多数見つかっていることから、この際の一時的な落城もあったのではないかなとか想像出来ます。

いずれにせよ戸石城に南東側から攻め上がれば、米山城は武田勢にとって無視出来ない存在(米山城を攻め落として通過するか、もしくは後背に敵を受ける。)であります。現況は戸石城を構成するお城の中で最もプアーな感じですが、考えてみると浪漫に溢れたお城であると言えるでしょう。そんな米山城なんで戸石城を訪れた際には面倒がらずに是非見に来て下さいまし。

2020年04月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
花見城[戸石城  周辺城郭]



花見城はたぶん里伝のみで存在が伝えられてきたお城です。標高1300.9mの東太郎山から南東へ延びる山塊支尾根上、標高約655mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は70m位でしょか。

誰も行かないと思うので、行き方は「米山城の里 金剛寺 歴史散策ガイドマップ」(よく出来てると思います。)を米山城の金剛寺側登城路入口で入手して下さい。簡易な地図ですが、それのみで必ず行けると思います。

お城には案内板が立っていますが、無ければ通り過ぎること間違いなし!凄く優しい眼で見ても何かを発見することは難しいように思えます。築城者は海野氏で、村上氏に備えたものと考えられてるみたいですが、絶対答えは出ないでしょう。

行かなくてもよいです。ただこんなお城が此処にはあったという事実は伝えていきましょう。

2020年04月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
中の城[戸石城  周辺城郭]



中の城はたぶん里伝のみで存在が伝えられてきたお城です。標高1300.9mの東太郎山から南東へ延びる山塊支尾根上、標高約642mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は50m位でしょか。

誰も行かないと思うので、行き方は「米山城の里 金剛寺 歴史散策ガイドマップ」(よく出来てると思います。)を米山城の金剛寺側登城路入口で入手して下さい。簡易な地図ですが、それのみで必ず行けると思います。

お城には案内板が立っていますが、無ければ通り過ぎること間違いなし!凄く優しい眼で見ると堀切と土橋が付いてるように思えます。又、主郭の北側には割と大きめな郭があったように見えます。築城者は海野氏で、村上氏に備えたものと考えられてるみたいですが、絶対答えは出ないでしょう。

行かなくてもよいです。ただこんなお城が此処にはあったという事実は伝えていきましょう。

2020年04月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
西山城[戸石城  周辺城郭]



西山城はたぶん里伝のみで存在が伝えられてきたお城です。標高1300.9mの東太郎山から南東へ延びる山塊支尾根上、標高約640mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は50m位でしょか。

誰も行かないと思うので、行き方は「米山城の里 金剛寺 歴史散策ガイドマップ」(よく出来てると思います。)を米山城の金剛寺側登城路入口で入手して下さい。簡易な地図ですが、それのみで必ず行けると思います。

お城には案内板が立っていますが、無ければ通り過ぎること間違いなし!凄く優しい眼で見ると腰郭が付いてるように思えます。築城者は海野氏で、村上氏に備えたものと考えられてるみたいですが、絶対答えは出ないでしょう。

行かなくてもよいです。ただこんなお城が此処にはあったという事実は伝えていきましょう。

2020年04月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
根古屋城(高い城)[戸石城  周辺城郭]



根古屋城(高い城)は戸石城の北方約2.8km、東方へ延びる山塊尾根上、標高約770mのピークの一つに主郭が存します。東麓の林道からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。東麓に説明板が立ってます。

このお城は里伝である程度の著名人が城主として伝えられています。越後守護上杉氏、次いで上杉謙信に仕えた箕冠城主、大熊備前守朝秀です。朝秀は謙信の出家騒動の際に武田氏に内通し反旗を翻しましたが破れ、その後は山県昌景の与力を経て武田氏の直臣、山県昌景の相備えとなりました。武田勝頼には最後まで従い天目山で討死、子孫は真田氏に仕えて家名を残しました。ちなみに朝秀には剣豪上泉伊勢守信綱と一騎討ちして無傷であったという逸話も残されています。

真田氏の所領内に直臣の所領がある事に違和感を感じると思いますが、朝秀の嫡男常光は父とは別にかなり早い時期に真田氏の家臣となっていたらしく、この常光が根古屋城の城主だったと考えるのが自然(北麓には墓塔がある。)だと思います。朝秀は山県昌景との活動が多く見られ相備え説を補強していますが、根古屋城主であった事を否定するに足る根拠の一つにもなり得ます。朝秀と常光との事跡が混同されている可能性が里伝にはあります。

お城は素晴らしいです。東側斜面には相当な数の段郭が設けられ、登城路はその間を縫って行く事になります。途中段郭の一箇所に工夫が見られますが説明すんのが面倒なので現地で確認しましょう。又、登城路には石積みが散見されますが、往時のものと考えてよいと思います。主郭は北側と西側に土塁が付き、主郭部には石積みも確認出来ます。主郭西側背後には二重堀切、その奥にも1条の堀切が確認出来ます。が、前者には橋が…後者には木製階段が設けられておりフォトジェニックにはなりません。面白いのは主郭北側の一段下がった所にある段郭で、主郭の土塁から滑り下りてくと西側は切り立った断崖ですが、東側へ向けて三段の帯郭がはっきり確認出来ることです。お城の輪郭にめりはりが付いてますね。又、西側の断崖部分には石積みも確認出来ますが、こちらはそろそろ時間の問題でしょう。

堅城を誇った戸石城ですが、それを支えた支城群の存在も無視出来ません。戸石城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2020年04月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
根古屋城(低い城・千古屋城)[戸石城  周辺城郭]



根古屋城(低い城)は戸石城の北方約2.7km、標高約740mの山塊斜面上平場に主郭が存します。東麓の林道からの比高は70m位でしょか。戸石城の支城として整備された根古屋城(高い城)の南側に沢を挟んで存し、別城一郭の城と考えてよいかなと思います。高い城に対して居館(下の城的な…)の役割を担っていたとも考えられますが、住みたい場所では決して無いのでスルーしときましょう。ちなみに東麓にある林道をずっと進めば現在も戸石城に連絡しています。

行き方は同じ戸石城のリア攻めマップにある根古屋(高い城)を参照して下さい。登城路入口の案内板には「千古屋城」と書かれていますが、そもそも何でこういうかは謎だし、それが正しいかどうかも解りません。まぁ元々まともな名前など無かったのでしょう。

お城はプアーです。登城路も往時とは違っているように思えますし、城域内には蚕影神社、石碑、展望台なんかが建てられていて後世の改変も多いと思います。ただ東側斜面には2条の竪堀がはっきり確認出来る他、小郭、虎口、竪堀(堀底道?)を想起させるぽこぽこも見られることから、色んな希望も湧いてくるかもしれません。又、主郭は岩場に立つ石碑のある場所周辺と考えられ、この南側は鞍部を挟んで緩やかに登っていく自然地形(長野県町村誌にある陣馬の畝に通じる。)ですが、凄く優しい眼で見ると大きめな横堀と見ることも可能です。

いずれにせよ想像力がかなり必要なお城です。高い城とともに戸石城を南北から挟撃されるのを防ぐために築城されたらしいので、戸石城ファンは是非訪ねてみて下さいまし。

2020年02月20日 松太郎
花古屋城[戸石城  周辺城郭]

付近(太郎山裏参道)でツキノワグマ出没の情報がありました。暖冬の影響で冬眠から覚めた熊と遭遇する可能性があります。お気をつけください。


2020年02月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
花古屋城[戸石城  周辺城郭]



花古屋城は戸石城の西方約2.8km、上田市民の山として親しまれている標高1164.5mの太郎山から南東へ延びる尾根上、標高約704mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は120m位でしょか。このお城も村上氏連珠砦の一つで、太郎山登山道の一つである太郎山表参道から少しだけ外れた場所に位置し、この城砦群の中では最も安心(登山者が沢山通ります。)して見学出来るお城だと思います。

村上氏連珠砦は物見台程度のものから城郭規模のものまで様々ですが、このお城はその中でも最も大きな部類に入るものです。魅力的なものが多いこの城砦群ですが、はっきり言って苦労対効果の面から行くのを躊躇するものもあるのも事実(低登山になります。)でその選択に迷うところがありますが、このお城は整備された登山道を15分位登れば到達するので、健脚で無くとも気軽に訪ねる事が出来ます。行き方は太郎山表山道登山口から登って七丁丁石の祠まで、そこに真新しい案内板が立っていますので迷うことは0%です。ちなみに八丁丁石まで登ると城域の最北端に出ます。

この登山道には縄張図に無いのですが、2条の竪堀様地形に並走しています。1条は送電線の鉄塔建設のための作業道ぽいですが、もうひとつはたぶん本物でしょう。麓付近の谷まで落ちる大きなもので誰がどう見ても竪堀です。

お城は素晴らしいです。主郭北側山側背後の堀切、そこから西側斜面を下る竪堀は途中で別の竪堀と集合して感動もの。主郭には土塁が付き、土塁の前には天水でも溜めたのか大きめな窪地があったりします。又、主郭の南側尾根は相当数の段郭で守り、所々を堀切で遮断しています。主郭と段郭の一部には石積みが散見されます。

村上氏連珠砦は最近整備が進んでいるらしく(こんな所に説明板が!みたいな場所も…)、このお城も冬であることを差し引いても、10年位前の写真と見比べて隔世の感があります。この城砦群(和合城、物見城、ケムリの城は必見!)に興味を持ちましたら、手初めにまずこのお城を訪ねてみて下さいまし!

2019年05月05日 わる爺陸前守
義清街道登山口駐車場[戸石城  駐車場]



スポット名は正式なものではありませんが地域の呼び名から命名。狭い道の両側に砥石と米山の由緒書板がありました。

2016年12月02日 野呂利左衛門督休三
戸石城

城の西麓に金剛寺、東麓に伊勢山の各集落があります。

西の金剛寺集落は村上時代の城下で、城代屋敷とされる土塁跡や、事実は不明ですが村上義清と関係があるとする義清水と呼ばれる井戸、1332年に海野幸則開基の洞源寺などがあります。当時はここから北に向かい金剛寺峠を経て城に入ったとされています。金剛寺集落の西側には柏山城(未登録)があります。

東の伊勢山集落は真田時代の城下です。
海野幸実開基の陽泰寺があります。この地域は白壁の家が多いです。伊勢山集会所の裏は飯綱城と呼ばれる砦跡で、立ち入れませんが曲輪跡と思われる地形が外からも見ることができます。

金剛寺集落のリーフレットが金剛寺公民館や米山城の登り口の、伊勢山集落の小冊子が陽泰寺そばの案内地図の、それぞれのケースに入っています。

2016年6月28日訪問

2015年10月27日 カーネル
戸石城

上田駅からバスで真田バス停で下車、松尾古城の登山口のある日向畑遺跡へ向かい、松尾古城に登りました

松尾古城から下山後に真田本丸に寄ってからバスで上田駅に戻る予定が、真田本丸の場所がわからず、あげく帰りのバスにも間に合わないという失態

時間が有り余っているので行くつもりのなかった戸石城まで歩くことにしました

行きのバスで一緒だった人が、幸村の郷でレンタルサイクル借りて走り回ってた。うらやましかった
とは言え、戸石城は北西から登り、枡形・本城経由で本丸へ。さらに米山城を経由して南に下山という、縦走コースは自転車では出来ませんので、歩きもいいですよ

大通りを避けて歩いたせいもあり、自販機がなくて干からびそうでした。戸石城からバス通りに出てバス停にたどり着けたのは真田バス停をでて5時間後

歩き計画している方の時間目安になれば幸いです

2014年12月01日 剣右京大夫@三四三空
戸石城

砥石城のほど近くに、真田氏最初の拠点とされる洗馬城と言う素晴らしい山城があります。
そこで、天然記念物のニホンカモシカと遭遇しました。感動です!
ただ、スズメバチもいました(>_<)
地元の人の話によると、真田町の山には熊も出没するそうです。
ご注意を!

2012年08月20日 
戸石城

伊勢山口から登り砥石城、米山城、本城、桝形城と登城。戦国有数の山城 だけあり、全て見るにはかなりの体力をもっていかれます。
ほぼ登山と考えて足下を固め、飲み物等は用意して行くのが無難です。
たまたま一緒に登った地元の方が言うには、米山城は小学生の遠足等にも使われており、今も地中から焼米が出るとのことでした。

第一次上田合戦の際、真田信幸(後の信之)が戸石城から出撃し、上田城を攻める徳川軍の腹背を衝いたと言う事ですが、実際登ってみると、坂は急 で道も狭く、上田城までは直線で4キロ程あります。
信幸勢は本当に戸石城から出撃したのか、疑問に感じました。

2012年08月13日 尻啖え孫市右近衛大将
戸石城

南方から砥石、本城、桝形と攻城。砥石までの登城で相当くたびれるも城跡の醍醐味は奥の本城、桝形にある。大手門、石塁跡など当時を偲ばせる遺構あり。頂で義清、信玄、幸村の郷愁を想う。

2010年11月03日 真田丸
戸石城

毎年11月3日(文化の日)には「砥石・米山城まつり」が開催されます。その時のみ会場周辺は車両通行止めになり、会場へはシャトルバスが運行されます。

2010年09月19日 まったり丹波守
戸石城

伊勢山側から登城。登山口付近は映画『サマーウォーズ』のモデルになったらしく看板が目立つ。
米山城、砥石城の分岐からは坂が急になる。砂利混じりなので滑らないように気をつけて下さい。ロープも張ってあるので軍手が有ると便利です。

戸石城の周辺スポット情報

 切岸(遺構・復元物)

 から堀跡(遺構・復元物)

 福沢出丸(遺構・復元物)

 内小屋(遺構・復元物)

 水の手(遺構・復元物)

 櫓門(遺構・復元物)

 矢竹(碑・説明板)

 戸石城大手口(碑・説明板)

 櫓門口登山道(碑・説明板)

 本城(周辺城郭)

 桝形城(周辺城郭)

 花古屋城(周辺城郭)

 根古屋城(高い城)(周辺城郭)

 根古屋城(低い城・千古屋城)(周辺城郭)

 柏山城(下の城)(周辺城郭)

 柏山城(上の城)(周辺城郭)

 西山城(周辺城郭)

 中の城(周辺城郭)

 花見城(周辺城郭)

 米山城(周辺城郭)

 豊城(周辺城郭)

 陽泰寺(御城印)

 義清街道登山口駐車場(駐車場)

 櫓門口駐車場(駐車場)

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