岩櫃城(いわびつじょう)
岩櫃城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町字伊達他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 斉藤氏
築城年
- 15世紀
主な改修者
- -
主な城主
- 斉藤氏、真田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- 国史跡(岩櫃城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
横尾八幡城(群馬県吾妻郡)[8.0km]
尻高城(群馬県吾妻郡)[12.1km]
羽根尾城(群馬県吾妻郡)[17.6km]
渋川城(群馬県渋川市)[18.9km]
白井城(群馬県渋川市)[19.2km]
名胡桃城(群馬県利根郡)[20.8km]
箕輪城(群馬県高崎市)[21.6km]
小川城(群馬県利根郡)[21.7km]
剣城(群馬県渋川市)[22.3km]
沼田城(群馬県沼田市)[23.2km]
岩櫃城の解説文
[引用元:Wikipedia「岩櫃城」の項目]
岩櫃城(いわびつじょう)は、群馬県吾妻郡東吾妻町(上野国吾妻郡)にあった日本の城(山城)。。吾妻川北岸の岩櫃山中腹に位置し、戦国期に、上杉謙信に従う斉藤氏と、武田信玄に従う真田氏が当地をめぐり争った。最終的には真田信之の支配下に収まり、慶長19年(1614年)に廃城となった。国の史跡に指定されている。
歴史
築城の由緒
岩櫃城の築年代は不明である。南北朝時代に吾妻氏が築城したとの伝承もある。
吾妻氏の時代
この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない。後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配したが[1]、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死[2]、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗った[3]。
斉藤氏の時代
戦国時代、吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が、主君の大野憲直を討ち、岩櫃城を奪った。その子、斉藤憲広は岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍を支配下においたという。
永禄3年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)が岩櫃城を攻め落とした伝わる。その後、城は斉藤氏の手に戻る。
岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は、斎藤氏系譜と同様に複数伝わっておりはっきりしない。地元の旧記では吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広(基国)と系譜を伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を起こし鎮圧されたという[4]。一方「斎藤氏系図」(『吾妻郡城塁史』記載)では、越前国大野郡にあった斎藤基国の子・斎藤憲行が入り、憲行の長男・憲実が岩櫃を継ぎ、他の兄弟は分家したのだが、五男・憲基の子孫たる大野氏の勢力が拡大、家臣の秋間氏を滅ぼして宗家・憲実を支配下に置いたという[5]。その後、大野氏は大野憲直のときに、四男・山田基政の嫡孫で岩下城主・斎藤憲次の反乱によって滅び、岩櫃城は憲次が支配し、その子・憲広に受け継がれたという[6]。
斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏による介入を招くことになる(羽尾氏・鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。永禄3年(1560年)に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾を得る。それに対して、永禄5年(1562年)に斎藤憲広は羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し、鎌原氏を信濃に追い払う事に成功する。しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した[7]。斎藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嶽山城に篭っていたが、永禄8年(1565年)に落城、斎藤氏の勢力は駆逐された[8]。
真田氏の時代
真田氏は吾妻地方への進出をねらい、岩櫃城を攻略した。その後、上野国北部の利根郡に位置する沼田城(沼田市)・名胡桃城(みなかみ町)と、信濃国の上田城とを繋ぐルート上の重要拠点として岩櫃城の大改造を行った。
城域は広く、その中を沼田と上田を結ぶ街道を通してある。中心部の曲輪から放射状に壕が整備される特殊な構造で、周囲に出丸、番城、砦を配してあった。
真田昌幸の時代、天正10年(1582年)に、織田信長・徳川家康勢に攻められて主家武田勝頼が劣勢となると、真田昌幸は武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとした。しかしこれはかなわず、武田家は滅亡している。
その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男の真田信幸(真田信之)に守らせた。真田家当主となった真田信之は、慶長19年(1614年)に幕府を憚り岩櫃城を破却した。以後は原町(現在の東吾妻町原町)に陣屋を置いて一帯を統べた。
構造
岩櫃山の北東に伸びる尾根に位置し、吾妻川の西岸にあたる。また、西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で天然の要害となっている。尾根の西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、北東に出丸の「天狗丸」がある。その更に北東には支城・柳沢城(観音山城)が位置している[9]。
現状と調査
1972年(昭和47年)に町の史跡に指定された[10]。また、2017年(平成29年)、続日本100名城(117番)に選定された[11]。
2019年(令和元年)10月16日、国の史跡に指定された[12][13]。
なお、2014年度の発掘調査で城跡本丸の東側先端部で金属加工に用いる坩堝の一部が発見され、2020年夏から科学分析が行われた結果、金粒子が検出された[14]。このことから真田氏あるいはそれ以前の武田氏が支配していた頃に、岩櫃城に金の原料が持ち込まれ加工作業が行われていたとみられている。
参考文献
- 『群馬県百科事典』,上毛新聞社,1979年
- 『群馬新百科事典』,上毛新聞社,2008年,ISBN 9784880589886
- 山崎一 『群馬の古城 北毛編』あかぎ出版、2001年
- 村田修三・服部英雄監修 『関東地方の中世城館 1』東洋書林、2000年(1989年刊行の『群馬県の中世城館跡』の再録)
- 山崎一・山口武夫 『吾妻郡城塁史』西毛新聞社、1972年
- 原町誌編纂委員会 『原町誌』原町誌編纂委員会、1960年
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岩櫃城の口コミ情報
2024年09月24日 あさひなと流山守
岩櫃城
いい城🏯でした。薬研堀の後が見て取れて、かなりの高難易度の攻略を強いられる自然の要塞です。愛犬と行きましたが、かなりの傾斜に時間がかかりました。おすすめの城跡です
2024年09月01日 マグロ常陸介祐平
郷原城[岩櫃城 周辺城郭]
潜龍院跡から十二様通りを3分程度で到着します。城址にはかなり薄くなった縄張り図もありますが、竪堀や堀切がある本郭の南側は薮となっており入りづらい感じでした。
潜龍院から近いのですが、潜龍院側の防御に関しては堀切などは見られず、意識した作りのようには感じられません(人為的な突起状の地形がありますが、遺構ではなさそうです、写真2枚目)。縄張り図を見たかぎりでは、岩櫃城の支城として榛名神社側の防衛の為に築かれたように思われます。本郭は狭く、大人数が詰められる感じではありません。
2024年09月01日 マグロ常陸介祐平
潜龍院跡[岩櫃城 遺構・復元物]
岩櫃城の麓にある御殿です。武田勝頼が織田・徳川に甲斐を侵食され、新府城を放棄する際に、真田昌幸は自身の岩櫃城に招き入れ再挙を図ることを進言しています。勝頼の為に築いた御殿がこの古谷館(潜龍院跡)です。本気で準備していたとは、驚きです。御殿はその後、昌幸の妹(伯母?)の夫で山伏(修験者)の根津潜龍斎(信忠、信玄側室の禰津御寮人や後に大名となる信政は近い親族)が拝領し、巌下山潜龍院というお寺になっています。
写真の石垣は御殿の遺構のようです。寺院は明治期までこの地にあったようですので、なんとも言えませんが、曲輪はかなりの広さがあります。
勝頼は結局、昌幸の岩櫃城ではなく、小山田信茂の岩殿城を目指し、裏切られて天目山で滅亡しますが、この御殿に来ていたら歴史は少々変わっていたのではないかと想像してしまいます。
2024年07月29日 七沢駿河守七郎
岩櫃城
真田氏の拠点だった岩櫃城、平沢登山口から登り、本丸まで歩きました。暑くてきつかったですが、竪堀や土塁、曲輪がしっかり残っていて見ごたえありました。
2024年05月12日 左馬助たっか
岩櫃城
本丸跡までは比較的楽に行けます。山の山頂を目指す方はそれなりの装備が必要です。
2024年03月18日 noble権中納言弥勒菩薩
岩櫃城
安房守の真意は、昔から謎だと思っていました。より縁が深い小山田が裏切ったのに、真田も裏切るつもりではなかった…とは言えないだろうと。しかし、岩櫃城と潜龍院を見て、少し考えが変わった気がします。捨て身の構え、備えで勝頼を本気で迎え入れ、大博打の一勝負を打つつもりだったのかも知れない。本気でそんな気がしました。
2024年01月13日 昌幸近江守晩秋リア旅
柳沢城[岩櫃城 周辺城郭]
足繁く通った岩櫃城と対称的に、近くにあるにも関わらず見向きもしなかった柳沢城。別名「岩鼓の要害」。
ここ数年気になり、城友様のアテンドでやっと訪城することができました。
武田信玄の上州攻略戦で指揮にあたった真田幸隆。吾妻地域を治めていたのは岩櫃城主の斎藤憲広。息子の斎藤越前太郎には柳沢城を守らせます。真田幸隆は斎藤憲広の部下を調略し、1563年岩櫃城を落城させることに成功。憲広は自害しようとしますが、越前太郎に説得され越後へと落ち延びます。以降は一国一城令が発布され、岩櫃城が廃城となる1615年まで存在したと思われます。
縄張りは主郭を含めたメインの郭が4つと、緩斜面だった東側に沢山の段郭を配しています。メインの郭は岩櫃城と同じ薬研堀と折れ曲がった竪堀が造られており、斎藤氏時代には主郭とその周辺だけだった縄張りが、真田氏時代に改修があり、それは支城の域を越えた大きな改修だったと思われます。この大改修は岩櫃城の天狗丸(出丸)と連携し、谷を登ってくる敵を殲滅する意図があったのでしょう。そして東側の段郭群は北条(に組みする者)への備えと推測できます。
車は岩櫃城の平沢駐車場に停めました。
道路を下ると左側に鉄塔が見えるのでそれを目指して歩きます。保安のための緩やかな登り坂があります。鉄塔を過ぎ、しばし歩くと城域(四郭)に着きます。登城は30分弱でしょうか。
岩櫃城を見て「なんだこの堀は!すげーじゃねーか‼︎」と思っためぐらー様、一緒にこの柳沢城も見ることをおすすめします。絶対に損はさせません。
【写真の説明】
①三確-四郭間の堀。珍しく箱堀状になっている。
②ニ郭-三郭間の堀。
③ニ郭から堀切→腰郭→主郭と見る。
④主郭-ニ郭間の堀を下る。真田お得意の屈曲した竪堀。
⑤主郭石積み。
⑥主郭-物見間の堀。岩を利用した豪快な堀。
⑦物見から岩櫃城を見る。
⑧東側の段郭遺構の屈折した薬研堀。後世に峠道として利用されていた雰囲気を感じる。
2023年10月20日 尼崎城駿河守一口城主
岩櫃城
[後半(本丸→山頂→潜龍(竜)院)]
岩櫃城本丸見学後、尾根通りを進み山頂を目指しました🥾足場の悪い道も乗り越えながら山頂付近の岩場に辿り着きチェーン⛓の掛かっている岩をえっちらおっちら登って山頂に到着⁉️と思いきや何と山頂は写真①の吹流しのある岩場でした。今登ったピークは山頂ではなかったのだ😅と気を取り直して真の山頂に向かい改めて標高802mの山頂に到着(写真②)‼️岩櫃山から西方面の四阿山(写真③)は真田家の上田領方面だなぁと思いながら四方の山の名前を眺めていました。山頂からは麓の様子も良く眺めることができ(写真④)合戦が起こった場合、敵軍の動きは丸見えになるような天然の物見櫓のような場所でした。
山頂の岩場を降りた後、赤岩通り経由で下り潜龍院跡(写真⑤⑥⑦)を見学。こちらに勝頼公をお迎えしていたら歴史は変わっていたかもと思いながら史跡を散策しました。最後に密岩神社に向かい岩櫃山を撮影(写真⑧)岩櫃山の偉容を眺めていると大河ドラマ真田丸のオープニング🎶が思い出されました。
その後、郷原駅に向かい11:46発の新前橋行きに乗車🛤渋川から上越線に乗り換えて当日の目標の公共機関で真田家ゆかりの上州続100名城3城のリア攻めに向けて名胡桃城、沼田城を目指しました。
2023年10月20日 尼崎城駿河守一口城主
岩櫃城
[前半(群馬原町駅〜本丸)]8月16日、JR吾妻線の群馬原町駅から進軍。群馬原町駅構内の東吾妻町観光協会で御城印を購入し、岩櫃城について案内をして頂きました。当初は群馬原町駅と岩櫃城本丸を往復しようと思っていましたが観光協会の方に本丸から赤岩通を経由して武田勝頼公を迎える準備をしていた潜龍(竜)院を見て郷原(ごうはら)駅から戻るプランを提案してもらいました💡その手があったかと当日は8:24群馬原町駅着+作戦会議→岩櫃城本丸→岩櫃山⛰山頂→潜竜院→11:46郷原駅発の予定で出発🥾郷原駅発(新前橋行き)時刻が11:46なので自称イイ城🏯作戦に挑戦しました。
群馬原町駅から岩櫃城登山口まで約2.3km(写真①)とありました。進軍中、看板🪧上部の刀のモニュメントがかっこいい道標(写真②)がありました。道中、薮道もありましたが道標通り突破しました(写真③)💦親切に要所要所に道標を設営して下さっていたお陰で、無事に標高511mの登山口案内所(写真④)に到着。案内所で坂100名城スタンプを押したり、岩櫃山の地形を確認(写真⑤)したりしました。写真⑤から険しそうな山⛰であることを再認識して再出発。
岩櫃山登山口(写真⑥)から約15分で本丸址(写真⑦)に辿り着けました。山の地形だけでも自然に十分な縄張りになりそうな山城でしたが本丸付近には堅堀(写真⑧)がありました。本丸見学後、当初の予定通り岩櫃山山頂を目指しました。
2023年08月16日 HAL2000壱岐守
岩櫃城
岩櫃山の斜面に建てられていたお城です。熊出没注意の看板がいくつもあるくらい、現在は山林に戻っています。本丸にたどり着くまでの道はかなり荒れていて、急な階段も多いです。山城の中でも、維持していくのは難しい城だと思いました。よくこんな場所に城を作ることができたと、当時の人達の苦労が思いやられました。
2023年05月31日 備前之守
岩櫃城
岩櫃城を攻めるなら、潜龍院跡も是非行くべき。近くの古谷登山口の駐車場から眺める岩櫃山も見事です♪
2023年05月21日 マグロ常陸介祐平
大戸平城[岩櫃城 周辺城郭]
大戸関所の近くにあり、目の前にそびえ立つ手子丸城と同じく大戸浦野氏のお城とされています。
三つの曲輪が段々に並んでいて(連郭式?)、二の丸と本丸の間に堀切の痕跡かもしれない僅かな窪みや東側には腰曲輪を確認できますが、全体的に放棄された畑のような感じです。
二の丸と三の丸は、栗のイガが大量に落ちているので、生地の薄い靴での登城は大変危険です。痛い目にあってしまいました。
2023年05月04日 後志守日本三景を観に行こう
岩櫃城
JR吾妻線・群馬原町駅からずっと登り坂です。
スタンプの有る観光案内所までは40分くらい。
本丸跡まで60分(➕20分)くらいです。
参考まで、そこから、岩櫃山山頂までは60分くらいです。
帰りは40分くらいでした。駅近くにセブンイレブン・ファミリーマート・ローソンが有ります。
又、嬬恋キャベツ入り吾妻たこやきが有ります。
8個入り580円‼️美味‼️
続日本百名城の名胡桃城・沼田城・岩櫃城の3城スタンプ押印で上州真田三名城クリアファイルが貰えます。
スタンプ押印場所に無料の絵本『岩櫃物語』が有ります。
面白くて勉強になるので、是非お持ち帰りください。
2023年04月13日 羅臏太
平沢山口駐車場[岩櫃城 駐車場]
平らな大地にアスファルト敷き、約50台の駐車スペースあり かなり大きな駐車場 この時期はお花見🌸も出来ますね
2022年12月04日 左兵衛督蛙喜
岩櫃城
2022年12月3日快晴のなか、登城しました。本丸まで駐車場から20分くらいです。途中、広い中城跡を見て、最後は少し急な登りになりますが、本丸の直前でもみじが赤く染まっていて出迎えてくれました。本丸には、櫓台、腰曲輪、堅堀跡が残り、雪を被った山並みの眺めも最高でした。
2022年11月11日 大蔵卿ゆーき
岩櫃城
登山口から約15分程度でした。登りの勾配がややあります
2022年11月06日 肉肉肉野菜炒め
岩櫃城
11月の3時過ぎに訪問。山路を10分くらい歩きます。しっかりとした靴で行くべきですね。スズメバチが二の丸付近にいたのでご注意下さい。
2022年11月06日 RED副将軍
手子丸城[岩櫃城 周辺城郭]
幾筋もの尾根に郭群を展開する巨大山城🏯
オススメ度 ★★★★★
永正年間(1504年~1521年)に浦野氏により大戸地域の支配のため築いたとされます。
浦野氏は、滋野氏の庶流で鎌倉時代に入部し、後に大戸氏を称しました。
浦野重成は、上杉氏に属していた岩櫃城の斉藤憲広に箕輪衆として従っていましたが、1561年に武田氏の西上州侵攻に屈し武田氏に従属します。
1563年に、岩櫃城の斉藤憲弘は手子丸城に攻め寄せますが、武田氏の援軍もあり浦野氏は斉藤氏を撃退。
1564年、武田氏の上州侵攻により岩櫃城は落城。
1582年に織田信長により武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺で没すると、空白地となった旧武田領を北条氏と上杉氏が侵攻。
浦野氏は北条氏に従属しましたが離反すると北条氏は手子丸城を攻め寄せ落城。
その後は、北条氏邦の支配となり、1587年に家臣の斎藤定盛が入城。岩櫃城の真田氏に対する前線拠点として機能しました。
1590年の小田原征伐後は、徳川家臣の松平近正が支配し、三ノ倉城に拠点を移したため手子丸城は廃城となった様です。
見所
大戸の関の東に聳える標高649mの城山山頂に築かれています。大戸の関は、東に抜ければ岩櫃城、西の須賀尾峠を抜ければ長野原・草津へと至る交通の要衝です。
山頂に主郭を置き、東へ伸びた尾根に郭群を展開し、三つの郭群に分けられます。
さらにそれぞれの郭から北側に尾根が伸び、段郭が連なる広大な城域です。
尾根筋の要所を堀切で分断。鳥瞰図以上に実際は高低差があり、尾根の間の谷間の深さはかなりのもの。
見所は、II郭群とⅢ郭群の間に架かる土橋と、城域東端の二重堀切でしょうか。主郭の強烈な高さと鋭さの切岸も見事です。
かなりの広さと土木量なので地方豪族の浦野氏というより北条氏の改修によるものでしょうか。東に行くほどテクニカルなので北条氏の拡張の様にも思えます。
かなり広く急峻な地形である上に尾根筋は迷いやすいので注意が必要。久々に登山アプリのGPSを使いました。
写真
①II郭群とⅢ郭群の間に架かる土橋
②東端の二重堀切
③④⑤尾根筋を分断する堀切
⑥主郭には碑が立ってます
⑦主郭下の切岸
⑧登城口
2022年05月23日 やしち右衛門督
岩櫃城
本丸までのルートに、尾根通りを通ると竪堀を通ります。雨の翌日などは滑るので、トレッキングシューズ、運動靴がおすすめです。熊が出没する事もあるようなので、登山口観光案内所の熊出没情報のチェックは忘れずに。案内所で熊よけの鈴も売ってるそうです。
2022年04月30日 寺左京大夫にゃん
岩櫃城
登山はなかなかハード。杖よりも軍手が役立つ行軍になります。
2022年04月30日 やなぎ
岩櫃城
山道なので靴はしっかりしたものを用意してください
2022年03月31日 【配龍】美海(ミミ)安房守
手子丸城[岩櫃城 周辺城郭]
【アクセス】
お城はGoogleマップに登録されてます。
大戸交差点から向かって、2つ目のヘアピンカーブの路肩に車3-4台が駐車出来ます(小型重機が置いてある時もある)
登城口は、2つ目のヘアピンカーブの山側に白っぽいハシゴがかかっているので、そのハシゴを登る1️⃣。
登ったら直角に右に行くと、鉄塔管理用の黒い階段が上まで続いています(落ち葉で見にくい)
登り切ると東側の土橋に出ます😊
【写真】
1️⃣南側登城口(ハシゴ)
2️⃣東側の深い竪堀✨
3️⃣巨大な二重堀を下から。縦土塁も高い!
4️⃣5️⃣堀切。東側城山は郭が堀で分断されている♬
6️⃣隣の尾根から見た最西側の北尾根の堀切✨かなり大きい😳
7️⃣その巨大堀切を下から
8️⃣最西側の北尾根の先は不思議な塔のような巨大岩盤がある。物見にも使えそう♬
歩いていると北条の香りがするお城
自然地形も生かしたスケールの大きい堀と、長い土塁がとても美しく、独特の雰囲気を醸し出してますღ
🅿️車3-4台位は写真1️⃣付近のヘアピンカープの路肩帯に駐車可能なスペースあり
2021年12月24日 昌幸近江守晩秋リア旅
手子丸城[岩櫃城 周辺城郭]
鎌倉時代、この地に移住した滋野氏の一族浦野氏(真田氏と同族)が大戸地域支配ための城を築いたのが始まりとされる。
ここは信州上田の北国脇街道から鳥居峠を抜けこの場所を通り、高崎に抜け東山道へ出て鎌倉に抜けられた非常に重要な地点だった。
そのため戦国大名もこの地の支配を得ようと争いが絶えなかった。長野氏vs武田氏、真田氏vs北条氏などなど。その度に城域は拡張され現在の形になったと思われる。
吾妻地域では、岩櫃城に次いで広いのではないか。尾根の改修の加え方は見応えがある。
山城に慣れている方向けの城と思う。単独ではなくグループでの訪問をおすすめする。
【写真の説明】
①追手道の堀切
②もう一つの追手道堀切。石積みが現れた。
③追手道の自然地形らしからぬ凹み。城域では一番なだらかな谷筋のようだから何か施されてもおかしくない。
④本城への尾根道を下から。後で登ったが足場が岩で怖かった(汗)
⑤主郭とその下の郭。かなりの兵士が駐屯できそう。
⑥ニノ城-三ノ城間の土橋。
⑦土橋から見える堀切。自然地形に改良を加えた感じ。
⑧搦手からの侵攻を防ぐ二重竪堀。
2021年12月23日 昌幸近江守晩秋リア旅
郷原城[岩櫃城 周辺城郭]
潜龍院跡から岩櫃山登山ルート・十二様通り沿いにある郷原城。城というよりかは、岩櫃城や潜龍院への不審者侵入監視のための施設に近いかなと思います。
登山道沿いが主郭になり、尾根を下ると曲輪や堀が普請されているようですが薮でよく分かりませんでした。
【写真の説明】
①主郭
②主郭櫓台跡。一番高所になります。
2021年12月17日 昌幸近江守晩秋リア旅
羽田城[岩櫃城 周辺城郭]
東吾妻町にある羽田(はんだ)城。詳細は先人が語られている通りです。
送電線管理のための道ができており(黄色いポールが入口)、登城してすぐが主郭裏になります。そしてそこの遺構が一番の見どころでしょう。
【写真の説明】
①登り始めてこの景色。声が漏れてしまいます。目の前が主郭。
②主郭裏の堀切。圧巻の土木量。
③主郭西側の横堀。この先の連なっている郭まで続いています。
④主郭から連なる郭の虎口。薮が酷くなっていきます。
⑤主郭。祠がある。
⑥主郭東側の堀底から。
⑦ニ郭の堀切。
2021年08月04日 織田上総介晃司
岩櫃城
平沢登山口駐車場に駐車。観光案内所を経由して約20分で本丸。別ルートや脇道にそれると色々な遺構もあります。
岩櫃城から東の中之条町へ向かい、北上すると四万ブルーと言われるエメラルドブルーの四万湖(ダム湖)があります。
更に北上すると四万温泉があり「千と千尋の神隠し」のモデルといわれる宿もあります。リア攻めの汗を流すのもよいでしょう。
2021年07月18日 フー甲斐守
密岩神社[岩櫃城 寺社・史跡]
吾妻太郎基国の奥方を祀る神社。岩櫃山中腹の奥宮は立入禁止の為、里の人達が近年再建されたもの。ご利益は安産子育てとか。観光協会でもオススメの撮影スポットだそうです^o^
2021年07月18日 フー甲斐守
古谷登山口駐車場[岩櫃城 駐車場]
定番の岩櫃城の写真を撮るのに密岩神社に寄った時に停めさせて頂きました。
2021年06月09日 真田上野介信吉
羽田城[岩櫃城 周辺城郭]
群馬県東吾妻町大柏木にある羽田城は、岩櫃城から約6.4キロに位置します。
詳細は不明で、築城年代は定かでありません。城主は羽田彦太郎で長野氏の一族とされます。
永禄5年(1562)武田信玄が羽田彦太郎を追い、手子丸城の浦野重成に与えたとされています。
3郭に鉄塔が建つような山中に羽田城はあります。先ず国道406号を草津方面へ。県道377号に右折し、5分程で諏訪神社の下辺りに辿り着きます。よって、諏訪神社にナビ設定しておくとよいでしょう。
諏訪神社東側には鉄塔管理用の道が付けられており、神社から少しのところに車2台分のスペースもあります。
以下、登城口のスポット設定と写真1枚を添付しましたので参考にしてください。
登城口から登ること約2分で、主郭と2郭を大きく分断する堀切、虎口となります。薬研状に掘られた堀切は、群馬でも珍しい大掛かりなもので、いきなり圧倒されるところからスタートです。
主郭西側下には土塁と横堀。この横堀は大手方向(南側)に延びています。大手方向は残念ながら激藪で、全く確認することが出来ない場所は複数に。主郭には櫓台を設置。この櫓台から見る堀切もやはり迫力があります。
東側は竪堀や横堀、腰郭も確認。2郭と3郭の堀切は竪堀となり落ちて行きます。また3郭西側は厳重に畝状竪堀群を展開しています。
東吾妻地区は、岩櫃城を中心に遺構が豊富に残された城郭が複数存在します。
その一つ一つに足を踏み入れ、存分に体感してみてください。
2021年05月29日 カンスケ伯爵
岩櫃城
いつもはポチが多いのですが登りました本丸まで!登山を目的としている方々が何組かおりましたが普段鍛えていない還暦手前の私には少々堪えました(>_<)
しかし本丸跡まで行くとやはり血が騒ぐのかテンション上がります。
詳しいことは諸先輩方の口コミを参考にしていただき駐車場から本丸までの往復は写真を撮ったりしても一時間程度で完了します。100名城スタンプや資料等は駐車場から歩いてすぐの観光案内所にあります。但し午後4時までです。
2021年04月29日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
稲荷城[岩櫃城 周辺城郭]
群馬県の東吾妻町にある稲荷城☆空堀に巨大な大土塁が良好に残ってます☆別名を須郷沢城と呼びます☆鎌倉時代に吾妻氏が築いたと伝わります♪吾妻太郎行盛もこの地で生まれたと云われてますが現在残っている遺構は戦国期のものになっています☆館は北側に残る地「舘の内」であったと思われます☆後は吾妻四郎助光も有名ですね☆この東吾妻エリアを治めていたのが吾妻氏の一族と伝わります☆あくまで伝承になっていて明確な物では無いのです☆文献等から武将として名前は出て来るのでいた事に間違いはないです☆
他地域に比べても上野国は中世以前の史料が少ないとされていて吾妻地方(吾妻川流域)はその傾向が顕著になっています☆古代から中世にかけての榛名山や浅間山の噴火で吾妻地方の在地領主が大打撃を受けてきた事や戦国時代に相模の後北条氏・甲斐の武田氏・越後の上杉氏という有力戦国大名が進出して上野の有力戦国大名が雲隠れた事などが理由としてあります☆歴史に戻ります♪
室町時代には大野氏の居城になっていて岩櫃城の斎藤氏と婚姻を結んでいました☆稲荷城主・大野氏は斎藤氏の重臣となって頭角を表していきますが、同じく重臣であった岩下城主・斎藤憲次に滅ぼされてしまいました☆
室町時代までは何となく歴史は掴める訳ですが、その先の戦国時代となると分かっていません☆ただ最初に述べた様に戦国時代の城郭の顔をしている以上は後に地方豪族か?ハタマタ別エリアから入り込んだ、武田氏、上杉氏、後北条氏、真田氏?が後に改修をしたのか?分かりません☆仮にこの力強い武将達がラインナップをしたとしたら、もっと改修拡大を施すはず…。タダでさえ別エリアから侵攻してきているし力を見せつけなければならない訳なので、もっと掘り込むだろうし…稲荷城の正面には中ノ岳☆迂回しながら北ルートを抜けたら真田氏の沼田城、名胡桃城☆南側のルートを抜けたら渋川に抜け南に降れば長野業政の箕輪城☆この中ノ岳を迂回する街道の南北を抜けて渋川、沼田から岩櫃城へ向かう際にどうしても正面に稲荷城な訳なのであります☆交通の要衝地であり岩櫃城の前線に立つ城ですね♪それを考えて行くとやっぱり戦国時代は…?やっぱり分からないwそれ位に上野国は南から後北条氏、北からは上杉謙信、南西側からは武田信玄、主君を上手く利用しながら攻め抜いた真田昌幸☆激戦地であり草刈場だった訳なのであります☆
2021年04月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
手子丸城[岩櫃城 周辺城郭]
群馬県の吾妻郡にある手子丸城☆別名を大戸城とも呼びます☆真田昌幸の籠る岩櫃城の南西側に位置する戦国の山城です☆眼下には街道が走り大戸関所(此方は江戸時代のもの)も残ります♪南西側に抜ければ信濃は軽井沢で東側の榛名山を越えればそこは群馬は上野国という立地になっていて所謂、境目の城☆いずれも交通の要衝地です☆境目の城といえばやはり防御機能に優れていて正に戦う城郭と言った印象が強い訳ですが、この手子丸城も正に堅固な城郭でありました♪その縄張り、城郭遺構、規模を見ても個人的に群馬城郭のTOP3には入る☆そんな素晴らしい顔をしています☆真田氏と同族だった浦野氏はこの場所に手子丸城を築城しました☆浦野氏は大戸氏を名乗っていきます☆往時の岩櫃城主・斎藤憲広の妹を嫁に貰い姻戚関係を結び関係強化を測って行きますが武田家の家臣・真田幸綱の岩櫃攻略の際に真田幸綱の調略に乗っかって武田方に寝返りました☆ただ…この大戸氏は武田家と徳川家による高天神城の争奪戦により戦死したと伝わります☆その間の詳細は不明ですが恐らく真田昌幸の岩櫃城の支城として機能していたと思われます☆その後、武田勝頼率いる武田家滅亡による甲斐国、信濃国の一部である武田領が空白地帯へ☆そこで始まる武田領の争奪戦☆後北条家VS徳川家の天正壬午の乱が勃発します☆当初、後北条方に与した真田昌幸はすぐに徳川氏に鞍替えします☆真田家は生き残る為の最善の策を進んで行きます♪鞍替えを知った後北条氏は大いに怒り真田領の沼田と岩櫃方面へ二手に分かれて襲い掛かります☆ここ手子丸城も襲撃され真田の援軍間に合わず往時、城を守っていた大戸兄弟は討死し落城☆奪われた手子丸城ですがその後に真田信之が奪還します☆手勢の800騎を率いて後北条方の富永主膳軍5000兵が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還します☆この時、真田信之は17歳で、しかも初陣でありました☆城郭としては標高649mの山のピークに主郭を配置しております☆ここから北へ伸びた三つの尾根に曲輪を展開しています☆東へ伸びた尾根側に強く郭を置いていて堀切で尾根を遮断するなど各郭の独立性が高いです☆東側にはデカい連続竪堀が残っていますが、こちら側が一旦城郭を区切っていて城域はココまでと思われます☆真田方が入り後北条方が入り元々は小さな城域を拡張、改修していった結果が今ある大きな城郭になったと思われます♪
2021年04月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
岩下城[岩櫃城 周辺城郭]
群馬県の吾妻郡にある岩下城☆真田氏が吾妻エリアを攻める前は斉藤氏が此処を支配していました☆
ここ岩下城は斎藤氏によって築かれた城郭と伝わります☆斎藤憲次の時に大野氏を滅ぼして岩櫃城へ居城を移した為に家臣・富沢但馬が岩下城主となりました☆
その後は真田氏が岩櫃を攻略して斎藤氏が没落すると富沢氏は真田氏に従いました☆
富沢但馬の子・富沢勘十郎は武田氏VS徳川氏(奥平氏)の長篠合戦で討死しています☆
見所としては主郭下の大堀切☆インパクト強めな巨大な大堀切が迎えてくれます☆城内には連続堀切も残ってます☆
2021年04月11日 南部陸奥守勝牛
岩櫃城
20210410平沢登山口の観光案内所で御城印と続100スタンプを済ませてから、本丸を目指して攻城開始。名城らしく勾配は急でシッカリとした靴をオススメします。本丸へはゆっくりペースで約20分もあれば、到達出来ます。雨天の次の日は滑りそう、要注意です。次回は潜龍院跡を見学したいと思います。
2021年03月28日 救援不要♪ちょび相模守
岩櫃城
JR群馬原町駅
駅舎の駅員さんが居るところが
観光協会でパンフ、続百スタンプあり
スタンプ押したらクリアファイル
頂けました
平沢登山口まで
番匠坂、東の木戸のある真田道を
通って徒歩約30分
案内の看板が充実してますので
迷うことはないかと
2021年03月08日 真田上野介信吉
大戸関所跡[岩櫃城 寺社・史跡]
北国街道の脇往還である信州街道は、高崎で中山道より分岐し、途中11の宿場をもつ。
大戸宿は、高崎より4番目の宿場町で寛永8年(1632)に関所が設置された。
ー『大戸宿』パンフレットより一部抜粋ー
群馬県東吾妻町大戸にある関所跡。侠客国定忠治による関所破りは有名で映画にもなった程。
また、約1.5キロ高崎寄りの国道沿いには、国定忠治の処刑場跡、忠治地蔵があります。
自身は、リア攻めの合間に歴史に触れる機会があれば積極的に立ち寄るようにしています。そもそも歴史好き。
全国各地にも当然のようにある関所跡ではありますが、歴史的にみて興味深いと思い紹介させて頂きました。
2021年02月14日 クルス秋田城介トッツィー
観光案内所[岩櫃城 スタンプ]
群馬原町駅の観光案内所で岩櫃城の続100名城スタンプを頂いた時、その日、名胡桃城、沼田城を訪れた事を伝えると、記念ボールペンと「上州真田三名城」のクリアファイルを頂きました。
2020年12月28日 国府左京大夫城介
内出城[岩櫃城 周辺城郭]
岩櫃城の対岸にある崖端城
【歴史】
観応年間(1350~52年)頃に、秋間氏が築城したと伝わる。
吾妻三家(秋間・大野・塩谷)の一つであるが、文明年間(1469~87年)に大野(斉藤)義衡に攻め滅ぼされた。
【遺構】
岩櫃城とは、吾妻川を挟んで東岸にある南北200m・東西400mの台地上にあり、現在は、住宅や畑となっています。しかし、住宅や畑も城の造りをそのまま活用しており、曲輪の区割りや空堀・切岸などの形状をうかがい知ることはできます。また、西端には櫓台や吾妻川へ降りていく虎口や竪堀が良好に残されています。
なお、特に城を示す説明板はありません。
【感想】
見所は西端にある吾妻川へ降りていく虎口は、これぞ崖端の城と思わせる造りです。また、この虎口は吾妻川からの攻撃を想定していたのか、それとも吾妻川を利用した水運から兵糧や兵馬を輸送していた可能性もあるかも!
遺構の項でも書きましたが、城域は基本的に住宅や畑となっているが、往時の面影を十分に残しており、かなり広い城です。そのため、戦国前期の一豪族の居城としてはあまりにも広すぎるように感じました。もしかすると、岩櫃城を攻めるために、上杉・武田・北条といった諸勢力によって拡張された可能性も十分にあるもしれません。
【アクセス】
群馬原町駅から徒歩で約20分。
岩櫃城(平沢登山口駐車場)から徒歩で約30分。
【写真】
1:本丸北側
2:本丸と二の丸の間の空堀
3:二の丸の西にある空堀と櫓台
4:吾妻川への虎口(上から)
5:吾妻川への虎口(下から)
6:吾妻川への城道
7:4郭(右)と5郭(左)の間の堀切
8:北側から見た6郭
2020年11月22日 美濃守不識庵拾玖
岩櫃城
吾妻駅から駐車場のある平沢登山口までは、国道を外れたところから道幅が狭くなりますが、離合不可な場所はそれほど多くないので、対向車に早めに気付くようにしてあげれば、特に怖い道ではありませんでした。
駐車場から本丸までは30〜40分ほどかかったかと思います。中城から城の中枢部に向かっては長い竪堀が登山道になっています。堀底をまっすぐ登ると気分はまさに城を攻める雑兵になれます。二、三回は討ち死にしていることでしょう。
二の丸と本丸周辺は竪堀と横堀が複雑に走りあっており、流石真田の城と言ったものでした。各郭に現在では階段がつけられていますが、多分竪堀側から入るのが往時の姿だったのでは?とは思いましたが、すでに大分体力を削られたため堀底に降りるのは諦めました。
本丸からは吾妻の町が、そして真田が切り取りを目指す上州の方に向けて展望がひらけている様を見るのも浪漫を掻き立てられる良いお城でした。
2020年09月06日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
柳沢城[岩櫃城 周辺城郭]
柳沢城(岩櫃城支城)。
物見の役割の高台の岩場から北尾根に遺構が残り、そこそこの防御機能を備えた造り。
かつては修験の山だったそうで岩場の鎖やはしごなどかなりの急な登りできついです。
天候、季節によっては危険もともないますし体力のない方にもおすすめはしません。
岩櫃城出丸の天狗丸とともに、ここ柳沢城で平沢集落への登りを監視防御する役割として機能していたと思われます。西に位置する潜龍院と郷原城とともに岩櫃城の支城を含めた防御網を知る上で重要な城だと思います。
2020年06月18日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
岩櫃城
現在災害復旧工事に伴い2年7月31日まで岩櫃城平沢登山口駐車場までは迂回路の通行になります。
国道145号線メガネの板垣原町店の交差点を北方向へ案内板をたどり進んで行くと行けます。詳しい地図は東吾妻町ホームページ等をお調べ下さい。
途中、稲荷神社近くにこの前口コミ投稿した登録外の稲荷城址もあります。
また、長野原方面へ足を延ばせば八ッ場ダム水貯まってます。道の駅もありますので3密に気をつけつつお土産選びもお楽しみいただければと思います。
県またぎ制限緩和で来られる方の参考になれば。
2020年06月15日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
稲荷城[岩櫃城 周辺城郭]
稲荷城跡。
東吾妻町、東吾妻中学校北の稲荷神社左横から登城。神社北西の台地上にある城跡。
神社脇の道は藪、抜けると藪はおさまります。(神社脇じゃなくても行けますが民家の正面からのアプローチはあまりよろしくないかと。)民家裏の道を通り抜けると右手に堀と虎口が見えてきます。
遺構は5角形の本丸周りの堀跡と土塁、二の丸の土塁堀がよく残る。
駐車場は無し、神社北の集会所北側道路脇のやや広い所に停めました。
説明板や案内板はないですが、地図アプリでは城跡の表示はあると思います。リア攻めマップの位置は3キロ外でちょっと足りずも稲荷城の表示がそばにあります。
近くに民家があり迷惑にならないように、そこを気をつければ熊や危険箇所など危険は少ないのでさほど広くないお城なので気楽に遺構を楽しめます。
2020年04月06日 鷹咲直政
東吾妻町観光協会(群馬原町駅内)[岩櫃城 スタンプ]
ここでスタンプや御城印、パンフレットや記念ボールペン(御城印を買っ場合だけ?)などが手に入ります。
2020年04月06日 鷹咲直政
観光案内所[岩櫃城 スタンプ]
冬季は閉鎖してあるため、東吾妻町観光協会は行かないとスタンプも御城印も集められません。
2019年06月30日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
平川戸(城下町の跡地)[岩櫃城 その他]
平川戸。写真中央が岩櫃山、左に一段下がった辺りが岩櫃城、右の林の奥が出丸の天狗の丸、手前畑が山の中腹にあったとされる城下町平川戸。周辺には北の木戸跡、東の木戸跡が残り、城へ入る者を厳しくチェック。城の縄張り内の城下町とされる。
撮ってる右背後に沢を挟んで支城の柳沢城があり、出丸の天狗の丸と連携して城の東方向を警戒、連絡の役目もあったか。
【追記】岩櫃城の写真でも時折見かけるカモシカさんの最大ズームの写真。山から少し降りたこの辺りも山の中腹、別の日ですが夕方頃遭遇しました。畑には人のものでない足跡や草むらに続く草の倒れた獣道も見かけました。今は彼らの縄張り、時間帯によって注意警戒は必要です。
2019年06月23日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
西の木戸跡[岩櫃城 碑・説明板]
西の木戸跡。ここを(撮ってる背後方向に)抜けると城から降りてくる竪堀を渡る橋の橋台跡をへて出丸の天狗丸へ。
中城下を通る城に近い木戸だったからか木戸の近くにはアプリ異能者でおなじみ出浦さんの屋敷跡(出浦淵)で忍者さんが常駐??、その先は城から降りてくる竪堀、そこには最悪の場合に落とせる木橋が架かっていたそうです。
2019年06月16日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
北の木戸跡[岩櫃城 遺構・復元物]
北の木戸跡。奥に突っ込んでみたところ、虎口状の部分確認、遺構に変更して再度スポット設置。
ここに木戸があったのか奥の一段上の虎口に木戸があったのか不明ですが、岩櫃城平沢登山口案内所の縄張り図の拡大版には北の木戸跡の虎口のような部分は書かれてたので行ってみました。
写真部分から入ると広くなっており排水溝が設置されてる部分ありますが、奥の斜面登ると虎口が。
周辺には東と西にも木戸跡があり、天狗丸東の平川戸の町の入口となっていた模様。
東の木戸下、番匠坂にも物見の郭が2つあったようです。
2019年05月26日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
岩櫃城
志摩小屋虎口跡。この上(左方向)にも虎口のような場所がありこのラインが城の重要部分の境目か。
2019年05月26日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
志摩小屋虎口[岩櫃城 遺構・復元物]
岩櫃城、北側に位置する志摩小屋曲輪群と平沢曲輪群を繋ぐ虎口。(ただ、まだ調査が必要で堀跡の可能性もあるそうです。)
口コミ画面左から1枚目は段々にいくつかある志摩小屋曲輪。2枚目は虎口。3枚目は虎口外側(北側の平沢曲輪群方向)に西側から降りてくる竪堀と土塁。この竪堀を登ると二重竪堀になってます。
2019年05月12日 Jasmine武蔵守✿*
潜龍院跡[岩櫃城 遺構・復元物]
潜龍院跡。岩櫃城の南西、岩櫃山の南面下にひっそりと佇む。当時の石垣を見ていると「もしもここに勝頼が来ていたら‥」と思いを馳せてしまいます。
古谷登山口の駐車場からは徒歩10分くらいです。
2019年05月11日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
出浦淵[岩櫃城 遺構・復元物]
出浦淵。異能者でお馴染みの岩櫃城最後の城代、出浦さんの館跡。広いスペースの奥にはわずかに館の物と思われる石積が残ってます。この上(西側)は岩櫃城の中城部分、すぐ近くに西の木戸跡もあり関門、城への連絡的役割もあった場所かも。
2019年05月10日 熊啄木鳥天塩守
岩櫃城
岩櫃山西側にある天狗の架け橋(登山道) 下から臨む
2019年05月10日 森 可成
岩櫃城
まず、早朝や日暮れ時の登城はお勧め出来ない。人外の住まう領域である事を忘れずに(05:30〜06:00頃でもカモシカと遭遇、コレが熊だったら詰んでいた)。城跡を見て回るだけなら、コレといった登山装備は必要なく歩ける。但し急峻な登り坂も在るので体力は要る。ルートとしては、登山口から尾根ルートで中城(二ノ丸)、本丸、桝形虎口(四合目付近)と回り、沢ルートで降りて来るのが良いだろう。遺構の状態は良好、本丸から竪堀を眺めると、山城を攻める事の難しさを再認識出来ると思う。
2019年05月07日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
柳沢城[岩櫃城 周辺城郭]
支城とされる柳沢城のある観音山中腹からは沢を挟んで反対側の岩櫃山(右)と岩櫃城、出丸の天狗丸の平地(左側の畑)、さらには下の登り道もしっかりと見える。
ここから兵を出すというより見張りや岩櫃城への伝達の
役目を担っていたと思われる。
リア攻めマップを航空写真にして見てみると本城と出丸の天狗丸、柳沢城の連携と配置からの守備体型がなんとなく読み取れる。
2019年05月04日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
石積み[岩櫃城 遺構・復元物]
石積下から流れてました。岩櫃城には井戸跡は見つかって無いようなので、沢から水を汲んでたのは有力。幼少時代の幸村も岩櫃には来ていたそうで、水を汲みにこの辺りに降りてきてた、なんて想像が膨らみます。
2019年05月04日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
石積み[岩櫃城 遺構・復元物]
沢通りの沢には水の手と言われてる場所が。水の流れを変え石を積んで水を溜めているような部分と沢脇の土止めのような石積も見えます。
2019年05月01日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
天狗丸跡(岩櫃城出丸)[岩櫃城 遺構・復元物]
天狗丸。支城柳沢城とともに岩櫃城東の守備を担う出丸。南側は視界良好、岩櫃神社の裏に空堀が残る。
2019年05月01日 CLAD
東の木戸跡[岩櫃城 遺構・復元物]
東京電力の施設のすぐ側。ここを通って群馬原町駅まで行ける「番匠坂」という道は、おそらく古の登城道(車輌は通行困難)。
2019年05月01日 CLAD
天狗岩[岩櫃城 その他]
岩櫃城本丸から岩櫃山へ向かう尾根道のスポット。ここから先は潜龍院跡へ降りる場合もロープを伝って行く場所もあり、ちゃんとした登山靴が必要。
2019年05月01日 CLAD
郷原城[岩櫃城 周辺城郭]
城というより大きめの砦くらいの規模だが、潜龍院跡から岩櫃城本丸方面に登る途中に立ち寄るのにちょうどいい。
ちょっとだけヤブをかき分けると、かなりはっきりした竪堀(写真3枚目)が残っている。
2019年05月01日 CLAD
潜龍院跡[岩櫃城 遺構・復元物]
背後の岩山が岩櫃山。御殿を建てる予定だった石垣の裏手を登ると岩櫃山と岩櫃城本丸跡への分岐点に最短距離で到達。右手に進めば郷原城跡を経由して行ける。
2019年04月23日 右京大夫touch!
トイレ[岩櫃城 トイレ]
管理事務所の外にあります。
2019年04月23日 右京大夫touch!
観光案内所[岩櫃城 スタンプ]
ここで情報を集められます。
2019年04月23日 右京大夫touch!
平沢山口駐車場[岩櫃城 駐車場]
かなり広い駐車場です。
2019年04月23日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
郷原城[岩櫃城 周辺城郭]
岩櫃城支城の1つ。潜龍院の守りの役目も担い小規模ながら幾つかの小郭が段になり残る。
2019年04月23日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
岩櫃城
本丸からさらに上に腰郭が一段あり、その上に詰めの郭と思われる3段の平地の1番下の段です。
2019年04月23日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
潜龍院跡[岩櫃城 遺構・復元物]
潜龍院跡。石垣を登り、館跡の裏には祠と大岩の間に登山道への裏からの抜け道(中央やや左に階段)?。勝頼さん呼んだ後、万が一の場合は岩櫃城へ逃げられるように準備万全だったのかな。
2019年04月23日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
潜龍院跡[岩櫃城 遺構・復元物]
潜龍院の館跡に残る石垣。武田勝頼を迎えるために真田昌幸が3日で作ったと伝わる館の跡。
2019年02月25日 みやび姫
岩櫃城
2/24.続日本100名城のスタンプは駅舎の中に有りました。外に出てるので押せたものの、12時30分で昼休みだったのか、観光協会窓口が閉まっていました。なので登城後再度寄ってファイルとボールペンをいただきました。平沢登山口駐車場はYahoo!カーナビですんなり出て来たので迷うことは無いと思います。
2019年01月01日 若狭守 影丸
岩櫃城
東吾妻町役場が1/4から元岩櫃城温泉くつろぎの館があった場所に引っ越しするそうです。外観がお城の役場なので珍しいかと。
2018年12月09日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
岩櫃城
平沢登山口観光案内所は来年の3月31日まで冬季閉鎖。(自販機とトイレは使えます。)
続100名城スタンプは群馬原町駅の南口、東吾妻町観光協会で押せます。(年末年始休業期間は押せないそうです。)
冬場は霜が降りて溶けかけの時は滑りやすくなってます、注意してお登り下さい。
冬は登山自粛期間ですが本丸までなら急な登りはありますがさほど危険はありません。
下草が枯れ植物の種子もくっつかなくなってきた冬場はダイナミックな竪堀がくっきりとわかります。のんびりゆっくりと登りにおいでください。
日没が早まり陽が沈むと急激に暗く寒くなりますので午後3時過ぎには降りた方が良いと思います。
2018年09月28日 しゅわ武蔵守っち
岩櫃城
案内所から半時計周りの沢通りからの攻城をお奨めします!案内板通りに登る尾根通りは私が案内所で休憩中していた短時間でも心が挫けて引き返してこられた方々を数名拝見しました!沢通りからだと本丸跡に直行出来ますし、下りで尾根通りをゆっくり城跡見学ができ楽でした!最後の分岐点で案内板を見逃して右の下り道を選ぶと案内所に戻れないので注意してください!
2018年04月15日 三男坊.k大学頭
岩櫃城
案内所のガチャするときに小銭がないときは、案内所のおじさんが両替してくれますよ♪
2018年04月15日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
岩櫃城
災害工事終了で、145号から迂回せずに行けるようになってました。
案内所は岩櫃城パンフはもちろん、東吾妻町の観光パンフ類も充実。
ガチャも3種類くらいになってました。熊鈴ガチャをお土産にどうぞ♪。
続100名城スタンプももちろんあります。
駐車場からさほどかからずに本丸跡まで登れますので、初めての方も再訪の方も気軽におでかけください。
2018年04月07日 三男坊.k大学頭
岩櫃城
4月10日まで不動の滝から平沢まで通行止めです
大戸口近くのR145下に迂回看板あるので必ず見てください
それに従えば迂回路指示看板が必ずあるので迷わず行けます♪
2017年12月26日 カーネル
岩櫃城
吾妻線 群馬原町駅から直線距離で2.3km
駅前に概略の地図があり、参考になります
国道145号で南西に行くと←岩櫃城の看板があるので、左折してから国道の下をくぐると、緩やかに坂道を登り始めます
車道は狭いけど、車はほとんど通りません
30分ほどで左矢印の看板があるので、左折すると登山口に出ます。ここまで車でこれます
登山口に登山道の看板があります
入口から、登ってすぐに左折すれば中城跡。その先で看板に従って右折しますが、下を見ると竪堀が続きます
階段を登れば三日月堀と二ノ丸を経由して本丸。登山口から10分くらいです
反対側に下ると居館や木戸経由で、こちらは傾斜が緩やかで楽に帰れます
初めて行ったときは死ぬほど遠かった気がしたのですが、2回目は1時半であっけなかったです
2017年11月11日 日高守きこりん
岩櫃城
山馬鹿向け周遊コース!
まず、岩櫃城とは反対側になる古谷口から、密岩通り登山道を登って、鎖場や梯子が連続するスリリングな岩場を楽しみながら山頂へ(脚が高く上がらない人は登れません)。360度の絶景を味わった後、沢通りを降って案内所のある平沢口へ。ここから柳沢城(観音山)はそう遠くないので足を延ばします。修験道の岩場を巡りながらプチケイビングと滝見物とダイナミックな土の城を堪能できます(金堀穴という坑道跡は必見!ライト必須)。
大返しして、岩櫃神社と出浦渕に立ち寄ってから尾根通りで登り返し、岩櫃城核心部を散策します。本丸からそのまま登って、分岐を赤岩通りへ行きます(もう一度山頂に登るも良し!)。そして十二様通りを行き郷原城に立ち寄った後、潜龍院跡へ下り、古谷口へ戻ります。
のんびり歩けばこれでほとんど丸一日かかると思います。紅葉シーズンの山頂周辺などは岩場で渋滞が発生して、相当時間がかかることが考えられます。
山歩きスキルのある物好きにはオススメのコースです!
2017年08月23日 若狭守 影丸
岩櫃城
群馬原町近くのお城のような温泉センターは今年の3月で閉鎖されたそうです。徒歩でお城巡った後に汗を流せる手頃な場所だったんですが、残念です…。
2017年08月10日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
岩櫃城
【東吾妻町観光協会Facebookより転載】
◇【重要】岩櫃へ車でお越しの方へ◇
平沢方面(岩櫃城跡)へお車でお越しの方は、昨日の災害の影響により通行止めになっている区間がありますので、軽自動車以外はう回路を通ってお越しくださいますよう宜しくお願いいたします。
う回路は図面の通りとなっております。
ご不便おかけしますが、宜しくお願いいたします。
(図面などはFacebookでご確認ください)
2017年05月10日 牢屋見廻り同心マダオ
岩櫃城
岩櫃城関連史跡及び周辺史跡
善導寺:東吾妻町原町1084
岩櫃城主斉藤氏家臣開基。吾妻太郎一族供養塔、沼田藩真田氏関連の梵鐘があります。武田軍による岩櫃城攻めの際、落城の起因を作った場所でもあります。
顕徳寺:東吾妻町原町432
出浦対馬守が潜龍院より建物を移築し、開基したといわれています。
川戸神社:東吾妻町川戸1072
吾妻太郎行盛の首を祀っています。創建時は首宮大明神。
長福寺:東吾妻町岩井1453
岩櫃城主吾妻氏の菩提寺で吾妻太郎行盛開基。吾妻太郎行盛の墓(五輪塔)があります。
池の薬師水牢跡:東吾妻町新巻1083
沼田藩真田氏が年貢取り立てに使った水牢です。真田氏による苛政により年貢を納められぬ家の妻子を縛り、寒中水の中に立たせたといわれています。
郷原遺跡:東吾妻町郷原
昭和16年に有名なハート形土偶出土地です。郷原駅前に説明板あり。
林昌寺:中之条町伊勢町1002
真田幸隆の弟、矢沢頼綱によって再興された寺です。本堂には矢沢頼綱の位牌があります。また小渕恵三元首相の墓もあります。
2016年10月02日 京急渡島守ドレミファ♫
岩櫃城
車だと関越道・渋川伊香保から40分ほどでしょうか。
50台ほど停まれる大駐車場完備で、案内所にはウォシュレット付のお手洗いもあり、飲料の自販機もあります。
雨の後で登城路は険しく、足腰が確かでないと本丸まで行くのは危ないと思われました。
特にシルバーの方は、無理をされないように願います!
断崖絶壁の「ザ・岩櫃城」的な写真は、JR吾妻線・郷原駅方面に行かないと撮れません。
でも、鉄道で行くなら最寄は群馬原町駅だと思われるので、注意が必要です。
腹ごしらえは、その群馬原町駅前のJA直営の焼肉店がおすすめです。
上州牛の焼肉をリーズナブルに食べられます(*^^*)
2016年09月27日
岩櫃城
3回目の登城でしたが、真田丸効果を感じました。駐車場も、かつては数台しか止められなかったのですが、50台くらい止められるようになっていて、かつての駐車場には、案内所ができていて、ボランティアガイドさんがいらっしゃいました。今年(2016年)4月に出来たそうで、資料もたくさんありました。
平沢登山口から、本丸跡までは、20分くらいで登ることができます。本丸跡じたいは、大河ドラマ前と変わってはいませんでしたが、真田丸の旗は目立ちました。
武田勝頼が、岩櫃城に来ていたら、歴史も変わっていたかもしれないと、想像しながら、往時を偲びました。
余談ですが、近くにお城のような建物の日帰り温泉があります。登城した後、温泉でゆっくりするのも良いかもしれませんね。
2016年09月09日 ドラガン尾張守店長
岩櫃城
JR郷原駅から、まず岩櫃山に登頂。
途中で、勝頼が来るはずだった潜龍院跡を通り、しばらく急登できつい。
尾根に出ても、岩場や鎖場の連続でしたので、軽い感じではお奨めできません。
登山が趣味の私もかなりの恐怖感でした。
下山途中に岩櫃城跡に寄るが、ここまでが一番景色も道も良い。
帰りは真田道で、郷原駅へ。
途中、出浦さん屋敷跡がある出浦渕がありました。
所要2時間半でした。
2016年05月15日 武蔵守マクシミリアン
岩櫃城
ナビに従って町営の無料駐車場に。国道からの道が分かりにくい。近くにトイレ付きの休憩所がある。新設したばかり。パンフレットも数種類。案内の人も大勢待機。本丸跡までは片道20〜30分。途中はかなりの急坂があるが、そこ以外は犬連れでも楽に登れました。急坂は雨上がりだと厳しいでしょうね。本丸跡より先は分かりません。
2016年04月21日 昌幸近江守晩秋リア旅
岩櫃城
真田丸の影響ってすごいですね。
登城口前の駐車場は観光案内所ができていて、トイレも綺麗になっていました。
木も伐採されていて堀や曲輪がはっきりと分かるようになってました。
中城・二ノ丸前の堀って結構深かったんですね。そして縦と横の堀が複雑に入り組んでいる。
真田丸の第一次上田合戦の演出も大袈裟でないなと感じました。
本丸下の竪堀も伐採され南虎口まで歩いてみました。深い…
本丸から水曲輪辺りもかなり見通しが良くなっています。岩や木材を落とされたらひとたまりもありませんね。
真田丸であまり話に出てこない岩櫃ですから、隠れた真田スポットといった感じでしょうか。
ゆっくり登城できますよ。
久しい方も再訪問することをおすすめします。
2016年02月11日 らびりん主膳正
岩櫃城
尾根続きに岩櫃城の支城と言われている山田城址(中之条町)もあります。残念ながらこのアプリにはありませんが…。
2016年01月01日 まー刑部卿
岩櫃城
この時期は道路や駐車場が凍結してるし竪堀を上がるにも滑ってしまいます。登城口のところにストックが置いてある休憩所があります。休憩所と駐車場はすぐそばにあります。
車以外の方はJR吾妻線の群馬原町駅か郷原駅から向かうと良いです。この駐車場は群馬原町駅方面です。
2015年06月24日 野呂利左衛門督休三
岩櫃城
本丸周辺は比較的手入れがされており、登城した時も篠竹が刈り取られていました。
本丸から尾根通りを通って潜龍院跡に行こうとしましたが、途中岩場があり、迂回しようとすると沢通りまで降りた上でまた登らねばならず断念しました。岩場を攻めるなら軍手の用意を、そうでなければ沢通りから進むべきでしょう。
登山口に戻るのも嫌だったので殿屋敷(パンフレット地図では殿邸。現状は果樹畑)から行こうとしましたが、途中、背の丈ほどの篠竹が群生しており、道は片側が落ちているところもあったので怖かったです。
登山口まで戻ってから裾を走る遊歩道から行くのが無難だと思います。
2015年06月24日 野呂利左衛門督休三
岩櫃城
2015.04.10登城
群馬原町駅前の東吾妻町観光協会と群馬原町側の登山口の休憩所に城のパンフレットなどが置いてあります。
吾妻郡の観光協会で合同して真田道のリーフレットを作ったことがありますが、現在品切れ。
群馬原町側の登山口と郷原駅、その近くの古谷公民館に駐車場。いずれも台数は多くないです。城最寄りは群馬原町側の登山口のになります。
食事は群馬原町駅側にしかないようです。
登山口周辺に山を囲む横堀がありました。北は登山路を兼ねて健在ですが、東側は生活道路の拡張で埋没し、痕跡をとどめるのみです。
2014年04月12日 ⛫武蔵の越前守の謙
岩櫃城
岩櫃城の見所は本丸直下の竪堀や本丸南側の腰曲輪、さらにその下に掘られた空堀(外側に土塁を伴った堀底道)、枡形小口等が挙げられますが、
本丸北側の断崖切岸がとてつもなく凄いです。
水曲輪から見上げる切岸は威圧感を感じます…
2013年07月22日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
岩櫃城
最寄り駅の群馬原町駅より登山口まで徒歩40分、各曲輪を横目に二の丸手前までさらに20分弱の所で断念(゚o゚;普段スタイルではなくあまりの軽装と暑さ(木陰は涼しい)と虻の襲撃により撤退( ・_・;)
駐車場は登山口付近2ヶ所あり多数駐車可能。登山口に休憩所あり、縄張り図や資料など置いてあります。登山口そばに天狗の丸、二の丸手前まで曲輪、平場、堀切確認できるが雑草が茂り、新緑の季節がお勧め。虫のでない新緑の季節か落ち葉の季節にリベンジしたい!
2011年06月11日 傾奇揚げ仙兵衛
岩櫃城
城跡から少し離れた所に岩櫃城温泉がある。まるでお城の建物でR145号からよく目立つ
2010年09月19日 まったり丹波守屋
岩櫃城
虫除けも効かない虫がいっぱいです。 虫の居ない時期がベストかも。
岩櫃城の周辺スポット情報
潜龍院跡(遺構・復元物)
東の木戸跡(遺構・復元物)
天狗丸跡(岩櫃城出丸)(遺構・復元物)
竪堀(遺構・復元物)
二重竪堀(遺構・復元物)
石積み(遺構・復元物)
出浦淵(遺構・復元物)
志摩小屋虎口(遺構・復元物)
北の木戸跡(遺構・復元物)
本丸址(遺構・復元物)
横堀(遺構・復元物)
本丸北枡形虎口(遺構・復元物)
腰曲輪(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
西の木戸跡(碑・説明板)
志摩小屋(水郭)(碑・説明板)
中城跡(碑・説明板)
郷原城(周辺城郭)
柳沢城(周辺城郭)
稲荷城(周辺城郭)
内出城(周辺城郭)
手子丸城(周辺城郭)
岩下城(周辺城郭)
羽田城(周辺城郭)
内山城(仙蔵城・折田城・仙蔵の要害)(周辺城郭)
大戸平城(周辺城郭)
大戸関所(周辺城郭)
雁ヶ沢城(道陸神峠の要害)(周辺城郭)
古谷館(潜龍院館・郷原御殿)(周辺城郭)
仙人窟陣城(周辺城郭)
三島根小屋城(周辺城郭)
大番所(番所坂)(周辺城郭)
高野平城(四阿山城)(周辺城郭)
原町陣屋(周辺城郭)
楯ノ内館(吾妻氏館)(周辺城郭)
小田沢の砦(周辺城郭)
植栗城(周辺城郭)
中峰城(城の平)(周辺城郭)
山の固屋城(周辺城郭)
入道城(周辺城郭)
桑田城(寺山要害)(周辺城郭)
吉城(周辺城郭)
山田城(古城)(周辺城郭)
大戸関所跡(寺社・史跡)
密岩神社(寺社・史跡)
観光案内所(スタンプ)
東吾妻町観光協会(群馬原町駅内)(スタンプ)
トイレ(トイレ)
平沢山口駐車場(駐車場)
古谷登山口駐車場(駐車場)
天狗岩(その他)
平川戸(城下町の跡地)(その他)
羽田城登城口(その他)