小川城(おがわじょう)
小川城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県利根郡みなかみ町月夜野1125
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 沼田景久
築城年
- 明応元年(1492)
主な改修者
- -
主な城主
- 小川(沼田)氏、真田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 町史跡(小川城址)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
名胡桃城(群馬県利根郡)[2.7km]
沼田城(群馬県沼田市)[7.2km]
尻高城(群馬県吾妻郡)[9.6km]
横尾八幡城(群馬県吾妻郡)[13.7km]
長井坂城(群馬県渋川市)[14.1km]
浅貝寄居城(新潟県南魚沼郡)[20.2km]
白井城(群馬県渋川市)[20.6km]
岩櫃城(群馬県吾妻郡)[21.7km]
渋川城(群馬県渋川市)[21.8km]
剣城(群馬県渋川市)[26.4km]
小川城の解説文
小川城の口コミ情報
2024年11月04日 みよ釆女正
小川城
群馬県に沼田城と、共に城攻めです。国道の交差点曲がるとすぐに、のぼりが立っていて分かり安いし、車でのアクセスは最高。地元の方の保存を頑張って下さっていました。
2024年06月13日 風雷坊安房守雨降師
小川城駐車場[小川城 駐車場]
登場口近くにあり、普通車なら7~8台程度駐車可能
2024年02月14日 おかっぴき
小川城
上毛高原駅の近くにあり駐車場あります。土塁や堀、石碑、説明板などもあります。駅の観光センター?に行くと御城印もあります。
2023年12月11日 PP備前守james
小川城
堀がしっかり残っていて、見事です。道路に面して駐車スペースも整備されています。感謝🤗
2022年08月05日 織田上総介晃司
小川城
上越新幹線上毛高原駅の駐車場を利用。
駅から徒歩約5分で小川城に到着するうえ、2時間まで駐車料金無料。以降1時間100円となれば利用しない手はない。
小川城も真田氏と関わりのある城ですが名胡桃城や沼田城ほどアピール度がなくひっそり感があります。もっとPRすればいいのに…
2022年08月04日 織田上総介晃司
猿ヶ京城[小川城 周辺城郭]
宮野城ともいいます。
猿ヶ京温泉のホテル湖城閣のある場所が城跡なので宿泊者駐車場に停めてことわりを言いに行ってみると…
休業中…
今回はそのままリア攻めしました。(湖城閣の敷地内には入ってません)
営業再開した時はひと言ことわりを言ってください。
猿ヶ京という地名は上杉謙信が命名したと言われてます。
猿ヶ京の赤谷湖にバラエティ番組の罰ゲームなどで登場する猿ヶ京バンジーがあります。高さ62mあるそうです。
高所恐怖症ではないけど挑戦しようとは思いません。
猿ヶ京温泉で吉川晃司愛の宿(ル・ヴァンベール湖郷)を発見!
ピザで腹ごしらえしてリア攻め。その後戻り、日帰り入浴でリア攻めの疲れを取りました。
ちなみに食べたピザは「モニカ」でした(´▽`)
2021年12月09日 立津竹右近衛少将繁親
小川城
上毛高原駅の近くです。本丸まわりの堀が、よく残っていました。
2021年06月19日 真田上野介信吉
小川城
小川城址は上毛高原駅から東へ約400㍍、古城沢と八幡沢にはさまれた西から東に延びる台地上にあります。みなかみ町は北から南に大水上山を源流とする利根川が縦断し、小川城址のある月夜野あたりから河岸段丘を形成します。この河岸段丘には東西の山からいくつもの沢が利根川に向かって流れ、その結果最下段には沢に挟まれた細長い台地が形作られるのです。小川城は天然の要害ともいえるこの南北を谷に囲まれた台地に築かれ、数キロ北の石倉城、南の名胡桃城、あるいは利根川の対岸の明徳寺城も同じような地理的環境にあります。
【遺構の概要】
小川城は西から東に流れる二つの沢によって形作られた三角形の台地を利用して築城されています。まさに天然の要害であり、先端のささ郭はその下の段丘面との高低差が50㍍を超える崖の上にあり、次に本郭、深く掘り込まれた堀切を渡って二郭、そして推定範囲ですが西の広範囲に三郭と外郭が広がっている城です。
本郭には土塁の一部が残り、南西には櫓跡と考えられる高台、北には石積の一部が現在でも見られます。本郭と西に広がる二郭の間には幅13㍍、深さ5㍍で大きく鍵形に屈折した空堀があり、小川城がかつて堅固な防御態勢に守られていたことがイメージできます。
現在上毛高原駅になっている場所からは、発掘調査で屋敷跡が発見され、北西1キロほどの山は見城柵址といって、小川城の烽火台あるいは見張り台だったと考えられます。
ーみなかみ町教育委員会のパンフレットよりー
上越新幹線上毛高原駅より徒歩約5分の好アクセスながら、城郭基本情報のみということで、ご参考までに投稿しました。
一部残存の二郭部分は駐車スペースとして3台程度停めることが出来ます。
2021年03月24日 真田上野介信吉
石倉城[小川城 周辺城郭]
文明10年(1478)、現在の藤岡市にある平井城を本拠地としていた関東管領の上杉顕定が故郷越後との中継地に築いたと伝わります。
現地はすべて私有地ですが、150㍍X50㍍の本郭、堀切、土塁の一部を見ることができます。
ーみなかみ町城館址地図よりー
群馬県みなかみ町石倉にある石倉城は、城郭西側を清水峠道、南北は沢が流れ天然の堀、東は利根川が流れる舌状台地に築かれた単郭式山城格崖端城です。
日本百名山の一つである谷川岳を望む清水峠道(現国道291号)から入ります。
説明板と本郭。本郭は耕作地と思われ、地面は均されています。本郭を二分する堀切と土塁、その奥が東端舌先部の郭です。
堀切から東側先端までの大半は笹に覆われ、写真ではただの笹藪にしか見えません(遺構の視認はギリギリ可能)。
本郭南側は石倉館方面に通じる虎口。また、そこにある長い年月鎮座してきた巨岩は良好に見られます。
アクセスは関越道水上インターから約30秒。高速道路側に3台分のスペースあり。
水上温泉・上牧温泉周辺観光の一部として石倉館とセットでのリア攻めといったところでしょう。
2021年03月05日 真田上野介信吉
石倉館[小川城 周辺城郭]
石倉館は群馬県みなかみ町にある居館跡です。
約200㍍程北には石倉城があり、みなかみ町(旧月夜野町)教育委員会の石倉城説明板によると、『文明10年(1478)平井城にあった関東管領上杉顕定が、故郷の越後との中継地として清水街道沿いに築いたという。中略。東南段丘下に石倉館へ通じる道があり、石倉館は後に石倉三河の居館でもあった』とあります。
写真にもある通り、居館跡北から東に掛けては入り込むのも困難な程の激藪となり、残念ながらそこにある土塁や石積みの遺構は埋もれてしまいました。
現在確認出来る遺構は写真にある土塁・石積みだけとなります。
アクセスは、関越道水上インターから駐車スペースまで約1分。国道291号沿い武尊神社前の駐車スペースと県道279号との間に細い下り坂があり、100㍍程降ると分岐が見えます。そこを左折し、ひたすらスポット設定位置まで歩いてください。
遺構の状態は良好とは言えず、みなかみ町による史跡指定からの保護でもあればといったところ。
石倉城は史跡指定となっていますが、私有地の為改変を受けていたり、見学出来る場所も限られたりします。
この城館の北には水上温泉、南は上牧温泉と、温泉観光の一つとして捉えて頂ければいいのではないでしょうか。
2021年02月20日 真田上野介信吉
箱崎城[小川城 周辺城郭]
みなかみ町役場新治支所の西隣の丘上にあり、簡単に登ることができます。地元では鳩崎城や箕輪城とも呼ばれます。
地元に伝わる『須川記』によると、戦国時代には真田氏と北条氏が抗争を繰り広げる中、原沢大蔵等の地衆がこの城を守っていたとあります。
ーみなかみ町城館址地図よりー
このみなかみ町布施地区(旧新治村)の在地勢力であった六人衆に対して、武田勝頼の朱印状が発行される等、歴史的にも興味深いものがあります。
休日ということもあり、役場の駐車場に停めさせて頂きました。平日でしたら、役場の方に断りを入れた方がよいでしょう。
所謂、役場の裏山が箱崎城です。登城口(上段左①)にはお墓があり、つづら折りの登城道を登ること2分程度で2郭の虎口に到着。
そのつづら折りの途中には削平されたスペース(上段左②)があり、ここで数人の兵が迎え撃つ、或いは寄せ手を誘い込む為だったか等、想像が膨らみます。
虎口から見える景色、昭和の時代辺りまで耕作が行われ放棄されたのでしょうか、激藪化しています。
この激藪は全ての郭に言えることなので、冬季限定であることは言うまでもありません。
2郭虎口からは良好に土塁が巡らされている様子は見られます。
その虎口からは北西側に進みましょう。※東側は低土塁、斜面
北西側にはやはり良好に深さ5㍍程の堀、また土塁の隅部は物見の役割を果たしていたのではないかと想定出来る程に分厚く幅広で、城下北側方面を一望出来ます。
本郭は竹藪と化していますが、見渡すとここが本郭であったのだろうという程度でした。
その先には、この地方特有のささ郭、先端は『はねつるべ』。こちらは掻き分ける勇気も湧かない程の超激藪。断念しました。
城郭の東側は須川川が流れ、天然の堀としていたのではないかと想定します。
旧新治村においては、みなかみ町から4城紹介されていますが、箱崎城の他に猿ヶ京城(口コミ投稿済)、中城、諏訪の木城とあります。
先ず名胡桃城にある案内所でパンフや情報を入手し、現地へ向かわれることをオススメします。
2021年02月04日 真田上野介信吉
中山古城[小川城 周辺城郭]
中山古城は中山衆と称される地侍達が活躍した山城である。
造営時期については諸説あるが凡そ大永年間(1521~1528)或いは永禄年間(1558~1570)であろうと推測されている。
『加沢記』によれば天正10年6月中山右衛門が津久田に於いて戦死したのを機に中山古城は北条方に渡り、その後新城が北条氏によって築かれ廃城となった。
この城は、馬蹄形の尾根に築かれ、その内に小屋場を抱いた異形な城である。北部が主要部で、梯郭式の構造がよく残されている。
ー現地設置の説明板より一部抜粋ー
中山古城は群馬県高山村にある山城です。
先ずアクセスは、国道145号から2㍍幅の生活道路に入ります。
目印は『新田(清水谷)道祖神』の目の前に来て初めて『中山古城址』の看板が現れますから、これを見落とさないようにしましょう。
民家の庭先に入り込むような印象を受けますが、その舗装されている道を進みます。
この道は落ちたらアウトな上にギリギリの幅ですから気を付けましょう。
お墓が見えたら、その前にある空き地に駐車させて頂きました。
そこからは登山。その道中にも『中山古城址』の看板はあります。しばらく登ると道が二手に分かれますが、どちらを選択しても城郭をめぐることが出来ます。
この分岐点には『ガク岩』と呼ばれる見事な岩があり、そこに説明板が設置されています。
今回は右側からアタック。右側の道はかなりな急勾配。ロープが張ってありますから、きつくなったら利用してみてください。
この右側の道からは、本丸と4郭の堀切に辿り着きます。堀切の右側には武者走りが見られ、反対左側を進むと本丸に到着。本丸西側は2郭と3郭。段郭になっています。
4郭と5郭にも堀切が見られ、またこの間の武者走りからは腰郭を見下ろすことが出来ます。
昨年に漸く高山村の文化財指定となり、道は綺麗に整備されて歩き易い印象。北条氏が築いた新城である中山城とセットでのリア攻めをオススメします。
2020年02月28日 真田上野介信吉
中山城[小川城 周辺城郭]
中山城と真田との接点は真田幸隆の時代、戦国武将の勢力争いの渦中に入り、時には武田方、時には上杉方となり去就興亡の歴史をたどりました。
中山城址は北条氏が天正年間に築城し、半折囲郭構造という築造手法をとり、その構造は、本丸を北西南の三方から二の丸が囲み堀切と土居で防禦し、これを西から三の丸が囲む、要害堅固な城です。
今も当時の佇まいを鮮明に残し、往時を偲ばせています。
-真田街道ガイド(高山村)より-
上記以外のこと(一部重複)は添付の本丸設置説明板をご一読ください。
国道145号沿いの路側帯には城跡碑と説明板が設置されており、そこに駐車し本丸へ向かいました。村の長閑な田園風景を見ながらの散策もいいですね。
設置の案内板は本丸への誘導。未舗装の駐車スペースのような場所もありました。
添付写真の本丸東側から本丸へ登城。かなり高い位置まで歩くことになります。本丸北側に土塁が一部切れた箇所があり、そこから降りましたが、かなりの勾配の切岸なので、しっかりとした靴は当然だと思います。降った後は、西側の堀底を進み南側へ。二の丸に登りましたが、ここは未整備藪漕ぎの憂き目に。三の丸が見えると、そこは農地となっていました。
今回は半分程度のリア攻め。また何れ機会を設けて訪れたいと思わせてくれる城跡でした。
※令和2年6月6日より、道の駅『中山盆地』にて御城印の販売が開始されました。
(黒)500円、(白)300円。岩櫃城と同じタイプになります。
2020年02月17日 真田上野介信吉
猿ヶ京城[小川城 周辺城郭]
猿ヶ京城は三方を崩れやすい岩の崖で囲まれ、現在は赤谷湖に突き出した半島の先端に位置し、北側を二重の空堀で防備されていた。この地方に多い崖端城と言う形状である。
猿ヶ京城の築城年代は分かっていない。加沢記で上杉謙信が猿ヶ京の名を付けたと言われる永禄3年より10年ほど下った永禄13年の上杉輝虎(謙信)から家臣の栗林政頼宛の書状に『猿京近辺之証人共』とあるのが初出である。天正6年にいったん北条方の手に渡ると天正8年に真田方の海野輝幸により北条方の知高左馬助義隆が降伏し真田昌幸が領主となった。
猿ヶ京城は上杉氏、北条氏、真田氏と領主が変遷した。江戸幕府は寛政年間に猿ヶ京に三国街道の関所が設置し、関東と日本海側の境界を守る猿ヶ京城はその役割を終えた。
-説明板より抜粋-
北条氏と真田氏から、小川城の関連城郭として投稿。
国道17号を新潟方面に、猿ヶ京関所資料館前の信号で左折し城址へ向かうと旅館『湖城閣』様の駐車場に行き着く。
ここが本丸で、駐車に際しては湖城閣様に一言申し入れをしましょう。
旅館の周囲に堀と土塁が見られる程度となっているので、リア攻め時間は数分です。
※添付写真の御城印は、『猿ヶ京関所資料館』または『まんてん星の湯』で購入可能。休館日、時間を調べてから向かうとよいでしょう。
2018年12月26日 Midori琉球守
小川城
上毛高原駅を出たら、真っ直ぐ歩き二つ目の信号を右折。古城沢に架かる古城橋を渡ると、左手が主郭、道路を挟んだ右手が二郭です。駅構内を出てから、5〜6分程度だったと思います。堀切は姿も高さも素晴らしく、見応えがありました。
駐車場が見当たらないとの書き込みが複数ありますが、2018年12月25日現在、上毛高原駅前に5〜60台ほどの立派な駐車場があり、なんと2時間まで無料です!それ以降も1時間100円という嬉しさ。私は無料の間にゆっくり城址と周辺を見学し、観光センターに立ち寄り、お土産を購入する余裕もありましたが(^○^)
観光センターには名胡桃城のパンフレットはあるのに小川城のものがなかったのですが、センターのお姉さんが奥の倉庫?で探し出して来てくれて、最後の一部をいただいてきました。地元の方にとっては、昔からそこにあるため特に感慨もないとのことでしたが、私にとっては名胡桃城以上の城と思えたので「是非、町をあげて宣伝を!」とお願いしてきました。
センター内お土産売り場の方々も、優しく親切。勧められたくるみゆべし・生大福も美味しかったです(*゚▽゚*)
2017年07月05日
小川城
この城址、どこに車とめれば良いのかよくわからない。
入り口の前に路駐?
見どころは、深い折れのかかった堀切。
2017年06月04日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
小川城
行き方、所要時間、駐車スペースなどは何件かの口コミの通りです。
入り口から深い堀切をへて、本丸、ささ郭、北側に低い土塁の跡らしき盛り上がりもありました。
北、東、南と3方向が急斜面に守られて名胡桃城に似てる感じ、あわせて見たら楽しいかもしれません。
近くの道の駅、矢瀬親水公園には縄文時代の住居跡が復元され、建物の礎石跡もあります。川の近くなので風も涼しくお土産見ながらひと休みがお勧めです。
2017年05月12日
小川城
名胡桃城から、車で10分くらいのところにあります。
駐車場と言えるかどうかは、わかりませんが、車を停めるスペースは少しあります。
JR上越新幹線上毛高原駅から、徒歩15分くらいです。
現在は、本丸部分が、史跡公園として整備されています。
ここも真田関係の城跡で、真田信利(真田信之の長男の子で、信之の最初の正室の系統です。真田丸で病気の妻が出て来ましたが、昌幸の兄、信綱の娘の血をひいている。)が、小川城三ノ丸に陣屋を構えて住んだことがあるそうです。
そんなことを考えながら、廻るのも、結構楽しいと思いました。
2016年01月01日 まー刑部卿
小川城
上毛高原駅から歩いても15分ほどです。石碑が傾いていますが。
2015年11月03日 Nabeppu左馬頭
小川城
国道291号が二の郭と本丸を隔てています。車は本丸側291号沿いに大体3台程停められるスペースが有ります。
コパンパクトですが、整備された見学し易い城です。
二の郭と本丸の間の堀切は高さ約5m、本丸の後ろに更に郭が有り、その郭の背後は20〜30mの絶壁です。
立地
小川城は上毛高原駅から東へ約400m、古城沢と八幡沢に挟まれた西から東へのびる台地上にあります。みなかみ町は北から南に大水上山を源流とする利根川が横断し、小川城のある月夜野あたりから河岸段丘を形成します。この河岸段丘には東西の山からいくつもの沢利根川に向かって流れ、その結果最下段には沢に挟まれた細長い台地が形作られるのです。小川城は天然の要害ともいえるこの南北を谷に囲まれた台地に築かれ、数km北の石倉城、南の名胡桃城あるいは利根川の対岸の明徳寺城も同じような地理的環境にあります。
構造
小川城は西から東に流れる2つの沢によって形作られた三角形の台地を利用して築城されています。まさに天然の要害で、先端のささ郭はその下の段丘面との高低差が50mを超える崖の上にあり、次に本郭、深く掘り込まれた堀切を渡ってニ郭、そして推定範囲ですが西の広範囲に三郭と外郭が広がっている城です。遺構
本郭には土塁の一部が残り、東西には櫓跡と考えられる高台と、北には石積の一部が現在でも見られます。本郭と西に広がる二郭の間には幅13m、深さ5mで大きく鍵形に屈折した空堀があり、小川城がかつて堅固な防御態勢に守られていたことがイメージできます。二郭中央には現在道路が南北に走り郭を東西に二分してしまっていますが、さらに西側の三郭との境目には明確ではありませんが堀切が残っています。
ここから北西1kmほどの山は見城柵址といって、小川城の烽火台あるいは見張り台だったと考えられます。
歴史
明応元年(1492)、沼田荘田城主沼田景久が西の備えとしてこの地に築城し、次男の小川治郎景秋に700貫文の知行を与え住まわせる。永正2年(1505)、2代城主小川三郎景祐は大峰山獄林寺を創建。景祐死後、弟の秀泰が3代目城主になる。
大永2年(1522)、秀泰の子小川景奥(景興か)が4代目城主になるが、大永4年(1524)9月、景奥が火災により非業の死を遂げ、小川氏が一度断絶。
天文年間初頭、上方の浪人赤松孫五郎と称する文武に秀でた者が来て、大将のような振る舞いをしていた。後に入道し、小川城を嗣いで小川可遊斉(かゆうさい)と名乗り、5代小川城主になる。
永禄3年(1560)、関東出陣の長尾景虎(後の上杉謙信)は、可遊斉に小川の名称と褒美を与える。
永禄10年(1567)3月、上杉輝虎(謙信)、可遊斉に過所(通行手形)を与え、毎月(馬)十五疋分の荷物を受け取り、荷物の諸関通過を許される。(上杉輝虎朱印状・米沢市立図書館所蔵文書)
天正6年(1578)3月、謙信が病気が亡くなり、上野の東は北条領となる。一方で5月、武田勝頼も上野に侵入。
天正7年(1579)、武田家臣の真田昌幸は北条領の沼田城を攻撃目標とし、最前線基地として名胡桃城を築城。これに対して北条家臣の猪俣邦憲は数度にわたって利根川を渡り小川城と名胡桃城を攻撃したが持ちこたえる。
天正8年(1580)、昌幸、北条が守る利根川対岸の明徳寺城を奇襲により攻略し、沼田城には戦わずして調略で入城。勝頼、可遊斉に北条の武蔵を征服したら千貫文の所領を与えず、必ず引き立てると約束する。(武田勝頼朱印状・吉川金蔵氏旧蔵文書)
天正10年(1582)、天目山の戦いにより武田氏滅亡。以後、可遊斉は上杉氏を頼ることになる。
天正17年(1589)、豊臣秀吉による真田と北条の裁定により、沼田城・小川城は北条領、名胡桃城は真田領となるが、天正18年(1590)の小田原攻めにより北条が滅亡すると、小川城は真田に返還される。
寛永15年(1638)、真田伊賀守信利(幼名兵吉)が小川城三の丸陣屋に、沼田城主となるまでの18年間、母慶寿院と居城。明暦3年(1657)に信利が5代沼田城主となり、小川城は廃城となった。
整備と管理
戦国時代の途中で捨てられた城ですが、その後も空堀や郭などは地形として残り、人の目を引く史跡であり続けました。また、城主小川氏の菩提寺の嶽林寺が現在に至るまで手厚い供養を施していることもあり、小川城は郷土の史跡として地元のみなさまが愛着を持ち続けています。そのおかげで古くから地元有志による小川城保存会が結成され、除草や清掃などの日常管理はもちろん、牡丹園として活用したり、嶽林寺や公民館などを会場とした講演会、勉強会などを積極的に行っています。