横尾八幡城(よこおはちまんじょう)
横尾八幡城の基本情報
通称・別名
- 八幡城
所在地
- 群馬県吾妻郡中之条町横尾字栃瀬
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 尻高三河守
築城年
- 大永年間(1521〜1528)
主な改修者
- -
主な城主
- 尻高氏、塩原氏、富沢氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 町史跡(八幡城址)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
尻高城(群馬県吾妻郡)[4.1km]
岩櫃城(群馬県吾妻郡)[8.0km]
名胡桃城(群馬県利根郡)[12.9km]
小川城(群馬県利根郡)[13.7km]
沼田城(群馬県沼田市)[15.7km]
白井城(群馬県渋川市)[16.6km]
渋川城(群馬県渋川市)[16.9km]
長井坂城(群馬県渋川市)[17.5km]
剣城(群馬県渋川市)[21.3km]
浅貝寄居城(新潟県南魚沼郡)[21.7km]
横尾八幡城の解説文
横尾八幡城の口コミ情報
2024年06月05日 里のシロクマ侍従
横尾八幡城
5/10訪城 国道145号線から横尾の信号を県道231号線へ、しばらく進むと左側に横尾八幡城の標識と枝が出ている狭い坂道。車がようやく1台通れる道を無理に進入。城入り口前の竹藪に無理に駐車(バリバリガリガリ)。堀底道を進むと右下に2段の墓地、よく見ると帯曲輪なのでは?その先には曲輪と土塁。土塁は本曲輪を囲む方形の土塁、高さが有り、しっかりとした土塁だ。土塁の切れめは3カ所西南方向、南方向、東方向にある。城は尾根の高い所に本曲輪を置き、周囲に輪郭状に2段の曲輪を配置した形。1段目の輪郭の藪に突入し1周、南西方面から2段目の輪郭の藪へ突入東北方向へ藪漕ぎ、東方向に傾斜の緩い広場に出る。その先は名久田川に面した崖端になる。本曲輪の下には横堀の様な窪地が南から東方向にある。本曲輪に戻り南の尾根の階段を降る。階段を降り切ると尾根には数段の削平された墓地と路を挟んで削平された墓地、段曲輪と腰曲輪に見えてくる。これも城の名残りでは?城の形状を地図に落としこみ終了。コンパクトではあるが北条勢に対する戦闘用の土の城。細い林道を下り、中之条在住の方から教えられた、横尾の水牢へ立ち寄り帰路に着く。
2023年09月25日 つか征夷大将軍ぽ
割田下総守重勝の墓[横尾八幡城 その他]
割田重勝は真田氏の忍者で、忍びの上手は古今無双といわれ、中山城、大戸城、岩櫃城、松井田城の戦いにめざましい戦果を挙げた。天正十三年には白井城内で北条の武将松田尾張守の名馬を奪っている。
晩年は生活に困ってたらしく、盗みなどをはたらいて元和四年九月、下総は吾妻郡奉行出浦昌相らにより横尾地内で討ち取られたそうです。
それを聞いて真田信之は、平穏の世になり忍び達に何もしてあげられなかったと自分を悔いたそうです。
2021年09月19日 見城
金原城[横尾八幡城 周辺城郭]
県道35線を渋川から東吾妻町方面に向かい、奥田川の奥田橋の信号の左手に、金原城址(白狐城)として史跡の標柱があります。この場所から階段を登り北側から散策、登城しました。
下から一段目平場は段郭でしょうか。さらに上は二の郭でしょうか。さらに一段高く、本丸と想像する平場があり、今は畑となっておりました。
二の丸から北側の眼下には、西から東へ吾妻川が流れ、対岸に岩井堂砦の岩場が見られます。吾妻川の左岸の岩井堂砦と右岸の金原城は、遠見台として機能していたと考えます。
ここから西にある岩櫃城や、東にある遠くは白井城方面が見渡せる立地であり、境目の要所の城郭であることを知りました。
・金原城(白狐城)登城口
・北側の平場へ階段整備されています
・吾妻川対岸の岩井堂砦
・二の郭
・本郭 二の郭から
・本郭 農耕地となっております
・本郭付近 東側から見上げました
・本郭から東方面の眼下を望む
雲をかぶった奥は赤城山
2021年05月30日 真田上野介信吉
嵩山城[横尾八幡城 周辺城郭]
『嵩山城の山城本丸跡』
『実城の平』は城の中心の意。『本丸』を『実城』と呼ぶ。無常の平ともいう。
永禄8(1565)年11月、武田信玄方の『真田幸隆』に攻められ嵩山城は陥落。若き城主、城虎丸(当時:18歳)は山から飛び降り自ら命を絶ち、女性や子供も後を追ったという悲話が伝わる。
この戦いの犠牲者の供養と霊山嵩山への信仰のため元禄15(1702)年から坂東・西国・秩父の嵩山百番観音が建立された。
ー主郭設置の説明板よりー
5月15日以来2度目のリア攻め。前回は五号目までを口コミしましたが、今回は城郭として機能した主郭周辺について。
2度目はもう一つの登山道である東登山道からアタック。こちらは、より要害性が高く、手を加える必要のない程の険しさ。ただ整備された登山道ですから、普通に主郭まで辿り着きます。
東登山道を登り切ると平場となり四阿が設置されています。左折し主郭を目指します。主郭には説明板の通り、主郭の縁を囲むように石仏が安置されています。
主郭から中天狗方面の途中北側に腰郭と想定される削平地、また嵩山城期は堀切として利用されたと思われる地形も。他、小さな削平地は武者溜まりを想定。
小天狗手前は表登山道(大手)からの平場で、ここも郭として機能していたのではないかと想定します。
嵩山城は戦国時代の一部に過ぎず、古くから信仰の山であったことが色濃く残る為、遺構を期待して登るということは考えない方がよいでしょう。
往時に想いを馳せながら、展望台からの眺望をお楽しみください。
2021年05月15日 真田上野介信吉
嵩山城[横尾八幡城 周辺城郭]
『霊山と山城で知られる嵩山』
嵩山は、中之条盆地の北方の台地にあって、見付山とも呼ばれ、町を象徴する山です。
古代から祖先の霊魂を祀る山を『たけやま』と呼びます。中之条盆地の各地から霊山として信仰を集めていました。
戦国時代に吾妻地方の領主吾妻太郎斉藤越前守が武田方の真田幸隆に攻められて没落し、その子城虎丸を擁した吾妻衆が、上杉謙信の支援を受けて嵩山にたて籠り、戦いの末、落城しました。
ー道の駅『霊山たけやま』案内板よりー
また、一の木戸(大手門)説明板には、永禄8(1565)年、11月11日~17日上杉謙信方の嵩山城主『城虎丸(じょうこまる:当時18歳)』と兄の斉藤憲宗が武田信玄方の『真田幸隆』と戦い大激戦(死者350人)の末、城に火をつけられ落城したと言われる。
その武山(嶽山)合戦の激戦地。と、あります。
群馬県吾妻郡中之条町五反田にある道の駅『霊山たけやま』の背後に聳える岩山が嵩山城。岩櫃城からは約6キロに位置します。道の駅には、表登山道と東登山道2コースの案内板がありますから、何れかを選択してください。
※スポットは、横尾八幡城周辺城郭表登山道『一の木戸(大手門)』に設定。
此度のリア攻めは、表登山道より五合目までで引き返した為(自己都合)、紹介出来るのは一部に過ぎません。
この表登山道にあるのが一の木戸。嵩山城の大手門にあたります。一の木戸を過ぎると大岩があり『一番』の木札。ここには石仏と祠などが祀られています。
表登山道はつづら折りの登山道で、所々は階段状になっており、重装備する程ではない印象。よく整備されています。
五合目までは段郭と自然地形が竪堀状になっている状況が見られます。
写真の石積みは戦国期のものか、それとも以降のものか、ハッキリ分かりませんがご参考までに。
アクセスは、国道353号から県道53号へ。道の駅『霊山たけやま』です。
しっかりと整備が行き届いた道の駅なので、駐車場はもちろんのこと、子供の遊び場も併設されており、家族連れで訪れても困ることは一切ありません。
2016年12月10日 牢屋見廻り同心マダオ
横尾八幡城
横尾八幡城周辺史跡。
中之条町大字横尾字長久保地区に真田忍者の割田下総守重勝の墓と唐沢玄蕃の墓があります。案内標識が設置されましたが、たどり着くには苦労しました。
割田下総の墓は中之条中学校の北にあり、中学校近くて案内標識を見つけられれば、たどり着けます。
唐沢玄蕃の墓は割田下総の墓より数百メートル離れた長久保集落内にありますが、案内標識ではたどり着けませんでした。集落内の案内標識を見つけられれば行けると思います。山肌の斜面の墓地です。
双方ともに直接車でのアクセスは厳しいです。特に唐沢玄蕃の墓は長久保集落内でアクセス道は軽自動車でも躊躇するくらい狭いです。
歴史と民俗の博物館「ミュゼ」に駐車して徒歩で伺うのがよろしいかと。
また中之条町横尾1639には桃瀬の水牢があります。
沼田藩で年貢徴収に使われ、女は水を70Cm位にし、子どものある者は背負わせ単衣にさせ五人ぐらい袖に縄を通してつなぎ入れ、男は首のつかるまで入れたといい、体温低下により死んだ者もいたといわれています。
年貢を払えぬ領民は家族の苦しむ様を見て死に物狂いで年貢を集めたといわれてます。
2016年07月30日 カーネル
横尾八幡城
我妻線中之条駅から
駅を背に北上してすぐの国道145号線で右折して東進します。伊勢町下交差点で国道145が左折するので、自分も左折します。一部歩道がなくなりますので注意
北上を続け、この道に飽きてきた頃に横尾信号があり、ここで左折して県道231へ。ここには『八幡城趾←1km』の看板もあります
交差点から10分ほどで、左側がセメントで固められた玉石垣の法面の先に、斜めに入る白い舗装路を登ります。ここは城の南西になります
坂を登りすぐに民家の手前に左折して山に入る道があるので左折
車1台分くらいの急坂の舗装路を3分登れば八幡八幡城→の道標があり山道をすすめば、虎口を抜けて本丸です。本丸は土塁に囲まれた平場になってます
駅から50分でした。反対側に抜けて、尻高城へ向かいたいと思います
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
横尾八幡城の周辺スポット情報
横尾八幡城説明板と縄張り図(碑・説明板)
山田城説明板(碑・説明板)
桑田城説明板(碑・説明板)
嵩山城(周辺城郭)
金原城(周辺城郭)
千貫屋敷(成田の要害)(周辺城郭)
城峰城(周辺城郭)
吾妻城(中条の塁)(周辺城郭)
和利宮城(田岨丘砦)(周辺城郭)
伊参城(周辺城郭)
小城(古城)(周辺城郭)
唐沢玄蕃の墓(寺社・史跡)
割田下総守重勝の墓(その他)
歴史
大永年間(1521~1528)に、尻高三河守によって築かれたと云われる。尻高三河守の家臣、塩原源太左衛門が城代を務めた後、天正8年(1580)に武田氏の家臣である真田昌幸が吾妻に進出すると、富沢豊前守が城代となった。天正10年(1582)、武田氏が滅亡し、本能寺の変により織田信長が横死。真田昌幸はすぐさまこの地を抑えたが、やがて上野には相模の北条氏が侵攻し、真田氏と対立した。
利根・吾妻2郡の支配を任されていた真田信幸は、横尾八幡城に番衆を置いて北条氏に備えた。天正17年(1589)には北条氏邦が白井城から攻め寄せてきたが、富沢・金子・尻高・鎌原・湯本ら番衆が堅く守り、これを撃退したという。
遺構
名久田川と赤坂川が合流する地点の西側、河川に向かって東に突き出す丘陵上に築かれている。北は赤坂川、東は名久田川に面する、断崖に守られた城だ。現在、主郭は整備されて東屋が建っている。主郭は40m四方の台形で、高さ2~3mの土塁がめぐり、南西隅、東、南東隅の3か所に虎口らしき開口部がある。
周囲の曲輪は藪に覆われ全貌を知ることはできないが、主郭を取り囲む曲輪は北西側に土塁を伴い、その北側下段にも帯曲輪が設けられているようだ。南西側が大手とみられ、土塁を伴う曲輪がある。また、北東側には広い曲輪が置かれ、この曲輪の南東面にも土塁がある。
交通
・関越自動車道月夜野ICから車で約30分参考文献
・『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』戎光祥出版、2015年。・『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年。
・現地案内板。