横尾八幡城(よこおはちまんじょう)
横尾八幡城の基本情報
通称・別名
- 八幡城
所在地
- 群馬県吾妻郡中之条町横尾字栃瀬
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 尻高三河守
築城年
- 大永年間(1521〜1528)
主な改修者
- -
主な城主
- 尻高氏、塩原氏、富沢氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 町史跡(八幡城址)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
尻高城(群馬県吾妻郡)[4.1km]
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横尾八幡城の解説文
横尾八幡城の口コミ情報
2016年12月10日 牢屋見廻り同心マダオ
横尾八幡城
横尾八幡城周辺史跡。
中之条町大字横尾字長久保地区に真田忍者の割田下総守重勝の墓と唐沢玄蕃の墓があります。案内標識が設置されましたが、たどり着くには苦労しました。
割田下総の墓は中之条中学校の北にあり、中学校近くて案内標識を見つけられれば、たどり着けます。
唐沢玄蕃の墓は割田下総の墓より数百メートル離れた長久保集落内にありますが、案内標識ではたどり着けませんでした。集落内の案内標識を見つけられれば行けると思います。山肌の斜面の墓地です。
双方ともに直接車でのアクセスは厳しいです。特に唐沢玄蕃の墓は長久保集落内でアクセス道は軽自動車でも躊躇するくらい狭いです。
歴史と民俗の博物館「ミュゼ」に駐車して徒歩で伺うのがよろしいかと。
また中之条町横尾1639には桃瀬の水牢があります。
沼田藩で年貢徴収に使われ、女は水を70Cm位にし、子どものある者は背負わせ単衣にさせ五人ぐらい袖に縄を通してつなぎ入れ、男は首のつかるまで入れたといい、体温低下により死んだ者もいたといわれています。
年貢を払えぬ領民は家族の苦しむ様を見て死に物狂いで年貢を集めたといわれてます。
2016年07月30日 カーネル
横尾八幡城
我妻線中之条駅から
駅を背に北上してすぐの国道145号線で右折して東進します。伊勢町下交差点で国道145が左折するので、自分も左折します。一部歩道がなくなりますので注意
北上を続け、この道に飽きてきた頃に横尾信号があり、ここで左折して県道231へ。ここには『八幡城趾←1km』の看板もあります
交差点から10分ほどで、左側がセメントで固められた玉石垣の法面の先に、斜めに入る白い舗装路を登ります。ここは城の南西になります
坂を登りすぐに民家の手前に左折して山に入る道があるので左折
車1台分くらいの急坂の舗装路を3分登れば八幡八幡城→の道標があり山道をすすめば、虎口を抜けて本丸です。本丸は土塁に囲まれた平場になってます
駅から50分でした。反対側に抜けて、尻高城へ向かいたいと思います
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
【歴史】
大永年間(1521~1528)に、尻高三河守によって築かれたと云われる。
尻高三河守の家臣、塩原源太左衛門が城代を務めた後、天正8年(1580)に武田氏の家臣である真田昌幸が吾妻に進出すると、富沢豊前守が城代となった。天正10年(1582)、武田氏が滅亡し、本能寺の変により織田信長が横死。真田昌幸はすぐさまこの地を抑えたが、やがて上野には相模の北条氏が侵攻し、真田氏と対立した。
利根・吾妻2郡の支配を任されていた真田信幸は、横尾八幡城に番衆を置いて北条氏に備えた。天正17年(1589)には北条氏邦が白井城から攻め寄せてきたが、富沢・金子・尻高・鎌原・湯本ら番衆が堅く守り、これを撃退したという。
【遺構】
名久田川と赤坂川が合流する地点の西側、河川に向かって東に突き出す丘陵上に築かれている。北は赤坂川、東は名久田川に面する、断崖に守られた城だ。
現在、主郭は整備されて東屋が建っている。主郭は40m四方の台形で、高さ2~3mの土塁がめぐり、南西隅、東、南東隅の3か所に虎口らしき開口部がある。
周囲の曲輪は藪に覆われ全貌を知ることはできないが、主郭を取り囲む曲輪は北西側に土塁を伴い、その北側下段にも帯曲輪が設けられているようだ。南西側が大手とみられ、土塁を伴う曲輪がある。また、北東側には広い曲輪が置かれ、この曲輪の南東面にも土塁がある。
【交通】
関越自動車道月夜野ICから車で約30分
【参考文献】
・『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』戎光祥出版、2015年。
・『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年。
・現地案内板。