長井坂城(ながいざかじょう)
長井坂城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県渋川市赤城町棚下綾戸582他/利根郡昭和村
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 上杉謙信
築城年
- 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 上杉氏、猪俣邦憲
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(長井坂城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
沼田城(群馬県沼田市)[7.4km]
白井城(群馬県渋川市)[9.8km]
渋川城(群馬県渋川市)[11.3km]
名胡桃城(群馬県利根郡)[11.5km]
小川城(群馬県利根郡)[14.1km]
剣城(群馬県渋川市)[14.7km]
尻高城(群馬県吾妻郡)[15.1km]
横尾八幡城(群馬県吾妻郡)[17.5km]
大胡城(群馬県前橋市)[20.3km]
神梅城(群馬県桐生市)[20.3km]
長井坂城の解説文
長井坂城の口コミ情報
2024年09月12日 ひらお上野介
長井坂城
先達の仰る通り、城近くは道がかなり細く、農家さんの作業道路で、車で侵入するのは勇気が必要です。城攻めマップでは、南からも入れそうですが、畑になつており、近づくことはできませんでした。小さな看板のある北からの侵入経路をたどってください。
2024年07月06日 アッサー
長井坂城
三の丸に駐車場スペースあります。農地になっているので、農家の人がここまで、農機で上がってきてるようです。ここまでの道が狭く、心細かったです。
2024年05月15日 昌幸近江守晩秋リア旅
棚下の砦[長井坂城 周辺城郭]
長井坂城の南2㌔、利根川の河岸段丘に築かれた棚下の砦。
上杉輝虎(謙信)が築いたとされ、上州の覇権争いで北条→真田と主が頻繁に変わった砦でもあります。
縄張りの見所は、主郭と副郭の間にある三日月堀を備えた馬出し郭でしょう。
ささ郭から見る段丘下の眺望も見事です。
車での訪問なら先人の通り、関越道高架下あたりにスペースがあります。
舗装道を少し下り、左にピンクテープが巻かれた木があるので、そこを入ると副郭になります。後は踏み跡に従って下さい。
三日月堀を配すなど凝った造りの砦です。長井坂城との位置関係を考えながら、ささ郭からの眺望を見ると、より一層楽しめると思います♪
【写真の説明】
①三日月堀に囲まれた馬出し郭
②三日月堀を堀底から
③主郭の横堀
④主郭と馬出し郭を繋ぐ土橋
⑤土橋を上から
⑥主郭の腰郭
⑦ささ郭
⑧ささ郭からの眺望
2021年08月01日 真田上野介信吉
津久田城[長井坂城 周辺城郭]
『文化財関係資料集』には、白井城の支城であり、「つなぎの城」として白井城団を形成し、利根川沿いに侵攻する敵に対して深縦陣地を形成し、主城白井城の守備となり、あるいは前進基地としての役割を果たしたそうです。
天正18年(1590)豊臣秀吉旗下の前田利家・上杉景勝による白井城攻略に際し、主城とともに落城し、城としての生命は終ったとありました。
2021年02月08日 真田上野介信吉
棚下の砦[長井坂城 周辺城郭]
主郭設置の標柱は『史跡 棚下の御殿の砦』との表記。側面には『長井坂城は約2㌔の北方、南方は津久田城を望む要害で戦国天正の頃は重要な軍用進路上にあって、本丸からの“馬出し”は県下でも珍しい形式と云われている』と記されている。
文化財指定がない為、案内等の看板は一切ありません。ナビや、長井坂城のマップで検索すれば迷うことなく辿り着けると思います。関越道高架下に1台分のスペースがあり、そこに駐車。ここからは目の前の坂道(舗装)を100㍍程下って行きます。
そして、砦跡への現在の入口についても全く不明瞭。先人が足を踏み入れた場所の写真(※上段左②)を添付しましたので参考にしてください。
※関越道と送電線の鉄塔を右上に見ながら、左下の二股の木の下に先人の足跡あり。
先ず2郭からの進入。主郭馬出し(土橋で接続)の三日月堀が目の前に現れテンションが上がります。なお、2郭の土塁は確認出来ませんでした。
2郭北側に付けられた足跡を辿ると主郭との横堀。主郭北側の腰郭からは竪堀。また、主郭設置の標柱南側にも竪堀。最西端は一段下がった※ささ郭となります。
※ささ郭には柵などは設置されていませんから、奈落の底に落ちないよう注意が必要。ささ郭からの眺望(上段左①)を添付しましたので、比高差をご確認ください。
主郭馬出し三日月堀を中心に非常に良好に残存。この時季ということもあり、遺構をハッキリと見ることが出来ます。
長井坂城とセットでのリア攻めから、上杉輝虎(謙信)公の関東進出の足跡の一端に触れてみてください。
2021年01月02日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
棚下の砦[長井坂城 周辺城郭]
造られた年代は定かではないそうですが、1558~1570年に上杉輝虎(謙信)によって造られたと伝わるそうです。2㌔ほど北の長井坂城南の津久田城との間にあり、交通の要衝を抑える砦。
西の利根川からの崖上にせり出す先端(この時期は枯れ葉で滑りそうで危険です)からの見通しは良さそうで長井坂城と連係の砦と思われる。遺構は馬出周りの三日月堀と堀跡などが良く残る。
入口は見つけにくいがスポットを作ったのでGoogleマップや他の城サイトなどで調べてメグラー特有の勘で突っ込むと行けると思います。関越道くぐった先の急カーブの外側の獣道のような踏み跡を見つけてください。
2019年05月06日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長井坂城
三の丸(左側)と、西の三の丸(右側)の間を通る旧三国街道の堀。地形的にやや登りながら追手方面、南方向へ突き抜ける。
2019年04月30日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長井坂城
西の三の丸はきれいに整えられた段差つき(右が本丸)。地形的にお城の南方向にわずかに登っており、西の三の丸東にある(写真写ってない左側)旧三国街道を通した堀もここから登っている。
2019年04月26日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長井坂城
三の丸と二の丸の間の虎口北側にはやや荒れてますが空堀が続いてます。
2019年04月25日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長井坂城
崖上の要塞。右からの堀は西側利根川崖に突き抜ける。左には対岸を走る国道17号と利根川の綾戸ダム付近が霞んで見える。
2019年04月24日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長井坂城
本丸東側の虎口(左)は食い違い虎口。真ん中土塁と堀を挟んで右は二の丸。こういうの初めてで3回目にしてようやく納得。
2019年04月21日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長井坂城
ナビを頼りに車で城跡入口まで行けます。
が、岩本駅、赤城インターチェンジ側からどちらから入っていっても車1台ほどの狭い道です。
停める場所もはっきりしてなくて畑シーズンで邪魔にならないように遠目のやや広いスペースに停めました。近くに停めても短時間なら平気だと思います。過去二回は近くでも平気でした。
本丸の土塁、堀跡、は良く残ってます。
きっちりと整備されてはいないので草の少ない季節の方がおすすめです。
国道17号綾戸ダム辺りから崖上の関越道の橋のすぐ南(渋川方面)あたりがお城。高さを実感できます。
こちらへ出ると、もつ煮で有名な永井食堂、関越道なら赤城高原SAでお土産も。
渋川方面の白井城、沼田方面へ出れば名胡桃城&沼田城もありますのでそちらへ寄った際に時間のある方は寄って見てください。
2019年04月18日 カーネル
長井坂城
上越線岩本駅から
駅から見て城は南だけど、川を渡るため、100mほど北上して利根川を渡る。ここには、長井坂城跡まで6.5km。の看板があります。遠いです
看板のあるカーブを県道255号を目指して東へ、少しショートカットできます
県道にでたら右折して南へ。ゆるく下る道で、歩道があったりなかったりです
永井口のバス停で左斜めに行くと登りに変わります。ここには城まで4kmの看板も・・
ダラダラと舗装路を登り続け、箱根神社を通過するあたりで、歩き始めた頃には遠かった高速道路が近づく。
関越自動車道の真下で、右斜めに下る道にあと1.4kmの案内があります。この先もダラダラと登り続けますが、凄い高さだった高速の橋げたが段々と低くなる
そして高速道路を見下ろす先で、長井坂城入口の標識があります。ここまで90分
城内は土塁と堀が圧巻です。反対側に抜けると追手門の標識で、ここで引き返しました
色々歩き回っていたら長居してしまい、乗りたかった電車に乗るため、帰りは少し小走りしたこともあり、往復して200分でした
2017年11月07日
長井坂城
二の丸跡に石碑と説明板が建っている。しかし、二の丸跡と三の丸跡は完全に畑と化しており、残念ながら遺構を楽しむことは出来ない。それらの奥にある遺構の整備されている場所は、遊歩道のように散策出来る。
強者は是非、二の丸跡側から倒木をよじ登ったりして、追手跡の碑を目前に見ることが出来る方を目指してほしい。
2015年01月26日 牢屋見廻り同心マダオ
長井坂城
旧沼田街道の長井坂にあり、北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に臨む崖端城である。「加沢記」によると、永禄3年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)が関東出馬の際に長井坂に陣を張り、沼田顕泰(万鬼斎)を引見したとあり、そのころからこの地に城塁があったとされる。天正期に北条氏の持城となり、北条方の北方最前線の要として、沼田城を略取した真田氏との攻防が繰り返されたが、天正18年の小田原城の落城とともに廃城となった。
また近くには上杉謙信が築城したと言われる棚下の砦があります。こちらも遺構が素晴らしいです。
2012年05月26日 傾奇揚げ仙兵衛
長井坂城
赤城高原の畑
「加沢記」によれば、永禄3年(1560)長尾景虎(上杉謙信)が関東出馬の際に長井坂に陣を張り、降伏した沼田顕泰(万鬼斎)を引見したとあることや、城郭構造からみて永禄期以降の築城と考えられている。
天正の初めに北条氏の持城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めた。天正6年(1578)真田氏が沼田城を略取すると、長井坂城が鉢形城を核とした北条方の北方最前線の要となって、北条・真田両氏激突の攻防が繰り返されたが、天正18年の小田原城の落城とともに、廃城となった。