鷹留城(たかとめじょう)

鷹留城の基本情報

通称・別名

所在地

群馬県高崎市下室田町字城山

旧国名

上野国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

長野業尚

築城年

明応年間(1492〜1501)

主な改修者

主な城主

長野氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(鷹留城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

里見城(群馬県高崎市)[4.5km]
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安中城(群馬県安中市)[7.2km]
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富岡城(群馬県富岡市)[14.0km]
石倉城(群馬県前橋市)[14.7km]

鷹留城の解説文

※この城郭は2026年4月6日に名称と位置が変更となりました。



鷹留城(たかとめじょう)は、群馬県高崎市下室田町にあった中規模な日本の城(山城)。箕輪城の西方5キロにある箕輪城の支城の一つ。各種の遺構が原形に近く残っている点で、群馬県内でも稀な城跡である。高崎市指定史跡に指定されている。

概要 

鷹留城は、 明応年間(1500年頃)、当地を支配する長野尚業によって築かれた山城である。長野尚業の子、憲業が本拠を1512年(永正9年)に築かれた箕輪城に移すまでの間、長野氏の本拠であった。その後も1566年(永禄9年)に落城までの間、箕輪城の有力支城の一つである。『日本城郭大系』には 「箕輪城と相助ける別城一廓の関係にある」 と記されている。城の規模は、南北430メートル、東西300メートル、本丸の高さは東側の谷から70メートルといい、群馬県内でも有数な中規模な山城である。現在にのこる遺構として、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、掘切の跡が認められる。また、元城下に長野氏の菩提寺の室田山長年寺があり、「長野氏累代の墓」(長野業尚、業正、憲業、業氏、業固、業茂、業続の7基の五輪塔)がある。

現代

  • 1982年(昭和57年)4月1日、高崎市指定史跡に指定された。

現地情報 

所在地

  • 群馬県高崎市下室田町字城山

交通アクセス

  • 高崎駅から群馬バス「本郷経由室田行き」で約30分「下室田小学校前」下車、徒歩約20分

伝説

武田軍の総攻撃の度に鷹留城は濃霧に覆われ、総攻撃は度々延期された。困り果てた武田信玄は榛名神社に祈願したところ「射よ」との託宣を受け、配下の強者に濃霧に向けて矢を射させたところ、忽ち霧は晴れ上がり、烏川の川べりに一匹の白キツネが死んでいたといい、白キツネは稲荷神の神使だったと伝承されている。武田信玄は榛名神社に弓矢を奉納し、矢立杉(国の天然記念物)の由来となったという。後年、城跡に稲荷大明神の祠が立てられている。

参考文献 

  • 別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)
  • 「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)
  • 「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)
  • 「日本城郭大系」(新人物往来社)
  • 「関八州古戦録」(ニュートンプレス)
  • 鷹留城 埋もれた古城(http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Gunma/Takatome/index.htm) 2012.5.16閲覧
  • 鷹留城 余湖(http://www65.tok2.com/home2/yogokun/takatome.htm) 2012.5.16閲覧

鷹留城の口コミ情報

2026年03月31日 ᴿᴱᴰ副将軍
鷹留城



城郭遺構が完存する箕輪城の支城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。明応年間(1492年〜1501年)に長野業尚により築かれたと云われます。
1512年に嫡男の長野憲業が箕輪城を築いて移るまで長野氏の本拠であったとされます。
1557年より武田信玄は西上州に侵攻を開始するも箕輪城と高留城の強固な連携により落とすことができず撃退されます。
1561年に長野業政は病没し、長野業盛が家督を承継すると、武田信玄は好機と捉えて上野侵攻を再開し本格化させます。
1566年、武田信玄は箕輪城と鷹留城との連絡を分断し孤立したことにより鷹留城は落城。城主であった長野業通は吾妻に落ち延びたとされます。
その後、箕輪城は落城し、長野業盛は自刃し、長野氏は滅亡しました。
その後、箕輪城は武田氏に接収され、内藤昌豊が入り改修されましたが、鷹留城も同様に武田氏により改修を受けたとされます。
1582年に武田氏が滅亡すると、北条氏が上州を支配。鷹留城も北条氏の支配となり改修を受けたと考えられています。
北条氏直は真田氏に備えるため街道沿いに松山城を築いたため、鷹留城の役割は薄れてその詰城になったと考えられています。
1590年、北条氏が小田原征伐で滅亡すると廃城になったとされます。

見所
箕輪城の西方5キロに位置し、榛名山の真南の標高344mの山麓に築かれています。
最高所の主郭と南西に連なる二郭、三郭が中心となる連郭式で、その周囲を帯郭や横堀が取り巻いています。
主郭の北側の横堀は東側面へと回り込み、更にその北側には二条の巨大堀切で遮断。北端の堀切には土橋が架かり、北側が搦手とされます。
三郭より南下の郭の西山腹が大手であり、竪堀状通路から帯郭へ続いています。
長野氏滅亡後、武田氏、北条氏の支配の際に改修された様で、主郭の東下には北条氏の特徴である格子堀の痕跡が残っています。

3,000城登録記念。修羅の国グンマー帝国の名城です。

2021年06月03日 真田上野介信吉
鷹留城



鷹留城は、中世永禄期(1558~69)の中規模山城の典型であり、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、堀切等の各種遺構が原形に近く残っている点では県内希な城跡である。
明応年間(1492~1500)長野業尚築城。永禄9年(1566)9月武田信玄勢のために落城(城主業通)。長野氏4代70余年の居城である。
並郭式であり、南北430㍍、東西300㍍、本丸高さ東谷より70㍍。
東南の菩提寺長年寺に長野氏累代の墓がある。

ー主郭設置の説明板(高崎市教育委員会)よりー

群馬県高崎市(旧榛名町)にある鷹留城は箕輪城の西方約5.5キロに位置します。永正9年(1512)箕輪城に本拠を移すまでの長野氏本拠、以降落城まで有力支城として機能しました。

この城の特徴は連続した5つの郭を配置し、それぞれに堀切、主郭東側は段郭の連続、また畝状竪堀を含めた竪堀の多用にあります。特に大手口には上の郭から畝状竪堀を設ける徹底振り。段郭に石積み、更には3郭に石垣を施工。主郭東側の段郭から主郭を全く見ることが出来ない程に豊富な土木工事を実施しています。所要2時間コース。

投稿の写真はほんの一部に過ぎません。とにかく写真映えのする城跡です。群馬県でも屈指の素晴らしい遺構をお楽しみください。現在見られる100名城箕輪城は、徳川・井伊直政プロデュース。こちら長野氏オリジナルの鷹留城と比較するリア攻めをオススメします。
※搦手口側には1台分の駐車スペースあり。登城口のスポットを設定しておきました。


2020年06月26日 大隅守
鷹留城



大手口 土橋等遺構が良好に残ってます。

鷹留城の周辺スポット情報

 鷹留城大手口(遺構・復元物)

 鷹留城登城口(その他)

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