白井城(しろいじょう)
白井城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県渋川市白井本丸609-1他
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 梯郭式平城
天守構造
- 不明
築城主
- 長尾景仲
築城年
- 永享年間(1429〜1441)
主な改修者
- -
主な城主
- 白井長尾氏、本多氏
廃城年
- 寛永元年(1624)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、三日月堀(水堀)、櫓台、枡形虎口、用水跡
指定文化財
- 市史跡(白井城址)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
渋川城(群馬県渋川市)[1.4km]
剣城(群馬県渋川市)[5.7km]
長井坂城(群馬県渋川市)[9.8km]
箕輪城(群馬県高崎市)[12.7km]
蒼海城(群馬県前橋市)[13.4km]
石倉城(群馬県前橋市)[13.6km]
前橋城(群馬県前橋市)[13.9km]
沼田城(群馬県沼田市)[15.8km]
北新波砦(群馬県高崎市)[16.3km]
尻高城(群馬県吾妻郡)[16.4km]
白井城の解説文
白井城の口コミ情報
2023年10月08日 見城
見立城(不動山城)[白井城 周辺城郭]
上州の吾妻川と利根川の合流点である白井の地域は、西は信濃国、北は越後国、南は武蔵国へ向かう交通の要所。白井領は、北から南に寄居があり、勝保沢、見立、三原田、八崎、真壁、箱田にありました。
鎌倉時代に里見氏義という武将が不動明王の石像尊像を赤城町宮田の洞窟に安置した聖なる山が不動山と呼ばれたことから、戦国時代にその尾根上に築かれた見立城は、不動山城と呼ばれるようになったとのこと。
現在は竹林が深く、折れた竹が登城を阻むものの、登城路は分かり易くなっています。ただ本郭のある平地や本丸への登り口は細く狭いため、先人の方のアドバイスの通り、草や枝等で足を滑らせ滑落しないよう十分注意が必要です。
・本郭 腰郭から
・草木が繁茂する本郭
・本郭南の腰郭
・本郭の切岸と腰郭
・腰郭西の断崖を見下ろす
・本郭から西の白井城側、眼下は蛇行する利根川の流れ
2023年10月07日 見城
勝保沢城[白井城 周辺城郭]
赤城山西方の山麓にある勝保沢城は、赤城歴史資料館に隣接しており、本丸がぐるりと一周できる城郭です。資料館内には、渋川近隣の城郭縄張り図の展示もあり参考になりました。
・本丸南東部
・本丸北西部 左下は竪堀へ
・本丸北東部
・本丸南東部から南方向の奥に続く堀
・本丸 奥は赤城資料館
・右手は本丸南東部、左は南に続く堀の交差点
2023年10月03日 ぶらなおき
白井城
城郭はコンニャク畑だらけだが、本丸はしっかり整備されている。堀や土塁もしっかり残っており見どころ満載。
2022年10月04日 城社まにゃ日向守柴田軍織田
白井城
車でリアル攻めしました。国道17号を沼田方面から白井宿で右折して、道の駅を通り過ぎたら右折して、狭い道ながら、宿場町らしい中央分離帯路を南に走ると白井城右折の表示が有ります。しかしながら、三の丸辺りから観たい人は特に表示がない二本目か?3本目手前の右折路を登ると石垣調な登り坂の先、住宅地の一本目十字交差点を左折、行き止まり不安感を煽る農地を突っ切ると三の丸ニノ丸本丸と順序よく良く有ります。本丸跡の先は草道なので草地でUターンします。車は7台位置けます。写真は撮りませんでしたが縄張りは面白いかな。尚、15年位前に利用した入浴施設白井温泉は営業停止中?です
2022年06月12日 柊楓大和亮
白井城
縄張りが農地化し、空堀跡に畑になってました。
2021年12月09日 立津竹右近衛少将繁親
白井城
本郭の土塁が、とてもよかった。白井宿と一緒にまわると、城下町の面影が感じられました。
バスで行かれる方は、渋川駅から、渋川医療センター行に乗り、「白井」で降りられると、白井宿の入口に近いです。白井宿を道なりに歩けば、白井城へも道標があり迷わず行かれます。白井宿の終わりまで行くと、道の駅があり。そこで、御城印を購入できます。
渋川駅へのかえりは、道の駅から20分くらいあるきますが、渋川医療センターに行くと、大体1時間に1本程度、バスがありました。
2021年11月16日 七沢駿河守七郎
白井城
白井城に登城しました。城の二の丸、三の丸などの大部分は畑になっていました。本丸の虎口の石垣や土塁は見応えがあります!
2021年08月01日 真田上野介信吉
三原田城[白井城 周辺城郭]
『文化財関係資料集』によると、築城年代は不明だが、三原田六郎義高が築いたといわれ、戦国時代には白井城の出城として、永井宗信実綱、永井大学、永井(長井)出羽守が居城したと伝える。
南を天竜川の谷、北を黒沢によって切られた台地の上にあり、現在は畑・桑園・宅地になっている。
と、ありました。
2021年07月30日 真田上野介信吉
猫城[白井城 周辺城郭]
『文化財関係資料集』によると、標高360㍍の地所。東郭と西郭に分かれて東郭が高い。西郭が広くて濠や武者走りなどが残っており視界が開けている。東西約120㍍。戦国の頃の山城で、遺構がよく残っているので保存したい。と、ありました。
2021年05月05日 うっちー外記幸村
白井城
虎口の野面積石垣が僅かに残り、土橋を渡ると
虎口、そして脇手に薬研掘、?(付近に吾妻川がとおる為水堀跡の可能性あり)が、しっかり残り、恐らくは空堀、薬研でしょう。
吾妻川、深い堀、と、巧みな縄張りですね。
主郭部の周りにある土塁が残り、保存状態❤️
2021年05月02日 マグロ常陸介祐平
白井城
枡形門の石垣や土塁、空堀がよく残っています。白井宿とは別に、城跡から源空寺に向かう道沿いは城下町の名残を感じます。源空寺には城主の本多広孝夫妻と紀貞の墓があります。
2021年03月27日 真田上野介信吉
見立城(不動山城)[白井城 周辺城郭]
築城年代は不明であるが、古文書に上杉謙信が築城したと伝えている。事実とすれば天文・弘治(1550ごろ)の頃といえる。
天正8年(1580)、真田氏が中原に馬を進めようとして幕下の将海野幸貞が攻めあぐんだことが古記録に見える。
天正18年(1590)、上杉景勝、前田利家の攻略により、主城白井城と共に落城した。
ー文化財関係資料集(赤城村教育委員会)よりー
見立城(不動山城)は、長く利根川の方向に突き出した尾根に数条の空堀を基本として築かれた並郭式山城格崖端城です。
勝保沢城とは約1キロの距離にあります。
写真にあるポッカリと口を開けている場所が大手になります。ここに車を停めて突入。竹藪全開です。
土橋状の道を登って行く所々に、3郭や2郭、腰郭などがありますが、激藪過ぎるので写真では伝わり難いと思います。
一部堀や切岸はハッキリと見られますが、藪に突入するのは勇気が必要かと。
視界が開けると、そこは主郭の腰郭。進入開始から5分程度でしょう。見下ろす景色はかなりの高さまで登っているのだと思わされますが、大手口そのものがかなりの高さにあることも事実です。
主郭も激藪で、一部展望出来る程度と思ってください。
アクセスは、勝保沢城(赤城歴史資料館)から向かうのが分かり易く、県道151号を右折し関越道を跨ぎ細道を左折、刀川小学校の正門前を通過します。何れにせよナビやマップが頼りとなりましょう。
白井城と共に白井城団セット(勝保沢城→見立城→白井城の順が理想的)でのリア攻めがオススメです。
2021年03月27日 真田上野介信吉
勝保沢城[白井城 周辺城郭]
築城年代は不明であるが、宗玄寺開基の斉藤加賀守真氏(安清)が、天正18年(1590)落城後、自分の居館跡の方一町を寄進し寺を建立したと古記録にあるから、他の赤城山西麓の城郭と同様戦国時代の頃の築城と思われる。
斉藤加賀守は北条氏幕下の勇猛をうたわれた武士で、史書に散見するが、その居館(城)であったとすれば戦国記には戦乱の嵐にまきこまれたことは想像に難くなく、加沢記によれば、天正8年(1580)の真田氏の南方大侵攻の際、攻略を受けている。
天正18年(1590)白井城と共に赤城西麓の諸城が、前田利家、上杉景勝の軍に攻略され、この城も他と共に落城した。
ー文化財関係資料集(赤城村教育委員会)よりー
群馬県渋川市赤城町勝保沢にある勝保沢城は、背後に諏訪沢川が流れる崖端城です。
主郭は楕円形で、ぐるりと一周横堀が巡らされている珍しい形状。一説には出丸とされ、宗玄寺がある場所が主郭とも。
渋川市赤城歴史資料館の駐車場奥が、その楕円形の主郭であり土塁が遊歩道化されています。この土塁には砂利が敷き詰められていることは残念ですが。
横堀は深さを均一とせず、北側に掛けて深く掘り下げています。
北東及び北西には竪堀も設けており、北西側は後世による多少の改変はあるものの、良好に見ることが出来ます。
寺院側の郭にも横矢掛かりのしっかりとした堀。郭内は藪ですが、段を形成していた様子が見られ、また宗玄寺には斉藤真氏公の墓もあります。
アクセスは、関越道赤城インターから約10分程度。そこかしこに歴史資料館を案内する看板がありますが、県道70号沿いのガソリンスタンドを先ず目指してください。
白井城と共に白井城団であった諸城を巡るリア攻めをオススメします。
2020年03月12日 牢屋見廻り同心マダオ
明蔵院跡[白井城 寺社・史跡]
天台宗群馬郡上並榎村(高崎藩管轄)護国寺末派長福寺山明蔵院(妙蔵院)は、白井城三院の一つである。元禄頃の境内の除地は五畝八歩あり、明治まで持続。明治初年の檀家数一軒、住職は泰浄といった。白井小学校が、明治六年横町に営築され、生徒数五十・女十五と上野国郡村誌にあるが、これは明蔵院を使用したものと思える。後に白井小学校は吹屋小学校(吹屋玄棟院に開設)と合併し、再び独立した。明治七年八月に明蔵院を使用したとあるからである。既に廃寺となっていた明治三十一年の白井町の大火により焼失。石碑多数建立、金井家墓地などがある。(現地説明板より)
2020年03月12日 牢屋見廻り同心マダオ
神明宮[白井城 寺社・史跡]
白井西方のこの地域が、白井の伊勢神領で明蔵院裏で白井城外堀の土居に当たる所に鎮座している。元禄の頃の除地は下畑四畝四歩で、別当は明蔵院住職が兼ねていた。祭神は天照大御神、社地東西二十五間(郡村誌)面積百二十坪とあり、現在の祭日は四月十五日と十月一日である。この下の町を官本町ともいう。(現地説明板より)
2019年05月29日 牢屋見廻り同心マダオ
東遠構 東城戸口[白井城 遺構・復元物]
白井城東遠構東城戸口は東の利根川を渡河して来る敵に対する関門の役割を果たしていたと言われています。東遠構の遺構は開発により減りつつありますが、一部土塁や、その名残を見ることが出来ます。
2019年05月22日 牢屋見廻り同心マダオ
仁居谷城[白井城 周辺城郭]
仁居谷城は別名仁居谷の砦、二位屋城と言われ築城時期は不明ですが、中世初期の白井太郎常忠の居館と言われています。白井長尾氏の時代には白井城の支城として機能していたと思われます。
開発により遺構は、ほぼ皆無ですが畑の中に一部土塁と思われる土盛りが確認出来ます。土塁と思われる土盛りの北側も畑ですが、周りより低くなっており、堀跡とも見れます。
2019年05月07日 牢屋見廻り同心マダオ
見立城(不動山城)[白井城 周辺城郭]
白井城の支城の一つで、地衆見立氏によって築城。天正八年には真田氏、天正十八年には小田原攻めの上杉・前田氏によって落城、後に廃城となりました。
登城口は追手口と搦手口の2ヶ所から入れますが、追手口(旧刀川小学校側)からの登城は竹藪に阻まれ困難です。追手口と搦手口付近に説明板あり。
危険な場所もありますので、リア攻めされる方は気を付けてください。
2019年05月06日 牢屋見廻り同心マダオ
玄棟院 北遠構[白井城 寺社・史跡]
玄棟院は白井城主長尾憲景が開基。白井城の鬼門に建てられ、北遠構の役目も果たしていました。建立は天正三年(1575)。本堂脇の閻魔大王の石仏は長尾憲景の護持仏と伝えられています。また、枯山水庭園は信玄造りの名が付いており、こちらも長尾憲景築園と伝えられています。
2019年05月06日 牢屋見廻り同心マダオ
金比羅郭[白井城 遺構・復元物]
金比羅郭は現在、農地となっており明確な遺構は少なく、北郭との境にある空堀と玄棟院側に櫓台跡らしき土盛が確認できます。
2019年05月06日 牢屋見廻り同心マダオ
浄水寺跡[白井城 寺社・史跡]
臨済宗の一派である普化宗白井山と称していました。徳川家康が諸藩の動勢をさぐらせる隠密の役目を持って設けられ、県内には六ヵ寺あったといいます。
2019年05月05日 牢屋見廻り同心マダオ
櫓台跡[白井城 遺構・復元物]
古墳を利用した櫓台跡です。墳頂部には城山不動尊が祀られています。
2019年05月05日 牢屋見廻り同心マダオ
源空寺 白井藩主本多氏墓所[白井城 寺社・史跡]
源空寺は白井藩主本多氏の菩提寺で、本堂西の墓地内に本多氏の墓所があります。
左側の宝篋印塔が本多紀貞公。中央の兜幅型墓碑が本多広孝公。右が広孝公夫人の墓です。
2017年12月13日 カーネル
白井城
上越線渋川駅から
改札を出たら跨線橋で東に行き、国道17号に出たら左折して北上します。歩道があって、歩きやすいです
上越線をくぐると、国道17号がY字で分岐するので右のバイパスへ。こちらも歩道があります
その後、吾妻本橋新を渡り終えたらすぐに左折し、生活道路を進みます
本丸に向かって、西へ北へと細い道を歩くと「さくら館デイサービスセンター」にでて、ここに白井城の由来という看板が唐突に現れます
結局直線距離では白井城に行けず、城の北側まで行くと、徒歩4分の看板があるので、ここで南下します
畑の中に北郭の石碑があったりします。畑と堀が共存する道を進み、駅から50分で本丸
東に抜けると様相が一変し、深い堀と土塁に圧倒されます。本丸東の帯郭から畑の中を通って東に出れたので、ここから帰って1時間40分くらいでした
2017年10月01日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
白井城
車で本丸に行けますが、子持ふれあい公園辺りに車を停めて、歩いて行くと広さを実感。
北曲輪と三の丸の間の空堀は少し西へ行くとそれらしい低地があります。
三の丸と二の丸との間も一部畑になってはいるものの空堀っぽさは、はっきりわかります。
白井城跡看板より、空堀、三日月堀を両手に見ながら枡形門石垣。
本丸を囲う土塁、南側の笹曲輪、本丸東側の空堀と帯曲輪など見応えは充分です。
ポチ攻略範囲広いので寄らない方多いと思いますが、規模も大きくて楽しめると思いますのでお勧めですよ。
道の駅こもちの味噌パンをおやつにどうぞ。
2017年05月08日 mas.k上野介61th
白井城
本郭土塁を廻って東の堀底からもう一つ東の土塁に至り、巡るとこの城跡の良さがよくわかります。そのまま白井宿まで降りてからグルッと外側を廻って二の郭を通って本郭に戻ります。堀と土塁の造りが思いの外技巧的で見応えありますね。
2016年09月11日 左衛門佐平八郎
白井城
先人の記述通り 本丸まで車で行くことが出来ますが すれ違いが厳しい細い道です
本丸は広々としていて 悠々と駐車可能です
本丸虎口の石垣は 太田道灌の指導との伝承があり 中々の迫力があります
周りは2〜3メートルの土塁に囲まれ
曲輪ごとに堀を巡らせ 堅牢な城であったことが伺えます
城域の殆どは農地になっていますが一見畑に見えるところも よく見ると堀だったり 僅かに土塁の名残りを思わせる盛り上がりもあります
三日月堀は雨が降ると水が溜まり 水掘りのようになります
ただ 水が溜まると 堀底道が不通になるため
腰曲輪まで行くのに だいぶ歩くことになるのは ここだけの話
2015年12月30日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
白井城
子供が一緒だったので道の駅こもちからクルマでリア攻めチャレンジしました。三の丸の畑のおじいちゃんがトラックどかしてくれました。農繁期は道の駅こもちから徒歩をおすすめします。途中は蔵の町並みや資料館などもあり歩きの方が楽しめると思います。近くに温泉もありますので汗かきでも安心です。
2015年06月25日 牢屋見廻り同心マダオ
白井城
白井城関連史跡
源空寺…白井城北郭の北に位置する源空寺には白井藩主・本多広孝夫妻と本多紀貞の墓があります。
空恵寺…空恵寺は白井長尾氏の菩提寺で白井長尾氏累代の墓17基がありますが、景仲・景春・白井の局の墓が確認出来るのみです。
雙林寺…長尾景熙が開基した寺で長尾昌賢入道景仲の木像が安置されています。(見学の際はお寺さんに一声お掛け下さい)
見立二城(不動山城)…利根川対岸の赤城町にある白井城の支城で、白井城の支城の中では比較的良好な遺構を留めています。
他にも伊熊砦・八崎城・真壁城・箱田城・大室城などの支城群も見学されるとよいかと。
本丸にトイレあり。本丸まで車で行けますが、地元車優先で農繁期には農作業の車両が行き来し、停車してますので気をつけて下さい。
上野での景忠の居所は惣社(前橋市)で、当時白井には白井氏を名乗る武士団が存在していた。その後上野と越後の守護が分岐し、長尾氏も景忠の3人の子どもが分立し、景廉が越後長尾氏、景直が鎌倉長尾氏、清景が白井長尾氏の祖となったと「雙林寺本平姓長尾系図」に記されている。
白井城の築城年代は、虎口東側に張り出し部を有する本丸の構造が、享徳の大乱(1454~1482)時に上杉軍が本陣とした武蔵五十子城(埼玉県本庄市)の主郭構造と相似していることから、両城とも15世紀半ば頃、長尾景仲(昌賢)が城主の時代に築城されたものと推定されている。
長尾景仲は、主君である関東管領上杉憲実・憲忠・房顕に仕え、「関東無双の案者(知恵者)」と称された武将である。中郷に月江正文を開山として雙林寺を建立し、白井城内には京都から儒学者藤原清範を招いて聖堂を建立し家臣に儒学教育を行っている。雙林寺には県指定重要文化財「長尾昌賢木造と長尾氏位牌」が保存されている。
景仲の没後、北条氏、上杉氏、武田氏による覇権をめぐる戦乱の中、白井長尾氏は景信、景春、景英、景誠、憲景、輝景、景広と代替わりし、景広城主の時、豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、天正18年(1590)、前田利家、上杉景勝の両群の前に開城した。豊臣方に開城した白井城は、徳川家康家臣の本多広孝に与えられ、その子康重は2万石で城主となった。家康領国下では沼田城の真田昌幸を押さえる前線基地の役目を果たしたことになる。康重の岡崎移封後は康重の第2子紀貞が入城したが、寛永元年(1624)死去し、嗣子がなかったため廃城となった。
白井城は本丸を中心とした梯郭式縄張りで、五重の空堀と土塁がめぐる。西側は吾妻川の崖線上に形成され、自然の要害となっている。
本丸出入口に現存する野面積石垣の枡形虎口や、本丸東側の南曲輪・新曲輪は本多氏の時代に拡張・整備されたものである。枡形虎口前方東側の三日月堀は白井城址唯一の水堀で、武田氏築城法によって築城した名残と言われている。また、本丸奥には天守建築かそれに相当する建物の存在を思わせる櫓台石垣がある。
本丸背後に一辺15mの笹曲輪が設けられるほか、本丸北には二の丸、三の丸、北曲輪があり、その北西に金比羅曲輪が残る。北曲輪には大手虎口が開かれる。本丸、二の丸、三の丸の東側は堀を隔てて幅10m程の帯曲輪が長く続き、北曲輪大手虎口に達している。
この城の惣曲輪は、北側の吹屋屋敷・松原屋敷と東側の白井宿に囲まれていて、その外側に東西950mの北遠構と南北650mの東遠構の堀がある。大手虎口北側の吹屋では、近年まで鍛冶が行われていた。宿は城東側に南北に形成され、道路中央に用水遺構が設けられている。
長尾氏時代の外構には、城の護りとして愛宕神社、大宮姫神社、神明宮、玄棟院といった寺社が配置され、後に源空寺が建った。