手子丸城

手子丸城([岩櫃城  周辺城郭])

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手子丸城の口コミ情報

2022年11月06日 RED副将軍


幾筋もの尾根に郭群を展開する巨大山城🏯

オススメ度 ★★★★★

永正年間(1504年~1521年)に浦野氏により大戸地域の支配のため築いたとされます。
浦野氏は、滋野氏の庶流で鎌倉時代に入部し、後に大戸氏を称しました。
浦野重成は、上杉氏に属していた岩櫃城の斉藤憲広に箕輪衆として従っていましたが、1561年に武田氏の西上州侵攻に屈し武田氏に従属します。
1563年に、岩櫃城の斉藤憲弘は手子丸城に攻め寄せますが、武田氏の援軍もあり浦野氏は斉藤氏を撃退。
1564年、武田氏の上州侵攻により岩櫃城は落城。
1582年に織田信長により武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺で没すると、空白地となった旧武田領を北条氏と上杉氏が侵攻。
浦野氏は北条氏に従属しましたが離反すると北条氏は手子丸城を攻め寄せ落城。
その後は、北条氏邦の支配となり、1587年に家臣の斎藤定盛が入城。岩櫃城の真田氏に対する前線拠点として機能しました。
1590年の小田原征伐後は、徳川家臣の松平近正が支配し、三ノ倉城に拠点を移したため手子丸城は廃城となった様です。

見所
大戸の関の東に聳える標高649mの城山山頂に築かれています。大戸の関は、東に抜ければ岩櫃城、西の須賀尾峠を抜ければ長野原・草津へと至る交通の要衝です。
山頂に主郭を置き、東へ伸びた尾根に郭群を展開し、三つの郭群に分けられます。
さらにそれぞれの郭から北側に尾根が伸び、段郭が連なる広大な城域です。
尾根筋の要所を堀切で分断。鳥瞰図以上に実際は高低差があり、尾根の間の谷間の深さはかなりのもの。
見所は、II郭群とⅢ郭群の間に架かる土橋と、城域東端の二重堀切でしょうか。主郭の強烈な高さと鋭さの切岸も見事です。
かなりの広さと土木量なので地方豪族の浦野氏というより北条氏の改修によるものでしょうか。東に行くほどテクニカルなので北条氏の拡張の様にも思えます。
かなり広く急峻な地形である上に尾根筋は迷いやすいので注意が必要。久々に登山アプリのGPSを使いました。

写真
①II郭群とⅢ郭群の間に架かる土橋
②東端の二重堀切
③④⑤尾根筋を分断する堀切
⑥主郭には碑が立ってます
⑦主郭下の切岸
⑧登城口

2022年03月31日 【配龍】美海(ミミ)安房守


【アクセス】
お城はGoogleマップに登録されてます。
大戸交差点から向かって、2つ目のヘアピンカーブの路肩に車3-4台が駐車出来ます(小型重機が置いてある時もある)

登城口は、2つ目のヘアピンカーブの山側に白っぽいハシゴがかかっているので、そのハシゴを登る1️⃣。
登ったら直角に右に行くと、鉄塔管理用の黒い階段が上まで続いています(落ち葉で見にくい)
登り切ると東側の土橋に出ます😊

【写真】
1️⃣南側登城口(ハシゴ)
2️⃣東側の深い竪堀✨
3️⃣巨大な二重堀を下から。縦土塁も高い!
4️⃣5️⃣堀切。東側城山は郭が堀で分断されている♬
6️⃣隣の尾根から見た最西側の北尾根の堀切✨かなり大きい😳
7️⃣その巨大堀切を下から
8️⃣最西側の北尾根の先は不思議な塔のような巨大岩盤がある。物見にも使えそう♬

歩いていると北条の香りがするお城
自然地形も生かしたスケールの大きい堀と、長い土塁がとても美しく、独特の雰囲気を醸し出してますღ

🅿️車3-4台位は写真1️⃣付近のヘアピンカープの路肩帯に駐車可能なスペースあり

2021年12月24日 昌幸近江守晩秋リア旅


鎌倉時代、この地に移住した滋野氏の一族浦野氏(真田氏と同族)が大戸地域支配ための城を築いたのが始まりとされる。

ここは信州上田の北国脇街道から鳥居峠を抜けこの場所を通り、高崎に抜け東山道へ出て鎌倉に抜けられた非常に重要な地点だった。

そのため戦国大名もこの地の支配を得ようと争いが絶えなかった。長野氏vs武田氏、真田氏vs北条氏などなど。その度に城域は拡張され現在の形になったと思われる。

吾妻地域では、岩櫃城に次いで広いのではないか。尾根の改修の加え方は見応えがある。
山城に慣れている方向けの城と思う。単独ではなくグループでの訪問をおすすめする。

【写真の説明】
①追手道の堀切
②もう一つの追手道堀切。石積みが現れた。
③追手道の自然地形らしからぬ凹み。城域では一番なだらかな谷筋のようだから何か施されてもおかしくない。
④本城への尾根道を下から。後で登ったが足場が岩で怖かった(汗)
⑤主郭とその下の郭。かなりの兵士が駐屯できそう。
⑥ニノ城-三ノ城間の土橋。
⑦土橋から見える堀切。自然地形に改良を加えた感じ。
⑧搦手からの侵攻を防ぐ二重竪堀。

2021年04月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


群馬県の吾妻郡にある手子丸城☆別名を大戸城とも呼びます☆真田昌幸の籠る岩櫃城の南西側に位置する戦国の山城です☆眼下には街道が走り大戸関所(此方は江戸時代のもの)も残ります♪南西側に抜ければ信濃は軽井沢で東側の榛名山を越えればそこは群馬は上野国という立地になっていて所謂、境目の城☆いずれも交通の要衝地です☆境目の城といえばやはり防御機能に優れていて正に戦う城郭と言った印象が強い訳ですが、この手子丸城も正に堅固な城郭でありました♪その縄張り、城郭遺構、規模を見ても個人的に群馬城郭のTOP3には入る☆そんな素晴らしい顔をしています☆真田氏と同族だった浦野氏はこの場所に手子丸城を築城しました☆浦野氏は大戸氏を名乗っていきます☆往時の岩櫃城主・斎藤憲広の妹を嫁に貰い姻戚関係を結び関係強化を測って行きますが武田家の家臣・真田幸綱の岩櫃攻略の際に真田幸綱の調略に乗っかって武田方に寝返りました☆ただ…この大戸氏は武田家と徳川家による高天神城の争奪戦により戦死したと伝わります☆その間の詳細は不明ですが恐らく真田昌幸の岩櫃城の支城として機能していたと思われます☆その後、武田勝頼率いる武田家滅亡による甲斐国、信濃国の一部である武田領が空白地帯へ☆そこで始まる武田領の争奪戦☆後北条家VS徳川家の天正壬午の乱が勃発します☆当初、後北条方に与した真田昌幸はすぐに徳川氏に鞍替えします☆真田家は生き残る為の最善の策を進んで行きます♪鞍替えを知った後北条氏は大いに怒り真田領の沼田と岩櫃方面へ二手に分かれて襲い掛かります☆ここ手子丸城も襲撃され真田の援軍間に合わず往時、城を守っていた大戸兄弟は討死し落城☆奪われた手子丸城ですがその後に真田信之が奪還します☆手勢の800騎を率いて後北条方の富永主膳軍5000兵が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還します☆この時、真田信之は17歳で、しかも初陣でありました☆城郭としては標高649mの山のピークに主郭を配置しております☆ここから北へ伸びた三つの尾根に曲輪を展開しています☆東へ伸びた尾根側に強く郭を置いていて堀切で尾根を遮断するなど各郭の独立性が高いです☆東側にはデカい連続竪堀が残っていますが、こちら側が一旦城郭を区切っていて城域はココまでと思われます☆真田方が入り後北条方が入り元々は小さな城域を拡張、改修していった結果が今ある大きな城郭になったと思われます♪

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