羽根尾城(はねおじょう)
羽根尾城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 群馬県吾妻郡長野原町羽根尾
旧国名
- 上野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 羽尾幸全
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 羽尾氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 町史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鎌原城(群馬県吾妻郡)[6.5km]
岩櫃城(群馬県吾妻郡)[17.6km]
坂本城(群馬県安中市)[24.3km]
横尾八幡城(群馬県吾妻郡)[24.3km]
松尾古城(長野県上田市)[26.0km]
福島正則館(長野県上高井郡)[26.3km]
尻高城(群馬県吾妻郡)[28.0km]
真田本城(長野県上田市)[28.4km]
真田氏館(長野県上田市)[29.4km]
高梨氏城館(長野県中野市)[29.6km]
羽根尾城の解説文
羽根尾城の口コミ情報
2024年06月03日 里のシロクマ侍従
羽根尾城
4/20訪城、中之条在住の方から145号線から入る細い道があるとの事で車で行き小さな標識は確認できましたが、道が狭く福祉病院側から訪城。病院駐車場左奥へ、狭い道を切り返しを繰り返し畑道を下り、数台止められる平場に、ここに駐車。その先に堀切を確認、規模は小さいけど深さはそこそこある。崩れかけた階段を一歩一歩登ると土塁、歪な土塁に囲まれた本郭を確認。東側に土塁の切れた平場鉄塔がある、その先に1段下に腰曲輪、南に凹み(小さな竪堀だった)その先に本郭と二の丸を分ける堀切、深さと長さがある。この堀切の隣に小さめの竪堀。二の丸は中央に土塁がある尾根を利用した曲輪。さらに下り進むと浅い堀のような窪地と土橋の様な作りに見える。その先には削平された尾根があった。この後は、20分程の丸岩城へ、峠に駐車し徒歩20分程で本曲輪へ、途中がれ場がる。山上からは八ッ場ダム湖を見下ろし展望は良好でした。
2021年03月06日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
長野原城[羽根尾城 周辺城郭]
長野原城。
長野原町市街地北の東西に延びる尾根上に展開する城跡です。
武田信玄の西上野侵攻で真田幸隆も関わった西吾妻最大の合戦がこの城をめぐり繰り広げられた。
駐車場は街中は狭く停められなそうなので自分はかなり歩きますが長野原草津口駅北側(駅裏は斜面)の無料駐車場に停めました。途中諏訪神社に長野原合戦の碑が見えます。
登り口は2か所、どちらも国道145号線の長野原市街地から山方向へ。
片方はかなり前の落石で危険そうなので、雲林寺西方向お墓裏からの十二坂登城路を書いておきます。
道は狭い林道で緩やかで歩き易いがかなり遠回りになります。ですが、こちらからだと大手口からのリア攻めになりわりと広い郭群が見られます。郭間の堀切や腰郭など見所はわりとありました。
本丸過ぎ~箱岩の先(東側)はほんとに狭い尾根になってるようでビビりの自分は行きませんでした。
道の駅八ッ場ふるさと館で御城印(300円)が今年から発売されてます。
2019年05月03日 CLAD
海野長門守の墓[羽根尾城 碑・説明板]
真田昌幸に逆臣の疑いをかけられ自害した海野長門守の墓。羽根尾城の説明板もある。背後にある水路に沿って登っていくと登城道(本来の目的は主郭に立つ送電線の鉄塔メンテナンス用)に出る。
2017年05月14日 仲之丞治部少輔ひろぴい◢⁴⁶
羽根尾城
電車だと吾妻線羽根尾駅から国道145号線を中之条方面へ行くと看板あり。
車だと大津の信号を草津方面へ走り、西吾妻福祉病院とともに看板あり。福祉病院南側から、車で行けます。2台ほど停められるスペースあり。
駅側からだと車は停められなそうでしたので、福祉病院側から行きました。
しかし、いきなり本丸に出てしまうので、物足りないかもしれません。
駅側からですとかなりの急斜面、落ち葉で歩き難そうでした。
本丸付近は鉄塔あり、堀切あり、土塁も少しわかる程度。
近くの国道145号線バイパス中之条方面へ車で5分ほどの酒造会社のドライブインがグルメ、お土産、充実です!。
大吟醸ソフト、噴火ラーメン、などお酒はもちろんお漬け物、お饅頭など試食多数。
長野から沼田、岩櫃方面へ抜ける時の休憩におすすめです!。
2014年11月01日 北川幸人
羽根尾城
戦国時代に信濃源氏滋野氏の末裔羽尾幸全入道は、羽尾城を根拠として勢力を振るった。幸全の舎弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、永禄9年(1566)真田幸隆により幸光は岩櫃城代、輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられたが、兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝幸は迦葉山の女坂で自刃して果てた。時に天正9年(1581)11月29日幸光75歳輝幸72歳であった。
羽根尾城は梯郭式の城で僅かな平坦地が本丸で虎口は東南部にあり東側に腰曲輪がつく。本丸の南に二の丸、更に南に三の丸が続く。
本丸にある説明板に記されていました。
西吾妻福祉病院の駐車場の隅に、小さな矢印案内看板があります。
2010年09月03日 傾奇揚げ仙兵衛
羽根尾城
この辺は温泉が多く川の色が変色している。北の方に尻焼温泉って無料で入れる湯がある。ただし湯舟の上に屋根が有るだけで脱衣場は外
歴史
築城年代は定かではないが、戦国時代には羽尾氏が本拠にしていたとされる。天文年間(1532~1555)初期にこの地域を支配した、羽尾幸全が築いたとも伝わる。羽尾氏は信濃の滋野姓海野氏の一族で、湯本氏、西窪氏、鎌原氏などとともに吾妻を舞台に活躍した。羽尾少輔景幸には3人の子があり、長男が羽尾幸全、次男が海野幸光、三男が海野輝幸だ。
永禄4年(1561)の羽尾幸全と鎌原幸重との戦いを機に、鎌原城や羽根尾城は両者による争奪が繰り返された。永禄6年(1563)の長野原城攻めでは、海野兄弟が岩櫃城主の斎藤方として長野原城を攻略。しかし、すぐさま奪い返され、羽尾氏も真田幸綱に降った。
永禄8年(1565)に斎藤氏が滅びると、翌永禄9年(1566)に真田幸綱は戦功のあった海野兄弟を岩櫃城代とした。ところが天正9年(1581)、海野幸光は真田氏に急襲され自刃。海野輝幸も、逃れたものの迦葉山で自刃した。その後、羽根尾城には湯本三郎右衛門が在城した。
遺構
吾妻川の西側、羽根尾集落の後背にある標高750mほどの山にあり、南西方向にのびる尾根上に築かれている。無線中継塔が建っているところが主郭で、南東側に腰曲輪を置く2段構造だ。主郭には高さ2mほどの土塁がめぐっていた。尾根続きとなっている北東側と南西側を、堀切で分断して独立させている。虎口は東南側にあり、前面には馬出しのような空間が設けられている。
主郭南西側の堀切を隔てて、2段の曲輪が設けられている。南西端の曲輪は削平があまく、自然地形に近い。堀切の両側あたりの西斜面には、2本の竪堀が掘られている。
南麓には海野長門守の墓がある。この下方の畑地はお屋敷跡と呼ばれ、鎌原氏に攻められた羽根尾居館があった場所と考えられている。
交通
・上信越自動車道碓氷軽井沢ICから車で約80分参考文献
・『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』戎光祥出版、2015年。・『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年。