鎌原城(かんばらじょう)

鎌原城の基本情報

通称・別名

所在地

群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原字丸

旧国名

上野国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

鎌原氏?

築城年

応永4年(1397)

主な改修者

主な城主

鎌原氏、羽尾氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、堀切

指定文化財

村史跡

再建造物

碑、説明板

周辺の城

羽根尾城(群馬県吾妻郡)[6.5km]
松尾古城(長野県上田市)[19.3km]
真田本城(長野県上田市)[21.9km]
真田氏館(長野県上田市)[22.9km]
横尾城(長野県上田市)[23.3km]
岩櫃城(群馬県吾妻郡)[23.6km]
福島正則館(長野県上高井郡)[23.7km]
坂本城(群馬県安中市)[24.2km]
小諸城(長野県小諸市)[24.7km]
戸石城(長野県上田市)[25.2km]

鎌原城の解説文

鎌原城(かんばらじょう)は、群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原にある山城。

歴史
築城年代は定かではないが、南北朝時代に鎌原氏が築いたと伝わる。

鎌原氏は、清和天皇の第四皇子貞保親王を祖とする滋野源氏の一族だ。平安時代末期、滋野源氏の流れを汲む海野小太郎幸明の次男・幸房が信州の小県から吾妻郡の三原荘に移り住んで下屋氏と名乗り、下屋将監と称した。その孫の幸兼が浅間山麓の鎌原郷を本拠とし、鎌原姓を名乗ったのが始まりとされる。勢力を確実にした鎌原氏が、応永4年(1397)に鎌原城を築いたと伝えられている。

山内上杉氏の上杉顕定が関東管領になると鎌原氏もその勢力に組み込まれたが、天文20年(1551)に平井城が北条氏に奪取されると、上杉憲政は越後へ退去。すると、上野国内では領主たちにより所領の奪い合いが起こった。

東吾妻地域を支配していた斎藤憲広が西吾妻地域へ侵略すると、鎌原城主の鎌原幸重はその支配下に入ったが、反攻を狙って甲斐の武田信玄を頼った。海野小太郎幸明の長男・幸家は武田家臣である真田氏の祖であり、鎌原氏と真田氏は同じ滋野源氏の一族である。この縁を理由に、信玄に通じたようだ。西上州への侵攻を目指していた信玄は、永禄3年(1560)に鎌原氏を受け入れている。

信玄の後ろ盾を得た鎌原氏に対し、斎藤憲広は羽根尾城の羽尾入道らを丸め込み、鎌原城を急襲させた。和議休戦の後、永禄4年(1561)に信玄の命で武田軍が斎藤氏の本拠に攻め入ると、斎藤憲広は戦うことなく降伏した。しかしその後、斎藤憲広が鎌原城に攻め寄せ、攻防の末に鎌原幸重は降伏した。

信玄によって領地境界が定められたが事は収まらず、羽尾入道が鎌原領に相伝の地が組み込まれることを不服としたことを機に、永禄5年(1562)、鎌原氏一門は鎌原城から信濃の佐久へ退去した。

鎌原城には羽尾入道が入ったが、永禄6年(1563)に鎌原氏が奪還。その後、斎藤氏が真田幸綱に敗れ越後へ逃れると、吾妻郡は武田氏の勢力範囲となり、真田幸綱が支配した。鎌原幸重は真田幸綱に従い、鎌原氏は武田氏滅亡後も真田氏の家臣として仕えている。その後、鎌原城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城になり破却されたと伝わる。

遺構
鎌原村落を東に見下ろす、浅間山噴火の火砕流で形成された火砕流台地の尾根先端部に築かれている。標高は900m前後だ。北側と西側には吾妻川右岸の断崖、東側には「うしろの沢」と呼ばれる沢が南から北へ流れている。信濃と上野北部とを結ぶ街道が吾妻川沿いに通る、交通の要所だった。

城は南北約400m×東西約150mと南北に長く、南から北へと傾斜している。南から三の丸、二の丸、本丸、笹曲輪を置き、二の丸の北東下と本丸の東側に東曲輪が配置されている。本丸から三の丸にかけては、各曲輪間を堀切で分断。現在は、本丸と二の丸の間の堀切、三の丸南側の堀切が確認できる。本丸北側の笹曲輪との間にも堀切がある。

発掘調査から、16世紀代の土鍋やかわらけが出土した。その特徴からは、信濃や岩櫃城との関係がうかがえる。鎌原城が、信濃から鳥居峠を越えて吾妻地域へと通じる吾妻川沿いの交易・交流ルートにあるためだろう。武田氏滅亡後に真田氏との関係が深かったことの証ともいえそうだ。

交通
上信越自動車道小諸ICから車で約1時間

参考文献
『鎌原城址2(嬬恋村文化財調査報告書 第9集)』嬬恋村教育委員会、2018年。
『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社、1979年。

文:萩原さちこ

鎌原城の口コミ情報

2018年05月20日 禁3密中務丞ひろぴい◢⁴⁶
鎌原城

鎌原城。
お城については先に投稿されてる皆様の口コミ通りで、畑と一体化しててわかりやすい遺構は少ないです。

写真を撮るにはある程度突っ込まないとですが、この時期草丈長いので蛇に気をつけて下さい。今日もキョロキョロ歩いてて下を見てなくてニアミスしました。

郷土資料館、鎌原観音堂、少し離れた鬼押出し園は浅間山の噴火の凄まじさを伝えてます。特に鎌原観音堂の橋の下に続く階段は当時の火砕流で埋まってしまい凄さが見てわかります。時間のある方は是非ともお寄りください。

群馬県側のお土産は浅間酒造センターと道の駅八ッ場がいろいろ揃ってます。

2017年03月05日 まー刑部卿
鎌原城

遺構は二の丸堀切が一部畑で埋め戻されていますが明瞭に残存。本丸・三の丸の各堀跡は畑に埋め戻されていますがお墓と反対側を見てみると堀跡の痕跡が見受けられます。鉄塔が二の丸に建てられて改変され遺構が壊されています。本丸に標柱や説明板があります。大河ドラマの影響で除草もされており見やすいです。
郷土資料館から徒歩20〜30分かかります。

2017年03月05日 まー刑部卿
鎌原城

先人が書かれた通りに嬬恋郷土資料館で地図と小冊子を手に入れる。資料館内でビデオ観ていたら職員の方から駐車場までの道がまだ凍結や雪が溶けきっておらず歩いていかれるほうがいいと提案。また実際に職員が駐車場まで運転してみた結果、車高のない乗用車は無理かと。職員の車はジムニー。郷土資料館駐車場を左手に出てすぐに矢印板(右手にある)を右折。ここから下り坂だが一部凍結。橋を渡り急角度による右折(数回切返し)このあたりまだ雪がのこってます。道路に雪がダンゴのように固まっていたため手前広い(車一台分)スペースに路駐し徒歩。歩いていくと右手に鎌原氏墓地があり『鎌原城三の丸追手口』の石碑があります。鎌原氏歴代の墓所のイメージを湧かせますが実際は末裔の鎌原忠司氏が平成5年6月に建立。また入口に六文銭が印されているのと同時に《霊城》と書かれた石碑有り。

2016年12月07日 牢屋見廻り同心マダオ
鎌原城

鎌原城は「吾妻川」と「うしろ沢」に挟まれた崖上にある梯郭式平城で南側から三の丸、二の丸、本丸、東曲輪、笹曲輪の五郭に分かれています。
三の丸南堀切の中央に食い違い虎口、本丸の北端に搦手口ですが明確な遺構は不明です。
鎌原氏は海野氏一族で下屋氏の末裔で下屋幸兼が鎌原に本拠を定めて鎌原氏を名乗ったのが始まりです。

嬬恋郷土資料館にて鎌原城の案内地図と小冊子があります。
リア攻めの際は見学されると良いかと。




2016年08月13日 あづお
鎌原城

城址入口看板の前のパン屋さんにあるクリームパンがおいしい♥

2016年07月30日 カーネル
鎌原城

我妻線万座鹿沢口駅

西へ進みすぐの信号笹平を左折し最初の1kmは登り。さらに進むと有料道路になりますが、見た目は一般道なので歩いても大丈夫です。たぶん

鎌原観音堂の駐車場を超えすぐ西武バスの鎌原観音堂前バス停があり、正面に鎌原城1.2kmの看板があります。ここまで30分。料金所手前なので、車も人も無料

坂を下り川を渡り、登り返したところに右に分岐があるので右折して登ると、左右が舗装、正面が未舗装路の十字路になるので右折

最初の鉄塔の足元に三の丸の標柱があります。駅からここまで40分

先に進むと二の丸・本丸です。鬱蒼とした林をイメージしてましたが、開けた土地で気持よかったです

往復で1時間45分でした

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

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