富士見城(ふじみじょう)
富士見城の基本情報
通称・別名
- 大室城
所在地
- 長野県小諸市諸字城峯
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大井氏?
築城年
- 室町時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 柴田康忠(徳川氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
小諸城(長野県小諸市)[2.0km]
御影陣屋(長野県小諸市)[6.8km]
大井城(長野県佐久市)[9.7km]
望月城(長野県佐久市)[9.8km]
岩尾城(長野県佐久市)[10.2km]
真田氏館(長野県上田市)[13.2km]
真田本城(長野県上田市)[13.7km]
伴野城(長野県佐久市)[14.1km]
松尾古城(長野県上田市)[14.3km]
戸石城(長野県上田市)[14.4km]
富士見城の解説文
富士見城の口コミ情報
2026年07月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
旦田城[富士見城 周辺城郭]
さて、今回の口コミは…
〜崩落してしまったお城シリーズ〜
たぶんSEASON5ぐらいになるとは思うんだけど久しぶりの登場だ。要害地形とかって諸刃の剣なんだろうな。河川に近接していたり急峻だったりして常に自然災害とは隣り合わせの存在だ。現在では急傾斜地崩壊危険区域に指定さりている所も多かったりするしね。直登すれば崩落地形にぶち当たり、尾根上に出たら出たでその先が全く無かったなんて事もあったりする。今回、紹介する物件は、洪水によって引き起こされた大崩落によって、たぶん城域の半分以上が失われている小さな砦だ。変態以外は訪ねる必要無し。
旦田城は富士見城の北西約1.8km、深沢川西岸(右岸)、標高約836mの段丘台地上平場を中心に立地する砦です。連続する台地上からの比高はむしろマイナスだが、深沢川が創造した谷筋に東面しており、同川からの比高となると45m位、謂わゆる崖端城だ。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「Kazuho」を当座の目標に設定しよう。この何やってんだか判らない事業所の東側下段が概ねの城地だ。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。おいらは近傍の婦人に横浜流星ばりの流し目一発を喰らわせて何とかしている。
築城年代、築城者は不明です。現在の該地の住所は小諸市滋野甲だが、中世には小県郡に含まれる地域であり、城地の東面直下を南流する深沢川はそのまま佐久郡との境目を形成していた。
城地の南南西約0.4kmに位置する、同じ富士見城のリア攻めマップにある刈屋城は、滋野三家の一つ、祢津氏の分流、三宅氏が城主であったとも伝わっている。深沢川に沿う旦田城と刈屋城は境目に備える砦であり、特に前者は佐久郡の小諸や菱野から続く古道が同川を渡る場所であったとも伝わる。築城者には祢津氏の一族や被官衆が推測出来るだろう。対岸の滝原には遍照寺の跡とも伝わる「塔の峯五輪塔群」があり、大井氏等、別の勢力の存在を窺わせている。
信濃のお城の神が描いた縄張図自体が既に不安定さを醸し出しているが、あくまでも現況から垣間見える出来る限りのものを図面に起こしてみた…と言うに過ぎないのだろう。台地上から下がる数段の腰郭状の平坦地を城地としているが、そもそもの話で崖地自体が相当に削られており、往時の形状、形態、その規模等が判る筈も無い。崖端にしては一部に不自然な地形も見られたりもするのだが、当然ながら後世の改変の可能性も捨て切れずもやもやが増すばかり…全体的には城跡として殆ど成立しないと言ってもよいと思う。
寛保二年(西暦1742年)八月に発災した未曾有の大洪水、「戌の満水」は、信濃国の内、特に犀川と千曲川流域に甚大な被害をもたらす結果となった。推定死者数は二千八百人以上、田畑、家屋の流出は限り無く、佐久郡の上畑村では村の殆どが一晩で消滅している。
めぐら〜的に洪水がどんなものだったのかを説明しよう。小諸城では、浅間山の前掛山付近の山が崩れて天然ダムを形成、後に決壊してその土石流が城地の北東、成就寺付近に流れこみ、更に六供、田町、本町に到達、大手門、足柄門、三ノ門、馬場裏、袋町、押兼五郎左衞門屋敷庭から裏門塀の順に押し流していった。千曲川による影響は受けなかったようだが、城下より低地の穴城故に被害の程は想像出来るだろう。ちなみに現在の懐古園の入口、同城の三ノ門は国指定の重要文化財として知られているが、この時に流失したために後の再建である。
松代城では、氾濫によって城の一番高い石垣(戌亥隅櫓)が水没し藩主は舟を用いて真言宗智山派の寺院、金剛山開善寺へ避難したと伝えられる。同城は元々は千曲川を外堀としていたが、この反省から同川の瀬直しが行われ、旧流路は百間堀へと改められた。ちなみに松代藩は復旧のための借財が嵩み、藩財政は逼迫、財政再建に勤しむ事になるが藩士等の反発を招き、全国的にも極めて異例となる足軽によるストライキが発生している。
旦田城に直接の被害をもたらしたのは当然ながら深沢川だが、「戌の満水」の時の長雨は、大河川のみならずこれに流入する各地の中小河川にも洪水を引き起こしていた。深く狭い谷筋を流れ下る同川が山津波の様相を呈していた事は想像に難くない。
※佐久郡の上畑村〜今でもお盆とは別に毎年八月一日に墓参りに行く風習がある。死者248人を出した村は、千曲川のみならず、飯塚川、大石川、沢入川等の中小河川が集まる所であり被害の拡大を招いた。ちなみに現在の上畑集落は移転したものだが、併せて佐久甲州往還の道の架け替えも行われている。
※松代藩〜江戸時代における真田氏には褒められるような事跡が殆ど無い。当初から表高十万石であったが明治維新期の実高はこれよりも遥かに少なかった。
2026年07月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
川窪氏邸(川久保新十郎邸)[富士見城 周辺城郭]
川窪氏邸(川久保新十郎邸)は富士見城の西北西約2.8km、大石沢川東岸(左岸)、標高約763mの段丘台地上平場に立地した屋敷です。
行き方は…Googleマップに位置登録されている「直井板金」を当座の目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して屋敷地を特定しよう。概ねでこの板金屋さんの西側の一帯がそれだ。車は路駐でOK♪そんなに手間暇取らせない物件だ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは川窪氏(川久保新十郎)です。「小諸市誌」によれば、美濃の斎藤氏の家臣だった川久保八郎なる者が牢人して該地の井子村に辿り着き「一の城戸」に住したそうで、次いで安則、その嫡長が川久保新十郎正信を名乗り、専ら武芸の道に励んでいたらしい。又、新十郎正信は武田氏に出仕したともあるが、実際には何某かの寄騎等であったろうし、出仕したからには井子村内に知行地を持つ少なくとも地侍レベルの武士であった事が推測出来る。
前述した新十郎正信は、後に真言宗系の修験堂を開き、堂は川窪山竜学院と称したんだそう。嫡男が二代を継ぎ、爾来九代に亘って続いだとあるから、明治五年(西暦1872年)の修験宗廃止令までは存続していたのかもしれない。但し、堂の建っていた場所が全くの不明、屋敷地と並存していたのかさえ判らなくなっている。
近世以降、江戸時代にも屋敷地であった訳だが、既に同時代には当然ながら武士の居する場所では無くなっている。本来なら門外漢としたいところなのだが、「信濃の山城と館1、佐久編」に掲載があり、「小諸市内遺跡詳細分布地図」にも掲載があるので訪ねてみた。
屋敷の現況は…畑地、一般住宅とその敷地等となっている。信濃のお城の神は「外屋敷」の小名が残る小林さん宅の敷地の一部と、舗装道路を挟んだその南側の畑地を屋敷地と推定しており、この点に関しては遺跡詳細分布地図も同様である。但し、この畑地が小林さん宅の東隣りの井出さんの所有である事等から、敷地範囲を井出さん宅を含んで更に東側に拡大してもよいのではないかとも言っている。城郭?遺構は完全消滅、舗装道路によって二所に分断されている事もあり往時を想像する事がなかなか難しいのだが、少なくとも古道に沿い段丘台地縁に面していた事だけは判る。
明治元年(西暦1868年)に発布された神仏判然令の主旨は、神仏習合の慣習を禁止して神と仏とを明確に区別させる事にあったんだけど、発布に伴う拡大解釈によって廃仏毀釈の運動を全国に巻き起こした。今でも路端の石仏の首が無いのを各地の各所で見掛けるんだけどこれもこの運動の結果である。おいらの実家の菩提寺でも、様々な宗派の御本尊が庫裏に納められているらしいんだけど、廃仏毀釈によって焼かれる事等を恐れて、地域の有力者等が檀那を務める寺院を選んで集められた事がその理由なんだそう。
前述した修験宗廃止令は、神仏判然令に続いて発布された明確な禁止令であり、元々が山岳信仰と仏教等が習合した神仏混淆を是とする修験道は徹底的に排斥される事になる。川窪山竜学院は真言宗系と書かれる事から真言宗当山派に属していたとみられるが、発布に伴い真言宗に強制的に統合されたと考えられる。
結果的には様々な矛盾と限界を露呈した悪令であったと断じるが、この時期における日本の文化的損失は莫大なものである。多くの物が失われ、多くの事が不明となってしまったのだ。明治維新は文明開化の良い側面ばかりが強調されるが、各地の歴史にとってはマイナスでしかなかった事を忘れてはならない。愚かな熱狂に警鐘を鳴らそう。
※悪令〜日本全国において多くの過去帳が失われている。これを読んでるめぐら〜さんにとっても決して無関係ではない。自らの先祖を辿る事は出来なくなってしまった。
※写真④が文中にある「一の城戸」の辺りっす。「木戸」と書かれないのが気になるんだけど、かつての古道は屋敷地の下段に沿っていた。
2025年05月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
富士見城
さて、アプリの登録城に昇格したのを記念して、佐久平の丘城の口コミをREDUX…なんだけど、ちょと変わった子なんで暖かい眼で見守ってあげてね。
富士見城(大室城)は栃木川西岸(右岸)、花川東岸(左岸)、丘陵台地上、標高853.6mの飯綱山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の長野県道79号、小諸上田線からの比高は150m位でしょか。但し、該地は浅間連山を構成する一山、標高2106mの高峯山の南西裾野に当たり、北麓の後平(!)公民館からの比高は45m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。同じく位置登録がある南東側の「小諸高原美術館」まで車が入り巨大な駐車場も付いている。殆ど徒歩で登らなくて済む楽ちん城だ。ちなみに城域の殆どは「飯綱山公園」として整備されており探索にも全く苦労しない。
築城年代は文永年間(西暦1264年〜1275年)、築城者は大室彦太郎時光と伝わるが確証を得られない(同氏による狼煙台がその発生とも。)。又、大井氏が海野氏に備えて築いたとも伝わるらしいが、個人的にはその発生は別として、岩村田大井氏が村上氏に対する備えとして普請に及んだものだと考えている。少なくとも小諸城のリア攻めマップにある、菱形城や桃野城と共に西方境目を構成する一城であった事に疑いは無いだろう。
天正壬午の乱の際には、徳川氏の臣、柴田七九郎康忠が富士見城に在城している。同名は佐久攻めの急先鋒、依田信蕃の軍監でもあったがその役目を此処で担っていたのであろう。ちなみに康忠は佐久郡の平定に多大な貢献を果たしている。甲州奉行だった時期もある知らざれる能者だ。
個人的には変態城だ。雛段状に帯郭状の腰郭を連ねているが、その殆ど全てに石積みが土留めとしてデコレートされている。他の城郭遺構としては堀切が3条…但し、それとはっきりと判るものは主郭東側背後の1条のみ。又、城域の東端部には2基の旗塚(案内板付きw)が確認出来る。
この石積みなんだけどねぇ…見たら誰でも「うっそ〜ん!」とか呟くと思うんだけど、やっぱし全てをそうだと言い切るのは問題があると思う。飯綱山は後世に全山開墾されたそうで、腰郭や段郭についても同様の事が言える。公園としての改変も当然ある訳だし、それ等が混在しているてのが正直なところだ。
近年、発掘調査が飯綱山の北東部分で実施され、十段の石垣(石積みではない。)が検出されたそうだが、全て耕作地の土留めのものと結論付けられている。但し、特に南面側の石積みは明らかに積み方が乱雑、耕作地にもならない帯郭程度の土留めにわざわざ後世、石を積みまくる必要も無いことからこちらの方は往時のものと考えてよいと思う。
兎に角、写真見て頂けたら判るように、信濃のお城としても全国的に見ても珍しいお城なのさ。気軽にサンダルで行けるので小諸城の帰り道にでも寄り道するがいいさ。ちなみに独立丘陵故に展望は絶佳だ。
※小諸市では石を積んだのは武田氏だと推測しているんだけど…同氏が要害自体を利用する事も無かったろう、他を頑張るわ。
※石積みは城域外、お山のあちこちでも見られる。おかず無しにごはんをどんぶりで3杯食べた後と感覚は一緒だ。
※おいらは興味が無いので知らんかったが桜の名所でもあるらしい(訪ねてみたら咲いていなかった訳では決してない。)。越中の城友さんは桜前線を追い掛けて同時期にこのお城を目指したみたいだけど…かずぽん、とっても悲しい…
※写真①は南麓から撮影した近景っす。
※写真②には旗塚が写り込んでいる。判るかな〜
2025年05月02日 紅屋甲斐守じょん太
富士見城
石垣や堀切が綺麗でした。写真はたんぽぽと三の郭の石垣。
2025年04月14日 サスケ治部大輔
富士見城
美術館駐車場からすぐ、頂上、山城フル装備が無駄なぐらい整備されてる、桜には少し早めでした
2024年05月04日 竪堀ころりん
富士見城
眼下に小諸城を望み、その名の通り富士山も眺めることができました🗻✨
2023年09月25日 ᴿᴱᴰ副将軍
富士見城
東信濃では数少ない石積みが多様された山城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。大井氏が西の滋野氏に対する備えの為に築いた境目の砦が始まりと云われます。その後、天文年間(1532年〜1554年)に武田信玄が佐久に進出し、小諸城の前身である鍋蓋城を拠点とした際に、鍋蓋城の支城として整備され多少の石垣が積まれたと云われます。武田氏滅亡後の信濃は徳川氏、上杉氏、北条氏による所領の争奪戦が繰り広げられます。
1582年には元武田氏家臣で徳川家康に従った依田信蕃が小諸城を拠点とし佐久平定を行います。徳川家康の命で依田信蕃のもとで軍監として赴いた柴田康忠が富士見城を居城としたとされます。
その後の富士見城の動向は不明で、1590年の小田原征伐の軍功により小諸城に入封した仙石秀久にも小諸城の支城として富士見城は使われたようです。
見所
小諸城の北側約2kmにある標高835mの飯綱山頂部に築かれています。城名の通り天気が良ければ富士山が見えるほど眺望の良いロケーションで佐久平を一望することができます。
現在は飯綱山公園となっており、小諸高原美術館の背後を登ると東の曲輪があり、堀切を隔てて主郭、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪が連なる連郭式です。
それぞれの曲輪の両側には幾段もの石積みが付された帯曲輪が斜面に配されているのが最大の特徴です。
石積みの高さはあまり無く、原始的な積み方であり土留め程度のものです。ここまで多量の石積みを譜勢したのは武田氏、徳川氏、仙石氏のいずれの時代であるのかはっきりとは分かっていない様です。
行き方は、小諸高原美術館を目標に設定。車で登れて駐車場完備であるため気軽に行くことが出来ます。
2021年05月28日 つか征夷大将軍ぽ
案内板[富士見城 碑・説明板]
こちらで説明資料も貰えます。駐車も出来ます。
2020年11月09日 龍馬太閤【】
富士見城
長野県の小諸市にある富士見城♪
富士見城の歴史詳細は不明な点が多いです☆小諸、佐久を侵攻して来た武田信玄が小諸城の支城として築いたのでは無いか☆というのが有力な説となります♪
武田氏が滅亡した後はこの地域は真田氏と徳川氏の争う地点となります♪徳川氏はこの地域を制圧する為に上田城まで攻め込んで行くのですがその際に徳川方の柴田康忠がこの城に入城していた様です☆
城としては街道を望め小諸を一望出来る要衝に位置します☆巨大な船に似た様な形をしていて特に街道側(南側)は石を使い小刻みに郭を造り込みます☆郭側面に築かれてる石積みは信濃エリアに多い積み方で小さな鋭角鋭い石を粗く積んでます☆石の加工も中々出来ない時代に築かれている正に戦国に生きた証を今に残してます♪
富士見城の周辺スポット情報
案内板(碑・説明板)
川窪氏邸(川久保新十郎邸)(周辺城郭)
旦田城(周辺城郭)
刈屋城(三宅城)(周辺城郭)
駐車場(駐車場)










立地
高峰山の広大な南傾斜面に独立峰のようにできた丘陵である飯綱山の山頂に立地し、南側の諸集落からは145mほど急斜面を登るのに対して、北側の後平集落からは30mほどのところである。眺めが良く、晴れていれば富士山を遠望できることから、富士見城の名がついたものと考えられる。
歴史
誰が、いつ、この城を造ったのか明確ではないが、中世は西の滋野氏系の勢力と隣接する地域であることから、大井氏系の勢力と緊張状態が生まれた頃、境目の城としての砦が造られたのではないかと考えられている。この頃の時代は、普段生活する場(根小屋・居館と呼ばれる)と戦闘の際に使われる城・砦とが別である例が多くあり、この富士見城の場合も人がここに常時生活していたものではない。
甲州(山梨県)の武田氏が佐久地方へ進出した頃(天文年間=1532~1554)には、佐久地方統括の拠点、小諸鍋蓋城(小諸城の前身)の支城として整備され、多少の石垣が積まれたのではないかと考えられている。
武田氏滅亡後、天正10年(1582)は、徳川・上杉・北条という諸氏が信州を取り合う中で、西に隣接する小県地方に根を張る真田氏と徳川氏の争うところとなり、徳川家康の家臣である柴田康忠が一時在陣したと言われている。
これまでの研究からすると、少なくとも戦国時代の終わり頃にはできていたものと思われる。
特徴
富士見城は、飯綱山全体が岩石で至る所に石があることから、その石を利用してほとんどの郭(曲輪)が石積みによって区画されている。この石材は、飯綱山溶岩(灰色細流1mm以下の輝石類の散点する普通輝石紫蘇輝石安山岩)と呼ばれ、市内では飯綱山だけに分布している。富士見城の石垣は、きわめて原初的な石垣で、県内でもこれだけ石垣が多用されている城跡は数少ないと言われている。