伴野城(とものじょう)
伴野城の基本情報
通称・別名
- 野沢城、伴野館
所在地
- 長野県佐久市野沢居屋敷110-1他
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 伴野時長
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 伴野氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(伴野城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
平賀城(長野県佐久市)[3.6km]
根井氏館(長野県佐久市)[4.0km]
龍岡城(長野県佐久市)[4.4km]
岩尾城(長野県佐久市)[4.9km]
大井城(長野県佐久市)[5.6km]
志賀城(長野県佐久市)[6.3km]
御影陣屋(長野県小諸市)[8.7km]
望月城(長野県佐久市)[10.6km]
小諸城(長野県小諸市)[12.2km]
長窪城(長野県小県郡)[18.7km]
伴野城の解説文
伴野城の口コミ情報
2024年04月29日 マグロ常陸介祐平
伴野城
鎌倉時代から続く伴野氏の城で、戦国期に依田信蕃による落城後も江戸時代は陣屋や藩の出張所として使用され、明治になっては大伴神社となったことから主郭部分が残ったようです。
遺構は、原型を留めている訳ではありませんが、水堀が全周を囲み土塁は西側と南側の半分を除き残っています。北側の土塁の中央部には虎口が開口(写真3枚目)しています。神社脇の石碑のある土塁(写真2枚目)は一段高くなっていますが、物見櫓が建っていたと伝えられているようです。
城の東側には、ぴんころ地蔵で有名な薬師寺があり、山門は龍岡城の城門を移築したもののようです。
薬師寺の墓域には、江戸時代から続く伴野氏の墓石が見られますが、子孫でしょうか(松皮菱ではありません)。また、伴野一族は旗本になっており、大身はいないものの寛政家譜では7家が見られます。
2023年04月02日 noble権中納言弥勒菩薩
伴野城
写真は北西側の土塁上から。小さな館城ですが、個人的には、“続々100名城”に加えてもいい、くらいに思ってます。立派な土塁と水堀。うちの菩提寺の隣の史跡です。
2022年05月08日 ほりーないと
薬師寺[伴野城 寺社・史跡]
成田山薬師寺の参道では長寿を願って建立された「ぴんころ地蔵」が見守っています。山門は龍岡城から移築された東通用門です。伴野城へは「ぴんころ地蔵(成田山薬師寺)」を目指すとスムーズです。広い駐車場があります。ぴんころ地蔵から伴野城まで徒歩1分です。
ゴールデンウィークに訪れたので、仲見世通りで「佐久鯉」ではなく…「鯉のぼり」が迎えてくれました。伴野城がある佐久市野沢は旧佐久甲州街道と富岡街道が交わるところにあり、江戸時代には食糧・生活物資が行き来する商業的にも大きなまちだったそうです。
【ぴんころ地蔵】
ぴんぴん(健康で長生きし) ころり(寝込まず楽に大往生する)という願いを込めて建立されました。城山公園(伴野城)を散歩するご年配の方たちがいて、本当に長寿の里だと思いました。
2021年09月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
日向城[伴野城 周辺城郭]
日向城は伴野城の西方約4.3km、東北へ延びる山塊尾根上、標高約775mのピークの一つに主郭が存します。北東麓からの比高は60m位でしょか。
築城年代、築城者は不明です。この地方のお城としては別格とも言える縄張を持っていますが、それ故か武田氏の改修を受けている等と推測されたりもします。が、東信濃に勢力を伸張させた武田氏がこのお城を真面目に改修する意思等、到底持ち得ない(佐久往還から大きく外れる。)でしょう。
お城の存する佐久市根岸は佐久郡南部の大半を占める伴野荘と呼ばれる荘園の一部であったと推測され、甲斐源氏小笠原氏の祖、小笠原長清の六男、小笠原時長が同荘の地頭職を得て在地、荘名を名乗り伴野氏を称しました。国人領主化した同氏は室町時代には前山伴野氏と野沢伴野氏に分裂しますが、文明年間以降、近隣の大井氏と所領を巡って度々干戈を交えており、お城は既にこの時期には機能していたと考える事も可能です。武田氏被官(領三千五百貫文、八十騎、佐久衆の筆頭であり、特例を受ける等厚遇された。)となっていた永禄七年(西暦1564年)に前山伴野氏当主信直は蘆田氏に横領されたこの地域の知行を蘆田信守を相手に訴訟を提起、代官として相論の場に赴いた一門の伴野貞長はこれを勝訴に導きました。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。山塊尾根端部北東側に判り難いですが登城路が付いてます。
お城は大変素晴らしいです。主郭は高土塁付き、馬蹄形の腰郭の中に島のように存し、腰郭の削平具合と相まってめりはりが効いてます。主郭西側山側背後は二重堀切1条を含む堀切4条で尾根をぶった斬り。特に主郭から1条目と2条目のものは堀切間に二段程の小郭があるような造り、主郭の腰郭と土塁で巧みに守り手を分け合い感動もの。このお城の堀切+竪堀の美しさは信濃屈指です!斜面に連なる竪堀の列線は宝物でしょう。又、堀切間の郭の造り方なんかに工夫が見られたりもします。
佐久のお城の現況ってプアーなものが多いですが、崖端城に大変な土木量で空堀を掘る技術は凄いと思います。武田氏による改修なんて無くても佐久の国人領主ならこのお城を成立させる事は容易でしょう。自分の好きなお城ベスト10を選ぶとしたら余裕でランク入りします。伴野城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2020年11月19日 すなちゃん武蔵守
伴野城
平城にあたるのでしょうか、回りが盛土で囲まれ整備されているせいなのか平らな敷地になっている。
伴野神社⛩と隣接しており、お祭りが行われる。
敷地としては、あまり広く無い。
2020年08月19日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
宝生寺砦[伴野城 周辺城郭]
長野県の佐久市にある宝生寺砦♪
道の駅ヘルシーテラス佐久南から歩いて2分位の所にありますw
宝生寺砦は伴野氏の前山城の前面の守りとして築かれたと考えられてます♪
所謂、物見台の様な物で前山城の前に突き出します♪
小さな砦には2つ程の平場に腰郭が配置♪現在道にはなってますが横堀を回し前山城を守りました♪
藪に突入も奥まで入り込めず😂藪が引いたら…また行きます♪
2020年08月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
前山城[伴野城 周辺城郭]
長野県の佐久市にある前山城☆
道の駅ヘルシーテラス佐久南の背後に城郭は存在します☆道の駅からは城跡だと一目で分かります☆東屋が目印です☆
この地に根を生やした伴野光利によって築かれたと伝わります☆伴野氏は当初近隣の伴野館(野沢城)を居館としてました☆
同じく豪族である大井城の大井氏との争いが激化する事に備え居住を移しここに居を構えました☆伴野氏は武田氏に属し武田信玄の佐久侵攻の際にはこの城が拠点として利用され拡張されました☆武田滅亡後は織田氏に属し本能寺の変で信長が死去すると城主・伴野信守は佐久地方に進出した北条氏に従うも徳川家康の家臣である依田信蕃に攻められ落城しちゃいました☆
2020年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
前山城[伴野城 周辺城郭]
前山城は伴野城の西方約2.5km、北東へ延びる山塊尾根上、標高約725mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は55m位でしょか。住宅地の裏山て感じです。
築城年代は不明ですが、築城者は甲斐源氏小笠原氏の庶流である伴野氏です。室町時代後期に同氏は前山伴野氏、野沢伴野氏の二つに分裂しましたが、戦国時代には何れも武田氏の被官となっています。武田氏の佐久侵攻が助長されたのは伴野氏が近隣の大井氏との戦いで武田氏を後楯としたていた事、佐久往還を押さえる伴野氏の存在が甲斐からの通行を容易にした事(前山城は武田氏による佐久攻めの拠点の一つ。度々改修を受けた。)に疑いはありません。前述の理由から武田氏の被官としては特別な配慮を受けていましたが、武田氏の滅亡後、天正壬午の乱の際に北条氏に従った伴野氏は、徳川氏の後援を受けた依田信蕃(甲州征伐〜天正壬午の乱の時の彼の活躍は真田昌幸を凌駕していると個人的に思う。凄いっす。)の侵攻を招き前山城は落城、当主信守は自害、又、その子貞長は佐久郡相木で兵を挙げましたが、同郡白岩で依田康国に敗れて討死、国人領主としての伴野氏は滅亡しました。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登城路は3箇所ありますが、好きな道で大丈夫なレベルです。というのも主郭には展望台と大神宮という小社が建っていて半ば公園化されているからでして、自分が訪れた際にも小学生が数名遊びに来ていました。
お城は上記の理由から全然期待してなかったのですが、いやいやどうして素敵なお城じゃないすか、主郭部のセクシーなライン、そして展望台のある場所は往時も物見台に間違い無し!これ誰でも櫓を建てたくなるほどの場所で、佐久平から浅間山まで綺麗に一望出来ます。又、主郭から南西に一段下がった削平地には米倉があったとされ、ここからは焼米の出土があったそうです。特に見事なのは二重堀切1条を含む3条の堀切で、堀切から延びる竪堀数条も残存率高し。住宅地の裏山的なお城ながら下手に削平せずに残しておいてくれたことに思わず感謝です。
気楽に散策出来ますし、軽く立ち寄った割には実に美味い物を出してくれた小料理屋みたいなお得感もありますので、伴野城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
伴野城
周囲に堀と土塁が残っています。駐車場はありません。佐久市で現在城山公園として整備中。隣接してぴんころ地蔵がある。
2011年11月21日 柿崎信濃守景家
伴野城
まだ攻略していませんが、この城主の子孫の方とは実は知り合いなのです。
鎌倉時代以来伴野氏の館跡で、後の野沢城の主郭にあたる地域である。
東西74m~85m、南北110mの長方形をしていて、周囲にほりをめぐらし、その内側にそって、西・北・東の三方に土居を残している。南の中央に入り口を置き、西南の高地に物見櫓を設けたと推定される。
その後さらに防衛のため前山城を築いて本拠をそこに移したが、天正11年(1583)依田信蕃のために、野沢城・前山城とともに攻略され兵火で破壊されたが、旧館跡の主郭だけは、かろうじて旧形をとどめることができた。
江戸時代以降は官庫・陣屋・岩村田藩出張所など、おおむね官公地として存続した。