岩尾城(いわおじょう)

岩尾城の基本情報

通称・別名

琵琶島城

所在地

長野県佐久市鳴瀬城跡572他

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

大井行俊

築城年

文明年間(1469〜1487)

主な改修者

主な城主

大井氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、石積

指定文化財

県史跡(岩尾城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

根井氏館(長野県佐久市)[2.5km]
伴野城(長野県佐久市)[4.9km]
大井城(長野県佐久市)[5.5km]
望月城(長野県佐久市)[5.9km]
御影陣屋(長野県小諸市)[6.8km]
平賀城(長野県佐久市)[7.9km]
小諸城(長野県小諸市)[8.2km]
龍岡城(長野県佐久市)[9.2km]
志賀城(長野県佐久市)[9.2km]
長窪城(長野県小県郡)[14.4km]

岩尾城の解説文



岩尾城(いわおじょう)は、長野県佐久市鳴瀬岩尾にあった日本の城。長野県指定の史跡[1]

概要 

文明10年(1478年)8月、清和源氏小笠原氏流大井氏の一族である長土呂大井氏の大井行俊が南北を千曲川、湯川に挟まれた断崖上にある要害の地、岩尾に築城した。この時、伊豆・箱根・三島神社を遷し鎮守とした。

文明18年(1486年)家督を継いだ二代目城主行満は、延徳元年(1489年)甲斐武田氏の信濃侵攻により岩尾城を焼き討ちされたが、これを退けた。行満は明応年中(1492年 - 1500年)に出家し回国修行に出て大永5年(1525年)に岩尾に帰り、城内二の丸に西国・坂東・秩父百番観音巡礼供養塔を建てた。行満の子、行真が家督を継ぎ岩尾に在城した。行真は天文8年(1539年)に没し、嫡子行頼が家督を相続した。

天文12年(1543年)9月、甲斐の武田晴信(信玄)は、長窪城の大井貞隆を攻め、岩尾城も攻略されて行頼は城を捨て逃れたが、その後武田氏に臣従して岩尾城に戻った。天文14年(1545年)岩尾城代には真田幸隆が任された。幸隆の子、真田昌輝、真田昌幸は岩尾城で生まれたとも言われる。天文20年(1551年)武田晴信自らが岩尾城の鍬立て(地鎮祭)を行い(『高白斎記』)、さらに天正6年(1578年)には武田勝頼が城の修復を命じているなど、岩尾城は佐久地方の重要な戦略拠点であり、難攻不落の堅城に作り上げられた。

行頼の嫡子、五代目城主大井行吉は武田氏に従軍しており、岩尾城は一時岩村田の中沢清季が預かっていた。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると行吉は後北条氏に臣従し、徳川家康の麾下依田信蕃が佐久に侵攻して諸城を攻略するのに対抗して、岩尾城に立て篭もった。天正11年(1583年)2月21日、徳川軍監柴田康忠、依田信蕃軍が総攻撃をかけたが行吉方は決死で防戦して退けた。23日、依田信蕃は自ら陣頭に立って三の丸付近まで攻め込んだが、鉄砲で狙撃され弟の信幸と共に討死した。行吉は柴田康忠の勧めに従い、3月7日開城して上州保渡田に去った。こうして岩尾城は築城より106年の後、廃城となった。

参考文献 

  • 市川武治『もう一人の真田』1993年
  • 大井敏夫『岩尾家譜(現代語訳)』1996年
  • 柴辻俊六 人物叢書『真田昌幸』1996年
  • 奥野高広 人物叢書『武田信玄』1985年
  • 佐藤春夫『戦国佐久』(「文芸春秋」1950年11月)
  • 日本城郭大系 第8巻 長野・山梨

岩尾城の口コミ情報

2021年11月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
硲城[岩尾城  周辺城郭]



硲城(はざまじょう)は岩尾城の北方約4.9km、千曲川の東岸、標高約645mの河岸台地上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明です。城主?として平井氏、山浦氏なんかの名前が挙がるそうですが誰の事やら…ただこのお城は同じ岩尾城のリア攻めマップにある耳取城の支城である事は間違い無いところらしく、耳取城の北方約0.8kmに位置しています。現在は千曲川左岸広域農道(千曲ビューライン)が南北に走り、過去には直近に小諸から佐久を経て甲斐に抜ける塩川の古道が通っていた交通の要衝で、耳取城の北方を遮断する関門の役割を果たしていた事は容易に想像が出来ると思います。

お城は台地上の丘陵地形を活用して築かれていたらしく、つい最近まではその地形がそのまま残っていたらしいのですが、千曲川左岸広域農道の工事に際して丘陵地形、城域は主郭において分断され、更には建設会社による採土により丘陵地形の大部分は削平されてしまいました。縄張図を見ると主郭と概ね3つの郭で構成される連郭式の縄張でしたが、現況は主郭と通称2郭がほぼ削平されていて見る影もありません。主郭には立派な土塁が付いていたそうなんですが…遺構としては通称2郭と通称3郭を隔てる田切地形に手を加えたと思われる堀切が水路となって残っているぐらいでしょか。他は難し過ぎてよく判らん…

開発行為に伴う遺構の破壊は仕方の無い事と許容出来る自分ではありますが、採土によるものは何だかねぇ…行政側が埋蔵文化財としてきっちり把握していればストップ出来たでしょうに…おまけに発掘調査さえ行われていない…

少なくとも平成に入って二度に渡って破壊されまくったお城でして、令和の現在も止めを刺す勢いで進行中です。残るのはたぶん通称3郭と通称4郭のみでしょう。重機を使った人の手は完全なるお城の失陥を招きました。このお城が落城する事は今後二度と無いでしょう。

2021年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
森山城[岩尾城  周辺城郭]



森山城は岩尾城の北方約5.1km、標高約682mの台地上平場に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置が主郭推定地です。又、千葉県香取市の方に飛ばされないよう注意です。

築城年代、築城者は不明です。森山は大井光長の五男、五郎宗光が領し館を構えた事が伝えられています。宗光は長兄時光と図り宗家を継いだ三男、三郎行光が留守の隙をついて大井氏本拠の岩村田に入ろうとしましたが、行光が時の執権北条時宗に訴えたために宗光は佐渡へ配流となりました。宗光の森山在地は短期間であり居館の場所は特定されていません。ややこしいんですが、その後の森山は近江国守山から守山氏が入り、同氏は森山を名乗り森山城に拠って耳取大井氏に従属していたようです。が、この森山氏の居城の場所もはっきりした事は判らないとありまして、それじゃこの森山城は一体誰の居城だったんだよ…てな感じになってしまいますね。

お城は現況概ね住宅地となっています。縄張図を見ても城域は東西南で不鮮明ですが、佐久屈指の大きさを誇る耳取城並みに広大な縄張で、各郭間はどうやら空堀によって区画されていたようです。空堀は埋め立てられて概ねで舗装路となっていますが、その残滓の一部を城域北辺で見る事が出来る他、深い外堀の一部が一般住宅の際まで迫っている箇所もあったりします。

城跡は水路と共に古い建物も多く残る趣きのある街並みが広がっており、城内だけどちょっとした城下町の雰囲気を醸し出しています。又、城域南辺と判定出来る場所には田切地形の崖端が見事に残っています。

それにしても今回ばかりは城跡碑の有り難さよ…自分が訪ねるお城の多くは城跡を示すシンボリックな物が無い事が殆どでして、探索中は本当にこの場所でよいのかと自問自答を繰り返したり、全く関係無い場所を城域と勘違いしてたりする事もしばしばです。山城なんかで立派な城跡碑に出会ったりすると興醒めしてしまいますが、遺構の少ない城跡には是非お願い(標柱で十分です。)したいところです。

2021年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
五領大井館[岩尾城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

五領大井館は岩尾城の北方約2.7km、千曲川の東岸、標高約631mの河岸段丘台地上平場に存した居館です。同じ岩尾城のリア攻めマップにある五領城はこの居館の詰城、要害城と推測されています。

行き方はGoogleマップに位置登録されている小林園芸を目標に設定して下さい。居館はこの園芸センター東側の耕作地、資材置場に築かれていました。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは耳取大井氏です。耳取大井氏は甲斐源氏、小笠原信濃守長清の七男、大井光朝を祖とする大井氏の庶流で、光朝の嫡男光長の四男、四郎行氏に佐久郡耳取を領させた事から始まります。五領大井館はこの耳取大井氏の最初の本拠でした。

大井氏は光長の代に子息を佐久郡大井庄内の各所に配してその発展の礎としました。彦太郎時光(大室)、弥次郎光泰(長土呂)、三郎行光(嫡子、岩村田)、四郎行氏(耳取)、五郎宗光(森山)、六郎光盛(平原)、法華堂光信(僧、出家)の7人で、領内の開発と大井氏の勢力拡大に大きな影響を与えたと考える事は自然でしょう。後に大井氏は持光の代に最盛期を迎えますが、佐久郡四万貫、武州三ヶ所、上州の一部、小県郡の一部に二万貫、京都参勤に一千騎、在国六千騎、本城城下である岩村田は戸数六千軒、交易四達し、賑わい国府(現松本市)にまされりと称されるまでとなり、その威勢は関東にも影響を与えていました。

居館の現況は写真のとおりです。付近にある車屋さんから「車をお探しですか?」と声を掛けられました。「どう見たって怪しい人だろう…」等と思いましたが、既に怪しい人である事を無意識の内に自覚している事に我ながらびっくりしてしまいました。そう、変態てやつです。城めぐを始めた頃、自分だけはそうはならないと思ってましたが結構早かったな…もう戻れねぃよ…

※実は2回目のトライとなります。前回は居館から少しだけ外れていました。

2021年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
五ヶ城[岩尾城  周辺城郭]



五ヶ城は岩尾城の北東方約4.2km、標高約681mの台地上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

築城年代、築城者は不明ですが、大井氏の外城の一角との里伝があるそうです。又、大井氏が佐久郡大井庄の地頭として還住する以前の在地土豪の城館であったとも…自分は後者を推します。

お城の現況は大部分が住宅地となっています。遺構は全て消滅していて、主郭の東側部分には三岡招魂社が鎮座しています。この部分が周囲より一段高くなっていますが、何か意味あるのかと考えてみてもきっと徒労に終わる事でしょう。

お城は昭和55年(西暦1980年)に発掘調査が行われており、堀、井戸、平安時代の住居等が検出されたそうなんですが、現地に赴いて確認するのは難し過ぎて不可能です。招魂社に手を合わせて先人に敬意を表した後、速やかに去るのが正解です。スーパーマニア向け。

2021年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
御馬寄城[岩尾城  周辺城郭]



御馬寄城(みまよせじょう)は岩尾城の北西約2.6km、千曲川の西岸、標高約635mの河岸段丘東辺端部上に主郭が存します。振り仮名とか付けさせて頂きましたが、現地に赴くまでは「おうまよりじょう」と読んでいました。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北東の浅科浄化センターを目標に設定して下さい。長野県道44号線から入り、浄化センターの南西約150m、北陸新幹線高架橋のアンダーパスを越えたら直ぐに城域に入ります。

築城年代、築城者は不明ですが、付近には御馬寄、駒寄の地名が残っていますので、信濃十六牧の筆頭、望月牧を支配した望月氏に関連するお城だったのかもしれません。ただお城の南方には旧中山道の千曲川の渡場(地形図を見ると千曲川では水深のかなり浅い場所である。)があった事から、周辺地域は単に渡渉する馬を集める場所だったのかもしれません。何れにせよ古来から千曲川の渡河点の一つであった事は想像に難くありません。

お城の現況は住宅地となっています。城域と思われる削平地の一つには平屋の空家が売りに出されていましたので、城跡に住んでみたいと考えているお城マニアの方は是非…城域は改変著しく遺構は消滅していますが、堀跡と思しき舗装路なんかもありますので地形段差マニアの方にもお勧めです…

難し過ぎてよく判らない感じですが、城域からは高架橋を通過する北陸新幹線の上半分を見る事が出来ます。気になった撮り鉄のめぐら〜さんは是非訪ねてみて下さいまし。マニア向け。

2021年10月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
耳取城[岩尾城  周辺城郭]



耳取城は岩尾城の北方約4.2km、千曲川の東岸、皿掛川の南岸、標高約650mの河岸台地西辺端部上に主郭が存します。謂わゆる佐久平を代表する地形の一つである田切地形を活用して築かれたお城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ただピンの位置は長野県道78号線脇の城石碑の建つ位置を示しています。

築城年代は不明ですが、築城者は耳取大井氏です。耳取大井氏については同じ岩尾城のリア攻めマップにある五領城を参照して下さいまし。室町時代中期以降、厳しい時代を背景として大井氏の支配領域で築城が盛んになりますが、五領の館を本拠とし、五領城を要害城としていた耳取大井氏も耳取城を新たに築いて本拠としました。

お城は佐久平では屈指の大きさです。増築を繰り返したと思われる縄張は要害地形を取り込んで台地上に広がります。近辺にお住まいの方なら頻繁に利用するであろう長野県道78号線〜佐久小諸線ですが、県道は城域のほぼ中心を南北に走っています。気付かずに通り過ぎている方も多いと思いますが、興味が無けりゃ当たり前っす…

お城の現況は雑木林、耕作地、墓地、一般住宅地、玄江院、県道等となっています。縄張図を見ると11の郭を持ち、他に居館、屋敷、馬場等が付随しています。それぞれを堀や土塁で区画、城域全体は一部を除いて堀で囲っていたと考えられますが、現地に赴くと現況に埋もれてしまいファジー過ぎて判別は困難です。「なるへそ〜」等と呟いて納得する部分もあるのですが…

行ってみりゃほっこりするよな長閑な集落の印象ですが、城域北辺、皿掛川が創造した田切地形は凄まじく、落差30mはあろうかという絶壁によって台地上に深い峡谷地形を形成しています。初見は守れんのか…みたいな印象だったんですが守れるでしょう。東辺と南辺は知らんけど…

みんな大好き小諸城は本丸の位置が城下町より低い穴城として有名ですが、この耳取城も主郭の位置が大手筋より低いので穴城と言ってよいでしょう。佐久平のお城は田切地形を有効活用する為に広義でこの様な形態を取るものが散見され、耳取城は佐久平ならではのお城と言ってよいと思います。大胆に言えば小諸城のお父さんとする事も可能ですが、小諸城からしてみれば「親ガチャだよ〜」と迷惑がられる事でしょう。

2021年10月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
五領城[岩尾城  周辺城郭]



辿り着けなかったお城シリーズ

五領城は岩尾城の北方約2.4km、西方へ張り出す標高約649mの狭小な舌状台地上に主郭が存します。お城はこの狭小な舌状台地上をそのまま活用しています。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは城域東側の台地上から藪を分け入るか、城域内西側の墓地に通じる道を利用して藪に分け入るかの二つがあります。

築城年代は不明ですが、築城者は耳取大井氏と推測されます。耳取大井氏は甲斐源氏、小笠原信濃守長清の七男、大井光朝を祖とする大井氏の庶流で、光朝の嫡男光長の四男、四郎行氏に佐久郡耳取を領させた事から始まります。五領城はこの耳取大井氏最初の要害城と推測されています。

城域の西南北辺は舌状台地の要害地形を頼っており、東辺は台地上と連続し現況農道となっています。が、流石に台地上を断ち切る空堀ぐらいはあったかもしれません。縄張図を見ると主郭は狭小な台地上のほぼ中央に位置していたと思われますが、行ってないので知らんがな…このお城、城域の東西で頑張れない藪なのでお城の中心部に辿り着けません。ただ城域の東端付近にはぽこりんとした土壇が付いていてお城の最高所となっているのは確認出来ました。此処には藪に塗れた祠が鎮座、ちょっとびっくりしやした。

正直言えば次も控えてるし、このレベルのお城で苦労したくなかったのも事実…が、冬枯れしそうな藪ではあるので季節によっては案外楽かもしれません。又、お城の北側には東西に水路が走っており、此処には橋が掛けられていたりなんかもしますが誰でも渡る気にはちょっとなれないでしょう。それにしても信濃のお城で「辿り着けなかった。」は個人的に許されない事象、必ず再訪します。

2021年10月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
駒形城[岩尾城  周辺城郭]



駒形城は岩尾城の北方約1.7km、西方へ張り出す標高約649mの小さな舌状台地端部上に主郭が存します。お城はこの小さな舌状台地上をそのまま活用しています。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駒形城は現況駒形神社となっていますが、駒形神社自体の創建が古く、文明十八年(西暦1486年)に佐久郡耳取城主の大井政継(武田晴信の初陣と伝わる海ノ口城攻めで籠城奮戦した平賀玄信の孫、晴信の奇策によって落城に至った経緯は信憑性に乏しい甲陽軍艦のみに見られる記述…)が再興したと伝わっているんすけど、玄信が討死したとされる海ノ口城攻めが天文五年(西暦1536年)なのでそんな訳無い…再興年の誤伝(天文か?)か、正継の誤伝と思われます。

築城年代、築城者は不明です。位置関係から耳取大井氏か望月氏庶流、根井氏に関係するお城と推測されています。が、前述のとおり駒形神社の創建がかなり古く室町時代を遥かに遡る事も考えられるのでお城の成立に関しては疑問が残ります。又、駒形神社の祭神は騎馬の男女二神像を安置していて、名称からも解るように牧に関係する神社とされています。

お城は謂わゆる崖端城で、城域の西南北辺はこの要害地形をフル活用しています。東辺は台地上を空堀で堀切っていたと思われますが、空堀跡と推測される舗装路から東側にも堀跡と思しき遺構が確認出来るので、想像よりも少しだけ大きなお城だったかもしれません。

駒形神社本殿は国宝保存法により国宝に指定されていましたが、文化財保護法の施行に伴い重要文化財に格下げされちゃいました。お城の方は文化財として一切無視されていますが、訪ねてみれば当たり前だよと誰もが思う事でしょう。

※駒形城は信濃だけでも3城(その内の1城は塩田城のリア攻めマップを参照して下さいまし。)存する。

2021年10月11日 ビン太
岩尾城



現地は曲輪が残り、敷地内は神社に改修されて看板があるのみで個人的には特筆することはありません。リア攻めの際にも現地にさえ辿り着けば支障ありません。ただ、ここに至るまでの現地周辺の道がかつての要害の地であったことを感じさせます。運転に自信のない方は北側の急坂からの城攻めはお勧めしません。と、いっても南側の細道も見つけづらく見つけても一見、他人の家の敷地に見えるので(実際そうかも知れませんが)躊躇します。奥に入ったとしても田んぼ道程度の道幅しかないので駐車の余裕はありません。(交通量は殆ど無いかもしれませんが地元の方への迷惑につながることはメグラーとして避けたいところ)

2020年11月07日 Marky武蔵守
落合城[岩尾城  周辺城郭]

耕作地で看板や痕跡は無いが、地形が要害であることを物語っている。

2017年12月06日 近江守Silvine
岩尾城

12/5現在、神社内は倒木の恐れあり、立ち入り禁止となっています。

2017年01月12日 カーネル
岩尾城

小海線北中込駅から

北上して県道103号にでたら、左折してひたすら西へ
道は歩道があって歩きやすいです。(長野なのに)伊豆箱根三島神社が城跡です

参道に三の丸の標柱あり、拝殿が二ノ丸、本殿の裏に回ると本丸です
ここは土塁かわかりませんが、一段高い土の盛り上がりが直線にあります

二ノ丸下には堀があり、参道を出ると三日月堀跡の標柱もあります

往復で2時間くらいかかりました。遠いですけど、街の雰囲気がよく、楽しんで歩いてきました


2012年05月14日 赤いRVR甲斐守@松本
岩尾城

写真の川を挟んで、落合城があります。この一本東の橋。

岩尾城の周辺スポット情報

 落合城(周辺城郭)

 五領城(周辺城郭)

 五領大井館(周辺城郭)

 駒形城(周辺城郭)

 耳取城(周辺城郭)

 御馬寄城(周辺城郭)

 森山城(周辺城郭)

 五ヶ城(周辺城郭)

 硲城(周辺城郭)

 北ノ城(周辺城郭)

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