龍岡城(たつおかじょう)
龍岡城の基本情報
通称・別名
- 龍岡五稜郭、桔梗城、田口陣屋
所在地
- 長野県佐久市田口
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 稜堡式
天守構造
- なし
築城主
- 松平乗謨
築城年
- 元治元年(1864)
主な改修者
- -
主な城主
- 大給松平氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 曲輪、櫓、石垣、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 国史跡(龍岡城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
平賀城(長野県佐久市)[3.3km]
伴野城(長野県佐久市)[4.4km]
志賀城(長野県佐久市)[6.9km]
大井城(長野県佐久市)[8.9km]
岩尾城(長野県佐久市)[9.2km]
御影陣屋(長野県小諸市)[12.2km]
望月城(長野県佐久市)[14.7km]
小諸城(長野県小諸市)[16.4km]
海ノ口城(長野県南佐久郡)[17.7km]
富士見城(長野県小諸市)[18.2km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- (続)129 龍岡城
設置場所
- 史跡龍岡城跡ガイダンスセンター[地図]
追記
- 2026年4月1日「佐久市歴史の里(愛称:五稜郭であいの館)」から名称変更。
龍岡城の解説文
[引用元:Wikipedia「龍岡城」の項目]
龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市田口にあった日本の城。幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。
龍岡藩は1万6千石の小藩で、城主の格式は認められていなかったため、正式には田野口陣屋と呼ばれていた。日本に二つある五芒星形の星形要塞のうちの一つである[1]。なお北海道にある函館五稜郭と区別するために龍岡五稜郭、あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城とも呼ばれる。国指定の史跡。
歴史
文久3年(1863年)、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨(のりかた)は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得た。
奥殿藩の藩庁は三河国の奥殿陣屋(現在の愛知県岡崎市奥殿町)にあったが、領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)は信濃国佐久郡にあり、佐久に陣屋を置いて25か村を支配していた[2]。藩庁の信州への移転は念願であり[3]、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たものである。幕末、国内情勢が緊迫する中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される、領地の狭小な奥殿から退避する意味もあったという。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計する[4]。文久3年(1863年)11月、いくつかの築城候補地の中から田野口村を選定。元治元年(1864年)3月に建設を開始した(建設開始は文久3年(1863年)11月ともいう)。佐久知行支配役所があった場所が築城用地となった[5]。
総工費は4万両。慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿などが完成した[6]。完成時には領民や藩士にもこの新型城郭の見学を許している。しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁に就任し公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなる状況のもとで石垣工事は簡略化されるなど、未完成部分も多いとされる[7]。
龍岡藩廃藩後の明治5年(1872年)、建物は解体され、競売された[8]。御殿を構成した建物の内、「御台所」は城郭内で位置を変えて現存している。堀は埋められたことがあったが、昭和の初期に住民によって元に戻されたという。
1875年(明治8年)に田野口村の尚友学校が移転[9]。以後、現在の佐久市立田口小学校に至るまで城跡は学校用地として使われてきた。
1934年(昭和9年)に「龍岡城跡」は国の史跡に指定された。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(129番)に選定された。田口小学校が2022年度末で閉校することとなり、閉校後に小学校の全施設を解体撤去し、竣工時の龍岡城にできる限り近い状態に戻す整備計画が進められている[10][11]。
構造
龍岡城が出来上がったのは、函館五稜郭の完成(1864年)から3年後である。総面積は約2万75坪で、函館五稜郭に比べると4分の1程度である。
築城当時、内郭の中央に御殿が置かれ、正門、通用門はそれぞれ東北、東南の凹面に、また非常門は西北と南南東の凹面に設けられていた。このほか、藩士の長屋や火薬庫、太鼓楼、歴代藩主の祠堂や稲荷社などがあった。
通常は星形要塞は山に挟まれた場所に建設されることはなく、また外敵を阻む外壁はもっと高く作られるため、龍岡城の建設にあたってはフランス人など西洋の専門家の関与はなかったであろうと言われている[12]
稜堡式の形状を取り入れているが、本来ならばすべての稜堡に置かれるべき砲台は西南角に一基しかなく、4~5間(約7~9メートル)という水堀の幅は在来の城と比べても狭い。裏山からは城郭が一望でき(現在は展望台が設置されている)、周囲の山から砲弾が届く距離であるなど、軍事施設としては問題を抱える。一坂太郎は、稜堡式の外見は乗謨の西洋築城術に対する学問的興味が高じたものであって、(実戦に備えた要塞としてではなく)あくまでも藩主居館として設計されたものと評している。
遺構と見学
現在の城跡は、稜堡式の石垣や水堀、御台所が現存している。廃城後は城内のほとんどが農地転用され、御台所は農機具倉庫として使用された。1875年(明治8年)以後、御台所は小学校校舎として活用され、1929年(昭和4年)に現在地に移築された。築城当時とは反対側にあたる。
移築建造物としては、御殿の中心的建物だった大広間が佐久市鳴瀬落合の時宗寺の本堂として、東通用口が佐久市野沢の成田山薬師寺の門として、それぞれ移築され現存している。また、薬医門と塀が新海三社神社に向かう道沿いの個人宅に移築されている。
長らく小学校の敷地となっていたため校地内の遺構の見学は休日開放日が設定されていたが、2023年の閉校以降は自由見学が可能となっている。かつての大手門前には「佐久市歴史の里五稜郭であいの館」があり、龍岡城に関する資料を展示している。龍岡城五稜郭保存会の会員がボランティアとして展示物の説明や城内ガイドを行っている。予約すれば、御台所の内部見学も可能である。
城の北側には中世の田口城址があり、標高差約160 m を上る登山道と山頂の展望台が整備されている。展望台からは龍岡城跡の全景を一望できるが、俯角が小さく、敷地内に学校施設があること、周辺を住宅地に囲まれていることから、特徴的な星形の形状が一部はっきりしない。ドローンによる真上からの空撮は佐久市役所の許可を得れば可能である[13]。
城郭の北西に枡形の遺構がある。
現地情報
所在地
長野県佐久市田口3000-1
交通アクセス
佐久南ICから車で20分 10.00km
東日本旅客鉄道(JR東日本)小海線臼田駅または龍岡城駅 (いずれも駅から約1.5km徒歩20分 路線バス便なし)
隣接施設
川村吾蔵記念館(http://www.city.saku.nagano.jp/shisetsu/sakubun/kawamuragozokan/index.html)
※当地出身の彫塑家、川村吾蔵の作品と資料を展示。参考文献
- 一坂太郎『幕末維新の城』中央公論新社(中公新書)、2014年
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龍岡城の口コミ情報
2026年06月16日 内記がずりヾ(・ε・。)
佐口城[龍岡城 周辺城郭]
佐口城は龍岡城の南西約7.1km、石堂川北岸(左岸)、北沢川南岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約911mの丘陵台地上平場を中心に立地する居館城です。南麓の佐口公民館からの比高は20m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して城地を特定しよう。南麓には諏訪神社が鎮座しており車が路肩に捨てられる。ちなみに神社からの取り付きは無理なので、城地の西側下段から付く墓地へ通じる道を登ろう。感覚としては一段上がるだけだ。
築城年代、築城者は不明です。在地土豪層の居館城かと思われるがそもそもの話で該地を知行地とした者が不明である。
中世には伴野庄の庄域に含まれる地域だが、「長野県町村誌」によれば、明治時代の初頭には上村の内である。同村の村域は広大であり、史料が皆無に近い事もあって区域ごとの歴史を語る事が非常に難しい。諏訪社の存在から古くから人の定住があり集落等の形成があったと思われるが、「佐口」の地名自体、史料に現われるのは江戸時代に入ってからの話だ。
「定本 佐久の城」によれば、海尻城〜松原神社〜宮ノ上〜馬越城〜通城〜佐口城〜福田城〜小田切城〜臼田前山城の順に通る古道が推定出来るとされ、即ち、武田勢が利用した軍道であるとも推測されている。佐口城の城域は居館城としては破格の規模であり、信濃のお城の神は、「在地土豪層の居館跡と考えられているが、武田軍が足溜りの塁として使われたことも考えられよう。」と言っている。軍道云々の話は別として、千曲川沿いを進む佐久甲州道に出るよりも、各郷村等の連絡を大幅にショートカット出来る山越えの道筋が重宝されたであろう事は想像に難くない。
縄張は3郭が推定されており、平坦な台地上を広く使い切った佐久郡らしいものとなっている。城地には「堀」の小字が残っているそうだが、往時は全周堀囲み、特に北辺は現在の小山用水路の堀形を含めて二重堀が想像出来る他、各郭間も堀によって区間されており総体的な土木量が非常に大きい。但し、それと知らずに一見すれば、ただの耕作地、耕作放棄地、空地、竹林等であり、他の遺構等が無い故に全体像の把握が困難である。ちなみに下段の墓地内には喰い違いの虎口を思わせるような地形が見られる。
車を捨てた関係で前述した諏訪神社から直登しようとしたんだけど、藪と竹林に阻まれて断念してしまった。城地の半分は倒竹に塗れた竹林となっているので探索が非常に痛い物件でもある。ちなみにこの諏訪神社、約100年前の社前の写真が残されているんだけど今と様子が殆ど変わらん。
※主郭と縄張図における通称3郭とを隔てる堀切は見所だが、他の堀系は後世に道と化してしまい一見するとそれと判り難い。又、通称3郭の場所を郭とするのは少々蛇足のような気がする…
2026年06月15日 内記がずりヾ(・ε・。)
雁峰城[龍岡城 周辺城郭]
雁峰城(草間城・ガンダレ城・小田切城)は龍岡城の南東約3.9km、片貝川南岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約801mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。北麓の片貝川からの比高は60m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある、真宗大谷派の寺院、白鳥山「陽雲寺」の墓地裏からがベスト、車も捨てられる。此処からの道は大手筋が推定され、雛壇状の小郭群の間を縫って登る事になる。
築城年代、築城者は不明としたいが、少なくとも室町時代の一時期においては大井氏に関わる要害であったろう。
文明十六年(西暦1484年)二月、村上氏よって岩村田の大井氏宗家は滅亡し、この際に雁峰城が落城したとされるが史料には見られない。神本の記述に、「幕下の小田切駿河守幸長がこの城を守ったようだ。」とあるのも誤りであろう。同名はそもそもの話で時代が合わない。
「妙法寺記」には、「大永七(西暦1527年)丁亥、此年信州友ノ(伴野)殿殿ニ被頼玉フテ、信州へ立玉フ、皮(彼)國一ニ成テ、友(ノ)殿行方ヲ不知、其後信州一國ノ殿々ノ和睦而、トモ(ノ)殿ヨリ武田殿(信虎)へハ所領ヲ被進候ヲ反サレハ、…中略、六月三日ニ信州ト當國トトモノ殿見継候而御立候處ニ、和談云々、」とあり、(大井氏等の圧迫を受ける)伴野殿から頼まれて武田信虎が信州へ出立したが、信州勢が一つとなって伴野殿を逐い、同名が行方知れずとなった。その後、信州の殿々は和睦、伴野殿より信虎に約された所領の進呈は反故になったと書き、六月三日には、信州と甲州、伴野殿との間で会見が行われ和談云々したと書かれている。武田勢はこの年に佐久郡へ出張し、伴野氏を援けて大井氏等と争い後に和談した事等が判る。
「高白斎記」、大永七年の条には、「二月小朔日乙酉二日、小田切落城、」とあり、当時は大井方にあった雁峰城が武田勢によって落城した事が判る。前述した六月三日の和談はこうした情勢等を踏まえてのものであろう。武田氏や伴野氏に有利な形で話が進められた事は想像に難くない。
天正六年(西暦1578年)戌寅二月吉日の「上諏訪造宮帳」には、大宮之一御柱を負担する佐久郡大井庄の諸郷として、「小田切上中下九貫五百文 代官 草間右近」とあり、武田氏時代、小田切郷の代官に草間右近があった事が判る。それ故に別称にもあるとおり草間城とも呼ばれる訳だが、代官が城主であったとは少し考え難いように思う。ちなみに小田切郷はこの頃には上中下に分かれ、造宮の負担額も他郷と比べると抜きん出ており、戦国時代に開発が進んでいた事が窺える。
信濃の要害としては破格の規模だろう。縄張は一山全山に殆ど及び、主郭からの南尾根を除く山麓までの全ての斜面にびっしりと雛壇状に小郭が造成されている。縄張図を見ると山上に近い場所を中心に10郭で構成されているが、特に明確な基準は無いと思われるのでそれ以上だとも簡単に言える。皇大神宮の祠も鎮座する主郭には明瞭なL字形の土塁、主郭からの南北二筋の山尾根には連続堀切を穿ち、特に縄張図における通称2郭の南側山側背後のものは岩盤層を無理矢理掘り切った大堀切となっている。藪に塗れて全縄張を追う事は難しいが、何処へ通じているのかも判らない小郭群の探索はアドベンチャー感があって単純に楽しい。全体的には佐久郡屈指の要害の一つと言っても過言ではないだろう。
個人的にはその発生はともかく、室町時代における大井氏による普請だと考えている。小田切郷は千曲川の左岸地域に取り残された、大井氏の勢力が及ぶ地域であったが、裏を返せば伴野氏の支配領域(伴野庄)に打ち込んだ楔の役目を果たしていた。大井氏にとって平賀の内との認識がある同郷が特に重要視されていた事は至極当前の話であろう。
※アプリの登録城、平賀城と縄張のコンセプトが酷似しているように思う。
2026年06月12日 内記がずりヾ(・ε・。)
湯原城[龍岡城 周辺城郭]
湯原城は龍岡城の西南西約3.8km、滝川南岸(右岸)、千曲川西岸(左岸)、標高約795mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。北麓の滝川からの比高は45m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。たぶん案内のままでOK♪だ。車は路肩に捨てられる。取り付きは同じく位置登録がある「湯原城主依田氏供養塔」の背後からとなり途中まではしっかりとした道が付いている。道筋が判らなくなったら諦めて直登しよう。倒竹に悩まされると思うがが大した比高ではないので直ぐに城域内に入る。ちなみに供養塔の建つ場所は城地の地下を貫通する湯原隧道の出入口手前になる。
築城年代は不明、築城者には湯原氏が推測されている。同氏は後述するが祢津甚平貞直を家祖としており滋野姓である。佐久郡には他にも、臼田氏、小田切氏、小宮山氏等が同姓の氏族としてあったが、在名の地は千曲川の左岸地域に集中している。
承久三年(西暦1221年)六月の承久の乱を書いた「承久記」には、前日の雨によって増水した宇治川を渡る者の内に湯原六郎(貞基)の名が見える。
未見だが、高野山蓮華定院には、「湯原出雲守政辰 永正十六年(西暦1519年)七月二十日、六十五歳 湯原豊後守政長 大永元年(西暦1521年)五月五日 二十五歳」と書かれた過去帳が残っているそうだ。蓮華定院は湯原氏が定めた宿坊であったのであろう。少なくとも戦国時代の初期頃までは同氏の在地があったと考えられる。
但し、この頃には大井氏の家中、阿江木(相木)氏と争い湯原氏は没落してしまったようだ。過去帳にある湯原豊後守政長が若死している事からもそれが推測出来るだろう。武田氏時代の弘治三(西暦1557年)季丁己十二月吉日には、依田(相木)興七郎源長繁が、湯原大明神に鍔口を寄進しており、それ以前からの知行地であった事が窺える他、天正年間(西暦1573年〜1592年)の城主として、依田(相木)美濃守の名が伝えられている。
天正六年(西暦1578年)戌寅二月吉日の「上諏訪造宮帳」には、大宮之一御柱を負担する佐久郡大井庄の諸郷として、「湯原之郷 貳貫五百文 代官 上野」とあり、武田氏時代、湯原郷の代官に上野(植野佐渡守)があった事が判る。同名は城主の一人に比定されてもいるが、代官が城主であったとは少し考え難いように思う。
縄張図を見ると5郭で構成されているが実際には3郭で十分だと思われる。主郭は全周土塁囲み、縄張図における通称4郭にも結構な土塁が部分で見られる他、主郭から三方に派生する山尾根の何れにも堀切を穿つ手堅い造作だ。但し、堀切は総じて埋まり気味…鑑賞に耐え得るものは少ない。ハイライトは北側から見る主郭の切岸であろうか、佐久郡の城館ならではのエッジの立ち具合には感心させられる。
「陰徳太平記」や湯原家に伝わる系譜によれば、出雲国の尼子十騎の一角、牛尾遠江守幸清は、その討死?の際の遺言に、「先祖祢津甚平より伝え来りし諏訪のお守りを膚に付けて持ちて候」とあるそうで、特に系譜では、元は出雲湯原氏を出身とする同名(湯原次郎左衛門尉幸清)を佐久郡の湯原氏の後裔としている。牛尾氏は諏訪氏の傍流、中澤氏の分流であり、承久の乱の際の恩賞に大原郡牛尾庄の地頭職に補せられた事がその始まりだが、同じ神氏の一党とはいえ、祢津氏の甚平を先祖と言うのは何故であろうか。又、出雲の湯原氏は島根郡等に拠った氏族の活動がよく知られているが、系譜を信ずるならば、同国内に本姓を異にする二系統の湯原氏が尼子氏の下で存立していた事になる。色々と頑張って調べてみたがもやもやが募るばかり…この辺りの事情に詳しい方は御教示の程を宜しくお願い致します。
※出雲の国譲りに建御雷神に敗れた建御名方命が落ち着いた先が州羽海(諏訪)なんだけど、建御名方命を主祭神とする諏訪社の神氏の一党が出雲にあったなんて浪漫だなぁ…
※牛尾氏の本城、牛尾城はアプリの登録城となっている。出雲湯原氏の満願寺城も同様だ。
※「湯原城主依田氏供養塔」〜目標になるのでスポット登録して写真だけ置いておく。付近に建つ「湯原城主依田美濃守之墓」もGoogleマップに位置登録されているので併せてこちらもスポット登録して写真だけ置いておく。ちなみに墓ではなく現在は供養塔だ。
※牛尾遠江守幸清〜生没年が不明である。討死したとは思えないのだが…ちなみに子の一人の名は甚次郎、「甚」は「神」に通じ、神氏の一党の中に多い字だ。
2026年06月11日 内記がずりヾ(・ε・。)
下畑城[龍岡城 周辺城郭]
下畑城は龍岡城の南南西約5.7km、千曲川西岸(左岸)、標高847.0mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。東麓の国道141号からの比高は85m位でしょか。但し、山稜は段丘崖に面しており、連続する台地上からの比高は15m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。たぶん案内のままでOK♪だ。龍岡城のリア攻めマップには「下畑城」の他に、「説明板」、「駐車スペース」がスポット登録されている。説明板の立つ場所から僅かに登ればあっと言う間に主郭へと辿り着く。タイパが最高過ぎる物件だ。
築城年代、築城者は不明です。中世〜戦国時代の顔がなかなか見えて来ない非常に難しい地域だ。ちなみに同じ龍岡城のリア攻めマップにある下畑下の城の上段に位置する要害であり、結果的に下の城とは一城別郭の体を為している。
下畑城は在地土豪層が必要とする規模を遥かに逸脱しており、その縄張から天文年間(西暦1533年〜1555年)に武田氏によって新たに普請された要害であるとも推測されている。
「勝山記」、天文九年(西暦1540年)の条には、「此年五月ヨリ武田殿(信虎)信州ヘ取懸被食候、去程ニ弓矢ニ切勝被食候て、一日ニ城ヲ三十六ヲシヲトシ被食候ト聞エ候、去レモサクノカヲリト申候ヲ御手ニ入レ候、小山田殿(昌辰)ノ代ト乂、小林宮内助殿モ一城ヲカマエ申候、去間此方ノヨリコ近付陣立シケク御座候て、皆々迷惑至候、…後略、」とあり、武田勢が一日で佐久の三十六城を落とし、サクノカヲリ(佐久の郡であろうか。)を御手に入れ、小山田昌辰(備中守虎満)の代、小林宮内助が一城を構えたと書いている。
小林宮内助が何処に一城を構えたのかは書かれていないが、後世の人達によって下畑城がその一城だと推測されている。但し、根拠がある訳ではなく、単純に縄張等、規模の大きさから選ばれたに過ぎず、そもそもの話で在地勢力である伴野氏の実力が過小評価されて考察の外にあるように思われる。裏付けが取れない以上、否定も肯定もしないが、佐久郡の立派な城館の全てが武田氏による普請だと当たり前のように語られるのは非常に残念な事だ。
縄張は広めの3郭で構成される連郭式、主郭は北側に向けて段が付き、別に主郭の東面下段には段丘崖に面して大きな腰郭が設けられている。城郭遺構としては、各郭間等を断ち切る二重堀切1条を含む総計で5条の堀切が確認出来る他、削れているとはいえ土塁の残滓、別に虎口を思わせるような箇所も見る事が出来る。後世に耕作されていたようだが要害としての形状はそれが故にむしろ健在であり、各郭のエッジの立った切岸とも相まって全体の減り張りが際立っている。個人的には2回目の訪問となるのだが、今回、改めてその魅力に気付かされた格好に…この要害は実に素晴らしい。
おいらの中で個人的第二次佐久郡ブームが起きているてどっかの口コミで書いたて思うんだけど、その発端となったのが今回紹介した下畑城だ。以前のおいらは急峻な細尾根をずたずたに切りまくったような要害を信濃の山城の典型て考えてたんだけど、次第に件数をこなしていく内にそうとも言えないていう考えを持つに至った。お城には地形を基とした地域特性みたいなもんが必ずある。出来る事はそれぞれで限られており、経済力、普請に関わる人数の多寡、当時の情勢等も大きくこれを左右する。根本的に築城技術云々の話では決してないのだ。簡単に言えば小県郡のお城のベストを佐久郡に求めたてしょうもない。各人が発見した魅力は即ち地域特性だ。
※熊笹藪に覆われている部分が多い。冬場でも消えないので我慢しよう。
※城域南端部を構成する堀切群は山道の造成等によって大きく損壊しており、一見するとそれと判らないが説明板の立つ場所も堀跡と推定されている。ちなみに下の城との中間点には堀切+竪堀が確認出来る。連続するもう一つの堀形は後世の乗越しの道跡だろう。
※築城技術〜よくある事だし言い切ってしまうんだけど…堀切や竪堀の存在をその指標とするなんて馬鹿げた話だ。数kmに及ぶ、田地を灌漑する堰を開削する方がよっぽど困難な作業だろう。往時の人々の土木能力を侮ってさえいる。
2026年06月10日 内記がずりヾ(・ε・。)
下畑下の城[龍岡城 周辺城郭]
下畑下の城は龍岡城の南南西約5.4km、千曲川西岸(左岸)、標高847.0mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根中段上、標高約831m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の国道141号からの比高は75m位でしょか。但し、山稜は段丘崖に面しており、連続する台地上からの比高となると10m位である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは車の捨て場所に悩むが西麓の農道からがベスト、主郭まではあっと言う間に辿り着く。
築城年代、築城者は不明です。中世〜戦国時代の顔がなかなか見えて来ない非常に難しい地域だ。
佐久平には中世に二つの大きな荘園が存在していた。一つは大井氏が惣地頭職であった大井庄、もう一つは伴野氏が惣地頭職であった伴野庄である。両氏は共に甲斐源氏加賀美氏流小笠原氏の当主、長清の子等を家祖としており、佐久郡への入部もほぼ同時期と考えられている。
該地は中世には佐久郡伴野庄を構成していた一村、畑物村であったようだが、一貫して伴野氏の差配する所であったとは言い難い面がある。文明八年(西暦1476年)には、在名を称する武士、畑物蔵人頭貞奉があった事が判っているが、文明十一年(西暦1479年)から大井、伴野の両氏は所領を巡って争うようになる。
「諏訪御符禮之古書」、文明十一年己亥御射山明年御頭定の条には、「一 右頭野澤郷(佐久郡伴野庄内)右馬助康致御符祝三貫三百三十三文使孫六伴野大井大乱此年八月廿四日大井興伴野合戰大井殿伴野へ生取河(阿)江木入道討死後大井殿佐久へ帰候野澤御教書祝同前代官掃部助清綱馬一疋栗毛孫六請取来候」とあり、八月廿四日、大井が伴野へ合戦を興し、大井殿(政朝)は生捕り、阿江木(相木)入道が討死し、後に大井殿は佐久へ帰されたと書いている。小笠原長清の子孫等は時代が下ると争いを始めた訳だ。
大井氏と伴野氏の対立は後々まで続く。佐久郡は長きに亘って騒乱していたとも言えるのだが、従ってそれぞれの勢力の及ぶ所にも変遷があるように思う。争いは次第に大井氏が伴野氏を圧迫する形で発展していくが、元より単純に千曲川を以て線引きが出来ない地方でもある。
縄張図を見ると6郭で構成されているが実際には4郭で十分だと思われる。各郭の面積は尾根幅を使い切って意外にも広く丁寧な普請が為されており、これ等が持つ削平具合、切岸の角度や造作には誰でも感心させられる事だろう。城郭遺構としては、中土塁を挟んだ二重堀切1条を含む総計で5条の堀切が山尾根を断ち切り、主郭南側山側背後には堀切に並走する形で長さのあるしっかりとした土塁が設けられている。信濃のお城の神が言うとおり、在地土豪層の要害がその発生であろう。北向きの縄張、千曲川を東に見下ろす占地である事から、伴野氏の一族や被官衆が、文明十一年から大永年間(西暦1521年〜1528年)まで続く大井氏との一連の対立、緊張の中で築城に及んだものと推測する。
下畑下の城の名称でピンと来た方も多いて思うんだけど、該当山稜は南北に長大であり、尾根続きの山頂部を中心に上の城が存在している。結果的に下の城は上の城の一城別郭の体を為しているんだけど、築城時期、築城主体が同一とは考え難いと思われるので口コミは別としたい。
※伴野庄〜在地土豪層等の知行地、数百貫文が当たり前の時代に、庄全体、伴野十二郷で八千貫文を叩き出していたというから全国でも有数の荘園であった事に間違いは無い。アプリの登録城、伴野城の印象だけで伴野氏を語ってはいけない。
2026年06月09日 内記がずりヾ(・ε・。)
権現山砦[龍岡城 周辺城郭]
権現山砦は龍岡城の南南西約6.6km、千曲川西岸(左岸)、標高約853mの山稜山頂部を中心に立地する砦です。東麓の八千穂保育園からの比高は70m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「護国神社」を目標に設定しよう。車を捨てられるスペースもある。城地へと通じる林道はこの後も続いているが、後々に悩む事になるので此処からは徒歩で登ろう。何れにせよ、道は上畑諏訪神社、伏見稲荷神社への参拝道を兼ねており大した道程じゃない。
築城年代、築城者は不明です。中世〜戦国時代の顔がなかなか見えて来ない非常に難しい地域だ。
該地の現在の住所は南佐久郡佐久穂町畑だが、中世には佐久郡伴野庄を構成していた一村、畑物村であったようだ。未見だが、建武二年(西暦1335年)十月二十一日、山城国内大徳寺領であった同庄の雑掌、水沼実真が年貢員数等を注進した書状には、「畑物村百貫文(畑在上百十、下百卅)」とあるんだそう。
「諏訪御符禮之古書」、文明八年(西暦1476年)丙申明年御射山御頭定の条には、「一 上𡑭伴野鷹野郷畑物蔵人頭貞奉御符禮三貫三百使孫十郎頭役二拾貫」とあり、伴野庄内鷹野郷に畑物村の在名を称した武士、蔵人頭貞奉があった事が判る。同村を知行地とする武士であろうか。
天正六年(西暦1578年)戌寅二月吉日、「上諏訪大宮同前宮造宮帳」には、「一 瑞籬二間 鷹野、上村、畑物三ヶ村 合三貫八百四十文 代官 右京助 善右衛門尉 右之入目壱貫文 余銭仁貫八百四十文 取手 行事 此余銭にては御左口神之宝殿立申候、」とあり、鷹野、上村、畑物の三ヶ村が、大宮の瑞籬二間分を負担し、その代官に右京助と善右衛門尉があった事が判る。三ヶ村は隣接(現在はそれぞれ、「高野」、「上野」、「畑」の大字で呼ばれる。)しているが、室町時代まではこれ等によって鷹野郷を構成していたとも考えられる。
縄張は2郭と考えられ、下る山尾根の先端部には段郭(殆ど判別出来ない。)が設けられている。後世に稲荷社が勧進された事、林道が整備された事等による改変があり城地は大きく削られていると思われるが、はっきりとした主郭の段が残っており砦としての雰囲気は十分に感じられる。縄張図を見ると、城域の南端部に山尾根を断ち切る2条の堀切、別に主郭部の2箇所に土塁が描かれているが、前者は林道の造成によって殆ど削られ僅かな堀形の部分が確認出来るのみ。後者にあっては主郭のものが全く見当たらない。
当日は前述した八千穂保育園の園児達の遠出の日にぶち当たるまさかの展開に…人生には色んな「坂」があるもんだ。地域の子供達、二十人強を引率?して先頭を進むおいらは正に畑物村の殿様の気分だ。てっきり目標は上畑諏訪神社(南佐久郡佐久穂町の指定天然記念物、推定樹齢1000年!の神代杉で知られる。こんなにデカい杉の木を他で見た事が無い。)かて思ってたんだけど、意外な事に権現山砦に鎮座する稲荷社がそりだった…地域の奇人、変人を装って先生達に退却を促す事も可能だったんだけど、美少年だとそりと見られず失敗する可能性が非常に高い…どう足掻いてもしょうがないので園児達と遊びながら帰るのを待つ事に…
…暇だったおいらは先生方の尊敬を受けようと画策する…「此処は神社になってるんだけど、戦国時代の城跡でもあるんすよ、知ってました?」て教えてあげると、「えっ、そうなんですか!地元に住んでるけど全然知りませんでした〜」とのお答え、佐久広域連合のホームページに掲載の権現山砦の項を証拠に見せてあげる…調子に乗ったおいらは園児達にも同じ質問を投げ掛ける…「ん、シロアリ?白い蟻?どれがシロアリなの〜」とのお答え、少しカチンと来たおいらは、その内の一人の脇の下を捕まえてジャイアントスイングをぶちかます…おいらとしては将来を危惧しての教育的指導のつもりではあったんだけど、周りの子供達が順番に並んで列を作り始める謎現象に…ステージの上では何時間でも歌って踊れるJr.アイドルなんだけどリア攻め前にすっかりぼろぼろにさりたよ…
※意外な事にネットでは個人の紹介例が見当たらない。
※少しカチンと来たおいら〜園児といえどおいらは常に真剣に向き合ってる。場当たり的な子供騙しはしない。職場体験に来た小学校低学年の生徒達を相手に給与体系と各種手当のお話しをした時には二十代の部下に止められた。
2026年06月08日 内記がずりヾ(・ε・。)
花岡城(烽火台)[龍岡城 周辺城郭]
花岡城(花岡烽火台・松明山・城山)は龍岡城の南南西約6.3km、千曲川東岸(右岸)、抜井川南岸(左岸)、標高約880mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。西麓の舗装道路からの比高は70m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城地は花岡遺跡公園として整備されており駐車場も付いている。遊歩道の登り口には簡易な縄張図も添付された説明板が立っているので頭に叩き込んでおこう。
該地の佐久郡海瀬郷は、中世には伴野庄を構成していた一郷であったようだ。色々と問題はあるが、後の天正二年(西暦1574年)三月甲戌吉日に書かれた「佐久大井氏由緒」によれば、伴野十二郷として「海瀬之郷」が書き上げられている。
築城年代は不明、築城者には伴野庄の惣地頭職であった伴野氏の一族、花岡氏が伝えられているが、同氏の事跡については全くの不明であるとしか言いようがない。
「長野県町村誌」には、「下海瀬卯(東)の方花岡組の山上にあり。山脈牧澤山より来り、漸々低下する所に一峯秀出す。本郭周廻二町(約218m)、古松鬱蒼して稲荷の社あり。東に大堀切あり。南北西に足溜りの郭ありて、回字形をなす。用水は南の山腰より引たる址あり。城南、城北、城腰等の字ありて、土石の器、古銭等出たる事あり。某の據し所なるを詳にせず。里老傅曰、伴野の氏族花岡氏居せしは、高野山蓮華定院過去帳、永禄中(西暦1558年〜1570年)花岡氏とあり。その傅不詳。此城址より望めば、蓼科、浅間、八ヶ嶽の諸嶽、千曲の長流及び佐久郡大半一瞬上に現出す。」とあり、併せて的を得たなかなかの絵図が添付されている。
別称にある松明山から武田氏時代に狼煙台が置かれていたとも云われているが、発掘調査の結果、その遺構はおろか焼土も検出されてはおらずこの点においては多分に疑問を残している。又、主郭からは建物礎石と柱穴が検出されたそうで、むしろ在地土豪層等の要害であったとの見方が強まったらしく、当時の生活用具や長野県では初めてとなる秤の錘が出土した事もこれを裏付けているようだ。
縄張は山頂の主郭を中心にその下段の全周に1段〜3段程度の腰郭を多数設けたもの。遊歩道が造成された事によって腰郭に連続性が生じているが概ねで改変は少ないものと思われる。城郭遺構としては、主郭からの東尾根に二重堀切1条を含む三連続堀切、主郭からの北西尾根に連続堀切を穿っており、特に後者の1条からは片側のみの長大な竪堀が落とし込まれており見所の一つとなっている。公園城だからと言って決して侮ってはいけない。この要害は遺跡公園であるが故に遺構が良好に保たれているのだ。佐久郡の城館の多くに備わるエッジの立った切岸に感動しよう。ちなみに主郭にはその面積の半分以上を占める立派な模擬櫓が建っており、此処からは同じ龍岡城のリア攻めマップにある蟻城が良く見える。
城地の北方には、抜井川に流れ込む余地川沿いを進んで山中に入り、上野国甘楽郡へと至る余地峠道が東西に通っている。国境に位置する峠の標高は1268m、信じられないかもしれないが、上野国内箕輪城に攻め寄せる武田勢が度々通った軍道(「甲陽軍鑑」)の一つでもある。在地土豪層の要害として築かれたと考えられる花岡城だが、武田氏時代にも番士の常駐する何らかの砦として機能していたのかもしれない。伝承に残ったのはそれが故とも言える。
※「松明山」を狼煙台の跡として捉えるのではなく、単純に度々松明が灯された要害だと考える事は出来ないのだろうか。狼煙台なら別の呼び方があると思うのだが…
※冬場に訪ねた事は無いんだけど、城友さんの写真を見ると下草が消えるんでそちらの方がよいだろう。
※高野山蓮華定院〜東信の武家の多くが宿坊に定めている。真田氏だけの話ではない。
※発掘調査〜「佐久穂町文化財報告書5:花岡城跡(1996)」で見る事が出来る。発掘調査は純粋に花岡城を目的としている。
2026年06月05日 内記がずりヾ(・ε・。)
上小田切城[龍岡城 周辺城郭]
上小田切城は龍岡城の西南西約5.0km、片貝川北岸(左岸)、標高910.9mの山稜山頂から東南へ伸びる尾根下段上、標高約838m地点の平場を中心に立地する砦です。南麓の長野県道121号、上小田切臼田停車場線からの比高は60m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある「山の神神社」からがベスト、車も路肩に捨てられる。此処からは傾斜の緩い一本尾根となるので迷う事は無いだろう。但し、もうお山に入る人はいなくなってしまったのであろう、山道が放棄されて久しく既に自然に還っている部分が散見される。藪漕ぎが必須となるのでその覚悟だけはしておこう。
築城年代、築城者は不明としたい。縄張から室町時代の築城と思われるが、この時期における在地領主層の存在が不明である。
該地の佐久郡小田切は、滋野姓海野氏の当主、幸氏の子、尭元が平安時代の末期に拠った所であり、同名は在名を取って小田切氏を称している。「吾妻鏡」によれば、建久元年(西暦1190年)十一月大七日辛亥朔、権大納言兼右近衛大将に叙せられた事を以て上洛する源頼朝に従う後陣隋兵の行列、卅六番の内に小田切太郎の名が見える他、同六年(西暦1195年)三月大十日丙戌朔、奈良東大寺供養参列の為の御隋兵の内にも小田切太郎の名が見える。又、承久三年(西暦1221年)六月、承久の乱における「六月十四日宇治橋合戦、越河懸時御方人々死日記」の内に小田切奥太の名が見え、同名は宇治川を渡る際中に討死したようだ。
嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案には、「流鏑馬、大井庄内長土呂郷、薩摩五良左衛門尉(親宗)、付同庄内塚原地頭等并小田功(切)左衛門尉知行分、」とあり、佐久郡大井庄内に小田切左衛門尉の知行地が依然としてあった事が判るが、知行分のあった郷村名が不明である。色々と問題はあるが、後の天正二年(西暦1574年)三月甲戌吉日に書かれた「佐久大井氏由緒」によれば、「平賀之事」として「小田切郷」が書き上げられており、室町時代における大井氏の認識では平賀を構成していた一郷である。何れにせよ、当時の小田切は大井氏の差配が及ぶ所であったと考えられ、その下で小田切氏が在地も含めてどのような処遇を受けていたのかが不明である。
縄張図を見ると2郭で構成されており、主郭の北面下段を中心として半弧を描く二段の腰郭を別に設けている。城郭遺構としては主郭部を挟んだ2条の堀切と土塁が確認出来るのだが、堀切は何れも埋まり気味、土塁も主郭のものはそれと判断出来ない。ちなみに縄張図に描かれる山尾根上の長大な遮蔽土塁は非常に問題があると思う。
念仏を唱えながら踊りまくるていうどちらかていえば相反する所作を一纏めにした謎のダンスが念仏踊りだて思うんだけど、その発祥となった地が小田切だ。即ち、弘安二年(西暦1279年)から翌年にかけて、善光寺を参詣した時宗の開祖、一遍智真は、叔父である河野通末の菩提を弔う為に配流先であった佐久郡伴野庄に入り、同庄内市庭在家において別時念仏を修したりしたんだけど、この際に小田切に立ち寄り(武士の「屋形」に逗留したようだ。)、踊り念仏を初めて世に広く行った。国宝に指定さりている「一遍上人絵伝(遊行上人伝絵巻)」にはこの時の様子が描写されており、画中には「小田切里」の文字が確かに書かれている。皆さんも小田切を訪ねる際には「南無阿弥陀仏」を唱えながら踊りまくる事にしよう。
※現況からしか判断出来ないけど、尾根末端部に位置する山の神神社は、外郭、もしくは湯原への道筋を押さえる番所のあった場所だと考える。
※城域の東半分は結構な藪だ。
※平賀を構成していた一郷〜或いは大井氏の分流、平賀氏の知行地を意味しているのかもしれない。
※一遍智真〜一遍上人は、承久の乱によって没落した河野氏を出自とする。つまりは伊予の水軍のアレだ。但し、既に十歳の時には仏門に入っていたそうだから武家としての活動は無い筈…ちなみに全ての所有物を徹底的に捨てた事で「捨聖」とも呼ばれる。「銭聖」て呼ばれるおいら(金の亡者、守銭奴、食欲、物欲の権化とも…)とは対象的な存在だ。
※「捨聖」になりたい方は全ての所有物を捨て去る前に必ずかずりに伝言してくらさい。現金、株券、証券等のみの引き受け先になりやす。何としても皆さんのお力になりたい…南〜無〜((((*¯ー¯*)
2026年06月04日 内記がずりヾ(・ε・。)
向城[龍岡城 周辺城郭]
さて、佐久郡の城館廻りは4年前に一区切りを付けたつもりだったんだけど、ひょんな事から再訪した山城に新たな魅力を再発見してしまい今では個人的第二次佐久郡ブームが起きている。
佐久郡の南部地域は、八ヶ岳連峰の東方裾野を経て秩父山地へと分け入る佐久甲州道(佐久往還)が千曲川の左岸地域を選んて通っており、同川の両岸には、要害や砦、狼煙台や物見台等が狭い範囲で集中している。歴史的に見れば武田勢にいきなり総なめにされた地域でもあり、これ等、城砦が脚光を浴びる事は少なかった訳なんだけど、今に残る縄張は地域特性等を加味して大変な魅力を放っている。たぶん神本の内では最も売れなかったであろう「信濃の山城と館1、佐久編」を片手にリア攻めのやり直しだ。
向城は龍岡城の西南西約4.0km、片貝川北岸(左岸)、標高約792.9mの山稜山頂から西方へ伸びる尾根中段上、標高約779m地点の平場に立地する砦です。北東麓の佐久切原グラウンドからの比高は35m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある、前述した「切原グラウンド」に捨てられる。城地へは南麓から取り付き、殆ど直登して一旦は該当山稜(丘程度…)の山頂を目指そう。此処から僅かに下れば直ぐに城域内に入る。
築城年代、築城者は不明です。向城は片貝川の対岸に位置する、同じ龍岡城のリア攻めマップにある雁峰城の支城と考察されており、築城主体も同一だと思われる。別に武田晴信が雁峰城に攻め寄せた際に築いた陣城だとする伝承が残っているが甚だ疑問、同城の落城が史料に現れるのは、大永七年(西暦1527年)、武田信虎時代の事である。天文年間(西暦1532年〜1555年)の武田氏による佐久郡経略の際の再度の落城も考えられるが、僅かな期間で数十城が自落するような状況であった事からわざわざ陣城を築く必要も無かった筈だ。ちなみに向城の造作には雁峰城との類似性が認められる。
該地の佐久郡小田切は、平安時代の末期から滋野姓小田切氏が拠った所であり、向城と周辺諸城の築城者を同氏とする説が散見されるが、小田切氏は鎌倉時代の初期に水内郡小市へと退転しており、その後の活動の場を主に善光寺平へと移している。佐久郡に残った一族もあったようだが、既に在地土豪として存続し得たのかさえもはっきりとしない。疑問や問題提起も含めて色々と語りたい事はあるのだが、この辺りの事情は纏め切れていないので別の機会に譲りたい。
縄張は6郭で構成されている。最上段の主郭を除けば他は雛段状の腰郭様に造成されており、これ等の削平、切岸の角度と高さが全く以て素晴らしい。今でも城域内の縦方向等への移動を見事に制限しており、謂わゆる後世の段々畑とは明らかに違う造作だ。城郭遺構としては主郭北側山側背後を断ち切る箱堀状の堀切、これ1条と主郭の切岸のみで後背地からの全ての侵入を防ごうとする築城者の覚悟も潔い。全体的に見れば単純でコンパクトではあるのだが、佐久南部地域クオリティーがそのまま凝縮されたような砦であり、小粒でもぴりりと辛いとは正にこの事を言う。
初訪問は5年前になるのかな。懐かしいてよりは別の視点を以て新鮮な気持ちでリア攻めする事が出来た。他所からすれば取るに足りない砦なんだろうけど凄く楽しかったさ。そう、おいら自身も確実に成長しているんだろうな。こりからも基本的にはソロめぐら〜であり続けるだろう、常に一所懸命だ。
※向城〜本城である雁峰城の向かいに立地しており、両城によって臼田から小田切への関門を形成している。
2026年05月11日 ポール大蔵少輔
龍岡城
五稜郭状の掘り沿いにぐるりと一週する土手があり、そこを歩けます。15分ほどです。敷地は廃校になった田口小学校があります。「五稜郭であいの館」でスタンプと御城印入手出来ます。
2026年05月04日 近江守ひこにゃんこ将軍
田口城[龍岡城 周辺城郭]
築城年代は不明ですが、室町時代末期に土豪の田口氏が築城した山城とされています。
武田氏の佐久へ侵攻により落城。武田氏が上田原合戦で村上氏に敗れると田口城の奪還を目指したが、敗北。田口氏は滅亡しました。
その後、武田の家臣依田能登守が城主となったが、武田家滅亡後は徳川家康に仕えた依田信蕃の居城を構えました。
山頂の主郭を中心に西と北の尾根伝いに段上地が形成されています。主郭の背後にはこの城唯一と思われる大堀切が築かれ、防御機能を高めています。所々に石積が確認できますが、これは後世に築かれたものと思われます。
城趾には龍岡城五稜郭をみるための展望台が作られており、上から五角形がよく見えるので、龍岡城に行くときはぜひ行ってみてください。
駐車場あり
トイレなし
2026年02月23日 近江守ひこにゃんこ将軍
龍岡城
日本に二つある五芒星形の星形要塞のうちの一つ
奥殿藩大給松平氏の最後の藩主であった松平乗謨は、鎖国による軍備の遅れを感じ、西洋の軍学や砲撃戦に対処するための築城法を学び、龍岡城を築城した。だが、老中格・陸軍総裁であった乗謨は、築城に携わる時間はなく、準備した石垣、瓦の使用は一割にも満たずに、堀も半分ほどしか作られずに廃城され、建物は取り壊されました。
廃城令により御殿などの建造物はほぼ取り壊されましたが、お台所だけは学校としての利用が認められ、現在は半解体復元工事により、姿を取り戻しています。また、石垣はほぼ完全な姿で残っており、切り込みはぎや、布積み、野面積みなどの様々な種類の石垣を見学できます。その他、城の北西に枡形が残っています。
トイレ、無料駐車場あり。
2026年02月23日 佐治越前守
龍岡城
城内に小学校があり、歩いて10分ほどで一周回れるほどの大きさでした。一部堀がない面にプールが隣接してました。
2025年11月09日 じゅんころ尾張守
龍岡城
某ツーリストのバスツアーでリア攻めしました❢(交通手段が大変そうだったので)
函館の五稜郭には負けますが、堀の石垣等見所がいっぱい。ボランティアガイドさんの説明も分かりやすくて良かったです。城内に建っていた小学校が廃校になってしまったのは寂しい😢
2025年10月17日 内記がずりヾ(・ε・。)
田口城[龍岡城 周辺城郭]
田口城(田ノ口城)は龍岡城の北東約0.7km、雨川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約897mの山陵山頂部を中心に立地する要害です。南麓の雨川からの比高は170m位でしょか。往時、該地の田口郷は佐久郡内平賀庄を構成していた一郷である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。南麓に建つ曹洞宗の寺院、大梁山蕃松院前の市道を門前から150m位を東へ進めばお山へ入る横道が付いている。楽をしたかったら同じく位置登録がある「五稜郭展望台駐車場」を目標に設定しよう。田口城には城域の下段に龍岡城を俯瞰する展望台が設けられており、北麓から山頂部へと至る車両通行が可能な林道が付いている。この駐車場に車を捨てたら展望台へと誘導する案内板に従って進めばよい。但し、路面状況が悪い部分(基本的に林道は恒久的な整備が義務付けられていない道だ。)も多いので注意が必要となる。
築城年代は不明、築城者は田口氏です。城主には他に、阿江木(相木)系依田氏の相木能登守昌朝(武田氏時代、城代とも。)、芦田氏系依田氏の依田(芦田)右衛門佐信蕃(徳川氏時代)の名が挙げられる。ちなみにおいらは武士の意地を貫き筋をも通す信濃先方衆の暴れん坊、信蕃の事が大好き。前述した蕃松院には、天正十一年(西暦1583年)二月二十三日、アプリの登録城、岩尾城攻めの際に討死した同名の墓塔が建っている。
地味なお城なのかもしれないが城歴はそれなりに派手だ。確証は得られないが、天文九年(西暦1540年)四月上旬、板垣駿河守(信方)によって落とされた佐久郡内の城、数十城の内の一つであろう。又、天文十五年(西暦1546年)五月、武田勢は佐久郡へ出張し内山城攻めを行い、同郡への経略を再び押し進めているが、この頃にも田口城は落城の憂き目に遭っていたと考えられる。城主であった田口左近将監長能はこの際に本貫地の田口郷を逐われたのであろう。
天文十七年(西暦1548年)三月二十三日、「上田原の戦い」において武田勢が打ち敗けると、田口長能は一次的に旧領を回復したようだ。「勝山記」には、「天文十七年戌申…中略、此年ノ八月十八日ニサク(佐久郡)ノカウリノ田ノ口ト申要カイ(要害)エ、小山田出羽守(信有)殿大将トシテ、御動キ候、去程ニ信州ノ人数、甲州衆ヲコノ内ノ鳥ノヤウニ取リコメ申候ヲ、色々調義被成候而来ル、九月ノ十二日、御上意ノ御馬ヲ出タサセ御申候而、合イ力ヲ被ナリ、サクノカウリノ大将ヲ悉ク打斃ス、去程ニ打取ル首ノ数五千計、男女生取数ヲ不知、ソレヲテキワニ被成候而、甲州ノ人数ハ御馬ヲ御入候、」とあり、田ノ口の要害に攻め寄せんとした小山田出羽守が、却って信州の人数によって内山城を取り囲まれてしまったと書かれている。佐久郡における一連の騒動は武田晴信の出馬によって凄惨な結果に終わったようだが、この際に在地土豪としての田口氏は滅亡したと考えて間違いは無いだろう。
武田氏の滅亡後、信長の横死後、城主であった阿江木系依田氏の相木能登守入道常林(相木能登守昌朝の子である。)は北条氏に同心するが、天正十年(西暦1582年)、佐久郡経略を押し進める徳川氏に与する依田信蕃が田口城に攻め寄せ、入道常林を小田原へと奔らせた。信蕃は同城の南麓(蕃松院の東隣りが推測されている。)に居館したと伝わるから田口郷が佐久郡における同名の本拠地となったと考えてよい筈だ。
主郭から西側、北側へと連なる多段の平坦地が特に目立つお城だが、該当山稜は後世に全山開墾されたらしく、昭和二十二年(西暦1947年)当時の航空写真を見ると城域の殆どは禿山であった。やはりこれ等全てを城郭遺構として判断するのは早計であろう。従って随所に見られる土留めの石積みも同様だ。明確な遺構としては、主郭の東側山側背後を断ち切る堀切と城域の東端部を構成する二重堀切であろうか。二重堀切の周囲には土塁も確認出来る。又、城域に立つと判らないが、アプリの登録城、志賀城にも似た岩盤層の露出する垂直の断崖絶壁上(落ちたら死ぬわ。)に縄張が展開している。
該地の田口郷は、古くから存在する田口峠へ通じる関門の地に当たり、田口峠道は雨川沿いを東行して山中へ入り、最終的には上野国甘楽郡へと至る。現在の群馬県道・長野県道93号、下仁田臼田線が道筋を殆ど踏襲しているが、県道が整備される以前の峠道を進む事は、旅人にとってさぞかし厳しいものであったに違いない。
※田口氏については別の機会に譲る。
※城歴はそれなりに派手〜田口城は、天文年間(西暦1532年〜1555年)に三度、天正十年に一度、合わせて四度の落城経験を持つと考えられる。
2025年10月16日 内記がずりヾ(・ε・。)
磯部城[龍岡城 周辺城郭]
磯部城は龍岡城の南南西約1.9km、千曲川東岸(右岸)、谷川北岸(右岸)、標高約799mの山陵山頂部を中心に立地する砦です。西麓の長野県道2号、川上佐久線からの比高は70m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は南麓の舗装道路の路肩に捨てられる。取り付きは同じく南麓に建つ薬師堂の東側からとなり、かなりの急な斜面に設けられた墓地脇の石段を登り詰めて尾根筋に入る。
築城年代は不明、築城者には入沢氏が推測されているが、該地の入沢村の領主層の交替を鑑みれば確実にそうだとは言い切れない面がある。
砦は山間部に広がる入沢村へ入る西方入口の北端部に位置している。西方入口の南端部には同じ龍岡城のリア攻めマップにある十二山城が位置しており、両砦は共に西側を南北に通る佐久甲州道を直接扼する関門の役割を果たしている。
「勝山記」、には、「此年(天文九年〜西暦1540年)五月ヨリ武田(信虎)殿信州ヘ取懸被食候、去程ニ弓矢ニ切勝被食候て、一日ニ城ヲ三十六ヲシヲト(シ)被食候ト聞エ候、去レモサク(佐久郡)ノカヲリト申候ヲ御手ニ入レ候、小山田(昌辰)殿ノ代ト乄、小林宮内助殿モ一城ヲカマエ申候、去間此方ノヨリコ(寄子)近付陣立シケク御座候て、皆々迷惑至候、…下略」とあり、(板垣信方を大将とする)武田勢が佐久郡へ取り懸り一日に三十六城を落としたと書かれている。同勢は、入沢、臼田の両城を手始めとしたそうだから、入沢城の前哨である磯部城が最も早くに落とされた佐久郡の城なのかもしれない。吹けば飛ぶような小さな砦、まともな戦いがあったとは到底思えない(自落だろう。)のだが…
砦は殆ど単郭の縄張、搦手は二重堀切で終わるが、大手を何処までとするのかが悩ましい。主郭には西辺と北辺に土塁の残滓、西辺のものは中央部が開口している。二重堀切は埋まり気味だが、主郭北側山側背後の堀切には片側で腰郭をカバーしていたと思しき竪土塁が並走している。工夫が大して見られないオーソドックスな縄張とはいえ愛すべき小品として十分に楽しめる。
武田信虎は、諏訪氏、村上氏と盟約関係を結び佐久郡への影響力を拡大させていくが、板垣信方が派手に暴れまくった天文九年は「天文の大飢饉」の年に当たっている。前年に続いた、大雨、洪水、蝗の害により、年明けには全国各地で飢饉となり、春には再び大雨、洪水が追い打ちをかけ疫病が発生、「七百年来の飢饉」とまで評される惨状に至ったが、信虎は正にこの時期に大規模な外征を行っていた事になる。前記した「勝山記」の記述には、「…去間此方ノヨリコ(寄子)近付陣立シケク御座候て、皆々迷惑至候、…」とある訳だが、飢饉にも拘らず頻繁な軍役負担を強いられる被官衆の寄子等が迷惑を被っているとの当時の率直な状況が赤裸々に書かれている。この翌年の天文十年(西暦1541年)六月、信虎は嫡子、晴信によって甲斐国から追放される事になるが、その非道な行いが甲斐国内で好意的に受け止められたのも至極当然の話ではある。
※武田信虎〜追放の理由を「平生悪逆無道」とするが、伝えられる数々のエピソードは裏付けの取れないもの(暴君のテンプレートに過ぎない。)ばかりである。
2025年10月12日 内記がずりヾ(・ε・。)
十二山城[龍岡城 周辺城郭]
十二山城は龍岡城の南南西約2.8km、千曲川東岸(右岸)、谷川南岸(左岸)、標高約764mの丘陵頂部上平場に立地する砦です。西麓の長野県道2号、川上佐久線からの比高は30m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。登城は東麓から道が付いているらしいが、道を探すのが面倒になり北麓から無理矢理に取り付いている。獣柵も見当たらないので何処から登ってもどうにかなると思う。ちなみに現在の丘陵は全山が殆ど墓地と化している。
該地の佐久郡入沢村は、中世には平賀庄を構成していた一村であり、別に「青沼の里」とも呼ばれていた。南北朝時代から室町時代の中後期には、北条氏系の入沢氏、後に田口氏が知行したと伝わる。又、現在の上田市前山に建つ、真言宗智山派の寺院、獨股山前山寺に収蔵されている、銅製鰐口の表陰刻銘には、「信州佐久郡大井庄青治(沼)郷八幡大菩薩宝前奉寄進鰐口 願主 大井美作沙弥源昌 天文七年(西暦1538年)戊戌八月十五日 大工金井四郎左衛門尉秀家」とある事から、この頃の入沢村は大井氏の影響力の及ぶ所となっており、同村が大井庄の内であるとの認識がある他、当時は青沼郷と呼ばれていた事も判る。
築城年代は不明、築城者には入沢氏が推測されているが、上記した領主層の交替から確実にそうだとは言い切れない面がある。
砦は山間部に広がる入沢村へ入る西方入口の南端部に位置し、砦の北側には「狭間田」の小名を残している。西方入口の北端部には同じ龍岡城のリア攻めマップにある磯部城が位置しており、両砦は共に西側を南北に通る佐久甲州道を直接扼する関門の役割を果たしている。
砦の立地する丘陵は全山が大幅な改変を受けている。特に3〜4段の帯郭状の腰郭様地形が目立っているが、やはりこれは後世の植林場の跡と見るべきであろう。従って本来の縄張は丘陵頂部に展開しているのみである。主郭部はそれなりの面積があり、城郭遺構とされる、虎口を形成していたと思しき土塁が数箇所に確認出来る。全体的には恒久的な砦と言うよりは正に陣城の印象を持つ。
往時の入沢村は上州への入口にも当たっている。即ち、佐久甲州道から入沢村へ進み、谷川沿いを東行して谷筋に入り、赤谷を経て南方、余地川沿いを登る余地峠道と道筋を重ねて余地峠に至り、峠を越えれば上野国甘楽郡へと入る。ちなみに余地峠の北北西約2.0kmの山中には、「日本で海岸線から一番遠い地点」…がある。説明板と標柱もしっかりと立っているので、僻地・辺境地マニアの方は挑戦してみるのもいいさ。但し、林道が終わると倒木に塗れた非常に面倒な沢登りを強いられる。
※入沢氏については同じ龍岡城のリア攻めマップにある入沢長義の古宅を参照して下さい。
※「日本で海岸線から一番遠い地点」〜標高は約1200m、海岸線からは約115kmの距離に位置するらしい。ちなみに余地峠側から登るのは土台無理な話…未知の領域、尾根通しで進めないのでそれこそ遭難するわ…
※訪ねるなら冬場にしよう。藪に蚊は当たり前の話なんでわざわざ言いたくないんだけど、尋常じゃない数の藪蚊に襲撃された。藪自体も結構消えるしね。
※写真⑧は西麓の長野県道2号から撮影した近景っす。東方山塊とは「十二窪」を挟んで隔絶しており殆ど独立丘陵と言ってよい。
2025年10月11日 内記がずりヾ(・ε・。)
羽黒山狼煙台A[龍岡城 周辺城郭]
さて、色物物件FOREVER…
…おいらのお城LIFEの中心を占めているのが信濃の城館廻りなんだけど、バイブルにしている「信濃の山城と館」には多数の色物物件が掲載されている。大抵は地名や伝承から導き出された推測地なんだけど、今回、紹介する物件は、「定本 佐久の城」の中の一項目である、「仮説武田氏の飛脚かがり」に関連して問題提起された狼煙台の推測地だ。その推測の理由はあくまで逆説的なものとなっており、「此処に狼煙台が置かれなければ狼煙が繋がらなくね?」的な感じ…本来なら無視したいところなんだけど、信濃のお城の神が生真面目に調査に入ってるしなぁ…
羽黒山狼煙台A・Bは龍岡城の南南西約3.7km(A)、3.8km(B)、千曲川東岸(右岸)、抜井川北岸(右岸)、標高810.0mの通称、羽黒山山頂から西方へ伸びる尾根下段上、標高約780m地点の平場(A)と、同山山頂西端部、標高約800m地点の平場(B)に立地したと推測される狼煙台です。西麓の東町交差点からの比高はAが40m、Bは60m位でしょか。ちなみにこの交差点を南北に通る道が往時の佐久甲州道、近世の佐久往還である。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「羽黒下駅近くの石碑群」…を目標に設定して下さい。車は同駅前の空地?に捨てるのがよい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。Aの方は、該地に建つ廃社(羽黒社か。)に通じる参道の階段を登るが、Bの方は、国土地理院地図と相談して別のアプローチを取ってから登った方がよいかもしれん。何れにせよ、初めて訪ねる人にとっては非常に判り難い場所となっている。
該地の佐久郡平林村は、中世には平賀庄を構成していた一村であり、嘉暦四年(西暦1329年)三月、「諏方上宮五月會付流鏑馬之頭、花會頭与可為同前御射山頭侃結番之事」を定めた鎌倉幕府下知状案には、「八番五月會分 …前略、(御射山)右頭、平賀郷内三河田、滑瀬、平林、平賀、松井地頭等、…後略、」とある。村の沿革等は、寛文年間(西暦1661年〜1673年)、名主宅が失火、古文書等が焼失したため古昔の事が不詳となっている。ちなみに該地の直下、羽黒下の町並みは、東に羽黒山が迫り、西を千曲川、南を抜井川とする、極めて狭い範囲、傾斜地等に人家が集中している。
狼煙台の現況なんだけど所詮は色物物件だ。ちゃっちゃと終わらせよう。まず、Aの方は東西に長い社地(廃社)となっている。削平は殆ど見られず、だらしなく山尾根が下っている。城郭遺構は見出せず何も語る事が出来ない。Bの方は一応の平坦地だが、ただの山林、雑木林となっており、探索は藪蚊に献血しに行くようなもの。ただの徒労に終わる。但し、該地の直下、崖下の岩場が後世の石丁場か何らかの用の水源地だったようで、何とも言えない不思議な謎地形を形成していて面白かった。石積みなんかも見られ、集落の秘密の場所に迷い込んだ感さえ漂よっている。ちなみに現在の展望はどちらも木々に遮られて絶望的だ。
前述した羽黒下は佐久往還沿いの町屋、近世から近代まで何でも揃う場所として賑わいを見せたそうだが、モータリゼーションの発達に伴い次第に廃れていったらしい。インフラが整備された事により移動のスピードが上がり、街道沿いの合間の町はただ通り過ぎるだけの存在に成り下がってしまった。ちなみに羽黒山の方は山頂部が真っ平なパターゴルフ場?に変貌しているが、これはかつて存在した草競馬場の旧地でもあるんだそう。牛と馬が同時に出走する長閑なレースが観られたそうで、地域住民の娯楽として結構な盛り上がりを見せていたらしい。
※写真は全てAの物、Bについては別に同じ龍岡城のリア攻めマップにスポット登録してあるのでそちらをどうぞ…
2025年10月10日 内記がずりヾ(・ε・。)
入沢長義の古宅(道薫屋敷)[龍岡城 周辺城郭]
入沢長義の古宅(道薫屋敷)は龍岡城の南方約2.3km、谷川北岸(右岸)、千曲川東岸(右岸)、標高約758mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに「道薫館跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐で大丈夫やろ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは入沢長義、その子、道薫(但し、長義の出家名である可能性を残す。)です。該地の佐久郡入沢村は、中世には平賀庄を構成していた一村であるが戦国時代以前の事が殆ど伝わらない。
「長野県町村誌」には「古宅址」として、「本村(入澤村)東にあり。該所は古昔は村落ありて地名を中村と云、今は畠となる。平坦にして少しく高し。里俗の傅に入澤長義の古宅と稱す、確乎たらず。其後道薫と云ふもの住居すと云ふ。先年金銅鐵の類を掘出せり、僻邑無智の人民該品を悉く亡失せり。其後三石清右衛門なる者、掘出せり品土焼の大瓶の中に小瓶あり其中に古金(タテ三寸、横二寸、厚さ五分、質佳)板形の二品あり、其外刀の鮫、木爪形の大小の鍔、金ぷくりん鍔、今に之を所有せり。」とある。明治時代の初頭、古宅跡からは、金銅鐵の類、古金が二枚、刀の鮫、木爪形の大小の鍔、金覆輪の鍔が出土したようだが、鐵の方は僻邑の人が無智だったので悉くを亡失してしまったと身も蓋もない書き方が為されている。
入沢氏は、正慶二年(西暦1333年)、北条時俊が入沢に住し、在名を取って入沢氏を称したと伝わるが、鎌倉時代に時俊を名乗る北条氏の人物は少なくとも五人が数えられる。生没年を考慮すると最も可能性が高いのが時房流の時俊だが、建武元年(西暦1334年)、同名とその子、貞俊は、北条氏を警戒する建武政権によって斬首に処せられた。但し、貞俊の次男もまた時俊を名乗ったと伝わっており、この貞俊の子が入沢に住した可能性を無下には否定出来ないだろう。
「諏訪御符禮之古書」、應仁二年(西暦1469年)己丑五月會の条には、「一 五月會入澤長助御符之禮三貫三百文使孫六頭役十五貫」、文明十四年(西暦1482年)壬寅明五年御頭の条には、「加頭入澤丙山頭本打替々被勤候長義前々御符お請取被申候か當年田口民部少輔長綱入澤惣領にて候由を被申請取候田口殿禮銭両度三貫三百孫六請取候頭役拾五貫」とある。應仁二年には、入澤長助が、文明十四年には、入澤長助の子と見られる長義が入澤にあった事が判るが、当年の入澤惣領は田口民部少輔長綱だとも書かれている。
入沢氏系図によれば、天文七年(西暦1538年)、同氏は経緯不明なるも入沢を退去し、村上氏に従って戸石城にあったとされる。天文十三年(西暦1544年)、十代当主、時広が上杉氏(関東管領家、山内上杉氏と考えられる。)へ密かに通じていた事が露見し越後へ落ち、その子、時吉は上野国群馬郡渋川へ逃れたとされる。未見だが、現在の群馬県渋川市入沢にはその事を記した石板が建っているらしく、同市の入沢の地名の興こりともされている。
屋敷の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。敷地範囲は明確ではなく、特に西辺を何処で取るのかが悩ましい。城郭遺構としては北辺を形成していたと考えられる土塁の存在が挙げられるが、正直、往時のものだと即断する事は到底出来ない代物だ。
「鹽山向嶽禪菴小年代記」には、「(天文)九(西暦1540年)庚子、…中略、四月上旬、板垣駿河守(信方)𣴎太守(武田)信虎命為大将、信州之佐久郡出張、始而臼田、入澤之両城、攻破数十城、築前山之城在陳、…下略、」とあり、天文九年四月上旬、武田信虎の命を受けて大将となった板垣駿河守信方が、臼田、入澤の両城を手始めに数十城(「勝山記」には三十六城とある。)を打ち破り、前山に城を築いて(実際は改修だ。)在陣したと書かれている。
入沢氏の事跡を語る際の定説ともなっている事だが、同氏は板垣勢の佐久郡攻めによって上州へと逐われたとするのが一般的な見方である。但し、前述した入沢氏系図を信ずるならば、この時点では同郡から既に退去していた事になる。
※「長野県町村誌」、「入澤村」の管轄沿革には、「古昔未詳。後田口氏の領知たり。天文(西暦1532年〜1555年)中武田晴信本郡(佐久郡)を侵す。田口長能滅び、…」とあり、入沢氏の事は書かれていない。
※「鹽山向嶽禪菴小年代記」〜謂わゆる「塩山年代記」の事、甲斐国内、塩山向嶽寺の住職が書き継いだ年代記である。記述は簡略だが日記を忠実に記録したと考えられており、その史料的価値が高い。
2025年10月09日 内記がずりヾ(・ε・。)
海瀬城[龍岡城 周辺城郭]
海瀬城は龍岡城の南南西約5.0km、千曲川東岸(右岸)、抜井川南岸(左岸)、標高約786mの河岸段丘台地上平場に立地したと伝承される何かです。北麓の抜井川からの比高は35m位でしょか。該地は佐久盆地の南端に位置し、西流した後、北流して千曲川に流れ込む、拭井川が創造した谷筋の関門の地に当たり、西方には千曲川に沿って佐久甲州道(近世の佐久往還である。)が南北に通っている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「佐久穂町生涯学習館 花の郷・茂来館」を目標に設定して下さい。この公共施設が概ねの該地であり、100台位は捨てられる駐車場も付いている。
該地の佐久郡海瀬郷は、中世には伴野庄を構成していた一郷であったようだが、「海瀬」の地名自体が近世以前の文書等に見られず、隣接する地域から何かを導き出す以外に当地の歴史を知る術は無い。ちなみに地名は、千曲川、温(抜)井川、余地川等の大小河川が氾流し、その水音が山沢に轟いていた事に由来するらしいがこれもどうなんだろう。それよりも太古には海だったと伝わる佐久盆地の海の瀬を形成していた場所であったと考える方が自然だと思われるのだが…
地味ながら交通の要衝でもある。海瀬郷から東行して抜井川沿いを進めば十石峠を越えて上野国緑野郡へと至り、抜井川に流れ込む余地川沿いを進めば余地峠を越えて上野国甘楽郡へと至る。こう書くと簡単だが、両道は関東山地を縦断する想像を絶する経路を道筋に選んでおり、前者は国道462号、後者は群馬県道・長野県道108号、下仁田佐久穂線の道筋にほぼ準じている。国道の方は群馬県側で酷道として悪名高く、県道(険道)の方は分断区間を有し車両通行は元から不可能、山道化し徒歩で登るしかない(県道としては放棄されたに等しい。)。ちなみに余地峠道は上州入りする武田勢が通った道(往時の道筋は県道よりも上段の山尾根上に付いていた。)でもある。
築城年代、築城者は不明です。今後も語られる事は無いだろう。「信濃の山城と館1、佐久編」に掲載があるが、該地は伝承から城跡とされている単なる場所に過ぎない。
敢えて強引に何かを語るとすれば、該地の東方、「館」には、木曽義仲の郎党、根井大彌太(大弥太郎、行親)、その子、楯六郎親忠が住していたと伝わる。抜井川の左岸段丘上には両名が経営した私牧が推測されており、周辺には牧を示唆する地名が数多く残されている。該地を城跡とするならば、この私牧に関係する何某かの城館であろうか。
該地は前述したとおり公共施設に変貌している。それ以前は何らかの耕作地、何れにせよ全てが平らげられてしまい、探索が土台無理な物件となっている。段丘崖に面している事もあって要害地形ではあるが、連続する台地上を断ち切る堀形でも認められなければ城域の判定すら不可能である。とっとと帰る事にしよう。
城廻りを始める以前、群馬県藤岡市から国道462号を使って十石峠(現在は立派な展望台が建っている。)を目指し、長野県南佐久郡佐久穂町へと抜けた事があったんだけど、正に帰れなくなるんじゃないかなて思わせてくれるような道のりだった。特に群馬県側の区間では国道のくせに対面通行が不可能な部分が多く、対向車が来たらどうしよかなとか不安になってたんだけど、そもそも論で他に車を見掛ける事が一切無かった。峠の名称は、川や山が迫り稲作に適さない上州の神流川沿いの山間部へ、峠を越えて日に十石(二十五俵)の佐久米が運び入れられていた事に由来する。上州ブルースの一つ、「十石馬子唄」はこの時の情景を唄ったものだ。
※十石峠道は近世の武州街道である。旧道を写真で見たけど怖くて歩けんわ…
2025年09月15日 大納言Z関白369
龍岡城
裏側から行ける展望台への車道は倒木で道を塞がれているため通行できません。
2025年09月15日 大納言Z関白369
蕃松院[龍岡城 寺社・史跡]
この門前に植えられている松の木は見事なので、是非訪れてください。
2025年07月05日 下総守あかね局
龍岡城
出会いの館が、令和7年7月8日〜8月10日まで電気設備工事の為お休みです。スタンプとパンフレットは外にありましたので大丈夫だとは思いますが、リア攻めの時には念の為確認してみて下さい。
2025年05月11日 ほりーないと信濃守
稲荷山城[龍岡城 周辺城郭]
臼田町が佐久市と合併する前の話
「五稜郭(龍岡城)とコスモタワー(稲荷山公園)に行ってくるとイイよ」と言われて行ったことがあります。"星の町うすだ"のコスモタワーは展望台(入場無料)です。眺めがとても良く、地理を知らなかった当時の私はコスモタワーから五稜郭(龍岡城)が見えると思ってました。龍岡城は千曲川の対岸にあるので残念ながらコスモタワーからは見えません。
それから"時"が流れ…お城に興味を持つようになりました。信濃国のお城を巡るうちに見晴らしの良い公園=城跡と認識するようになりました。コスモタワーがある稲荷山公園って!?…龍岡城のリア攻めマップを開くと「稲荷山城」が周辺城郭として登録されていました。稲荷山城をリア攻めした時は口コミを入れようと決めました。リア攻めチャンスは突然やって来る…城攻めに理解ある家族が「公園の駐車場で待ってる」と千曲川のほとりで車から降ろしてくれました。今日に限って"信濃の山城と館"を持ってないのに…。
"信濃の山城と館"には「城の西側を甲州往還が通っているので古くから重視されていたと思われる。武田氏滅亡後、家康は松平家忠に城の改修をさせている。天正13年、家康は上田城攻撃に失敗し、この城へ引き上げている。(抜粋)」とあります。遺構は殆ど残っていませんが、多くの人が訪れ、地域に愛されている城山公園だと感じました。
2025年05月06日 でぇすけ大蔵大輔
龍岡城
2023年3月に閉校となった田口小があった所です。校舎等はそのまま残っています。堀、石垣、門など、いろいろと残っています。五稜郭と言えば函館ですが、もう一つの五稜郭です。地上では、五稜郭を実感するのは中々に難しいです。
2025年05月05日 参議気軽なよっしー
龍岡城
日本に2つしかない五稜郭の一つ。
であいの館で100名城スタンプ設置、御城印販売。あいの館から出て直ぐに堀の橋を渡ると龍岡城跡(今は学校に使われていたが廃校)。御台所櫓が残っており中に展示品等が見れる(団体しか入れないとグーグルの口コミありましたが、GWといこともあったのかふつうに建物中を見学できました)。
龍岡城跡地のは堀と塀で囲まれ角をみると五稜郭と感じる。
五稜郭の形を確認するには展望台から眺めると確認できる。この展望台にたどり着くには小山をひたすら登る必要が有り。狭い山道を登っていくので体力と運動靴(スニーカー等)が必要。また登って行く途中案内看板が数カ所立ててあるので見落とさないように。行き帰りで一日の体力消費しますので夏場は相当つらいと思うので季節の良い時期がおすすめ。
2025年04月21日 サーレン
龍岡城
日本に二つしかない五稜郭のうち、本州で見れるのは龍岡城です。ちょうど桜が満開で、綺麗な星形になっています。
2025年04月20日 まつもとぐらし。
龍岡城
小学校は廃校でした。「ありがとう田口小学校」の校舎に掲げられた文字と、まだここに遊びに来ている小学生らしき黄色い自転車のヘルメットが、可愛らしさもあり寂しさも感じました。
2025年01月05日 nonki 大宰帥
龍岡城
JR小海線龍岡城駅から徒歩20分位。石垣と堀が良く残っています。周囲を徒歩で一周可能。さっと見るなら30分程度で可能と思います。自分が行った時は一部堀の水を抜いて、石垣の調査をしてました。
続100名城スタンプ目的なら、外に出してあるので24時間押せそうです。
電車で訪問の際は本数が少ないのでご注意下さい。
2024年11月11日 MITSUHARU
龍岡城
小さい五稜郭、上から眺めることはできませんが星形の堀の半分ぐらいは確認できます城郭内にある小学校は廃校になったようです
2024年10月15日 淡路守苧環
龍岡城
臼田駅から徒歩20分ほどでした。手前にトイレやベンチや遊具のある公園があります。城の中の小学校は廃校になったようですが、お城の中を丁寧に使っていたんだなぁという印象。外側をぐるっと回ることもできますし、一部ですが土塁にも上がれて楽しく散策できました。
2024年04月21日 【多謝】佐渡守湯吉郎
龍岡城
日本に2つしかない五稜郭の一つの龍岡城は函館の五稜郭の1/4の大きさです。現在は敷地内に小学校が有りますが堀と石塁が残ってます。
2024年04月18日 はる参議ちゃん
龍岡城
桜満開の龍岡城に登城!稜堡の石垣、桜散るお堀の水面花筏風情あり!桜の輪郭 浮かぶ「星」は確認出来ず。信濃毎日新聞の朝刊に本日掲載されていた。
2024年03月31日 みやちゃん
龍岡城
日本に2つしかない西洋式のお城で大変貴重な5角形の形がほぼ残っていて面白いです。県や町、もしくはクラウドファンディングなどで本格的に整備できれば間違いなく大きな観光資源になると思います。特に展望台までのアクセス。車で向かって行きましたが悪路で途中で断念しました。
2023年12月04日 蔵人頭日本三景を観に行こう
龍岡城
JR小海線、龍岡城駅から徒歩で25分くらい。田口小学校でしたが、2023年末に近隣4校が統廃合されたそうです。卒業生の手紙で、火野正平さんの番組で取り上げられたとか。
お濠の水は凍ってました。
駅の反対側に大阪たこ焼き屋さんが有り、電車を待つ間、ぺったん焼きとイカ焼きを食べました。大阪出身の、タイガースファンのおばちゃんでした。美味!
2023年09月13日 右京大夫セチオ
龍岡城
龍岡城跡には、田口小学校がつい最近まであったようですが、今は廃校となったとのことです。過疎化も進んでいるようで、近くに店がないので電車でくる場合は、時刻表をしっかり調べてから向かった方がいいと思います。スタンプ設置場所で教えてもらえるラーメン屋も、徒歩だとかなり歩きます。それから、臼田駅も龍岡城駅も同じぐらいの距離です。それでは、良い登城を!
2023年08月16日 HAL2000壱岐守
龍岡城
今回、偶然ですが、御台所の中を見学することができました。中には、地域の方から寄付されたものなど、多くが展示されていました。五稜郭の中の小学校が、今年3月に閉校になったとのことなので、御台所を展示室として整備していただけるといいな、と思いました。
2023年05月05日 菊左近衛少将
龍岡城
五稜郭が、佐久にもあると聞いて行きました。展望台まで少し急な山登り。キレイな景色でした。
2023年03月11日 桂右京大夫小太郎
龍岡城
施設の方がとても親切に説明してくれました。小学校が移設するようです。その後の龍岡城の発展を楽しみにしています。
2023年03月03日 埼玉磐城守どぜう
龍岡城
城郭内に小学校がある本州の五稜郭です 遺構のみですが、往年を想起できる程度の縄張りは確認できます 星形を視認するのは諦めざるをえません
現在工事中のため道が封鎖されて大回りしました。また下校時間に当たる際は、車で行く場合は子供たちに十分気をつけてください ちなみに本日、近くでネズミ取りも行っていました。一時停止では必ず止まりましょう。私もクセつけたので問題なく通過できました、よかった、、、
2023年01月14日 nyarくん
龍岡城
龍岡城展望台に車で行くには覚悟が入ります。すれ違いは不可能なので他の車が来ないことを祈るしかありません。
2022年09月03日 昌幸近江守更に吉
田口城[龍岡城 周辺城郭]
龍岡城の北の裏山にあった田口城。
室町末期に土豪田口氏が築いたのが始まりで、武田信玄の佐久侵攻に抵抗するも落城し天文17年(1548)田口氏は滅亡します。
その後は武田氏の(相木)依田能登守が治めましたが、天正壬午の乱の武田遺領に徳川家康の家臣依田信蕃が攻め込み、(相木)依田能登守は後北条氏を頼ったとされます。
本丸東方は2条の堀切で仕切り、北方と西方には曲輪が配されます。南方は石壁により登城不能の地です。
近くに上野と甲斐、それぞれへ繋がる街道があり、監視をしていたと思われます。
城内は石積みが散見しますが、ヒノキの植林が行われていたようなので、後世の土留めかも知れません。ただ曲輪の多さは当時の名残があると思います。
アクセスは志摩木工工芸さん脇の道を入り、途中砂利道を進んだら4〜5台停められる駐車場があります。駐車場が城内になります。「五稜郭展望台」と表された看板があるので迷わないかと。
【写真の説明】
①本丸石積み1
②本丸石積み2。スロープにも見える。
③本丸。祠がある。
④本丸東方堀切1
⑤本丸東方堀切2
⑥城内で一番広い曲輪。北の丸と西の丸の付け根にあたり、本丸からも見下ろせる。
⑦北の丸
⑧西の丸
2022年08月20日 兵部卿清老頭天和
五稜郭であいの館[龍岡城 スタンプ]
五稜郭であいの館の外、龍岡城側に鎖に繋がれてあります
2022年08月20日 兵部卿清老頭天和
蕃松院[龍岡城 寺社・史跡]
岩尾城攻めで落命した依田信蕃の墓と伝わる石塔があります
2022年08月20日 micky999
龍岡城
建物がなく五角形堀と石垣だけの城址なので、展望台からの遠景を楽しむべし。未舗装離合不可の道か徒歩で30分の苦労かの選択です。
2022年06月25日 ᴿᴱᴰ副将軍
龍岡城
国内で二ヶ所しかない稜堡式五稜郭🏯
続日本100名城
1863年、三河国奥殿藩の松平乗謨によって築城。
領地が手狭で、飛領地である信濃国佐久郡に居城を移すことを幕府に許されたため築城に至った経緯。
松平乗謨は西洋軍学に関心があり、砲撃戦に対処するため稜堡式城郭を設計しました。
1872年、廃藩置県により廃城。
見所
函館の五稜郭と国内に二箇所しかない五芒星形の#星形要塞。
稜堡式の石垣や水堀、御台所が現存。
稜堡式の石垣には武者返しが頂部にあり石垣の直線が美しいです。
高遠藩の洋式築城石工により敷設されました。
2022年06月13日 尼崎城紀伊守一口城主
龍岡城
5月5日、小諸城を下城後に小諸から小海線で龍岡城迄乗車し、徒歩にて進軍🚶♂️龍岡城駅から進軍中、日本で一番海から遠い地点があるとの道標がありました。
龍岡城五稜郭まで500mのところに石碑と石垣、説明板がありました。龍岡城五稜郭に到着後、五稜郭であいの館で御城印を購入し続100名城スタンプを押印。五稜郭内には小学校🏫があり史跡内で学べる生徒さん達がうらやましくなってきました✏️
五稜郭であいの館で展望台への案内図をもらって登山🥾天候にも恵まれ足元も良く五稜郭全体を眺めることが出来ました。道中の道標にあった新海三神社にもお参りして、下城後は臼田駅に向かいました。
2022年05月30日 マグロ常陸介祐平
龍岡城
日本に2つの五稜郭として資料館や当時の建造物もあり見どころ満載です。近くの蕃松院には依田信蕃の墓があります。
2022年05月29日 ruiw0302
龍岡城
飯田から中央道を北上して佐久方面へ。サービスエリアでコンシェルジュの方に、(この方に話を聞くのは4回目、ご当地の出身で長野には詳しく、観光客にはあまり知られていない名所や美味しいお店の情報を教えてもらっている)龍岡城について聞いてみた。
驚いたことに「龍岡城?」という反応だった。「もうひとつの五稜郭」と尋ね直したら「ああ、それでしたら」といろいろ教えてくれた。「ん?長野県民には広く知れ渡ってないのかも?」と思ったことを覚えている。位置的には想像していたよりずっと町から離れていて「場所は合ってる?」かとちょっと不安に。駐車場から歩いてみれば、第一印象は「え?」だったが、確かに五稜郭の形をしていた。
お城というよりは館の雰囲気、調べてみれば城主の格式からすれば、厳密には陣屋が正しいということだった。見た限り軍事的に役割を果たせるものとは考えにくく、城主の西洋式築城への探究心から趣味的に作られたものかなと思えた。ぐるりと回ってみれば、五稜郭としての形状ははっきりしていて、幕末に作られたひとつの文化として興味深い存在ではなかろうか。このような奥地まで幕府末期の危機意識が浸透していたかを認識する上で一見の価値は充分に備えていると感じられた。石垣の角度の鋭角さに五稜郭を感じた。
2022年05月28日 ぱぱ〜ん伊豆守
龍岡城
もう1つの五稜郭に行ってきました。こじんまりしているからこその作りがよく分かって勉強になりました。
2022年05月21日 ぬっぴー下総守
龍岡城
ここは幕末の城です。西洋式の五稜郭のような城です。五稜郭タワーがない代わりに、近くに展望台があります。
2022年05月07日 ほりーないと信濃守
東通用門[龍岡城 遺構・復元物]
【東通用門(移築門)】
「ぴんころ地蔵」で有名な成田山薬師寺に東通用門が移築されています。「ぴんころ地蔵」はどこにあるの?と思われた方…ご安心下さい。城めぐの登録城「伴野城(佐久市)」のすぐ隣が成田山薬師寺です。伴野城のリア攻めをして、ほんの少し歩くと龍岡城の東通用門(移築門)を見る事ができます。
写真①②
成田山薬師寺に移築された東通用門
写真③④
龍岡城の東通用門跡
城跡の小学校の体育館近く
2022年05月05日 ほりーないと信濃守
龍岡城
【展望台(田口城)&史跡めぐりマップ】
五稜郭であいの館でボランティアさんに声をかけるとマップをいただけます。このマップの作成協力者は佐久地方出身の元山岳救助隊長で、書いたイラスト案内図には細かな目印があってわかりやすく、山歩きの地図を出版しています。最近では信濃の山城の案内図も出版しています。無断複写等の禁止が条件ですが、史跡めぐりマップが無償配布されている事に驚きました。
今回は、新海三社神社→龍岡城の順番でめぐり、神社のすぐ近くに移築された薬医門を見落としてしまいました。
【城跡の小学校は…】
佐久市の小学校統廃合により、城跡の小学校は2023年3月末で閉校となります。市役所職員さんの話では具体的な校舎解体はこれから決めていくそうです。校舎がある五稜郭を見られるのは今だけかもしれません。
2022年05月03日 きよ
龍岡城
平日でしたので、小学生の元気な声がします。校庭の周りを歩きましたが、慣れているのか特に気にもしていないようでした。堀や石垣もりっぱです。
であいの館で資料と御城印をもらい、展望台について聞くと「歩きだと大変だけど車なら大丈夫」と地図をいただきました。クチコミには道が細くて〜とあったので心配していたのですが、軽く言われたので改善されたのかと行ってみましたがすれ違い不可の林道です。路面状態も悪く、深い轍、路肩には斜面からの落石。…おばさま、大丈夫じゃないですよ
2022年04月04日 snowsurfer
龍岡城
日本に二つしかない五稜郭。城内は学校になっており、昔ながらの雰囲気でタイムスリップしたかのような日本の原風景。
2022年03月21日 kt110kg大蔵卿
龍岡城
良く整備されており五稜郭が珍しい城跡です。ゆっくりと散策して当時に思いを馳せると日常から解放された感じがします。
2021年11月03日 武蔵守与作兵衛
龍岡城
隣接する「五稜郭であいの館」に駐車場とトイレ、続日本100名城のスタンプがあります。堀に沿って歩かないと形がよく分かりませんが、確かに五稜郭でした。(堀は一部未完成)
北側の山の田口城跡に展望台があり上から見下ろすことができます。道は狭いですが展望台近くまでは車でも行けます。龍岡城から行く場合120号線を右折で入りますが、添付写真の黄色い看板のある道から行ってください。私は手前のもっと細い道から入ってしまった為、途中で路肩が崩れて脱輪しかけ怖い思いをしました。
改めて口コミをよく見たら、先人様から「入り口に注意」の情報があったのに同じ失敗をしたようです。展望台からの眺めは資料で見る空撮写真をイメージしていくとチョッとガッカリするかもしれません。
2021年10月26日 【うっかり】赤かぶ
湯原城[龍岡城 周辺城郭]
湯原城は佐久市湯原にある山城です!中部横断自動車道 佐久臼田ICから車で約5分ほどの所にあります!Googleマップにも出ますので参考にしてください。
今回は城跡の下を通るトンネルの南側から登城しました。僅かながら道が付いていますが、そのまま行くと墓地に出てしまいますので、坂を上りきったら笹薮の中に入って行きます!
竹林を北西方向に向かって歩いて行くと尾根上に出ます。さらに北西に進むと主郭切岸が見えてきます!北側から見るとより鮮明に分かると思います♬︎主郭北・南・西に堀切を見る事が出来ますが、結構埋まっちゃってます。
あまり整備はされておりませんでしたが、ICからわりと近い山城!アクセスは良いかな?!wトンネル北側からも登城出来るみたいですよ。
① 登城口
② 主郭北側の堀
③ 城郭西側の堀切
④ 主郭切岸
⑤ 主郭西側
2021年08月24日 ほいほいふ左京大夫
五稜郭であいの館[龍岡城 御城印]
2021/8/21訪問
資料館閉鎖中の為、御城印買えませんでした。100名城スタンプは外に配置してあるので押せました。
2021年08月05日 かずん兵部卿信繁
龍岡城
本州唯一の星形稜堡の西洋城郭‼️大給松平氏最後の藩主松平乗謨が元治元年(1864)に田野口藩新陣屋として着工し、慶應3年(1867)に竣工した幕末の陣屋城。
三河本領4千石、信州領1万2千石の小大名ながら夢を叶えた、明治の廃藩までの短命なお城。規模は小さいながら、幕末の浪漫を感じられます。
であいの館で地図をもらった五稜郭展望台頂上への道のりはかなり厳しいのでご注意を❗️
2021年07月13日 マークⅡ宮内卿政宗
龍岡城
もう一つの五稜郭と知られる龍岡城。地上からでも、鋭角な堀の形がはっきり分かります。近くにある山城の田口城跡に展望台があり、そこからは、星の形が見れるとの事ですが、登山道が台風被害で通行止めでした😭
2021年07月12日 №1石狩守Mt.富士
龍岡城
敷地内の学校施設が、数年内に新たに出来る高速道路近くに移転との事(五稜郭であいの館 女性スタッフの御方より)。 これまで以上に発掘環境が整う事…理屈抜きで生まれ故郷の歴史と共に子供達が歩めた環境が失われる事…人気の無い日曜の学校を、二人で田口招魂社から眼におさめながら。
2021年05月08日 VTR美濃守シゲ
五稜郭であいの館[龍岡城 トイレ]
綺麗なトイレでした、ありがたく使わせていただきました
2021年04月09日 三日月宗近左大臣ヒロティー
龍岡城
日本で二つしかない、五稜郭型のお城です。学校になってるので隅々までとはいかないけど、よく整備されてます
2021年04月04日 クルス秋田城介トッツィー
龍岡城
龍岡城に行かれるならば、ぜひぜひ展望台へ行って下さい。城の全体的に見ることが出来ます。先輩の中にはイマイチという方もいらっしゃいますが、私は大満足でした。さらにそこは田口城跡でもあります。ただし、歩きで登る方はそれなりのお覚悟を!登り口は、蕃松院前の道を東にちょっと行くと左手に看板があります。あと神社仏閣も好きな方は、新海三社神社もお勧めです。500年を経た三重塔が素晴らしいです!
2021年01月25日 【うっかり】赤かぶ
下畑城[龍岡城 周辺城郭]
下畑城は南北に長い段丘の崖の上に築かれ、北方に向かって尾根を数条の深い堀切によって横に断ち切り、三つの郭を構築しています。
武田氏が佐久地方侵攻の足場とした城とも言われているようです。
行き方は中部横断自動車道佐久穂ICから約4kmの所にあり、Googleマップで下畑城案内板(登城口)で設定すると登城口の目の前に着く事が出来ます!案内板の脇には車1台分くらい停められるスペースがあります。
登城口からすぐに馬出?!と思われる小曲輪、堀切2条(手前は浅い)堀切に架かる土塁が出迎えてくれます♬︎
土橋からは主郭の城塁が見えます!土橋を渡ると道は右に折れていますが主郭に行くには直進し笹ヤブの中を突っ切って行くのが一番楽くです!他だと笹ヤブ&急斜面なのでちと大変だと思います⤵︎
主郭には廃小屋と標柱があります。
この北側にある二の郭・三の郭に行くには先程の土橋を渡ったら右に行きましょう!道なりに進むと主郭東側の腰曲輪に出ます、ここには鉄塔が建っていますので目印になるかと(笑)
鉄塔を過ぎると主郭背後の大堀切が現れます♬︎
幅が広く主郭側は高さと角度があります。
北側に進むと二の郭・堀切を経て三の郭へ!
三の郭も笹ヤブでひどいですが北側の土塁をなんとか確認出来ます!
三の郭背後の大堀切こちらも幅がありました。
更に北へ進むと再び鉄塔があり、その先が下畑下の城に入って行きますが、時間と降雪のため今回は断念しました。薮も凄いらしいですが…。
各郭は笹ヤブに覆われ見ずらいですが、深い堀切はなかなかの見ものですよ☀︎
① 登城口
② 登城口側の堀切に架かる土橋
③ 主郭
④ 主郭東側の腰曲輪
⑤ 主郭北側の大堀切
⑥ 三の郭北側土橋
⑦ 三の郭北側の大堀切
2021年01月17日 【うっかり】赤かぶ
花岡城(烽火台)[龍岡城 周辺城郭]
現在花岡遺跡公園として整備されています。
Googleマップで花岡遺跡公園で検索するとでてきます。
公園と言うこともあり、麓には駐車場・東屋・トイレ・すべり台などの遊具が設備されておりました。トイレは冬季は使えないかもしれません!1月16に訪れた時はずっと鍵がかかっていました。
山頂に焼土の散布が認められた事から烽火台と考えられてきましたが、平成の発掘調査で礎石や柱穴、陶磁器・砥石・釘・秤の錘など生活用品も見つかり城だったのでは?!との見解も出てきたようです!!
遺構としては主郭を中心に周囲に帯曲輪・段郭が設けられ、東側に2重堀切!北側には堀切から麓へ堕ちる竪堀が見られます♬︎
堀切は浅く感じます。落ち葉もあるので余計にそう感じます!北側の堀切の掘底へ降りてみましたが、足首のちょっと上まで落ち葉で埋まりました(笑)
また主郭には現在、物見櫓が建てられており登る事が出来ます!烽火台の説明板も掲げてありましたので興味のある方は読んでみてください。
櫓の上からの景色も楽しむ事が出来ますよ♪
城郭内(帯曲輪など)のいたる所に木製のテーブルと椅子がありますので、お弁当を食べたりお茶を飲んだりとゆっくり散策する事が出来ます!
遊具もありますので小さなお子さんを連れて来るのも良いかもしれませんね☀︎
① 段郭に設けられたテーブル&椅子
② 東側の堀切
③ 帯曲輪
④ 主郭
⑤ 北側の堀切
⑥ 北側の竪堀
2021年01月16日 【うっかり】赤かぶ
入沢城[龍岡城 周辺城郭]
お城に行くには佐久市入沢の吉祥寺を目指して行って下さい。お寺の背後に城郭があります!
駐車場から鐘楼向かって左側の坂を登ると墓地があります。上の方に大きい石堂のような建物がありその脇に登城口があります。
ジグザグの山道を5分ほど登ると北西斜面に竪堀が見えて来ます。この斜面には3条の竪堀があります。
更に登城路を登って行くと岩場のある急斜面にでます。ロープが張ってありますのでこれを使って登って下さい!!
登りきると五の郭に着きます。東側には岩盤壁があり四の郭へと続いて行きます♪
四の郭から北側へ進んで行くと堀切を隔てて東側に二の郭、西側に主郭があります。
主郭には小さな石の祠立っております。
主郭北側の尾根には三の郭があり主郭との高低差が結構ありました。
二の郭にはプチ土塁と矢竹に覆われた天水溜があります。
二の郭から更に東側へ進むと大小8条の堀切を見る事が出来ます♬︎
登城道がはっきりしているので迷うことなく行く事が出来ますが、足場の悪い所もありますのでしっかりとした装備で登城なさって下さいませ☀︎
① 登城口
② ロープを使って登る急斜面
③ 四の郭岩盤壁
④ 四の郭北側の堀切
⑤ 主郭
⑥ 二の郭東尾根の堀切
⑦ 二の郭土塁
2021年01月09日 【うっかり】赤かぶ
雁峰城[龍岡城 周辺城郭]
別名:草間城・小田切城とも呼ばれている雁峰城は中部横断自動車道佐久臼田ICから車で3分(1.1㌔)くらいの陽雲寺さんの裏手にある山城です。登城口は陽雲寺さん墓地の脇から入って行きます。登城途中に明和6年・安永9年の墓石と石祠があり、帯状の段郭を経て約20分ほどで主郭まで行く事が出来ます!
主郭には皇大神宮の祠があります。主郭北側の木々の間から中部横断自動車道やロケットの形をしたコスモタワーをこの時期ならかろうじて見る事が出来ます。見晴らしはあまりよくありません⤵︎
主郭から南側へ進んで行くとプチ土塁から2の郭へ!2の郭は笹薮に覆われており、更に南へ進むとこの城の最大の見せ場と言うと怒られるかもしれませんが(笑) 幅10m・深さ5~6mほどの岩盤切削堀切があります!一気にテンションが上がりますよ♪お手軽に行ける城郭かと思います!佐久のお城散策の一つとしてお立ち寄りになって見てください☀︎
2020年11月17日 すなちゃん武蔵守
龍岡城
外回りが外堀池と石垣で構成されており、橋を渡り中に入ると左に盛土があり真正面に本丸(今は佐久市立田口小学校になってる)、右に神社があるあ。
左手にかなり遺構が残っており、遊具と混ざっている為、いつまで形を保っていられるか、また学校なので節度ある行動をしましょう。
2020年08月25日 拓之助弾正少弼
龍岡城
大手前に駐車場と、資料館がありそこで、スタンプを頂けます。城内は、小学校、現存台所もあり、行く前に連絡すると、見学出来ます。でも、入城には大手門(校門)を突破しお奉行様(先生)に許可取らないと……
2020年08月16日 Jun
龍岡城
日本で2つしか無い五稜郭、素敵でした。とても静かな所で、是非行ってみることをお勧めします‼️
2020年08月03日 龍馬備中守【】
田口城[龍岡城 周辺城郭]
長野県の佐久市にある田口城☆
龍岡城の真北の山中に位置します☆
龍岡城を望める展望台もココに位置します☆
このお城は田口氏の居城となります☆しかしココも武田信玄の佐久侵攻により落城しちゃいました☆「上田原の戦い」(武田信玄VS村上義清)で武田氏が撤退するとその混乱に乗り田口長能は城の奪還を図るも敗れてしまい田口氏は滅亡します☆
武田氏滅亡後は徳川家康についた依田信蕃が攻略☆本拠としました☆
このお城は熊さんが出る様です☆
7月の頭に熊さんが出たと聞いております☆行かれる方は万全の準備を整えて行かれて下さいね♪情報として入れておきます☆
2020年03月23日 陸奥権大納言景衡【むっつー】
龍岡城
(続)100名城スタンプは施設の正面(小学校側)入口脇にあり、休館中ですが、時間に関係なく捺印できます。
2020年03月21日 えーほっかい
龍岡城
歴史の里であいの館は3/31まで休館でしたが、続100名城スタンプは入り口脇に置いてあるので押すことができます。
2019年10月02日 無限織部正武威鉄駆
龍岡城
名城スタンプは閉館後も押せる様になってました。従業員の方にお聞きしましたら「16時閉館は早いとの声に対応しました」との事。どの様なシステムになっているかはヒ・ミ・ツ(笑)
2019年05月19日 あおっち右近将監
龍岡城
続名城スタンプをすぐ隣の出会いの館でゲットしてから攻城!またしてもアプリの起動を忘れ、アプリでは龍岡城攻城できず、あとで気づいて涙をのむ(T-T)小学校の敷地になっていたが、堀のカクカクした感じは見れました。上から俯瞰してみたかったなぁ!
2019年05月12日 まさある甲斐守⛄
五稜郭であいの館[龍岡城 スタンプ]
開館時間9:30-16:00、時間外はスタンプが押せません!毎週火曜日、8/1、年末年始が休館日!
2019年05月05日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
龍岡城五稜郭展望台[龍岡城 関連施設]
展望台から見た五稜郭は、この写真での見た目よりかなり微妙でした。
☆この展望台のある場所は田口城なる城跡で、目の前の急斜面と東側の堀切に守られ、最高点にある主郭を中心に多数の郭を連ねる、かなり大規模な土のお城です。時間があったら周囲を探索してみるのも良いでしょう。ただし城山自然研究園のフィールドのようなので、荒らさないよう注意した方が良いでしょう。
2019年05月03日 信濃守はとまめ
龍岡城
展望台から見下ろすと龍岡城の横の運動場の芝生も星形になっていて、大小の星形が連なっているのが可愛らしいです。
2019年05月03日 信濃守はとまめ
龍岡城五稜郭展望台[龍岡城 関連施設]
展望台のすぐ下の辺りまで一応車で上がれます。(展望台自体も田口城というお城です)
ただし舗装もない山道で、特に前半はすれ違うスペースも少なく片側が崖…と言うか山の斜面の所もあります。雨の後などは土も滑りやすいため運転の苦手な方や大きな車の方は難しいかもしれません。
軽の四駆等なら問題なく上がれます。
写真はやや広くなっている駐車スペースから下方面を見た写真です。
駐車スペース、展望台までの道の入口等には小さな看板があります。
展望台までは山を少し歩きますがそんなに離れてはいません。
令和元年5月現在、Googleマップからは登る山道が見えません。
このアプリからだと国土地理院の地図にして拡大すると細い道が向かっているのがわかります。
881と地図に数字の入ってる辺りが駐車スペースです。
もう少し先に進めそうに見えますがそこに車を停めて地図では見えない山道を看板に従って進みます。
2019年04月28日 征夷大将軍北海如水
龍岡城
堀があるのは東側の三陵のみ。切込みはぎの石垣も奥に行くに連れ、野面積に変わり、未完成のまま中止された様子を垣間見ることができる。
2018年11月19日 みやび姫
龍岡城
展望台まで車で行く方へ。中華料理屋の李紅蘭を右手に見た場合は、既出の通りで黄色い看板が出ていますが、反対方面から走って来た場合は看板を見逃す可能性有り。私は店と看板の間の道を入ってしまった為、瞬きすら出来ないような狭い狭い狭い道を走るはめになりました...(轍があるので地元の方が通るのではないかと思います) その後展望台に上がる分岐にも黄色い看板があります。1.5キロと書いてあります。辿り着くまでは対向車が来なければさほど問題無く走れます。待避所はあるものの、崖側なので要注意です。駐車場と書かれた木の看板があるとこに停めて下さい。ここ?と思ってもそこが駐車場です。先にもあるだろうと走ってしまったのですが、Uターンすることに。展望台とは名ばかりですが、確かに全景が見えます。
2018年09月22日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
龍岡城
バスの交通事情について最新情報を提供します‼️龍岡城駅が新しくなりバス停が無くなりました(^_^;)その代わりに臼田駅からタクシーが出ていますので確認して下さい‼️また200円で巡回しているタクシーも臼田駅から、火、木、土曜日に運行しています。此方は前日に株式会社高原タクシー0267-82-2073にお問い合わせ下さい‼️お得です。
五稜郭を上から見るために車でいかれる方はとても狭いので気をつけて下さい‼️中華料理店李紅蘭から北へ50メートル程黄色い入り口看板が目印です‼️私個人的には田口城を徒歩で上ることをお奨めします。龍岡城から更に東にある新海三者神社は君の名は。口かみざけや、巫女のモデルにもなりましたのでセットで観光を是非楽しんで下さい(^-^)/
2018年08月28日 Marky武蔵守
龍岡城
田口小学校は5年後、臼田地区で統合が決まっていて無くなるそうです。
2018年08月28日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
龍岡城
続百名城に選ばれてからシルバー人材のお年寄り達が交代でスタンプ台のある資料館に詰めていてくれます。とても話好きなのでお茶を飲みながら全国の城の話をしつつ休んで行ってあげて下さい。午後4時半には資料館が閉まってしまうので気をつけて下さい!また五稜郭の中は田口小学校ですので中の見学は土日祝日が良いかと思います。龍岡城の五角形を上から眺めたい方は展望台があるので、龍岡城北側のお寺、蕃松院の裏側から案内板に沿って田口城跡に向け登って下さい。途中に元小諸城主依田信蕃親子の墓所もあります。急坂と岩盤の間を抜けて田口城跡に至りますが山城好きには堪らない道程だと思います。
足に自信の無い方は、蕃松院の更に北側にある中華料理屋李紅蘭の北側山道から(看板があります)車で田口城跡手前迄行けます。狭い道ですので気をつけて下さい。NOBEPPさんの口コミにもありますとおり田口城跡手前に駐車場があります。是非龍岡城にお越し際は五稜郭を上から眺めて行って下さい!!
2018年07月15日 Nabeppu左馬頭
龍岡城
前の方々も書かれていますが、龍岡城を展望するなら蕃松院裏山の田口城跡に展望台があります。寺の駐車場に車は停められません。隣の下町公会場の駐車場に停めます。寺から徒歩で登ると結構な急斜面ですが、約30分位で着きます。車の場合は、県道120号線清川の三叉路を北杜市方面から来ると右折佐久市街から来ると左折します。2.1キロ登ると左側に6〜7台駐車出来る駐車場か設けられています。そこから展望台に繋がっています。
2018年05月12日 織田上総介晃司
龍岡城
大手門前に資料館と駐車場があります。
小さいながらも武者返しの付いた石垣と土塁。東半分に堀。城内に遺構の御台所があります。
龍岡城の敷地内の大半は田口小学校になっていて、平日は中からの見学は学校の許可がいると思います。
龍岡城全景を見よう思えば蕃松院の裏山を約30分かけて登ると展望所があります。
平坦な道は無くキツいですが登る価値はあります。
車でも行けるそうです。知らなかった_| ̄|〇
2017年07月04日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
龍岡城
これからの暑い季節、ビールと抜群の相性の、龍岡城近くにある、知る人ぞ知る名物があります!その名も「むしり」というものです!
大きな若鶏半分(^.^)を蒸した上にカリカリに焼いたもので、味付けはシンプルに塩コショウのみですが、かぶりつつくと中から美味しい肉汁がたっぷり出て来て、外のカリカリの食感と相まって、もう堪りません❗
「むしり」を出しているお店「瀬川」さんは午前10時から午後9時までやっていますが、不定休です(^_^;)「むしり」を焼いてもらうのには事前に予約が必要ですよ!予約してでも食べたい美味しさ「むしり」ちゃん!龍岡城に来て「むしり」を食べたなら、もうあなたは龍岡城マスターです!!
2017年05月10日 アキタケ城
龍岡城
少し小ぶりですが五稜郭です。
日本に二つしかありません!
近くで見るより田口城趾に登り見るべし!
2017年05月09日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
龍岡城
函館の五稜郭に比べたら小振りですが、五稜郭です。
一部は現在小学校になってます。
駐車場はあります。
稜郭を見るの初めての人にはいいかも。
大きくないと嫌な人は少しガッカリする人もいるかも知れないですが。
2017年04月14日 城ノ内淡路守夏葉
龍岡城
資料館のおばさんたちの話によると、城内の小学校は統合されることになり移転するので、将来城跡が整備される計画があるそうです。城好きとしては楽しみですが、地元の子供たちは残念でしょうね。
2017年04月09日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
龍岡城
祝❗❗❗続100城選出❗❗❗快挙ですね~
2016年01月31日 絆✨左衛門佐紺絹地六連銭
龍岡城
日本に実は五稜郭が二つ残っているんですよ~ 龍岡城は函館の五稜郭のミニチュア版といったところで小さな五稜郭です☺星形の堀の淵を歩いてみると楽しいですよ!すぐ回ってこれます(笑)
城内は現在小学校になっていて、校庭に藩主の台所に使われていた御台所という大きな遺構が残っています。小学校がお休みの時にどうぞ(笑)
五稜郭の北側には資料館があります。ここに模型があったり歴史資料があります。無料ですよ~ トイレも完備。
小さい五稜郭龍岡城への行き方は、電車ですとJR小海線の龍岡城駅で降りていただき、東側の山手に1キロくらい歩いていくと石碑のある龍岡城の桝形が見えてきますので、そこを南に曲がります。100メートルくらい進んだところで、駐在所のある交差点に突き当たるので、そこを東側にもう100メートルくらい進むと到着です。歩きが大変な方は、龍岡城駅の近くのバス停から臼田青沼線に乗ってください。新幹線駅の佐久平駅からもバスが出ているようですが、本数がかなり少ないようなのでこちらは気を付けてください。
桜の咲く4月頃が見頃ですよ!!
2015年02月27日 武蔵守道灌?!
龍岡城
はっ!Σ( ̄□ ̄;)…五稜郭!?…信濃に!?
予定していませんでしたが、思わずリア攻めせずにはいられませんでした♪
確かに間違いなく五稜郭です!!
郭内は小学校になっていますが、正門前に史料館がありますので、そこに駐車させて頂いて、見学できます♪(°▽°)
2014年09月25日 ひろし
龍岡城
日本に二箇所だけの五稜郭。函館は有名ですが佐久市にもあったのですね。石垣、水堀も完全ではありませんが残っています。少し離れた場所にも門があります。龍岡城跡の石碑があります。明治政府の文化財指定?の石碑もありましたが彫りが浅くよく読めませんでした。カーナビで行けますし案内板が道路にあります。
2014年07月25日 三日左馬助落人
龍岡城
城跡は学校として活用されて蝉の声が似合う風情になっていますが、有名な星形遺構などよく残っています。
資料館に立ち寄られたらぜひグッズコーナーにも目を移してみて下さい。
城好きなら萌えること請け合いの、オリジナル首巻きタオルがおすすめです♪
2013年05月29日 火虎上野介
龍岡城
資料館は、火曜日休日です。パンフレットが、入り口の脇に有ります。
2013年01月26日 大宰帥一之介
龍岡城
函館五稜郭ほど規模は大きくないので、星形をしていることがかえって分かりやすいと思います。敷地内の小学校に行く、堀に懸かる橋の上からだと、よくわかります。
周辺は住宅地なので、飲食店はありません。城 から10キロほどのところに、日本で一番海から離れた地点があります。話のネタに立ち寄ってみては?
2010年12月18日 μ1030SW
龍岡城
R141に案内板がありますので見つけやすいと思います。
カーナビでも充分見つけることが出来ます。
駐車場と資料館が有るので楽しめます。
龍岡城の周辺スポット情報
枡形虎口(遺構・復元物)
台所櫓(遺構・復元物)
東通用門(遺構・復元物)
龍岡藩高札場(遺構・復元物)
石垣(遺構・復元物)
大手門跡(遺構・復元物)
五稜郭の角(遺構・復元物)
五稜郭展望台入口(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
田口城(周辺城郭)
雁峰城(周辺城郭)
入沢城(周辺城郭)
花岡城(烽火台)(周辺城郭)
下畑城(周辺城郭)
湯原城(周辺城郭)
稲荷山城(周辺城郭)
余地峠信玄道の砦(周辺城郭)
権現山砦(周辺城郭)
佐口城(周辺城郭)
館(楯六郎親忠の館)(周辺城郭)
勝見城(周辺城郭)
松山砦(周辺城郭)
大涯城(大陰城・矢田城)(周辺城郭)
中居城(周辺城郭)
高野城(周辺城郭)
福田城(城ヶ峰)(周辺城郭)
灰立山狼煙台(周辺城郭)
向城(周辺城郭)
上小田切城(周辺城郭)
医王寺城(下の城・臼田城)(周辺城郭)
医王寺城(上の城・臼田城)(周辺城郭)
羽黒山狼煙台A(周辺城郭)
羽黒山狼煙台B(周辺城郭)
十二山城(周辺城郭)
水石城(周辺城郭)
磯部城(周辺城郭)
岩崎山陣場(周辺城郭)
田ノ口館(周辺城郭)
海瀬城(周辺城郭)
入沢長義の古宅(道薫屋敷)(周辺城郭)
下畑下の城(周辺城郭)
新海三社神社(寺社・史跡)
蕃松院(寺社・史跡)
田口招魂神社(寺社・史跡)
湯原城主依田氏供養塔(寺社・史跡)
湯原城主依田美濃守之墓(寺社・史跡)
五稜郭であいの館(御城印)
五稜郭であいの館(スタンプ)
五稜郭であいの館(トイレ)
トイレ(トイレ)
龍岡城見学者用駐車場(駐車場)
五稜郭公園駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
龍岡城五稜郭展望台(関連施設)









